次の日、仕事に行く前にケーキ屋へ寄った。鈴の返礼を何にしたら良いかわからなかったせいもあるが、クリスマスにプレゼントするのはケーキだろうと勝手に思い込んだからだ。人気の高いケーキ屋だけあって人でごった返していて、しばらく待たされて、やっと俺の順番になった。そのケーキ屋で一番高いケーキを買うと決めていたが、何故か別のものに目がいった。そしてそれに引き寄せられた。それを見つめながら彼女の顔を思い浮かべると、これ以外にはないと思った。それは、とても可愛らしいプチケーキセットだった。色とりどりの小さなケーキが10個入っていた。値段は税抜き2,500円だった。迷わずそれを買って、新宿のライヴハウスへ急いだ。

 その日の演奏は最高だったと思う。今までになくカッコいいアドリブを決めることができたと思う。客の反応もすこぶる良かったと思う。でも、そんなことはどうでもよかった。早く店に行きたかった。彼女が来るのを待ちたかった。そして、返礼を渡した時の彼女の反応を見たかった。驚いてくれるかな? 受け取ってくれるかな? 喜んでくれるかな? と初恋の相手に初めてプレゼントを渡す前のようにドキドキしていた。

        *

 期待して待っていたが、深夜の3時になっても彼女は来なかった。客が途切れてから1時間が経っていた。することもなくただボーっとしていたが、店の中に流れるクリスマスソングが空々しかった。

 4時になった。若いカップルが1組入ってきた。イチャイチャしながら入ってきた。男はチャラ男で女はケバ子だった。週刊誌の前で立ち止まると、男がアダルトマンガ雑誌を手に取って女に見せ、卑猥(ひわい)な言葉を口にした。すると女が男に体を密着させて耳元で何か囁いた。「お前も好きだな~」という声が聞こえたと思ったら、女の腰に手を回して、その手が下に下がった。そして、髪に顔を埋めるようにして酒のコーナーに移動した。
 少ししてレジに来ると、買い物かごにはビールのロング缶とカクテルドリンクが各2本入っていた。金を受け取って釣りを渡すと、男がニヤリと笑って女を引き寄せた。そして手が胸に行き、揉み始めた。まるで俺に見せつけるように。クリスマスの夜にコンビニでアルバイトをしている侘しい野郎をいたぶるかのようにレジ前で揉み続けた。

「ありがとうございました」

 早く出ていってほしくて少しムッとした声を出すと、男はまたニヤリと笑った。勝ち誇ったような表情だった。またムッとしたが、客にケンカを売るわけにもいかず、視線を外してカウンターの拭き掃除を始めた。それで諦めたのか、それとも満足したのかわからないが、またイチャイチャしながら店を出ていった。

 開いた自動ドアから何かが入ってきた。花びらのような白いふわふわとしたものが舞っていた。今夜も雪が降り始めたようだった。自動ドアが閉まると、姿が視界から消えた。しかし、チャラ男とケバ子の残像が自動ドアに焼き付いているように見えた。そのせいか、彼らが見ていた雑誌が気になって棚に行き、それを手に取った。パラパラとめくると、刺激的な描写が次々に現れた。どれもリアルで思わず見入ってしまった。すると、

「面白い?」

 突然後ろから声が聞こえた。ハッとして声の方に顔を向けると、女が立っていた。鈴をプレゼントしてくれた彼女だった。

 ウソだろ! 

 俺は凍りついた。心臓が止まったかと思った。雑誌を開いたまま金縛り状態になった。

「へ~、こんなの読むんだ」

 それでドキッとして我に返り、慌てて雑誌を閉じて棚に戻したが、それで一段落したわけではなかった。表紙に描かれた妖艶な女性のヌードイラストがドカーンとその存在をアピールしていた。

 ヤバイ! 

 とっさに俺は背中でその表紙を隠した。ほっとして息を吐いたが、彼女と目が合ってしまった。何かを言いたげな目でじっと見つめられた。〈軽蔑されてしまっただろうか?〉と思うと、落ち込んで息をするのもままならなかった。

 その時、店のドアが開き、若い男が二人入ってきた。助かった! と心の中で呟くと、すぐに「いらっしゃいませ」と声をかけてレジカウンターへ向かった。
 カウンターの中に入って彼女を見ると、まだ雑誌の前に立っていた。表紙を興味深そうに見ていた。手に取ってパラパラとめくり始めた。しかしそれは餌を撒く行為のように思えた。案の定、男たちが彼女に近づいて、何やら声をかけた。彼女は小さく首を横に振ったが、そんなことに構わず背の高い方の男が彼女の肩に手をかけた。彼女は体を捻ってその手を外そうとした。しかし男の手はしっかり彼女の肩を掴んでいた。すると、背の低い方の男が彼女の耳元に口を近づけて何やら話しかけた。ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。彼女は大きく首を横に振って、男の手を払いのけた。それでも背の高い男は諦めなかった。彼女の左腕を取って出口の方に引っ張った。

「さえじまさん、ケーキのご用意ができました」

 俺はプチケーキセットが入ったプラスチックの袋を掲げて、彼女に向かって大きな声を発した。

「えっ? あ、はい」

 彼女は一瞬、驚いたような顔をしたが、とっさに男の手を振り払って、小走りにレジに近づいてきた。男たちは(いぶか)しげな表情を浮かべていたが、俺が彼女の名前を呼んだので知り合いだと思ったのか、二人同時に俺を睨むように見て、「チェッ」と舌打ちをして、店を出ていった。彼女は自動ドアが閉まるのを見届けてから俺に向き直った。

「ありがとうございました。助かりました」

 安堵の表情を浮かべて頭を下げた。俺はただ頭をボリボリ掻いて突っ立っていた。

「でも、なぜ私の名前を知っていたのですか?」

 えっ? 
 どういうこと? 
 もしかして……、

 そのもしかだった。当てずっぽうで言った名前が当たっていたのだ。

「さえじま・いよです。さえはにすい(・・・)へんにきば(・・)で、じまは海に浮かぶ島で、いよは松本伊代の伊代と同じです」

 漢字を思い浮かべながら、さ・え・じ・ま・い・よ、と声に出さないで唇を動かしていると、彼女がくすっと笑った。それで我に返った。慌てて自己紹介をした。

「まつやま・しげるです。愛媛県の松山と長嶋茂雄の茂です」

 彼女の目が大きく見開いた。

「松山さんという名前は初めてです。うわ~嬉しいな。75日長生きできるかな?」

 ん? 可愛い顔してなに年寄り臭いこと言ってるの? 

 俺はまじまじと彼女の顔を見た。するとそれに気づいたのか、補足説明をするように言葉を継いだ。

「おばあちゃんの口癖だったんです。好き嫌いの激しかった私がなんでも食べられるようになったのはこの言葉のお陰なんです。『初めてのものを食べたら75日長生きするんだよ。ひと口でいいから食べてごらん』といつも優しく勧めてくれたから、大嫌いで口に入れても吐き出していたピーマンやナスやシイタケを食べられるようになったんです。そうだ、納豆もそうです。あのネバネバが大嫌いだったのに、今では毎日食べるようになったんです」

 うふっと笑った。可愛い顔にピッタリの可愛い声だった。