俺の家は――昔から、喧嘩ばかりだった。
夜中になると、父親の怒鳴り声が響き渡る。壁越しにもはっきりと聞こえるくらいに。
それに重なるように、母の泣き叫ぶ声。耳をふさいでも、消えることはなかった。
家の都合で転校も多かった。新しい学校、新しいクラス、新しい人間関係。
最初のうちは頑張った。仲良くなろうと、普通の子どもみたいに笑って、遊んで。
けど――どうせ、またすぐ離れ離れになる。
その繰り返しが何度も続いて。
気づけば俺は、友達なんてどうでもいいって思うようになっていた。
子どものくせに諦めだけは早くて。
俺はいつの間にか、“一人”が当たり前になっていた。
また転校した。
まだ二年生なのに、これで何回目だっけ。数えるのももうめんどくさい。
新しいクラスは知らない顔ばっかりで、みんなもう仲良しで、俺だけぽつん。
声をかけられることもないし、俺もどうしたらいいかわからない。授業中も休み時間も、机の上の消しゴムばっかりいじってた。
学校から帰ったら、母さんが玄関で言った。
「今日ね、彼氏が来るから......黒瀬は公園に行ってて」
いつものことだった。俺がいるとダメみたいだ。
ランドセルを置いて、そのまま靴を履き直す。なんで俺がいちゃいけないんだろうって思うけど、口に出したことはない。どうせ言っても、困った顔をされるだけだから。
公園に着くと、夕方の遊具は子どもでいっぱいだった。みんな楽しそうに走り回って、笑い声があちこちから響いてくる。
でも、俺は輪に入れない。入っていいのかもわからなかった。
ぎい、ぎい、と小さな音が鳴る。
靴の先が砂をかすめるたびに、胸の中まで重くなっていくみたいだった。
そのとき。
「なぁにしてんの?」
ぱっと顔を上げると、同じくらいの背の男の子が立っていた。
じっとこっちを見て、にこっと笑った。
「......ブランコ」
小さな声で答える。
「ひとり?」
「......うん」
それだけで、なんだか胸がぎゅっとした。
ひとりって言葉は、言いたくなかったのに。
でも、その子は嫌な顔なんてしなくて、当たり前みたいに言った。
「じゃあさ、いっしょに遊ぼ」
夕暮れの光の中、その声だけがやけにあったかく響いた。
「鬼ごっこしよ!」
その子はいきなりそう言って俺の手をつかんだ。
「......でも、俺、足おそいし」
口に出した瞬間、恥ずかしくて下を向く。
けどその子は気にした様子もなく、にかっと笑った。
「じゃあ、おれがにげる役やる! おまえは追いかける役な!」
言うが早いか、その子はくるっと背を向けて、砂ぼこりを巻き上げながら走り出す。
「ほら、はやくこいって!」
俺の胸がどくんと跳ねた。
追いかけなきゃ。
走らなきゃ。
気づいたら、ブランコから飛び出していた。
夕焼けに伸びる二つの影が、公園を駆けていく。
追いかけて、笑って、転んで。
膝に砂がついても、ふたりで顔を見合わせて笑った。
――あれ?
なんでだろう。
ひとりじゃないって、こんなに胸があったかいんだ。
鬼ごっこを終えて、ふたり並んでブランコに座った。
鎖がきぃ、きぃと鳴る。
「なぁ、名前なんていうの?」
遊んだあと、今更その子は靴のつま先で砂をいじりながら聞いてきた。
「......影山零」
小さな声で答える。
「零か。かっけー名前!」
思わず顔を上げる。からかわれると思ったのに、全然そんな顔じゃなかった。
「おれは、夏希。......これからも公園来んの?」
「わかんない。お母さんが......」
そこまで言って口をつぐむ。
夏希はしばらく考えるように黙ってから、「じゃあさ、来れるときはまた一緒に遊ぼ」と、あっけらかんとした声で言った。
胸の奥がじんわり熱くなった。
どうでもいいと思ってたのに。
気づけば「......うん」と、声が出ていた。
気づけば、毎日公園に来ていた。
家にいたくなかったのもあるけど、なんとなくここにいれば落ち着いた。
「おーい、零!」
走ってくる足音。名前を呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくなる。
「......なんで毎日、俺のとこ来んの」
「え? だって今日もいるから」
そう言って、当たり前みたいに隣に座る。
俺は答えられなくて、ブランコの鎖を握ったまま黙る。
ほんとはうれしいのに、素直に言葉が出てこない。
学校でも夏希はよく笑ってて、友達に囲まれてる。
俺とはぜんぜん違う。
それなのに、どうして毎日声をかけてくれるんだろう。
昨日食べたアイスの話とか、くだらない授業の話とか。
そんな話を聞いてるうちに、気づけば俺も少しずつしゃべれるようになっていた。
――あの時間だけは、ひとりじゃなかった。
その日もブランコで並んで話していた。
夏希がふと真面目な顔になって、俺を見た。
「なぁ、零ってさ......いつも遅くまで残ってるよな」
「......うん」
「お母さん、心配しないの?」
鎖を握る手に、少し力が入った。
ほんとは言いたくなかった。でも、夏希の目がまっすぐで、うそをつけなかった。
「......俺が家にいると、ダメなんだって」
口にした瞬間、胸がひゅっと冷たくなった。言わなきゃよかった、って思った。どうせ変な子だって思われる――そう思ったのに。
「そっか」
夏希は少しだけ考えるような顔をして、それからぱっと笑った。
「じゃあさ、俺が一緒にいてやるよ!」
「......え?」
「そしたら寂しくないだろ?」
あまりに無邪気で、思わずぽかんとする。
でもその言葉が、胸の奥にまっすぐ届いて、あたたかく広がった。
「......へんなの」
小さくつぶやいた声は、たぶん夏希には聞こえていなかった。
それから、毎日が少し楽しくなった。
学校が終わるとまっすぐ公園に向かって、夏希を待つのが当たり前になった。
前はただ時間をつぶす場所だったのに、今は待つ時間さえわくわくする。
ある日、休み時間に夏希が駆け寄ってきた。
「なぁ、今度さ、祭りあるんだって! お母さんが連れてってくれるんだ。他の子もいるけど......零も来いよ!」
胸がどきんとした。
でもすぐに、ためらう気持ちが口から出る。
「......でも、僕が行ったら迷惑でしょ」
夏希はむっと眉を寄せて、首をぶんぶん振った。
「そんなことないって! みんなそんなこと思ってねぇから!」
力強く言い切る声に、心臓が熱くなる。
迷惑なんかじゃない。夏希がそう言うなら、信じてみたいと思った。
「......じゃあ、母さんに聞いてみる」
口にしたとたん、夏希がぱっと笑って「やった!」とガッツポーズをした。
その笑顔を見て、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
放課後、わくわくしながら家に帰った。
今日はちゃんと聞こう。夏希と一緒に祭りに行きたいって。
「......あのさ、こんど祭りがあるんだ。行ってみたい」
勇気を出してそう言った瞬間、ソファに座っていた母さんが振り返った。
でも、その顔はもう険しくて。
「......は? なに言ってんの。そんなの行けるわけないでしょ」
「でも......お金がちょっとあれば......」
言いかけたとき、バンッとテーブルを叩く音が響いた。
「ふざけんじゃないわよ!」
怒鳴り声が壁に跳ね返る。
「誰があんたなんかに金出すと思ってるの!」
「......」
声が出ない。心臓がばくばくして、足がすくんだ。
ぐっと唇を噛んで、何も言えなくなった。
――ただ夏希と祭りに行きたかっただけなのに。
「......ごめんなさい」
小さくつぶやく声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。
◆
ポケットの中、小銭が二つだけ。
母さんの怒鳴り声がまだ耳に残って、胸の奥がざわついていた。
夜の公園。ブランコに座る夏希に、うつむいたまま言った。
「......ごめん。俺、やっぱ行けない」
「え、なんで?」
「......お金、なくて」
声が小さくなった。言ったとたん、胸がぎゅっと縮んで泣きたくなる。
でも夏希は首をかしげて、すぐに笑った。
「じゃあさ、来年一緒に花火見ようよ。見るだけならタダだろ?」
にかっと、楽しそうに。
俺は思わず顔をあげた。
夏希は続ける。
「俺ね、すっごくきれいに見える場所知ってんだ。そこ、零と行きたい!」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
目の奥がツンとして、涙が出そうになった。
「......うん」
声がふるえそうで、ただ小さく頷いた。
やっと、やっと友達ができたと思った。
ブランコの隣で笑ってくれるやつ。
「来年、一緒に花火見よう」って言ってくれたやつ。
夏希なら、きっとずっと一緒にいてくれる――そう思った。
だけど。
そのあとすぐに、俺は引っ越すことになった。
急に言われて、何も準備なんてできなくて。
夏希に最後の「さよなら」さえ言えなかった。
約束も、言葉も、置きっぱなしのまま。
俺はただ、知らない街へ連れていかれた。
そのあとは、あんまり記憶にない。
小学校を卒業して中学になる頃には、背が一気に伸びた。
今まで話したことのなかった女子が、自然に笑いかけてくるようになった。
見た目が変わっただけで、手のひら返しみたいに優しくなるやつもいた。
俺は少しずつ愛想笑いを覚えた。
にこにこしてるだけで、自然と人が集まるようになった。
クラスでも、グループを作るのに困らなくなった。
でも、相変わらず母さんは俺のことなんて興味もなくて。初めてピアスを開けたのは、その頃だった。
今思えば、あれは誰かに気づいて欲しかったんだと思う。
どうにもならない孤独や、家での居場所のなさを、ただ我慢して抱えている自分を――。
耳に小さな穴を開けた瞬間、胸の奥の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
痛みと一緒に、少しだけ自由になれたような――そんな感覚だった。
ピアスは、ただの飾りじゃなかった。
あれは、俺の自己表現でもあったんだ。
見た目だけじゃなく、心の奥の「自分らしさ」を、誰かに伝えたい――そんな気持ちを、耳の小さな穴に込めていたんだと思う。
孤独や家の息苦しさから少しでも逃れたくて、でも誰にも頼れなくて――だから、自分の体を通して、自分を外に見せる方法を選んだんだ。
そして、高校2年になって、また転校が決まった。
その頃には母さんも随分落ち着き、再婚もして、弟も生まれていた。
そのおかげで、また前の街に戻ってくることになった。
心のどこかに、ずっと残っていたのは夏希のことだった。
――また、会えるだろうか。
思い出すだけで胸がざわつく。
転校までの準備の間、俺は夜になるとふらふら外に出るようになった。
弟が生まれてから、家の中での自分の居場所がどこにもないように感じていた。
俺だけが家族じゃない――そんな気持ちが、胸の奥にずっとあった。
そんなとき、コンビニでたむろっている奴らと話すようになった。
特別仲良くなるわけじゃないけど、ちょっとした暇つぶしにはちょうどよかった。
「なにしてんだ、こんな所で」
その声に、俺はすぐ気づいて顔を上げた。
そこにいたのは――夏希だった。
でも、夏希は少し首を傾げて、「......あの、誰?」と言った。
覚えているはずもない。わかっていたはずなのに、少し悔しくて、つい言い方が尖ってしまった。
――まぁ、夏希からしたら、印象悪かっただろうな。
ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、どうにもできなかった。
でも、転校してきて同じクラスになった今――俺は強引に一緒に帰ることにした。
夏希は、やっぱり夏希だった。
周りのヤツらみたいに、見た目で態度を変えたりしない。
一緒にいると、どうしても触れたくなる。
自分でも、再会してから気づいた。
――俺は、夏希が好きなんだって。
公園で、俺はブランコに座っていた。
風が少し肌を撫でる。
今頃、あいつは楽しんでるかな。
夏希は覚えていなくても、俺にとって、あの頃の夏希の存在はずっと大切だった。
時々、夢なんじゃないかと思うこともある。
――夏希が「好きだ」って言ってくれた今のことも、人生で一番幸せな瞬間だ。
何度か、昔のことを夏希に話そうと考えたこともあった。
でも、どうしても言い出せなかった。
――あの頃の俺も、今の俺も、夏希が傍にいてくれることだけで、十分なんだ。
◆
俺は公園へ向かって走っていた。心臓がばくばくして、足が勝手に前に出る。
きっと、黒瀬はここで待っている――そう思いながら。
そして視界の奥に、黒瀬の姿を見つけた。
「黒瀬!」
黒瀬は、驚いたように目を大きく見開く。
「夏希、どうしたんだ? お前......今日は祭りの日じゃ――」
黒瀬の話を遮り俺は言う。
「なんで、なんで言わなかったんだよ!」
黒瀬は眉を寄せ、困ったように首をかしげる。
「......なんのことだ?」
胸の奥で、怒りと混乱がぐるぐると渦巻く。
でも同時に、少しだけ切なさも混ざっていた。
夏希は深呼吸をして、立ち止まったまま黒瀬を見上げる。
心臓が跳ねる。口が、今なら全部言える気がした――でも、ちゃんと言えるかはわからない。
「お前、影山零なんだろ?」
黒瀬は驚きと困惑の入り混じった顔で俺を見つめる。
「......夏希、思い出して」
「......お前は最初からわかってたんだろ? なのになんで教えてくれなかったんだ」
黒瀬は目を逸らすように空を見上げた後、ゆっくりと俺を見つめ返す。
「......あのさ、夏希」
黒瀬の声が少しだけ震えている。夏希はその声に、昔の記憶がふっと蘇るのを感じた。
「......覚えてるか? 小学校の頃、花火を一緒に見ようって約束したこと」
夏希の目が大きく開く。
「......ああ......覚えてるよ」
心の奥がじんわり温かくなる。あの頃、夏希は無邪気に笑ってくれた。
黒瀬は目をそらさず、真っ直ぐに見つめる。
「夏希が好きになってくれたのは今の俺だから。話したら今の関係が変わるんじゃないかって」
黒瀬の言葉に、思わず息を呑む。胸の奥がぎゅっと熱くなる。
でも、すぐに笑いながら答えた。
「......なわけないだろ」
黒瀬の目が一瞬驚きで見開かれ、それから少し笑みがこぼれる。
「うん。俺も今ならそう思う」
俺は肩をすくめ、でも手は離さない。
「当たり前だろ。だって俺どんな黒瀬でも好きだから」
黒瀬は少し照れくさそうに笑いながら、でも嬉しそうに俺を見つめる。
その瞳に、胸の奥がじんわりとあったかくなるのを感じた。
――ドンッ、と大きな音とともに、花火が夜空に咲いた。
俺たちは家の塀の向こうから、少しだけしか見えないけど、それでも十分だった。色とりどりの光が夜を染め、胸の奥までじんわりと温かくなる。
黒瀬がそっと俺を抱きしめる。背中越しに伝わる彼の体温と鼓動に、自然と安心感が広がる。
「また......一緒に見てくれるか?」
黒瀬の声は低くて、でも優しくて。耳元で囁かれるその言葉に、心臓が跳ね上がる。
俺は顔を上げ、少し照れくさそうに笑いながら頷く。
「来年はもっといい場所でみようぜ!」
夜空の花火が次々に打ち上がるたび、二人の間に静かで、でも確かな幸せが満ちていく。
こんな風に、一緒にいられる時間が、ずっと続けばいい――そう思った。
夜中になると、父親の怒鳴り声が響き渡る。壁越しにもはっきりと聞こえるくらいに。
それに重なるように、母の泣き叫ぶ声。耳をふさいでも、消えることはなかった。
家の都合で転校も多かった。新しい学校、新しいクラス、新しい人間関係。
最初のうちは頑張った。仲良くなろうと、普通の子どもみたいに笑って、遊んで。
けど――どうせ、またすぐ離れ離れになる。
その繰り返しが何度も続いて。
気づけば俺は、友達なんてどうでもいいって思うようになっていた。
子どものくせに諦めだけは早くて。
俺はいつの間にか、“一人”が当たり前になっていた。
また転校した。
まだ二年生なのに、これで何回目だっけ。数えるのももうめんどくさい。
新しいクラスは知らない顔ばっかりで、みんなもう仲良しで、俺だけぽつん。
声をかけられることもないし、俺もどうしたらいいかわからない。授業中も休み時間も、机の上の消しゴムばっかりいじってた。
学校から帰ったら、母さんが玄関で言った。
「今日ね、彼氏が来るから......黒瀬は公園に行ってて」
いつものことだった。俺がいるとダメみたいだ。
ランドセルを置いて、そのまま靴を履き直す。なんで俺がいちゃいけないんだろうって思うけど、口に出したことはない。どうせ言っても、困った顔をされるだけだから。
公園に着くと、夕方の遊具は子どもでいっぱいだった。みんな楽しそうに走り回って、笑い声があちこちから響いてくる。
でも、俺は輪に入れない。入っていいのかもわからなかった。
ぎい、ぎい、と小さな音が鳴る。
靴の先が砂をかすめるたびに、胸の中まで重くなっていくみたいだった。
そのとき。
「なぁにしてんの?」
ぱっと顔を上げると、同じくらいの背の男の子が立っていた。
じっとこっちを見て、にこっと笑った。
「......ブランコ」
小さな声で答える。
「ひとり?」
「......うん」
それだけで、なんだか胸がぎゅっとした。
ひとりって言葉は、言いたくなかったのに。
でも、その子は嫌な顔なんてしなくて、当たり前みたいに言った。
「じゃあさ、いっしょに遊ぼ」
夕暮れの光の中、その声だけがやけにあったかく響いた。
「鬼ごっこしよ!」
その子はいきなりそう言って俺の手をつかんだ。
「......でも、俺、足おそいし」
口に出した瞬間、恥ずかしくて下を向く。
けどその子は気にした様子もなく、にかっと笑った。
「じゃあ、おれがにげる役やる! おまえは追いかける役な!」
言うが早いか、その子はくるっと背を向けて、砂ぼこりを巻き上げながら走り出す。
「ほら、はやくこいって!」
俺の胸がどくんと跳ねた。
追いかけなきゃ。
走らなきゃ。
気づいたら、ブランコから飛び出していた。
夕焼けに伸びる二つの影が、公園を駆けていく。
追いかけて、笑って、転んで。
膝に砂がついても、ふたりで顔を見合わせて笑った。
――あれ?
なんでだろう。
ひとりじゃないって、こんなに胸があったかいんだ。
鬼ごっこを終えて、ふたり並んでブランコに座った。
鎖がきぃ、きぃと鳴る。
「なぁ、名前なんていうの?」
遊んだあと、今更その子は靴のつま先で砂をいじりながら聞いてきた。
「......影山零」
小さな声で答える。
「零か。かっけー名前!」
思わず顔を上げる。からかわれると思ったのに、全然そんな顔じゃなかった。
「おれは、夏希。......これからも公園来んの?」
「わかんない。お母さんが......」
そこまで言って口をつぐむ。
夏希はしばらく考えるように黙ってから、「じゃあさ、来れるときはまた一緒に遊ぼ」と、あっけらかんとした声で言った。
胸の奥がじんわり熱くなった。
どうでもいいと思ってたのに。
気づけば「......うん」と、声が出ていた。
気づけば、毎日公園に来ていた。
家にいたくなかったのもあるけど、なんとなくここにいれば落ち着いた。
「おーい、零!」
走ってくる足音。名前を呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくなる。
「......なんで毎日、俺のとこ来んの」
「え? だって今日もいるから」
そう言って、当たり前みたいに隣に座る。
俺は答えられなくて、ブランコの鎖を握ったまま黙る。
ほんとはうれしいのに、素直に言葉が出てこない。
学校でも夏希はよく笑ってて、友達に囲まれてる。
俺とはぜんぜん違う。
それなのに、どうして毎日声をかけてくれるんだろう。
昨日食べたアイスの話とか、くだらない授業の話とか。
そんな話を聞いてるうちに、気づけば俺も少しずつしゃべれるようになっていた。
――あの時間だけは、ひとりじゃなかった。
その日もブランコで並んで話していた。
夏希がふと真面目な顔になって、俺を見た。
「なぁ、零ってさ......いつも遅くまで残ってるよな」
「......うん」
「お母さん、心配しないの?」
鎖を握る手に、少し力が入った。
ほんとは言いたくなかった。でも、夏希の目がまっすぐで、うそをつけなかった。
「......俺が家にいると、ダメなんだって」
口にした瞬間、胸がひゅっと冷たくなった。言わなきゃよかった、って思った。どうせ変な子だって思われる――そう思ったのに。
「そっか」
夏希は少しだけ考えるような顔をして、それからぱっと笑った。
「じゃあさ、俺が一緒にいてやるよ!」
「......え?」
「そしたら寂しくないだろ?」
あまりに無邪気で、思わずぽかんとする。
でもその言葉が、胸の奥にまっすぐ届いて、あたたかく広がった。
「......へんなの」
小さくつぶやいた声は、たぶん夏希には聞こえていなかった。
それから、毎日が少し楽しくなった。
学校が終わるとまっすぐ公園に向かって、夏希を待つのが当たり前になった。
前はただ時間をつぶす場所だったのに、今は待つ時間さえわくわくする。
ある日、休み時間に夏希が駆け寄ってきた。
「なぁ、今度さ、祭りあるんだって! お母さんが連れてってくれるんだ。他の子もいるけど......零も来いよ!」
胸がどきんとした。
でもすぐに、ためらう気持ちが口から出る。
「......でも、僕が行ったら迷惑でしょ」
夏希はむっと眉を寄せて、首をぶんぶん振った。
「そんなことないって! みんなそんなこと思ってねぇから!」
力強く言い切る声に、心臓が熱くなる。
迷惑なんかじゃない。夏希がそう言うなら、信じてみたいと思った。
「......じゃあ、母さんに聞いてみる」
口にしたとたん、夏希がぱっと笑って「やった!」とガッツポーズをした。
その笑顔を見て、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
放課後、わくわくしながら家に帰った。
今日はちゃんと聞こう。夏希と一緒に祭りに行きたいって。
「......あのさ、こんど祭りがあるんだ。行ってみたい」
勇気を出してそう言った瞬間、ソファに座っていた母さんが振り返った。
でも、その顔はもう険しくて。
「......は? なに言ってんの。そんなの行けるわけないでしょ」
「でも......お金がちょっとあれば......」
言いかけたとき、バンッとテーブルを叩く音が響いた。
「ふざけんじゃないわよ!」
怒鳴り声が壁に跳ね返る。
「誰があんたなんかに金出すと思ってるの!」
「......」
声が出ない。心臓がばくばくして、足がすくんだ。
ぐっと唇を噛んで、何も言えなくなった。
――ただ夏希と祭りに行きたかっただけなのに。
「......ごめんなさい」
小さくつぶやく声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。
◆
ポケットの中、小銭が二つだけ。
母さんの怒鳴り声がまだ耳に残って、胸の奥がざわついていた。
夜の公園。ブランコに座る夏希に、うつむいたまま言った。
「......ごめん。俺、やっぱ行けない」
「え、なんで?」
「......お金、なくて」
声が小さくなった。言ったとたん、胸がぎゅっと縮んで泣きたくなる。
でも夏希は首をかしげて、すぐに笑った。
「じゃあさ、来年一緒に花火見ようよ。見るだけならタダだろ?」
にかっと、楽しそうに。
俺は思わず顔をあげた。
夏希は続ける。
「俺ね、すっごくきれいに見える場所知ってんだ。そこ、零と行きたい!」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
目の奥がツンとして、涙が出そうになった。
「......うん」
声がふるえそうで、ただ小さく頷いた。
やっと、やっと友達ができたと思った。
ブランコの隣で笑ってくれるやつ。
「来年、一緒に花火見よう」って言ってくれたやつ。
夏希なら、きっとずっと一緒にいてくれる――そう思った。
だけど。
そのあとすぐに、俺は引っ越すことになった。
急に言われて、何も準備なんてできなくて。
夏希に最後の「さよなら」さえ言えなかった。
約束も、言葉も、置きっぱなしのまま。
俺はただ、知らない街へ連れていかれた。
そのあとは、あんまり記憶にない。
小学校を卒業して中学になる頃には、背が一気に伸びた。
今まで話したことのなかった女子が、自然に笑いかけてくるようになった。
見た目が変わっただけで、手のひら返しみたいに優しくなるやつもいた。
俺は少しずつ愛想笑いを覚えた。
にこにこしてるだけで、自然と人が集まるようになった。
クラスでも、グループを作るのに困らなくなった。
でも、相変わらず母さんは俺のことなんて興味もなくて。初めてピアスを開けたのは、その頃だった。
今思えば、あれは誰かに気づいて欲しかったんだと思う。
どうにもならない孤独や、家での居場所のなさを、ただ我慢して抱えている自分を――。
耳に小さな穴を開けた瞬間、胸の奥の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
痛みと一緒に、少しだけ自由になれたような――そんな感覚だった。
ピアスは、ただの飾りじゃなかった。
あれは、俺の自己表現でもあったんだ。
見た目だけじゃなく、心の奥の「自分らしさ」を、誰かに伝えたい――そんな気持ちを、耳の小さな穴に込めていたんだと思う。
孤独や家の息苦しさから少しでも逃れたくて、でも誰にも頼れなくて――だから、自分の体を通して、自分を外に見せる方法を選んだんだ。
そして、高校2年になって、また転校が決まった。
その頃には母さんも随分落ち着き、再婚もして、弟も生まれていた。
そのおかげで、また前の街に戻ってくることになった。
心のどこかに、ずっと残っていたのは夏希のことだった。
――また、会えるだろうか。
思い出すだけで胸がざわつく。
転校までの準備の間、俺は夜になるとふらふら外に出るようになった。
弟が生まれてから、家の中での自分の居場所がどこにもないように感じていた。
俺だけが家族じゃない――そんな気持ちが、胸の奥にずっとあった。
そんなとき、コンビニでたむろっている奴らと話すようになった。
特別仲良くなるわけじゃないけど、ちょっとした暇つぶしにはちょうどよかった。
「なにしてんだ、こんな所で」
その声に、俺はすぐ気づいて顔を上げた。
そこにいたのは――夏希だった。
でも、夏希は少し首を傾げて、「......あの、誰?」と言った。
覚えているはずもない。わかっていたはずなのに、少し悔しくて、つい言い方が尖ってしまった。
――まぁ、夏希からしたら、印象悪かっただろうな。
ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、どうにもできなかった。
でも、転校してきて同じクラスになった今――俺は強引に一緒に帰ることにした。
夏希は、やっぱり夏希だった。
周りのヤツらみたいに、見た目で態度を変えたりしない。
一緒にいると、どうしても触れたくなる。
自分でも、再会してから気づいた。
――俺は、夏希が好きなんだって。
公園で、俺はブランコに座っていた。
風が少し肌を撫でる。
今頃、あいつは楽しんでるかな。
夏希は覚えていなくても、俺にとって、あの頃の夏希の存在はずっと大切だった。
時々、夢なんじゃないかと思うこともある。
――夏希が「好きだ」って言ってくれた今のことも、人生で一番幸せな瞬間だ。
何度か、昔のことを夏希に話そうと考えたこともあった。
でも、どうしても言い出せなかった。
――あの頃の俺も、今の俺も、夏希が傍にいてくれることだけで、十分なんだ。
◆
俺は公園へ向かって走っていた。心臓がばくばくして、足が勝手に前に出る。
きっと、黒瀬はここで待っている――そう思いながら。
そして視界の奥に、黒瀬の姿を見つけた。
「黒瀬!」
黒瀬は、驚いたように目を大きく見開く。
「夏希、どうしたんだ? お前......今日は祭りの日じゃ――」
黒瀬の話を遮り俺は言う。
「なんで、なんで言わなかったんだよ!」
黒瀬は眉を寄せ、困ったように首をかしげる。
「......なんのことだ?」
胸の奥で、怒りと混乱がぐるぐると渦巻く。
でも同時に、少しだけ切なさも混ざっていた。
夏希は深呼吸をして、立ち止まったまま黒瀬を見上げる。
心臓が跳ねる。口が、今なら全部言える気がした――でも、ちゃんと言えるかはわからない。
「お前、影山零なんだろ?」
黒瀬は驚きと困惑の入り混じった顔で俺を見つめる。
「......夏希、思い出して」
「......お前は最初からわかってたんだろ? なのになんで教えてくれなかったんだ」
黒瀬は目を逸らすように空を見上げた後、ゆっくりと俺を見つめ返す。
「......あのさ、夏希」
黒瀬の声が少しだけ震えている。夏希はその声に、昔の記憶がふっと蘇るのを感じた。
「......覚えてるか? 小学校の頃、花火を一緒に見ようって約束したこと」
夏希の目が大きく開く。
「......ああ......覚えてるよ」
心の奥がじんわり温かくなる。あの頃、夏希は無邪気に笑ってくれた。
黒瀬は目をそらさず、真っ直ぐに見つめる。
「夏希が好きになってくれたのは今の俺だから。話したら今の関係が変わるんじゃないかって」
黒瀬の言葉に、思わず息を呑む。胸の奥がぎゅっと熱くなる。
でも、すぐに笑いながら答えた。
「......なわけないだろ」
黒瀬の目が一瞬驚きで見開かれ、それから少し笑みがこぼれる。
「うん。俺も今ならそう思う」
俺は肩をすくめ、でも手は離さない。
「当たり前だろ。だって俺どんな黒瀬でも好きだから」
黒瀬は少し照れくさそうに笑いながら、でも嬉しそうに俺を見つめる。
その瞳に、胸の奥がじんわりとあったかくなるのを感じた。
――ドンッ、と大きな音とともに、花火が夜空に咲いた。
俺たちは家の塀の向こうから、少しだけしか見えないけど、それでも十分だった。色とりどりの光が夜を染め、胸の奥までじんわりと温かくなる。
黒瀬がそっと俺を抱きしめる。背中越しに伝わる彼の体温と鼓動に、自然と安心感が広がる。
「また......一緒に見てくれるか?」
黒瀬の声は低くて、でも優しくて。耳元で囁かれるその言葉に、心臓が跳ね上がる。
俺は顔を上げ、少し照れくさそうに笑いながら頷く。
「来年はもっといい場所でみようぜ!」
夜空の花火が次々に打ち上がるたび、二人の間に静かで、でも確かな幸せが満ちていく。
こんな風に、一緒にいられる時間が、ずっと続けばいい――そう思った。



