「何処を歩いているんですか?」

「いま通り過ぎたのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、この道を真っすぐ行くと、サンタ・マリア・フィオーレ大聖堂、別名ドゥオーモに突き当たる。そこが目的地だ」

「そんな現地の人みたいなこと言って、本当に大丈夫ですか?」

「何が?」

「だって、ここは中世ですよ。2020年じゃないんですよ」

 すると彼は急に立ち止まって、各方面を指差した。

「ドゥオーモの手前にあるのが、サン・ジョヴァンニ洗礼堂。右手に見える高い塔のある建物がヴェッキオ宮殿。その先にある川がアルノ川、そこに掛かっているのがヴェッキオ橋。そこを渡ってしばらく歩くとピッティ宮殿がある」

 自信満々の口調だった。

「なんでそんなことがわかるんですか?」

 わたしは口を尖らせた。

「だって、この辺りは中世から街並みがまったく変わっていないんだ」

「えっ? そんなことってあるんですか? 内戦や大きな戦争があったのに……」

「大丈夫だったんだよ。ヴェッキオ橋以外の橋はナチスによって破壊されたけど、多くの歴史的建造物は残ったんだ。だから街並みが当時と変わっていないんだ」

 そうだったんだ……、

 でも、これでやっと高松さんがすたすた歩ける理由がわかった。改めて辺りを見回すと、彼の言う通り、古い建物ばかりだった。

「安心しました」

 しかし、声は返ってこなかった。彼は5メートルほど先を歩いていた。慌てて追いかけた。

「さあ、着いた。ここで稼ぐとしよう」

 彼はドゥオーモの(かたわ)らに腰を下ろして、辺りをキョロキョロと見回し始めた。何かを探しているようだった。わたしは、彼の顔が向いている方向に視線を這わせた。すると、誰かに焦点を当てたのか、それを目で追い始めた。若い女性と小さな男の子のようだった。

 二人が目の前を通りかかった。高松さんはそれを逃さなかった。すぐさま声をかけると、〈えっ〉というような表情を浮かべて女性が立ち止まった。子供は女性にピッタリと寄り添っていた。
 高松さんが何かを話すと、硬い表情だった若い女性がいきなりニコッと笑って、男の子を抱き上げた。それを見て、高松さんが紙と板と黒チョークを持って立ち上がり、板の上に紙を乗せて何やら描き始めた。二人の似顔絵のようだった。

 10分ほどで出来上がった。素晴らしい出来だった。そっくりなのは言うまでもなく、今すぐ動き出しそうなリアリティーがあった。しかし、それを渡さず、もう1枚の紙にデッサンを始めた。今度は二人の全身を描いていた。

 これも先ほどと同じくらいの時間で完成した。またまた素晴らしい出来だった。2枚を二人に見せると、女性は口に手を当てて、目を見開いた。男の子は絵を見つめたまま動かなくなった。すると、優し気な笑みを浮かべた高松さんが何かを言った。どっちか好きな方をプレゼントすると言っているみたいだった。

 女性は迷った末に全身を描いたデッサンを選んだ。そして、お金を出そうとした。しかし、高松さんはいらないというように手で制した。女性が恐縮したような表情で頭を下げて「グラッチェ」と言うと、男の子も真似をして「グラッチェ」と言った。高松さんは右手を胸の前に上げてバイバイと横に振ると、二人はまた「グラッチェ」と言って、背を向けた。その後姿はとても嬉しそうだった。

「さすが、元美大生ですね」

「まあ、昔取った杵柄(きねづか)だからね」

 彼は少し照れたような表情を浮かべたが、すぐに真顔になって、「商売、商売」と自分に言い聞かせるように言った。そして、残った似顔絵を胸の前で持つようにと、わたしに指示を出した。
 その通りにすると、高松さんがそれを指差して大きな声で何かを言い始めた。〈似顔絵はいかがですか〉というようなことを言っているみたいだった。
 すると、一人の男性が立ち止まった。貴族のような立派な恰好をしているその人は似顔絵を見て何度も頷いた。そして、何かを言った。値段を聞いているのだろうか? よくわからなかったが、高松さんが返事をすると、ポーズを取り始めた。早速、高松さんがチョークを走らせた。

 さっきよりは仕上げに時間をかけたので倍くらいかかったが、見事なデッサンが完成した。それを見せると、男性が大きな声を出した。〈なんて素晴らしいんだ〉と言っているみたいだった。それもそのはずだ。高松さんは本人よりもずっと男前に描写していたのだ。

 男性は大型の銀貨を1枚差し出した。そして自分の似顔絵を通りに向けて見せびらかした。すると、多くの人が集まってきて、どよめきが起こり、声を出しながら我先にと手が伸びてきた。自分も似顔絵を描いて欲しいと言っているようだった。高松さんは、〈そんなに焦らないで〉というように両掌を立てながら何かを言った。すると、人々が縦に並び始めた。ちょっとした小競り合いがあったが、それでも喧嘩になることなく順番が決まった。
 それを見て、高松さんがわたしに大型の銀貨を渡した。これで買えるだけ紙と黒チョークを買ってきてくれという。一瞬、不安が過ったが、彼に背中を押されたので、さっき買った画材の店に小走りで向かった。

 店に入ると、わたしのことを覚えていたのか、笑顔で迎えてくれた。それに応えるために何か気の利いたことを言いたかったが、イタリア語をまったく知らないので、できるだけ自然な笑みを浮かべようと努力しながら銀貨を渡して、〈紙と黒チョークが欲しい〉とジェスチャーで伝えた。わかってもらえるのに少し時間がかかったが、なんとか伝わって、かなりの量を買うことができた。

 それを持って急いで戻ると、高松さんが最後の紙にデッサンをしているところだった。列は先程より長くなっていた。それからあとは飲まず食わずでトイレにもいかず、薄暗くなるまで似顔絵描きが続いた。