俺の家は――昔から、喧嘩ばかりだった。
 夜中になると、父親の怒鳴り声が響き渡る。壁越しにもはっきりと聞こえるくらいに。
 それに重なるように、母の泣き叫ぶ声。耳をふさいでも、消えることはなかった。

 家の都合で転校も多かった。新しい学校、新しいクラス、新しい人間関係。
 最初のうちは頑張った。仲良くなろうと、普通の子どもみたいに笑って、遊んで。
 けど――どうせ、またすぐ離れ離れになる。

 その繰り返しが何度も続いて。
 気づけば俺は、友達なんてどうでもいいって思うようになっていた。

 子どものくせに諦めだけは早くて。
 俺はいつの間にか、“一人”が当たり前になっていた。

 また転校した。
 まだ二年生なのに、これで何回目だっけ。数えるのももうめんどくさい。

 新しいクラスは知らない顔ばっかりで、みんなもう仲良しで、俺だけぽつん。
 声をかけられることもないし、俺もどうしたらいいかわからない。授業中も休み時間も、机の上の消しゴムばっかりいじってた。

 学校から帰ったら、母さんが玄関で言った。

「今日ね、彼氏が来るから......黒瀬は公園に行ってて」

 いつものことだった。俺がいるとダメみたいだ。

 ランドセルを置いて、そのまま靴を履き直す。なんで俺がいちゃいけないんだろうって思うけど、口に出したことはない。どうせ言っても、困った顔をされるだけだから。

 公園に着くと、夕方の遊具は子どもでいっぱいだった。みんな楽しそうに走り回って、笑い声があちこちから響いてくる。
 でも、俺は輪に入れない。入っていいのかもわからなかった。

 ぎい、ぎい、と小さな音が鳴る。
 靴の先が砂をかすめるたびに、胸の中まで重くなっていくみたいだった。

 そのとき。

「なぁにしてんの?」

 ぱっと顔を上げると、同じくらいの背の男の子が立っていた。
 じっとこっちを見て、にこっと笑った。

「......ブランコ」

 小さな声で答える。

「ひとり?」

「......うん」

 それだけで、なんだか胸がぎゅっとした。
 ひとりって言葉は、言いたくなかったのに。

 でも、その子は嫌な顔なんてしなくて、当たり前みたいに言った。

「じゃあさ、いっしょに遊ぼ」

 夕暮れの光の中、その声だけがやけにあったかく響いた。

「鬼ごっこしよ!」

 その子はいきなりそう言って俺の手をつかんだ。

「......でも、俺、足おそいし」

 口に出した瞬間、恥ずかしくて下を向く。

 けどその子は気にした様子もなく、にかっと笑った。

「じゃあ、おれがにげる役やる! おまえは追いかける役な!」

 言うが早いか、その子はくるっと背を向けて、砂ぼこりを巻き上げながら走り出す。

「ほら、はやくこいって!」

 俺の胸がどくんと跳ねた。
 追いかけなきゃ。
 走らなきゃ。

 気づいたら、ブランコから飛び出していた。
 夕焼けに伸びる二つの影が、公園を駆けていく。

 追いかけて、笑って、転んで。
 膝に砂がついても、ふたりで顔を見合わせて笑った。

 ――あれ?
 なんでだろう。
 ひとりじゃないって、こんなに胸があったかいんだ。

 鬼ごっこを終えて、ふたり並んでブランコに座った。
 鎖がきぃ、きぃと鳴る。

「なぁ、名前なんていうの?」

 遊んだあと、今更その子は靴のつま先で砂をいじりながら聞いてきた。

「......影山零」

 小さな声で答える。

「零か。かっけー名前!」

 思わず顔を上げる。からかわれると思ったのに、全然そんな顔じゃなかった。

「おれは、夏希。......これからも公園来んの?」

「わかんない。お母さんが......」

 そこまで言って口をつぐむ。

 夏希はしばらく考えるように黙ってから、「じゃあさ、来れるときはまた一緒に遊ぼ」と、あっけらかんとした声で言った。

 胸の奥がじんわり熱くなった。
 どうでもいいと思ってたのに。
 気づけば「......うん」と、声が出ていた。

 気づけば、毎日公園に来ていた。
 家にいたくなかったのもあるけど、なんとなくここにいれば落ち着いた。
 
「おーい、零!」

 走ってくる足音。名前を呼ばれるたび、胸の奥がくすぐったくなる。

「......なんで毎日、俺のとこ来んの」

「え? だって今日もいるから」

 そう言って、当たり前みたいに隣に座る。

 俺は答えられなくて、ブランコの鎖を握ったまま黙る。
 ほんとはうれしいのに、素直に言葉が出てこない。

 学校でも夏希はよく笑ってて、友達に囲まれてる。
 俺とはぜんぜん違う。
 それなのに、どうして毎日声をかけてくれるんだろう。

 昨日食べたアイスの話とか、くだらない授業の話とか。
 そんな話を聞いてるうちに、気づけば俺も少しずつしゃべれるようになっていた。

 ――あの時間だけは、ひとりじゃなかった。

 その日もブランコで並んで話していた。
 夏希がふと真面目な顔になって、俺を見た。

「なぁ、零ってさ......いつも遅くまで残ってるよな」

「......うん」

「お母さん、心配しないの?」

 鎖を握る手に、少し力が入った。
 ほんとは言いたくなかった。でも、夏希の目がまっすぐで、うそをつけなかった。

「......俺が家にいると、ダメなんだって」

 口にした瞬間、胸がひゅっと冷たくなった。言わなきゃよかった、って思った。どうせ変な子だって思われる――そう思ったのに。

「そっか」

 夏希は少しだけ考えるような顔をして、それからぱっと笑った。

「じゃあさ、俺が一緒にいてやるよ!」

「......え?」

「そしたら寂しくないだろ?」

 あまりに無邪気で、思わずぽかんとする。
 でもその言葉が、胸の奥にまっすぐ届いて、あたたかく広がった。

「......へんなの」

 小さくつぶやいた声は、たぶん夏希には聞こえていなかった。

 それから、毎日が少し楽しくなった。
 学校が終わるとまっすぐ公園に向かって、夏希を待つのが当たり前になった。
 前はただ時間をつぶす場所だったのに、今は待つ時間さえわくわくする。

 ある日、休み時間に夏希が駆け寄ってきた。

「なぁ、今度さ、祭りあるんだって! お母さんが連れてってくれるんだ。他の子もいるけど......零も来いよ!」

 胸がどきんとした。
 でもすぐに、ためらう気持ちが口から出る。

「......でも、僕が行ったら迷惑でしょ」

 夏希はむっと眉を寄せて、首をぶんぶん振った。

「そんなことないって! みんなそんなこと思ってねぇから!」

 力強く言い切る声に、心臓が熱くなる。
 迷惑なんかじゃない。夏希がそう言うなら、信じてみたいと思った。

「......じゃあ、母さんに聞いてみる」

 口にしたとたん、夏希がぱっと笑って「やった!」とガッツポーズをした。
 その笑顔を見て、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。

 放課後、わくわくしながら家に帰った。
 今日はちゃんと聞こう。夏希と一緒に祭りに行きたいって。

「......あのさ、こんど祭りがあるんだ。行ってみたい」

 勇気を出してそう言った瞬間、ソファに座っていた母さんが振り返った。
 でも、その顔はもう険しくて。

「......は? なに言ってんの。そんなの行けるわけないでしょ」

「でも......お金がちょっとあれば......」

 言いかけたとき、バンッとテーブルを叩く音が響いた。

「ふざけんじゃないわよ!」

 怒鳴り声が壁に跳ね返る。

「誰があんたなんかに金出すと思ってるの!」

「......」

 声が出ない。心臓がばくばくして、足がすくんだ。

 ぐっと唇を噛んで、何も言えなくなった。
 ――ただ夏希と祭りに行きたかっただけなのに。

「......ごめんなさい」

 小さくつぶやく声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。



 ポケットの中、小銭が二つだけ。
 母さんの怒鳴り声がまだ耳に残って、胸の奥がざわついていた。

 夜の公園。ブランコに座る夏希に、うつむいたまま言った。

「......ごめん。俺、やっぱ行けない」

「え、なんで?」

「......お金、なくて」

 声が小さくなった。言ったとたん、胸がぎゅっと縮んで泣きたくなる。
 でも夏希は首をかしげて、すぐに笑った。

「じゃあさ、来年一緒に花火見ようよ。見るだけならタダだろ?」

 にかっと、楽しそうに。

 俺は思わず顔をあげた。
 夏希は続ける。

「俺ね、すっごくきれいに見える場所知ってんだ。そこ、零と行きたい!」

 胸の奥が、じんわり熱くなる。
 目の奥がツンとして、涙が出そうになった。

「......うん」

 声がふるえそうで、ただ小さく頷いた。

 やっと、やっと友達ができたと思った。
 ブランコの隣で笑ってくれるやつ。
 「来年、一緒に花火見よう」って言ってくれたやつ。

 夏希なら、きっとずっと一緒にいてくれる――そう思った。

 だけど。

 そのあとすぐに、俺は引っ越すことになった。
 急に言われて、何も準備なんてできなくて。
 夏希に最後の「さよなら」さえ言えなかった。

 約束も、言葉も、置きっぱなしのまま。
 俺はただ、知らない街へ連れていかれた。

 そのあとは、あんまり記憶にない。

 小学校を卒業して中学になる頃には、背が一気に伸びた。
 今まで話したことのなかった女子が、自然に笑いかけてくるようになった。
 見た目が変わっただけで、手のひら返しみたいに優しくなるやつもいた。

 俺は少しずつ愛想笑いを覚えた。
 にこにこしてるだけで、自然と人が集まるようになった。
 クラスでも、グループを作るのに困らなくなった。

 でも、相変わらず母さんは俺のことなんて興味もなくて。初めてピアスを開けたのは、その頃だった。

 今思えば、あれは誰かに気づいて欲しかったんだと思う。
 どうにもならない孤独や、家での居場所のなさを、ただ我慢して抱えている自分を――。

 耳に小さな穴を開けた瞬間、胸の奥の重さが、少しだけ軽くなった気がした。
 痛みと一緒に、少しだけ自由になれたような――そんな感覚だった。

 ピアスは、ただの飾りじゃなかった。
 あれは、俺の自己表現でもあったんだ。
 見た目だけじゃなく、心の奥の「自分らしさ」を、誰かに伝えたい――そんな気持ちを、耳の小さな穴に込めていたんだと思う。

 孤独や家の息苦しさから少しでも逃れたくて、でも誰にも頼れなくて――だから、自分の体を通して、自分を外に見せる方法を選んだんだ。

 そして、高校2年になって、また転校が決まった。

 その頃には母さんも随分落ち着き、再婚もして、弟も生まれていた。
 そのおかげで、また前の街に戻ってくることになった。

 心のどこかに、ずっと残っていたのは夏希のことだった。
 ――また、会えるだろうか。
 思い出すだけで胸がざわつく。

 転校までの準備の間、俺は夜になるとふらふら外に出るようになった。
 弟が生まれてから、家の中での自分の居場所がどこにもないように感じていた。
 俺だけが家族じゃない――そんな気持ちが、胸の奥にずっとあった。

 そんなとき、コンビニでたむろっている奴らと話すようになった。
 特別仲良くなるわけじゃないけど、ちょっとした暇つぶしにはちょうどよかった。

「なにしてんだ、こんな所で」

 その声に、俺はすぐ気づいて顔を上げた。
 そこにいたのは――夏希だった。

 でも、夏希は少し首を傾げて、「......あの、誰?」と言った。
 覚えているはずもない。わかっていたはずなのに、少し悔しくて、つい言い方が尖ってしまった。
 ――まぁ、夏希からしたら、印象悪かっただろうな。

 ずっと会いたかったはずなのに、いざ会ってみると、どうにもできなかった。

 でも、転校してきて同じクラスになった今――俺は強引に一緒に帰ることにした。

 夏希は、やっぱり夏希だった。
 周りのヤツらみたいに、見た目で態度を変えたりしない。
 一緒にいると、どうしても触れたくなる。

 自分でも、再会してから気づいた。
 ――俺は、夏希が好きなんだって。

 公園で、俺はブランコに座っていた。
 風が少し肌を撫でる。

 今頃、あいつは楽しんでるかな。
 夏希は覚えていなくても、俺にとって、あの頃の夏希の存在はずっと大切だった。

 時々、夢なんじゃないかと思うこともある。
 ――夏希が「好きだ」って言ってくれた今のことも、人生で一番幸せな瞬間だ。

 何度か、昔のことを夏希に話そうと考えたこともあった。
 でも、どうしても言い出せなかった。

 ――あの頃の俺も、今の俺も、夏希が傍にいてくれることだけで、十分なんだ。



 俺は公園へ向かって走っていた。心臓がばくばくして、足が勝手に前に出る。
 きっと、黒瀬はここで待っている――そう思いながら。

 そして視界の奥に、黒瀬の姿を見つけた。

「黒瀬!」

 黒瀬は、驚いたように目を大きく見開く。

「夏希、どうしたんだ? お前......今日は祭りの日じゃ――」

 黒瀬の話を遮り俺は言う。

「なんで、なんで言わなかったんだよ!」

 黒瀬は眉を寄せ、困ったように首をかしげる。

「......なんのことだ?」

 胸の奥で、怒りと混乱がぐるぐると渦巻く。
 でも同時に、少しだけ切なさも混ざっていた。

 夏希は深呼吸をして、立ち止まったまま黒瀬を見上げる。
 心臓が跳ねる。口が、今なら全部言える気がした――でも、ちゃんと言えるかはわからない。

「お前、影山零なんだろ?」

 黒瀬は驚きと困惑の入り混じった顔で俺を見つめる。

「......夏希、思い出して」

「......お前は最初からわかってたんだろ? なのになんで教えてくれなかったんだ」

 黒瀬は目を逸らすように空を見上げた後、ゆっくりと俺を見つめ返す。

「......あのさ、夏希」

 黒瀬の声が少しだけ震えている。夏希はその声に、昔の記憶がふっと蘇るのを感じた。

「......覚えてるか? 小学校の頃、花火を一緒に見ようって約束したこと」

 夏希の目が大きく開く。

「......ああ......覚えてるよ」

 心の奥がじんわり温かくなる。あの頃、夏希は無邪気に笑ってくれた。
 黒瀬は目をそらさず、真っ直ぐに見つめる。

「夏希が好きになってくれたのは今の俺だから。話したら今の関係が変わるんじゃないかって」

 黒瀬の言葉に、思わず息を呑む。胸の奥がぎゅっと熱くなる。

 でも、すぐに笑いながら答えた。

「......なわけないだろ」

 黒瀬の目が一瞬驚きで見開かれ、それから少し笑みがこぼれる。

「うん。俺も今ならそう思う」

 俺は肩をすくめ、でも手は離さない。

「当たり前だろ。だって俺どんな黒瀬でも好きだから」

 黒瀬は少し照れくさそうに笑いながら、でも嬉しそうに俺を見つめる。
 その瞳に、胸の奥がじんわりとあったかくなるのを感じた。

 ――ドンッ、と大きな音とともに、花火が夜空に咲いた。

 俺たちは家の塀の向こうから、少しだけしか見えないけど、それでも十分だった。色とりどりの光が夜を染め、胸の奥までじんわりと温かくなる。

 黒瀬がそっと俺を抱きしめる。背中越しに伝わる彼の体温と鼓動に、自然と安心感が広がる。

「また......一緒に見てくれるか?」

 黒瀬の声は低くて、でも優しくて。耳元で囁かれるその言葉に、心臓が跳ね上がる。

 俺は顔を上げ、少し照れくさそうに笑いながら頷く。

「来年はもっといい場所でみようぜ!」

 夜空の花火が次々に打ち上がるたび、二人の間に静かで、でも確かな幸せが満ちていく。
 こんな風に、一緒にいられる時間が、ずっと続けばいい――そう思った。