目が覚めると、現実という形の世界に戻っていた。ほっとした瞬間、強烈な尿意を催した。膀胱が破裂しそうだった。慌ててトイレに駆け込むと、ダムの放流のような勢いで尿が飛び出した。

 膀胱が空になったと同時に便意を催した。便座に座った途端、スルリンとお出ましになった。余りの気持ち良さに(しば)し我を忘れた。水に流す前に便器を覗き込むと、50センチ級の茶色いウナギが泳いでいた。健康な証に感謝して頭を垂れた。

 いつものように水分を制限して食事をしたあと、シャワーを浴びて、作業着に着替えた。そして、速足で図書館に向かった。

 今度は間違えずに〈はらだまは〉とインプットした。それでもドキドキしながら検索ボタンを押すと、結構な件数がヒットした。それを一つ一つ目で追った。

 『サロメ』
 『風神雷神(ふうじんらいじん)
 『美しき愚か者たちのタブロー』
 『奇跡の人』
 『たゆたえども沈まず』
 『暗幕のゲルニカ』
 『ジヴェルニーの食卓』
 『楽園のカンヴァス』……、

 多すぎて、どれを借りたらいいのかさっぱりわからなかった。でも、それでよかった。これを話題にして高松さんを喜ばせてあげるのだ。タイトルが気に入った8冊をプリントアウトして、図書館を出た。高松さんの喜ぶ顔を思い浮かべながら仕事場に向かった。

        *

 工事現場には少し早めに行った。ミーティングが始まる前に現場監督に松山さんのことを伝えなければならないからだ。

 監督が来たので普通に挨拶を交わしたが、「松山さん」と口にした瞬間、彼の表情が変わった。無断欠勤したことにかなりの怒りを覚えているようだ。
 当然だと思った。管理する側から見れば、あり得ないことなのだ。わたしは彼の怒りが静まるのを待つと共に、言い訳の内容変更を決断した。松山さんからは「宇和島の親戚が急病になったとでも言っといてくれ」と頼まれていたが、監督の怒りを鎮めるためには親戚では弱すぎると感じたからだ。

 松山さんに対する彼の罵声(ばせい)が一段落したところで、父親が危篤(きとく)だということを告げた。それで、取るものも取り敢えず帰ったのだと緊急性を訴えた。すると、彼の顔から怒りが消えた。〈それじゃあ仕方がない〉と納得したようだ。

 良かった。
 うまくいった。

 ホッと胸を撫でおろしたが、親戚の急病が父親の危篤に変わったことを松山さんに伝えておかなければならない。監督に嘘がばれたら大変なことになるからだ。
 しかし、未来に拘束されている松山さんとは連絡の取りようがない。それに、松山さんの自宅も電話番号も知らない。現実世界に戻ってきても連絡する方法がない。

 困った。

 25日になって松山さんが監督に接する前に会うためにはどうすればいいのか、考えれば考えるほど嫌な予感がして、滅入ってきた。嘘の上塗りは悲惨な結果をもたらすことが多いのだ。唸って天を仰いだが、星のない空から答えは返ってこなかった。

 悶々としながら交通整理をしていたが、25日になったら現場に早く来て松山さんを掴まえるしかないと割り切って、嫌な予感を追い出した。そして、頭の中を松山さんから高松さんに切り替えた。

        *

 休憩時間になった。今夜も連れ立ってコンビニへ行き、イートインスペースに並んで座った。ポケットからプリントアウトしたものを取り出して見せると、高松さんの顔が一気に綻んだ。

「今度は間違えなかったんだな」

 ニヤニヤしたあと、「どれもいいんだよな~」と顎に右手を当てて、何度か(またた)きをした。そして、「そうだな~、どれがいいかな~、そうだな~」と8枚の紙を代わる代わる見ながら首を傾げ、もう一度「そうだな~」と呟いたあと、紙を1枚1枚テーブルの上に置いて、視線をわたしに戻した。

「今仁君は人物画と風景画とどっちが好きかな?」

 そう聞かれても、知っている絵が少ないので返答に困ったが、知っている人物画は……と考えていたら、ピカソが描いたへんてこな(・・・・・)顔が思い浮かんだ。次に風景画を思い浮かべると、すぐにモネの睡蓮(すいれん)の絵が浮かんできた。その瞬間、返事が決まった。

「風景画です」

 モネとピカソのことで笑いを取ろうとしたが、彼は口をへの字(・・・)にして両手を広げて、肩をすくめるようにしただけだった。そして、何も言わずテーブルの上から6枚の紙を取り上げた。

『サロメ』と『風神雷神』と『奇跡の人』と『たゆたえども沈まず』と『暗幕のゲルニカ』と『楽園のカンヴァス』が消えた。残ったのは、『美しき愚か者たちのタブロー』と『ジヴェルニーの食卓』だった。

 どちらもモネに関する物語が書かれているという。それに加えて、前者は日本人が主役であること、後者は表紙にモネの睡蓮が描かれていることを詳しく話してくれた。

「先ずはこの2冊から読むといいかもしれないね」

 高松さんが差し出した2枚を折り畳んで、ズボンの左ポケットに入れた。残りの6枚は右ポケットに仕舞った。

 コンビニを出て仕事場へ戻る途中、ピカソの話になった。

「ピカソの絵のことを幼稚園児が描いたみたいだと笑う人がいるけど、その評価には首を傾げるね。確かに抽象的過ぎてとっつきにくい面はあるけど、彼の創作背景を理解したら評価が変わると思うんだよね」

 しかし、その言葉にピンとこなかった。へんてこな(・・・・・)絵はへんてこな(・・・・・)絵でしかないからだ。それが伝わったのか、高松さんはそれ以上何も言わなかったが、持ち場に分かれる時にポツリと言って、背を向けた。

「『暗幕のゲルニカ』を読むとピカソのことが好きになるよ」