「松山さんは過去に行きたいと思ったことがありますか?」
すると、すぐに〈ん?〉というような表情になったが、それもすぐに消えて、眉が寄った。妄想を中断されたせいかもしれなかった。
「いや、もしかして松山さんにも行きたい過去があるのかなって思って」
慌てて弁解がましく付け足したが、松山さんはわたしに視線を向けず、ジョッキに手を伸ばして、ググっと呷るように飲んだ。そして、ジョッキをドンとテーブルに置いて、視線をわたしに向けた。
「ある。行きたい過去がある」
いやらしい表情は完全に消えて、今まで見たことがないような輝きを瞳に湛えていた。
「あの伝説のライヴが見たい!」
彼の口から出てきたその名は史上最強のハードロックバンドだった。
『レッド・ツェッペリン』
*
トイレから戻ってきた松山さんが腰かけるなり、懐かしそうな目になって話し始めた。
「高校の時にはまっちゃってさ。その時にはもう解散していたから生で見たことはないんだけどね」
その後、2010年に発売されたDVDを見て、ぶっ飛んだのだという。
「あれが生で観れたらな~」
憧れの女性に恋い焦がれるような目になっていた。
「それは日本で演ったやつですか?」
「いや違う。アメリカなんだよ」
「そうなんですか。でも、日本に来たことはなかったんですか?」
「あるよ。武道館なんかで演ったらしい。俺が母ちゃんのおっぱいくわえてた頃だけどな」
1971年と72年の2年連続で来日したのだという。
「その翌年の1973年にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで演ったライヴが見たいんだよ。『熱狂のライヴ』とも言われている伝説のパフォーマンスをさ」
そして、どうしても聴きたいという曲名を告げた。
「あの曲が生で聴けたら死んでもいい」
本当にそう思っているような表情だった。それから堰を切ったたようにレッド・ツェッペリンのプロフィールを細かく説明し始めた。代表曲が『天国への階段』や『胸いっぱいの愛を』で、メンバーは、ヴォーカルがロバート・プラント、ギターがジミー・ペイジ、ベースがジョン・ポール・ジョーンズ、ドラムがジョン・ボ―ナムで、それぞれの演奏スタイルがどうで、というような蘊蓄を傾けられたが、話が進むにつれてオタクっぽい内容になっていったので、最後の方はほとんど頭に入らなかった。しかし、こんなに真剣な表情で話す松山さんを見たのは初めてなので、思わず口が滑ってしまった。
「行ってみますか?」
「行くって……」
「そのライヴを見に行きましょうよ」
「それって、1973年に行くっていうことか?」
「そうです」
「でも、行けるかな?」
「それはわかりませんが、行きたいと強く願ったらいけるかもしれませんよ、高松さんみたいに」
「そうか……」
遠くを見つめるように目を細めた。それでも、すぐに視線を戻して、「一緒に行ってくれるか?」と語気を強めた。わたしは頷いたが、釘を刺すのを忘れなかった。
「でも、高松さんみたいに現地に残りたいなんて言わないでくださいね。もう二度と会えないなんて嫌ですからね。一緒に行って一緒に帰ってくるって約束してくれたらお供します」
「わかった。約束する」
わたしは松山さんに向かって右手の小指を出した。指切りげんまんをするのだ。彼は、エッ、というような表情になったが、有無を言わせずげんまんをさせた。そして、同じ時間に布団に横になって目を瞑ることも約束させた。更に、約束を破ったら許さないと念を押した。
「わかった。ビーちゃんの言うとおりにするよ。但し、心の準備もあるし、彼らのアルバムを全部聴き返したいから、今日じゃなくて1週間後にしよう。一世一代の決断だから慎重に準備しないとな」
松山さんは自らに言い聞かすように強く頷いた。その目には〈決心〉という文字が浮かび上がったような気がしたが、「じゃあ」と言って彼が右手を上げた瞬間、目に浮かぶ文字が〈決心〉から別の文字に変わったように思えた。しかし、それがなんなのか、知る由もなかった。



