4日後、新宿のライヴハウスの楽屋に名刺を持った男たちが現れた。レコード会社のディレクターだった。余りに反応が速いので驚いたが、チャンスが飛び込んできたのは間違いなかった。名刺を受け取った俺の心臓は早鐘を打ち始めたが、それは他のメンバーも同じようで、演奏する前から顔が紅潮していた。

 オープニングから『Rock`n` Roll OverNight』と『Break Through』を続けて演った。会場の盛り上がりは半端なく、最後列に陣取っているディレクターたちを驚かすのに十分すぎるものだった。そのせいか、その日のうちに俺たちの獲得合戦が始まった。

 その後、すぐに3社から契約条件が出された。その中で最も契約金が高く、バックアップ体制が整っているレコード会社を選ぶことにした。
 それは千代田区にある会社だった。総武線の市ヶ谷駅から見える黒い変形のビルの中で契約を交わした。外に出ると真っ青な空が俺たちを祝福していた。〈前途洋々〉という言葉が脳裏に浮かんだ。

 彼女の待つ部屋に急いで戻った。契約をしてきたことを伝えると、飛びついてきて、「おめでとう」と「良かった」を何度も発した。俺は「君のお陰だよ」と感謝の言葉を伝えた。すると、〈幸福絶頂〉という言葉が頭をかすめた。ところが、絶頂を超えた更なる喜びが俺を待っていた。彼女の口から予想もしていなかったことが告げられたのだ。俺は驚きの余り開いた口が塞がらなかった。目ん玉が飛び出すかと思うくらい瞼が開きっぱなしになった。彼女は「できたの」と言ったんだ。
 小さな命が彼女のお腹の中に芽生えていた。目と口を大きく開けたまま涙が零れてきて、口の中にしょっぱい水が流れ込んできた。契約のことなんてどうでもいいくらいの喜びが俺を包み込んだ。デビューと妊娠という二つの贈り物を手にして舞い上がってしまった。すると、〈人生最良の日〉という言葉が頭の中で踊り始めた。

 翌日、なけなしの貯金を下ろして指輪を買った。
 まだプロポーズをしていなかった。

 その夜、彼女をライヴ会場へ呼んだ。最前列の中央席を確保していた。
 オープニングで彼女の大好きな曲のイントロを爪弾いた。レッド・ツェッペリンの『Stairway to Heaven』。ギターのアルペジオにエレキピアノの音が重なると、俺は弾くのを止めて、スタンドにギターを立てかけ、アンプの上に置いていた小さなケースを持った。
 ピアノ演奏だけをバックにステージから客席へ下り、彼女の前で立ち止まった。
 右膝を床に付けて(ひざまず)いた。
 右手に持った濃紺のリングケースを左手で開け、シンプルなデザインのプラチナリングを取り出した。
 彼女の左薬指にはめると、リングに大粒の真珠が落ちた。
 それを合図にしたかのように『ウェディングマーチ』の演奏が始まった。
 シーンと静まり返っていた会場が一気に息を吹き返した。
「ブラボー」という声と割れんばかりの拍手が彼女と俺を包み込んだ。
 彼女の目から幸せの涙が流れ続けた。

        *

 1週間後、ライヴハウスのメンテナンス日を利用して彼女の実家に向かった。北海道の旭川だった。羽田から1時間40分のフライトで、12時丁度に空港に着くと、レンタカーを借りて、実家への道を急いだ。1時間半ほどで着くという。彼女はお腹を締め付けたくないと言って、後部座席の助手席側に座った。でも、前がよく見えないという理由で中央部分にお尻をずらした。バックミラーの中央に写る彼女の顔をちらちら見ながら、直線に近い道路を快適に飛ばした。
 バックグラウンドミュージックはレッド・ツェッペリンで、ジミー・ペイジの速弾きが始まると、どうしてもアクセルを踏み込みがちになった。その度に彼女が速度を落とすように後ろから声をかけてきた。

 1時間ほど経った頃、雨が落ち始めた。最初はパラパラという感じだったが、5分もしないうちに叩きつけるような雨になった。それでも、気にしなかった。前方にまったく車の姿が見えなかったし、対向車線を走る車もほとんどいなかったからだ。

 曲が『Stairway to Heaven』に変わった。雨音に負けないようにボリュームを上げた。生ギターのアルペジオが美しく響き、ロバート・プラントの神秘的な歌声が車内を満たした。聴き惚れていると、リズムが変わって怒涛のような後半に雪崩れ込み、誘われるようにアクセルを踏み込んだ。その途端、フロントガラスに叩きつける雨粒が視界を遮った。それを蹴散らすようにワイパーを高速にすると、右目の端に何かが見えた。でかいバイクだった。物凄いスピードで俺の車を追い越そうとしていた。その時、反対車線に車が見えた。トラックのようだった。それを避けようとバイクが車体を左に倒して、車の前に割り込んできた。しかし、アッという間もなくスリップして転倒した。俺は無意識にハンドルを左に切ってバイクを避けようとしたが、次の瞬間、電柱に激突した。激しい衝撃と共にエアバッグが顔面を襲い、視界が閉ざされたと同時に意識が消えた。

        *

 気がついたらベッドの上にいた。病院のようだった。頭が朦朧(もうろう)としていた。それに、顔に強い痛みを感じた。右腕に点滴の管が見え、左腕は痺れていた。ハッとして探したが、彼女を見つけることはできなかった。

 少しして医師と看護師が入ってきた。彼女は別の部屋にいるという。ほっとしたら、瞼が重くなった。医師と看護師の姿が暗闇の中に消えるのに時間はかからなかった。

 しばらくして目が覚めたが、頭がボーっとしていた。それでも、じっとしてはいられなかった。ナースコールのボタンを押すと、看護師が医師を連れてやってきた。脳震盪(のうしんとう)に加えて、顔に火傷を負っていると伝えられた。シートベルトとエアバッグによって助かったが、膨張速度が最大で300キロ近くに達するエアバッグの衝撃は半端ではなかったようだ。
でも、そんなことより彼女のことが知りたかった。それを伝えると、医師の顔が曇った。彼女は地下の部屋にいるという。直ぐに会いたいと訴えたが、頭を振られた。それでも会わせてくれとしつこく頼んだが、返ってきたのは信じられない言葉だった。

「警察が検死中」

 検死? 
 えっ、検死? 

 初めて耳にする言葉が鼻と口を塞ぎ、息ができなくなった。体が硬直したようになり、瞳に医師の姿を焼き付けたまま気を失った。

        *

 その後、検死を終えた警察官から事情聴取を受けた。記憶にあることをすべて正直に話したが、電柱に衝突したあとのことは何一つ覚えていなかった。そのことを告げると、警察が現場の状況を説明してくれた。車は大破して原形をとどめていなかったし、彼女はフロントガラスを突き破って車外に放り出されていたという。後部座席でシートベルトを締めていなかったのが原因のようだった。バイクを運転していた男は軽傷で済んだらしい。警察から「ブレーキは踏んだか?」と訊かれたが、その記憶もなかった。アクセルを踏み込んだまま電柱にぶつかったかもしれないが、何も覚えていなかった。

 事情徴収が終わったあと、霊安室に連れて行って欲しいと医師に頼んだが、今は動かない方がいいと止められた。しかし、その後も彼女の亡骸(なきがら)に対面することは叶わなかった。彼女の両親から拒絶されたからだ。更に、葬儀に出席することも拒否された。それだけでなく、早く目の前からいなくなってくれ、と冷たく言われた。娘は俺に殺されたと思っているに違いなかった。可愛い一人娘をやくざなギタリストに殺されたと。俺は頭を抱えたが、悔やんでも悔やみきれなかった。

 どうして制限速度を守らなかったのだろう? 
 どうして彼女を助手席に座らせなかったのだろう? 
 どうしてシートベルトをするように言わなかったのだろう?
 彼女のお腹の中に子供がいたのに……、
 何故? 
 何故?? 
 何故??? 

 自分の愚かさが胃液となって逆流を続け、食道を、そして口の中を焼けるような痛みが襲いかかった。

 幸せ絶頂のドライブだったのに……、
 まさか地獄行きのドライブになるなんて……、
 俺はなんということをしてしまったんだ! 

 頭を抱えると、脳内に沈鬱な音楽が鳴り響き、おどろおどろしい歌声が聞こえてきた。その歌声は同じフレーズを何度も繰り返した。

 Stairway to Hell、Stairway to Hell、Stairway to Hell、Stairway to Hell……、