画材店の人と三人で建物を出た。月明りが石畳を照らしていた。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会を過ぎたところで店の人が立ち止まった。ここで別れるらしい。彼は高松さんとわたしを親しげにハグしてくれたので、伝わるはずもなかったが、日本語で「ありがとうございました。大変お世話になりました」と礼を言った。
すると、「プレーゴ。アリヴェデルチ」と言って、手を上げて離れていった。〈どういたしまして。また会いましょう、さようなら〉という意味だと高松さんが教えてくれた。それを聞いて、中世のフィレンツェに友人ができたような気がして、嬉しくなった。
「今仁君……」
店の人の後姿を見送りながら、高松さんが思い詰めたような声を出した。
「死ぬまでここに居ようと思う。もう二度と現実の世界には戻らない」
弟子になって絵を描き終わったら現実に帰るものだと思っていたわたしは、思い切り首を横に振った。しかし、高松さんはそれを制するように言葉を継いだ。
「両親の夢を叶えたいんだ。それが何よりの供養になるはずだからね」
えっ?
供養?
ということは亡くなったということ?
なんで?
「二人は自ら命を絶ったんだ。一生かかっても払えないような借金を抱えたから、せめて自分たちの保険金で僅かでも穴埋めをしようと考えたらしい。自己破産をしたんだから借金は免除になるんだけど、彼らの倫理観がそれを許さなかったんだろうね。でも、保険金が支払われることはなかった。保険法では自殺の場合は死亡保険金を支払う必要がないとされていることを両親は知らなかったんだろうね。だから犬死になんだよ。たまらないよ」
そして、高松さんは何度も首を左右に振ってから、「もう終わったことだから今更どうしようもないんだけどね」と悲しげな表情を浮かべた。
その顔を16世紀の月が照らしたが、〈もうおしまい〉というように雲が遮って、闇を連れてきた。正に闇だった。真っ暗で高松さんの表情がまったく見えなくなった。不安になったわたしは手を伸ばそうとしたが、それより先に彼の手がわたしの両肩を掴んだ。
「頼みがあるんだ。二つある。聞いてくれるか」
真剣な声だった。
「一つは、仕事のことだ。もう現実の世界には戻らないから、交通誘導警備員の仕事は続けられない。現場監督にその旨を伝えて欲しいんだ」
それはわかったが、なんて言えばいいのかわからなかった。まさか中世に行って、そこにとどまっているなんて言えるわけがなかった。
「そうだな~。なんか理由を付けないとおかしいよな~」
そこで声が切れてしばらく沈黙が支配したが、何かを思いついたのか、声が戻ってきた。
「もう一遍、親に死んでもらおう。うん、それしかない。監督は俺のプライベートのことは何も知らないから信用すると思う。今仁君、親が死んだから故郷の高知県に帰ったと言ってくれないか」
「でも、高知に帰るっていっても、実際には帰る家はないですよね」
「まあね。京都にもないしね。でも、監督が知っていることと言えば〈高知出身の高松〉ということだけなんだから、それで押し通すしかないんだよ」
「まあ、そうですけど……」
「無理を言ってるのはわかってる。でも、それしかないんだ。親が死んだから地元の高知に帰ったって言うしかないんだよ。それで押し通してくれないかな」
高松さんが両手を合わせて拝むようにして、頭を下げた。そこまでされると、断るとは言えなくなった。それに松山さんの時に嘘で誤魔化したという前歴もある。一度も二度も同じだ。わたしは引き受けると返事をした。すると高松さんはほっとしたように息を一つ吐き、もう一つの頼みごとを口にした。それは妹のことだった。



