『ボールペンを持つ手が疲れてきたし、時間の余裕もなくなってきたので、これから先は端折って書くことにする』
えっ?
端折る?
そんな……、
一気に妄想が萎んだが、それでも、ここまで読んで止めるわけにはいかない。一縷の望みを託して次の文字を目で追った。
『最高の夜を過ごして、一睡もせずにライヴハウスへ行った。それでも眠気はなかった。アドレナリンが出まくっていたからだ。信じられないような速弾きを何度も決めることができた。バンドメンバーが驚くほどの演奏だった。歓声や拍手も凄かった。ロックスターになったような錯覚を覚えた。彼女が俺に力を与えてくれたのだ。正に、SANTA CLAUS IS COMIN′TO MEだった。
コンビニのアルバイトを終えて彼女の部屋へ行くと、部屋を暖かくして料理を作って待っていてくれた。カレーライスだった。俺好みの辛めの味だった。「メチャうまい」と言うと、彼女が嬉しそうに笑った。
食べ終わって、彼女が後片づけをしている間にシャワーを浴びた。続いて彼女がシャワーを浴びにいったので、これからのことにワクワクしながらトランクスひとつでベッドに横になった。ところが、それがいけなかった。大あくびが何度も出たあと、瞼が異常に重たくなった。それでも抵抗して必死になって開けようとしたが、その努力は無駄に終わった。10秒もかからず瞼が閉じた。
体を揺すられて目が覚めた。寝ぼけ眼にぼんやりと彼女の顔が映ると、「時間よ」と言って、左手の人差し指で俺の唇にチョンと触った。それで覚醒した俺は体の上に彼女を抱きかかえた。その瞬間、臨戦態勢になったが、彼女は「ダメ。早くしないと遅れるわよ」と言って、俺の腕を解いた。
ライヴハウスへ行く時間になっていた。慌てて歯を磨いて、顔を洗って、髪を整えて、服を着て、玄関で靴を履いた。ギターケースを持ち上げると、彼女からビニール袋を渡された。「サンドイッチを作ったから演奏の前に食べて」と言ってキスをしてくれた。
グッときた。彼女をギュッと抱き締めて、玄関から飛び出した。走りながら涙が止まらなかった。幸せ過ぎて死にそうだった。
下北沢のライヴハウスにはリハーサル直前に着いた。なんとか間に合ってホッとしたが、ギターのチューニング中に腹の虫が泣き始めた。音合わせの間中鳴き続けて、バンドメンバーに笑われた。
リハーサルが終わって客の入場が始まった。開演前のわずかな時間に頬張ろうとビニール袋を覗いたら、サンドイッチを包んだラップの上にメモがテープで貼り付けられていた。『一緒に住みましょう』と書かれてあった。彼女の顔が浮かぶと、〈同棲〉という言葉が頭の中で甘美に響いた。それが顔に出ていたのか、「どうしたんだよ、デレデレして」とドラマーにからかわれながらタマゴサンドとハムレタスサンドを頬張った。両方ともメチャうまかった。〈世界一の幸せ者〉という言葉が胸の中で弾んだ。
ライヴが休みの日に一気に家財道具を処分した。残ったのはCDとレコードとオーディオとギターとアンプとラジカセと衣類と靴だけだった。それをレンタカーのワンボックスに詰め込んで、彼女の部屋に運び込んだ。片づけを済ますと一気に部屋が狭くなったように感じたが、「家賃を二重に払うのはもったいないからね」と彼女は気にする様子もなかった。「それに、コンビニのバイトが終わったら2分で会えるでしょ」と誘うような目で俺を見つめた。俺は飛びついてキスをした。そのあとのことは……想像に任す。
同棲を始めて3か月ほど経った頃から将来のことを考え始めた。バンドとコンビニのバイトで得る収入で彼女を養うのは無理だった。もちろん彼女は一人で食べていける程度の収入を得ていたので俺が養う必要はなかったが、次のステップへ進むためには大幅な収入増が必要だった。俺は音楽から離れて真っ当なサラリーマンになることを考えた。
決心した翌日にそれを伝えると、即座に反対された。それだけでなく、CDデビューという大きな夢を絶対に諦めてはいけないと強い口調で咎められた。
その顔は怖いほどに真剣だった。何か言おうとしたが、声を出すことができなかった。見つめられたまま、痛いほどの沈黙が続いた。耐えきれなくなって目を離すと、訴えるような声が耳に届いた。「デビューCDの表紙を私のイラストで飾りたいの」。そんなことを考えていたなんてまったく知らなかった。
俺は頭をガーンと殴られたようになって言葉を失った。ちまちま現実的なことを考えていた自分が嫌になり、彼女と目を合わせられなくなった。それでも夢を共有してくれていたことへの感謝が湧き出てきて、目頭が熱くなった。「わかった」と呟くと、彼女が手を握ってきた。俺はその手を握り返して顔を向け、もう一度「わかった」と言った。
しかし、前向きな返事はしたものの、それが簡単でないことは自分が一番よく知っていた。CDデビューするためには高いハードルを越えなければならなかった。強力なオリジナル曲、つまり、インパクトのある唯一無比の楽曲が必要なのだ。
だが、そんなものはどこにもなかった。持ち歌はあったが、強力でもなく、インパクトもなかった。ライヴハウスでレッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの曲を演奏すると歓声が上がるが、オリジナル曲に対しては反応が薄いのだ。キーボード奏者が作る曲はメロディに重きを置き過ぎてパンチが足りなかった。
だから今までとは違う強力でインパクトのあるオリジナル曲が必要だった。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルと同レベルとは言わないまでも、プロとしてやっている連中を超えるものが必要なのだ。
それはわかっているが、わかっていることとできることとは違う。唯一作曲ができるキーボード奏者に頼んでも、今の延長線上のものしかできないだろう。とすれば、自分で作るしかないが、作曲なんて一度もやったことがない自分にそれを求めるのは無理だ。特技と言えば正確にコピーすることくらいなのだ。
ちゃんちゃらおかしいよな、
己を嘲った瞬間、彼女の顔が浮かんできた。そして、「デビューCDの表紙を私のイラストで飾りたいの」という声も。そうなのだ、約束したのだ。「わかった」と言って手を握り返したのだ。
う~ん、
両手で顔を覆って、そのまま動けなくなった。出口のない迷路を彷徨いながら、1週間があっという間に過ぎていった。
「どうしたんだ?」
ライヴが終わった時、ヴォーカルが声をかけてきた。
「ん?」
「いや、元気ないからさ」
演奏にいつものキレがないし、アクションも決まってないというのだ。
「うん、ちょっとね……」
ごまかして帰ろうとしたが、それを許してくれなかった。
「話してみろよ」
正面から見つめられると、これ以上しらばっくれるわけにはいかなくなった。彼女のこと、新たなオリジナル曲が欲しいことを正直に話した。すると、「やってみようよ」という声がすぐに帰ってきた。今までとは違う強力な曲が必要だと彼も思っていたのだという。
「いろんなリフ(繰り返される特徴的なフレーズ)を考えてくれないかな。それにメロディを乗せるから」
共作しようという。その途端、目から鱗が落ちた。自分だけでなんとかしようともがいていたが、誰かと一緒にやるという考えはまったくなかった。
「そうだな」
悟られたくないのでわざと低い声を出したが、心は踊っていた。光が見えたのだ。体の中から熱い何かが湧き出してくるのを感じて、じっとしてはいられなくなった。
思い切ってコンビニのバイトを辞めた。曲作りに専念するためだ。いくつものリフを考えてはヴォーカルに聞かせ、それに歌を乗せる試行錯誤が始まった。
しかし、そんなに簡単にいい曲ができるはずはなかった。俺が考えたリフはジミー・ペイジやリッチー・ブラックモアのそれに似ていたし、ヴォーカルの歌も同じだった。コピーの域を出ていなかった。俺は頭を抱えた。彼女に言われてその気になったが、改めて才能の無さを痛感させられた。コピーバンドのリードギタリスト以上ではなかったことを思い知らされた。カッコいいオリジナル曲を作ってデビューするという目標は夢物語でしかないと認めざるを得なかった。



