右手にアクトシティを見ながら大通りを右折し、〈楽器博物館〉の手前を左折すると、左側に〈いきいきプラザ中央〉が見えてきた。
 ここまでは現実と一緒だった。更に歩いていくと左側に〈東ふれあい公園〉があり、その交差点を渡ると、右側に〈浜松東小学校〉、そして〈静岡文化芸術大学〉の建物があった。
 ここまでも現実と一緒だった。更にその先の交差点を渡ってまっすぐ歩いて二つ目の角を左折すると、大きな樹が目に飛び込んできた。浜松八幡宮(はちまんぐう)社殿前にそびえる樹齢千年を超える『雲立楠(くもたちのくす)』だ。

 わたしはこの樹を見る度に雷に打たれたように身動きできなくなる。今日もそうだ。ただ立ち尽くして巨樹を見上げ続けた。

 ん?

 ひんやりとした風に頬を撫でられて、我に返った。空を見上げると、さっきまでと違って雲行きが怪しくなっていた。雨の前触れのように感じたので、慌てて手を合わせて、頭を下げてから大樹に背を向けた。

 ここまで来れば近いので、あと5分もあれば辿り着くのだが、いきなり鼻の頭に落ちた雨粒が〈そんなスピードではだめだ〉と警告を発した。見上げると、黒い雲が頭上を覆っていた。ヤバイと思って足を速めた。

 少し走ると、目の前にアパートが見えた。間違いなくわたしが住んでいるアパートだった。まだ小降りだったが両手で頭を覆って、一番近い軒先に走り込んだ。

 そこで急に不安になった。〈1か月後も住んでいるのだろうか?〉と。住んでいないわけはないと思いたかったが、今日の続きに必ず明日があるわけではない。事故か何かで突然、死んでしまうということもあり得るのだ。一寸先は闇というではないか。明日のことは誰にもわからないのだ。
 わたしは恐る恐る103号室に移動して、ドアポストの上部に視線をやった。すると、探しているものがあった。ちゃんと名前が書かれていた。空き家ではなかったし、知らない人の名前でもなかった。太字のサインペンで書かれた下手くそな文字列がわたしの部屋だと主張していた。

 今仁(いまじん)礼恩(れのん)

 良かった……、

 思わず安堵の声が漏れた。すると、それが誘い水になったかのように、突然、ザーっという大きな音が聞こえた。振り向くと、大粒の雨が地面に叩きつけられていた。間一髪だった。助かった。ホッ、と息を吐いてドアに向き直り、ドアノブに手をかけた。
 右に回すと、抵抗もなく開いた。鍵はかかっていなかった。そ~っとドアを手前に引いて中を覗くと、玄関には見慣れた靴が並んでいた。すべてわたしが履いている靴だった。

「こんにちは」

 (ささや)くような声で様子を探った。しかし、返事はなかった。

「こんにちは」

 今度は少し大きな声を出したが、やはり返事はなかった。

「お邪魔します」

 自分の家なのになんか変だなと思いながらも、礼を失しないように気を付けながら、靴を脱いだ。

 台所の電気は消えていた。様子を(うかが)ったが、人の気配は感じなかった。台所と居間を隔てているガラス戸は閉まっているし、居間に電気は付いていなかった。誰もいないようなので、音を立てないようにそ~っと戸を引くと、敷きっぱなしの布団が見えた。
 中に入ると、嫌な臭いが襲ってきた。間違いなく中年臭だった。たまらずカーテンを引いて、ガラス窓を開け放った。その瞬間、ザーっという雨の音が視覚より先に聴覚に届いた。反応した手がガラス窓を一気に閉めた。土砂降りの雨が降っていることを忘れていた。窓を開けて空気を入れ替えることはできないので、台所に行って換気扇を回した。

 さて、

 勝手知ったる部屋で何をしようかと考えたが、取り敢えず座る場所を確保するために布団を半分に畳んで、隅にやった。
 それから壁に立てかけられている四角いちゃぶ台の足を立てて、部屋の中央に置いた。
 腰を下ろして胡坐(あぐら)を組むと、ちゃぶ台越しに小型液晶テレビがわたしを(にら)んでいた。〈早く付けろ〉と催促しているようだった。思わず睨み返したが、テレビと睨めっこをしていても仕方がないので、立ち上がって液晶テレビまで行き、畳に直置(じかお)きされているリモコンを手にした。
 POWERボタンを押してテレビを付けると、午後のワイドショーが映し出された。画面上段には大きな文字が鎮座していた。

(すが)内閣発足!』

 その瞬間、目を()いた。

 えっ、どういうこと? 
 菅内閣って……、
 えっ、安倍さんは?

 何がなんだかわからなくなった。寝る前に見たテレビのことを必死になって思い出そうとしたが、頭の中がぐちゃぐちゃになっている上に、1か月後の未来に来ているという状況が加わって、こんがらがってきた。

 う~ん、ややこしい、

 初めての経験に戸惑うばかりだったが、このままではいけないと思い、何度か深呼吸をして頭を冷やし、こんがらかったものを整理することにした。

 先ず、8月17日に見たテレビからだ。あの時は間違いなく安倍さんが首相であり、あと1週間で首相在任期間が最長になると伝えていた。しかし、1か月後の未来のニュースでは菅内閣が発足している。ということは、この1か月の間に安倍さんが辞意を表明し、自民党の総裁選挙が行われ、そこで菅さんが勝って総裁になり、更に国会で過半数の票を得て首相になったことになる。

 えっ? 
 そんな大変なことがたった1か月の間に起こったの? 
 本当? 
 本当に本当? 

 確かに安倍さんの支持率は急落していたけど、辞めるほどの理由とは思えないし……、
 例えば解散して選挙やって負けたのならわかるけど、そうじゃないみたいだし……、

 う~ん、どう考えてもおかしい。夢物語としか思えない。目が覚めたら全部嘘でした、みたいな感じなのだろう、

 そう思ったら馬鹿々々しくなって、テレビを見るのを止めた。すると、一気にシーンとした感じになった。

 ん? 
 雨の音がしない……、

 立ち上がって窓のところへ行き、ガラス窓を開けた。雨は止んでいた。すると、今すぐ帰らなければならないという強迫観念のようなものが湧き上がってきた。急いで窓を閉めてカーテンを引き、ちゃぶ台を壁に立てかけ、布団を元に戻して、ガラス戸を閉めて、換気扇を止めて、靴を履いて、ドアを開けて、外に出て、ドアを閉めた。
 鍵をかけようと思ってポケットを探った。しかし、そんなものはどこにもなかった。このままにしておくのは気がかりだったが、どうしようもなかった。〈泥棒が入りませんように〉と心の中で念じて、アパートをあとにした。

 来た時と同じ道を通って駅まで戻った。構内を抜けて改札口の前で立ち止まると、液晶ディスプレーがわたしを睨んでいた。来た時と同じように顔認証、指紋認証、遺伝子認証が行われて、本人確認終了の文字が表示された途端、改札口が開いた。

 プラットホームには1両編成の電車が停車していた。過去行きの電車だった。乗り込んで、1席しかない椅子に腰かけた。ドア上のディスプレーには『次の停車駅:8月17日駅』と表示されていた。元に戻れるらしい。一気に安堵が全身を包み込んだ。
 ホッ、と息を吐いて窓の外を見ると、無人のプラットホームが手を振っていた。別れを惜しんでくれているらしい。わたしも手を振り返した。その途端、電車が動き出した。8月17日駅に向けてスピードを上げた。