今日の仕事は比較的楽だった。交通量が少なかったせいだ。木曜日というのが関係あるのかどうかわからなかったが、交通量が少ないと神経への負担が軽くなるので、仕事が終わったあとも余力が残っているのを実感できる。
 そのせいもあって、今日は自分から松山さんを食事に誘った。何回か続けて誘いを断っていたので、それの穴埋めという意味合いもあったが、それだけでなく、高松さんの件をこれ以上胸の内にとどめておくのが難しくなっているという理由もあった。とにかく誰かに話したかった。

        *

「16世紀?」

 隣に座る松山さんが素っ頓狂な声を出した。わたしは慌てて口を右手で塞いだ。

「大きな声を出さないでください」

 親が子供を叱りつけるように上から目線で(たしな)めた。

「わるい。でも、そんなこと聞いたらふつう驚くだろう」

 目が真ん丸だった。

「確かにそうですけどね。でも、周りから変な目で見られますから大きな声は絶対出さないでくださいね」

 わたしは店の中を見回した。24時間営業の中華酒場に客は少なかったが、どこで誰が聞いているかわからない。注意をし過ぎることはないのだ。

「それにしても高松がね~」

 肉餃子を頬張りながら、信じられないというように首を揺らせた。

「わたしもびっくりしました。まさか中世のフィレンツェに行くなんて思いもしなかったですから」

 そして、野菜餃子をまるまる口に放り込んだ。噛むと、じゅわ~とスープが溢れ出してきた。ちょっと熱かったのでフゴフゴと声を出しながら食べていると、松山さんがコップにビールを注ぎ足してくれた。
 慌ててそれを口の中に流し込んだ。口の中を火傷しなくて済んだようなので、軽く頭を下げた。

「で、もう戻って来ないのか?」

 わたしは頷いた。

「両親のためにも16世紀のフィレンツェにとどまると言ってました」

「そうか……」

 松山さんは神妙な表情で中華風豆苗(とうみょう)炒めを口に入れた。奥歯で豆を噛み潰す音が聞こえた。

「で、今まで住んでいた家はどうするんだ?」

 当然の質問だった。

「それなんですが……」

 情報漏洩の疑いをかけられないように住所を聞かなかったし、それ以外は何もわからないことを説明した。

「そうか……、で、手掛かりは何かあるのか?」

 推理小説の謎を解くような目でわたしの顔を覗き込んだ。

「あります」

 妹さんのことを説明した。

「それって、あの夢の中に出てきた……、なんだっけ? え~と……」

「E・T」

「それ。E・T」

「えみ・とくしまさんです」

「徳島?」

 なんで高松じゃないんだ? というような顔をしたが、「そうか、結婚して名字が変わったのか」と言って自らを納得させるように頷いた。

「そうじゃないんです」

 母親の妹に引き取られて名字が変わったことを説明した。

「そうか~、結構大変だったんだな、高松さんも」

 可愛そうに思ったのか、初めてさん付けで呼んだ。

「で、妹に連絡はついたのか?」

「いえ、今、休館中で電話も繋がらないんです」

 10月1日に開館するまで打つ手がないことを説明した。

「でも、会うのが楽しみだな」

 急にニヤニヤし始めた。

「いい女だったんだろ? スタイル抜群で」

「それは松山さんの勝手な妄想です。わたしは顔しか見ていません」

 彼から視線を外して、麻婆豆腐を口に入れた。結構な辛さだった。慌ててビールを流し込んだ。

「お前が気に入らなかったら俺に紹介しろよ。いつでも面倒みるからな」

 完全にいやらしい表情になった。間違いなく妄想が彼を支配していた。こうなると手に負えない。破廉恥(はれんち)な底なし沼に引き摺り込まれたら抜け出せなくなる。わたしは慌てて話題を変えた。