プラットホームを歩く間、改札口での仕組みを説明した。高松さんは頷いていたが、よくわかっていないように思えた。しかし、そんなことは問題ではない。純粋な気持ちで過去にやってきた高松さんが改札で拒否されることはないはずだ。

 予想通り、なんの問題もなく改札を抜けることができた。それはそれでよかったのだが、2020年との違いを認識せずに町へ出たため、圧倒的な違和感にしばらく馴染むことができなかった。目の前を行き来する人々の服装は現在とはまったく違っていたし、舗装された道路はなく、もちろん自動車も自転車もなかった。
 それはそうだ。中世なのだ。まだイタリアという国名はなく、18の王国や公国、共和国などがひしめき合う群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の真只中だった。その中でフィレンツェは立派な共和国として存在感を示しているのだという。高松さんの説明を聞きながら頷いてはみたが、不安な気持ちが消えることはなかった。

「これからどうしますか?」

 わたしはキョロキョロと辺りを見回した。知っている人は一人もいないし、言葉もわからない。お金も持っていない。もちろんユーロを持っていたとしても、なんの役にも立たない。来たのはいいが、これからどうすればいいのか、まったくわからなかった。

 高松さんは返事をしなかった。行き来する人々や露店を見ながら何かを考えているようだった。わたしは高松さんが何か言うのを待つしかなかった。しかし、「そうだな~、う~ん」と言ったきり無言の時間が続いた。

 それでも、物凄いスピードで頭の中を回転させているのは間違いないようだった。少しして、「ちょっと待っていてくれ」と言うや否や歩き出し、服を扱っているような店に入っていった。

 独りぼっちになった途端、急に不安になった。このまま取り残されたら大変なことになるからだ。高松さんを見失わないように彼が入った店の入口をひたすら凝視した。

 しばらくして店から出てくると、服が変わっていた。通りを行き来する人たちと同じ服装だった。チュニック(丈が長めの上着で筒形になっているもの)のようなゆったりとしたものを(まと)っていた。

「ジパングの新しい衣装だと言って、売りつけたんだよ」

 ジーパンとTシャツを高く買わせたのだという。そして、店にある一番安い庶民服を買って、着替えたのだという。

「まだこれだけ残っている」

 中世の通貨を手に広げた。大型と小型の銀貨が1枚ずつあった。

「ちょっと付いてきてくれ」

 いきなり歩き出した。後ろを付いていくと、1軒の店の前で立ち止まった。画材を売る店のようだった。彼はスタスタと中に入り、店の人と何やら話をしていた。その内容はわからなかったが、店の人が何度も頷いていたので、彼の言っていることは通じているようだった。その様子を見ていると、いきなり彼が振り返って、中に入ってくるようにと呼ばれた。

「紙と黒チョークと板を買ったから、持っていてくれ」

 店の人から渡された物を受け取ると、彼が大型の銀貨を1枚渡した。すると、小型の銀貨が1枚戻ってきて、店の人と笑顔で握手をしながら言葉を交わした。さっぱりわからなかったが、それでも、〈グラッチェ〉〈チャオ〉という言葉だけはなんとか理解できた。

「イタリア語を話せるんですね」

 尊敬のまなざしを向けると、「まあね。〈日曜日はイタリア語の日〉で幼い頃から馴染んでいたし、美大に入ってからは真剣に勉強したから、日常会話程度なら今でもなんとか通じるみたいだね」と特になんということもないというようにさらりと言ってのけた。そして、わたしの知らないことを教えてくれた。

「イタリア語といっても色んな方言があるんだけど、フィレンツェで使われていた言葉が今のイタリア語に一番近いんだよ。だから私のイタリア語が通じやすいんだろうね」

 今のイタリア語の元になっているのがフィレンツェで使われていた言葉だったそうで、そのことから、フィレンツェのことを『イタリア語の故郷』という人もいるんだそうだ。

 彼は本当にいろんなことをよく知っている。またまた感心してしまったが、そんな気分に浸っているわけにはいかなかった。これから先のことが気になって仕方がなかったのだ。

「ところで、これどうするんですか?」

 画材を指差すと、彼はニヤリと笑った。

「稼ぐんだよ」

「稼ぐ?」

「まあ見ていてくれ」

 またニヤリと笑って、勢いよく歩き出した。まるで中世の街並みを熟知しているかのような歩き方だった。