朝、並んで歩いてるだけなのに......なんだこれ。
うぅ、なんか黒瀬がいつもより何倍もかっこよく見える。
しかも黒瀬の俺を見る目が、なんか優しい。いや、前から優しかったけど――今はもっと、柔らかくて甘くて。視線に触れるたび、背中がくすぐったくなる。
「なに、さっきからそわそわして」
「っ......してねーし!」
「ふーん。じゃあ俺が見てるのに気づいてない?」
挑発みたいな声に振り向いた瞬間、真正面から視線がぶつかる。
黒瀬の目尻がゆるんでて、すっごい安心したみたいな笑顔。
「......な、なんだよその顔」
「うん。やっぱりかわいいなと思って」
「っ......かわいいって嬉しくないからな!」
頬が熱い。
でも、黒瀬の視線は追いかけてくる。まるで、俺を一秒でも見逃したくないみたいに。
「なあ」
「......なんだよ」
「夢じゃないんだよな、これ」
「バカ。夢なわけねーだろ」
「......そっか。よかった」
まっすぐ言うな、そういうこと......。
でも、その笑顔を見てると――胸の奥までじんわりあったかくなって、口元が勝手にゆるむ。
その言葉に心臓が跳ねる。
視線を逸らそうとしても、黒瀬の優しい目に捕まって動けない。
――ずるい。
俺だけを見て、俺にだけそんな表情をするなんて。
でも、胸の奥がじんわりあったかくなるのを止められない。
(......ほんとに、俺......黒瀬に溺愛されてんだな)
幸せすぎて、頬のゆるみを誤魔化せなかった。
昨日――付き合った。
まだ言葉にすると変な感じがして、心臓が忙しい。
学校の門をくぐった瞬間、黒瀬の雰囲気がふっと切り替わる。
......いつもの、優しくて爽やかな“黒瀬零”だ。
すれ違うクラスメイトに笑顔で「おはよう」って声をかけるその姿。
うわ、やばい。やっぱりモテる。
だけど。
教室のドアをくぐる直前、俺の背中をそっと押して小声で囁いてきた。
「ねえ夏希、顔赤いよ。可愛い」
――っ!
ちょっと待て、今は学校!
慌てて振り返る俺を見て、黒瀬は悪戯っぽく笑ってすぐに爽やかモードに戻る。
......その切り替え、ずるすぎる。
席に着いてからも、プリントを配ってくれるときに俺の机の上だけほんの少しだけ丁寧に置いたり。
他のやつには「ありがとう」って普通に返すくせに、俺には視線合わせて「どういたしまして」って、柔らかく微笑んできたり。
バレるだろ! って思うのに、誰も気づかない。
俺だけが知ってる、黒瀬の“彼氏モード”。
その優しさを独り占めしてると思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
......やばい。ニヤけ止まんない。
教室に入って席についた瞬間、案の定、黒瀬の周りには女子が集まった。
「なんか今日ご機嫌じゃない?」
「ねえねえ、いいことあったでしょ?」
黒瀬はいつもの優しい笑顔で肩をすくめる。
「そうかな?」
「え、まさか彼女とかじゃないよね!?」
「んー......内緒」
「えー!なにそれ!絶対そうじゃん!」
「どんな子?可愛い?」
黒瀬が少しだけ考えるように視線を伏せ――そして。
「......うん、すっごく可愛い」
次の瞬間、ほんの一瞬だけ、俺の方に視線を流して微笑んだ。
......っ!
心臓が一気に跳ね上がる。
誰も気づいてない。俺にしかわからない視線。俺にしか見せない顔。
――ずるい。ほんとやばい。
顔の緩みがどうしても治らなくて、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。
「......はぁ。やばいな」
鏡に映る自分は、にやけた顔のまま。
深呼吸して、気持ちを切り替えようとした。
――そして、トイレを出た瞬間。
廊下に颯太が立っていた。朝練帰りで、まだ汗が残ってる。
「......颯太」
「ん? どうした、そんな顔」
意を決して、声をかけた。
「俺......黒瀬と、付き合うことになったんだ」
一瞬、颯太の眉がわずかに動いた。けど、すぐに苦笑が浮かぶ。
「......なんだよ。わざわざそれ言いに来たのか」
「颯太の気持ち、今まで気づけなくて......ごめん」
胸の奥から言葉が溢れる。
「俺、黒瀬のことが好きなんだ。だから......」
颯太は俺をまっすぐ見て、ふっと笑った。
「知ってた」
「......え」
「ずっとお前のこと、見てきたんだ。......気づいてたよ」
その言葉に胸が詰まる。
どうしても伝えたかった。
「でも俺、颯太と一緒にいると気を遣わなくていいし、楽しい。......だから、これからも友達でいて欲しいんだ」
颯太は一瞬黙ったあと、肩をすくめて笑った。
「ははっ。お前、意外と欲張りだな。彼氏も友達も両方欲しいとか」
その声は、どこか切ないのに優しかった。
「......まあ、夏希がそう言うならしょうがないな。俺も、お前と離れたくねぇし」
その言葉に胸がじんわり熱くなる。
「颯太......ありがとう」
「でもさ」颯太が少しだけ真剣な目をした。
「たまには俺のことも思い出せよ。友達って言ったからには、遠慮しないで頼れ。彼氏に独り占めされんのは、ちょっとムカつくしな」
その言い方が颯太らしくて、思わず笑ってしまった。
「わかった。......頼る」
「よし」
颯太はにっと笑って、軽く俺の肩を叩いた。
「ほら、早く戻ろうぜ。ニヤけ顔直さねぇと、また女子に何か言われんぞ」
......そう言われても、たぶん直らない。
だって今、俺は最高に幸せだから。
颯太はふっと息を吐くと、急に俺の顔を覗き込んできた。
「......これくらい、許せよ」
そう言って、軽く俺の頬に唇を触れさせた。
「っ――」
一瞬、頭が真っ白になる。
颯太はいつもの笑顔を浮かべながら肩をすくめた。
「じゃ、俺先戻るわ」
呆然と立ち尽くす俺を置いて、颯太は廊下の向こうへと歩いていく。
......び、びっくりしたぁ。
いやいや、今の絶対まずいだろ。
もし誰かに見られてたら――黒瀬に、絶対怒られる......。
そう思いながら振り返った瞬間。
そこには。
――笑顔を浮かべながら、目だけ全然笑ってない黒瀬が立っていた。
「っ......!」
驚く俺の腕を、黒瀬は何も言わずにぐいっと掴む。
「お、おい黒瀬......!」
抵抗する間もなく、ずんずん引っ張られていく。
連れていかれた先は、校舎の端――いつもの人通りの少ない階段。
ドクンと心臓が跳ね上がる。
黒瀬の手の力が強すぎて、言葉が出てこない。
階段の踊り場で足を止められると、黒瀬はようやく手を離した。
だけど、笑顔はそのままなのに――目が全然笑ってない。
「......楽しそうだったな」
「え、ちょっ、誤解――」
「俺、さっきの見ちゃったんだけど」
背筋がぞくっとする。
黒瀬の声は優しいのに、妙に低くて、いつもと違う。
階段の踊り場で黒瀬がさっと腰を下ろす。
次の瞬間、俺はその上に座らされて――ぎゅっと抱き寄せられる。
「っ......!」
体が密着するだけで、息が詰まる。
黒瀬の唇が、俺の唇に重なる。
柔らかくて甘い感触に、思わず声が漏れそうになる。
「付き合って初日から浮気か?」
「違っ、あれは......颯太が勝手に......!」
「お前.......なんであんなに無防備なんだよ」
肩越しに首筋へと唇を滑らせられる。
思わず小さく声が出る。
「......それは......ごめん、けど」
「俺だって我慢してたのに」
今度は頬に軽くキスされて、また首筋へ。
熱い吐息が頬をなぞって、俺の体はもう言うことをきかない。
息を整えようとしても、黒瀬の視線に捕まるたびに胸がドクドクして、心臓が暴れ出す。
......ああ、こんなに甘くて幸せで、でも少し切ないの、もうどうしようもない。
「黒瀬、ほんとに違うんだ!」
抱きしめられたまま、必死に声を上げる。
胸が苦しくて、どうしても伝えたかった。
「俺、颯太に......“黒瀬と付き合った”って、伝えただけなんだ。 それで、今まで気づけなくてごめんって言ったら......あいつが勝手に......!」
黒瀬の動きが、ふっと止まる。
俺の言葉を飲み込むみたいに、じっと見つめてくる。
「......ほんとに?」
「ああ! 信じろよ......俺が好きなのは、黒瀬だけだから!」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも嘘じゃない。
胸の奥から勝手にこぼれ落ちた言葉だった。
黒瀬は少し黙ったあと、ふっと力を抜いた。
目元の険しさが溶けて、代わりに切なそうな笑顔になる。
「......そっか。夏希がそう言うなら......信じる」
「当たり前だろ。俺......黒瀬にだけ、こんな顔してんだから」
そう言った途端、黒瀬の腕の力が強くなる。
ぎゅうっと抱きしめられて、耳元に低い声が落ちてきた。
「......ごめん。俺、夏希のことになると余裕ねぇな」
胸の奥がじんわり熱くなる。
怒ってたのに、こんな言い方されたら......ずるい。
「うん。でも......ちょっとだけ、嫉妬してくれるの......悪くないかも」
「は?」
驚いた顔をして、それからふっと笑う。
いつもの優しい黒瀬に戻っていて、胸があったかくなる。
「......ほんと、かわいいよな。夏希は」
「だから可愛いって言うなって!」
顔が真っ赤になるのを誤魔化すように、俺は思い切り黒瀬の胸を叩いた。
でも、その胸の温かさを離れる気にはなれなかった。
黒瀬の腕の力がようやく緩んで、俺はほっと息を吐いた。
でも胸の奥は、まだどきどきして落ち着かない。
「......黒瀬」
呼ぶと、黒瀬は小さく首をかしげて俺を見てくる。
さっきまでの嫉妬まじりの視線じゃなくて、今はただ――俺の顔を確かめるみたいに。
「......ごめんな。夏希のこと疑ったわけじゃないけど......」
「うん」
「夏希が誰かに触れられるの、やっぱり無理だ」
その低い声に、胸がじんわり熱くなる。
ずるい。そうやって本音を真っ直ぐぶつけられると、何も言えなくなる。
「俺だって......嫌だよ。黒瀬が他の女子に笑ってんの」
「えっ」
「......すげー、モテるし。内緒って言ってたときも、正直、心臓ばくばくだった」
顔が熱い。言ってから、もう取り消したいくらい恥ずかしい。
でも黒瀬は、驚いたあと――すぐに嬉しそうに笑った。
「......そっか。じゃあ、おあいこだな」
「......おあいこ?」
「俺も嫉妬する。夏希も嫉妬する。だったら、同じだろ」
そう言って、また俺の髪をぐしゃっと撫でてくる。
指先がやけに優しくて、胸の奥がまた熱くなる。
「......じゃあ、これからはちゃんと言えよ」
「......うん」
「不安になったときとか、ヤキモチ焼いたときとか。俺は聞きたい。夏希が何を感じてるか、もっと知りたい」
そのまっすぐな視線に、息が詰まる。
......本当、逃げ場がない。
「......わかった」
頭をぽんっと撫でられて、思わずむっとする。
でも、その笑顔を見てたら反論できなくて――気づいたら、俺まで笑ってた。
◆
放課後。
いつものように一緒に並んで歩いて、校門を出る。
西日に照らされた道を、部活帰りの声や自転車のベルが通り抜けていった。
ふと、横にある掲示板の前で黒瀬が足を止める。
「......あ」
つられて視線をやると、大きなポスターが貼ってあった。
――花火大会。来週の土曜日。
「なあ、夏希」
「ん?」
「一緒に行かね? これ」
軽い調子で言うのに、その横顔はどこか期待してるみたいで。
胸がくすぐったくなる。......けど。
「あ......」
声が詰まった。
そういえば、その日はもう地元の友達と行く約束をしてたんだった。
「どうした?」
黒瀬が首をかしげる。
俺は慌てて笑ってごまかした。
「いや、その日さ......地元のやつと行くって、ちょっと前から決まってて」
「......そうなんだ」
一瞬、黒瀬の表情がわずかに曇る。
胸がぎゅっと痛む。
「ごめん、やっぱ断る! 黒瀬と行く方が――」
慌てて口走ったとき、黒瀬はふっと笑った。
いつもの柔らかい笑顔で。
「いいよ。地元の友達なんだろ?」
「え......でも」
「友達との約束、大事にしろよ。俺は夏希の彼氏だから......別に焦らなくても、チャンスはいくらでもあるし」
軽く言うのに、胸に響いて。
なんだよ、そういうとこ......ずるい。
俺は思わず俯いて、呟いた。
「......じゃあ、また今度。違う祭りとか、黒瀬と一緒に行きたい」
口に出した瞬間、胸が熱くなる。
黒瀬はほんの一瞬驚いた顔をして――すぐに、あの柔らかい笑顔を見せた。
「......絶対な」
夕焼けに照らされた横顔がやけにまぶしくて、目を逸らした。
けど、心臓はさっきからずっと跳ねっぱなしだ。
花火のポスターが風に揺れる。
次の約束を胸にしまい込んで、俺たちは並んで歩き出した。
祭り当日。
薄暗くなり始めた外へ出ると、空気がいつもよりざわついている気がした。中学校の正門前が集合場所だ。少し遅れて駆け足で向かうと、もう二人とも来ていた。
「おせーよ!」
先に見つけた陽翔が、笑いながら声を張る。
「悪い悪い!」息を整えつつ合流すると、自然と肩を並べる形になった。
そのまま三人で足を向けた先は、毎年恒例の地元最大の祭り。
「まじでこのメンバー久しぶりだな。最後に会ったの、五か月前とかだろ?」
樹が笑いながら言う。
「ほんとそれ。この祭りなかったら、俺ら会わないんじゃねぇーの?」
俺たちは中学からの仲間だけど、今は三人とも別々の高校に通っている。だからこうして顔を合わせるのは、思ってる以上に難しい。
「そういやさ、聞いてくれよ。俺、この前......」
始まったのは近況報告。部活の話、クラスの話、恋バナ。くだらないのに、どうしようもなく懐かしい。
そうして笑い合っているうちに、祭りの会場にたどり着いた。
「......うわ、やっぱ人すげぇ」
「迷子になるなよー」
色とりどりの提灯、漂う屋台の匂い、押し寄せる人波。
ここは地元でいちばん大きな祭りだ。遠くからも人が集まってきて、通りは賑わいと熱気で埋め尽くされている。俺たちにとって、この祭りはもう毎年の恒例行事。
――ただ、それが「当たり前」じゃなくなっていることに、少しだけ胸がきゅっとする。
屋台の明かりが並ぶ通りに出ると、甘い匂いと焼けた醤油の香ばしさが風に混ざってくる。
「お、たこ焼き! 絶対食う」陽翔がいきなり列に吸い込まれそうになるのを、樹が肩を掴んで止めた。
「まだ始まったばっかだろ。先に一周してからだ」
「えー、腹減って死ぬ」
「死なねぇよ」
くだらないやりとりに思わず笑ってしまう。ほんと、この感じ、懐かしい。
そうして屋台をひやかしながら笑っているうちに、花火の時間が近づいてきた。さっきよりもさらに人が増えてきて、歩くのもやっとだ。
イカ焼きを頬張りながら、陽翔がふとつぶやく。
「そういえばさ――影山、お前の学校に転校したんだろ?」
「......影山?」
思わず首を傾げる。知らない名前だ。
「あれ、違ったっけ? 健太が言ってたんだけど」
陽翔が目を丸くする。健太は同じ高校に通うやつで、陽翔と仲がいい。でも、俺はほとんど話したことがない。
――転校生? そんなやつ、いたっけ......?
「影山って、あの小学校の頃のだろ?」
隣で樹が会話に入ってくる。
「そうそう!」と陽翔が頷く。
「お前、仲良くしてなかったか?」
「だよな、俺もそのイメージだったわ」
言われるたびに混乱が深まる。小学校の頃の影山......? そんなやつ、いたか?
「......名前、なんだよ」
思わず聞き返すと、陽翔はイカ焼きの串を持ったまま、うーんと考え込む。
そして、ぱっと顔を上げた。
「あっ! ......思い出した。零だ!」
その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打った。
影山零――。
その名前に、胸の奥がざわつく。
頭の片隅に、忘れていたはずの記憶が少しずつ蘇りはじめた。
もしかして......影山零って――黒瀬のこと、なのか?
けど、俺の知ってる影山は大人しくて、どこにでもいるような普通のやつだった。
今の黒瀬とはどうしても結びつかない。
「そういえばさ、苗字変わったって言ってたな」
陽翔の何気ない一言に、心臓が一瞬止まった気がした。
「......黒瀬?」
無意識に声が漏れる。
「そうそう!」
陽翔があっけらかんと笑う。
――やっぱり。
目の前の祭りの喧騒が、一瞬遠くへ引いていくような感覚に襲われた。
――来年は、一緒に花火を見よう。
あの日、影山零と交わした小さな約束。
忘れていたはずのその言葉が、鮮やかに蘇った瞬間――胸の奥が熱くなる。
「......っ!」
気づけば体が勝手に動いていた。
屋台の灯りが揺れる人混みの中を、俺はただ前へ走る。ざわめきも視界も何もかも遠のいて、頭の中を占めているのは黒瀬のことだけだった。
「おい! 夏希!?」
「どこ行くんだよ!」
背中の方で、陽翔と樹の声が聞こえた。呼び止められても、振り返る余裕なんてない。
黒瀬――。
あいつは、最初から俺のことを知っていた。
なのに、なんで。なんで、何も言わなかったんだよ......!
胸の奥で何かが弾けるように熱くなり、足は止まらなかった。
息が詰まるほど走りながら、俺はただその名前を心の中で呼び続けていた。
うぅ、なんか黒瀬がいつもより何倍もかっこよく見える。
しかも黒瀬の俺を見る目が、なんか優しい。いや、前から優しかったけど――今はもっと、柔らかくて甘くて。視線に触れるたび、背中がくすぐったくなる。
「なに、さっきからそわそわして」
「っ......してねーし!」
「ふーん。じゃあ俺が見てるのに気づいてない?」
挑発みたいな声に振り向いた瞬間、真正面から視線がぶつかる。
黒瀬の目尻がゆるんでて、すっごい安心したみたいな笑顔。
「......な、なんだよその顔」
「うん。やっぱりかわいいなと思って」
「っ......かわいいって嬉しくないからな!」
頬が熱い。
でも、黒瀬の視線は追いかけてくる。まるで、俺を一秒でも見逃したくないみたいに。
「なあ」
「......なんだよ」
「夢じゃないんだよな、これ」
「バカ。夢なわけねーだろ」
「......そっか。よかった」
まっすぐ言うな、そういうこと......。
でも、その笑顔を見てると――胸の奥までじんわりあったかくなって、口元が勝手にゆるむ。
その言葉に心臓が跳ねる。
視線を逸らそうとしても、黒瀬の優しい目に捕まって動けない。
――ずるい。
俺だけを見て、俺にだけそんな表情をするなんて。
でも、胸の奥がじんわりあったかくなるのを止められない。
(......ほんとに、俺......黒瀬に溺愛されてんだな)
幸せすぎて、頬のゆるみを誤魔化せなかった。
昨日――付き合った。
まだ言葉にすると変な感じがして、心臓が忙しい。
学校の門をくぐった瞬間、黒瀬の雰囲気がふっと切り替わる。
......いつもの、優しくて爽やかな“黒瀬零”だ。
すれ違うクラスメイトに笑顔で「おはよう」って声をかけるその姿。
うわ、やばい。やっぱりモテる。
だけど。
教室のドアをくぐる直前、俺の背中をそっと押して小声で囁いてきた。
「ねえ夏希、顔赤いよ。可愛い」
――っ!
ちょっと待て、今は学校!
慌てて振り返る俺を見て、黒瀬は悪戯っぽく笑ってすぐに爽やかモードに戻る。
......その切り替え、ずるすぎる。
席に着いてからも、プリントを配ってくれるときに俺の机の上だけほんの少しだけ丁寧に置いたり。
他のやつには「ありがとう」って普通に返すくせに、俺には視線合わせて「どういたしまして」って、柔らかく微笑んできたり。
バレるだろ! って思うのに、誰も気づかない。
俺だけが知ってる、黒瀬の“彼氏モード”。
その優しさを独り占めしてると思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
......やばい。ニヤけ止まんない。
教室に入って席についた瞬間、案の定、黒瀬の周りには女子が集まった。
「なんか今日ご機嫌じゃない?」
「ねえねえ、いいことあったでしょ?」
黒瀬はいつもの優しい笑顔で肩をすくめる。
「そうかな?」
「え、まさか彼女とかじゃないよね!?」
「んー......内緒」
「えー!なにそれ!絶対そうじゃん!」
「どんな子?可愛い?」
黒瀬が少しだけ考えるように視線を伏せ――そして。
「......うん、すっごく可愛い」
次の瞬間、ほんの一瞬だけ、俺の方に視線を流して微笑んだ。
......っ!
心臓が一気に跳ね上がる。
誰も気づいてない。俺にしかわからない視線。俺にしか見せない顔。
――ずるい。ほんとやばい。
顔の緩みがどうしても治らなくて、俺は慌ててトイレに駆け込んだ。
「......はぁ。やばいな」
鏡に映る自分は、にやけた顔のまま。
深呼吸して、気持ちを切り替えようとした。
――そして、トイレを出た瞬間。
廊下に颯太が立っていた。朝練帰りで、まだ汗が残ってる。
「......颯太」
「ん? どうした、そんな顔」
意を決して、声をかけた。
「俺......黒瀬と、付き合うことになったんだ」
一瞬、颯太の眉がわずかに動いた。けど、すぐに苦笑が浮かぶ。
「......なんだよ。わざわざそれ言いに来たのか」
「颯太の気持ち、今まで気づけなくて......ごめん」
胸の奥から言葉が溢れる。
「俺、黒瀬のことが好きなんだ。だから......」
颯太は俺をまっすぐ見て、ふっと笑った。
「知ってた」
「......え」
「ずっとお前のこと、見てきたんだ。......気づいてたよ」
その言葉に胸が詰まる。
どうしても伝えたかった。
「でも俺、颯太と一緒にいると気を遣わなくていいし、楽しい。......だから、これからも友達でいて欲しいんだ」
颯太は一瞬黙ったあと、肩をすくめて笑った。
「ははっ。お前、意外と欲張りだな。彼氏も友達も両方欲しいとか」
その声は、どこか切ないのに優しかった。
「......まあ、夏希がそう言うならしょうがないな。俺も、お前と離れたくねぇし」
その言葉に胸がじんわり熱くなる。
「颯太......ありがとう」
「でもさ」颯太が少しだけ真剣な目をした。
「たまには俺のことも思い出せよ。友達って言ったからには、遠慮しないで頼れ。彼氏に独り占めされんのは、ちょっとムカつくしな」
その言い方が颯太らしくて、思わず笑ってしまった。
「わかった。......頼る」
「よし」
颯太はにっと笑って、軽く俺の肩を叩いた。
「ほら、早く戻ろうぜ。ニヤけ顔直さねぇと、また女子に何か言われんぞ」
......そう言われても、たぶん直らない。
だって今、俺は最高に幸せだから。
颯太はふっと息を吐くと、急に俺の顔を覗き込んできた。
「......これくらい、許せよ」
そう言って、軽く俺の頬に唇を触れさせた。
「っ――」
一瞬、頭が真っ白になる。
颯太はいつもの笑顔を浮かべながら肩をすくめた。
「じゃ、俺先戻るわ」
呆然と立ち尽くす俺を置いて、颯太は廊下の向こうへと歩いていく。
......び、びっくりしたぁ。
いやいや、今の絶対まずいだろ。
もし誰かに見られてたら――黒瀬に、絶対怒られる......。
そう思いながら振り返った瞬間。
そこには。
――笑顔を浮かべながら、目だけ全然笑ってない黒瀬が立っていた。
「っ......!」
驚く俺の腕を、黒瀬は何も言わずにぐいっと掴む。
「お、おい黒瀬......!」
抵抗する間もなく、ずんずん引っ張られていく。
連れていかれた先は、校舎の端――いつもの人通りの少ない階段。
ドクンと心臓が跳ね上がる。
黒瀬の手の力が強すぎて、言葉が出てこない。
階段の踊り場で足を止められると、黒瀬はようやく手を離した。
だけど、笑顔はそのままなのに――目が全然笑ってない。
「......楽しそうだったな」
「え、ちょっ、誤解――」
「俺、さっきの見ちゃったんだけど」
背筋がぞくっとする。
黒瀬の声は優しいのに、妙に低くて、いつもと違う。
階段の踊り場で黒瀬がさっと腰を下ろす。
次の瞬間、俺はその上に座らされて――ぎゅっと抱き寄せられる。
「っ......!」
体が密着するだけで、息が詰まる。
黒瀬の唇が、俺の唇に重なる。
柔らかくて甘い感触に、思わず声が漏れそうになる。
「付き合って初日から浮気か?」
「違っ、あれは......颯太が勝手に......!」
「お前.......なんであんなに無防備なんだよ」
肩越しに首筋へと唇を滑らせられる。
思わず小さく声が出る。
「......それは......ごめん、けど」
「俺だって我慢してたのに」
今度は頬に軽くキスされて、また首筋へ。
熱い吐息が頬をなぞって、俺の体はもう言うことをきかない。
息を整えようとしても、黒瀬の視線に捕まるたびに胸がドクドクして、心臓が暴れ出す。
......ああ、こんなに甘くて幸せで、でも少し切ないの、もうどうしようもない。
「黒瀬、ほんとに違うんだ!」
抱きしめられたまま、必死に声を上げる。
胸が苦しくて、どうしても伝えたかった。
「俺、颯太に......“黒瀬と付き合った”って、伝えただけなんだ。 それで、今まで気づけなくてごめんって言ったら......あいつが勝手に......!」
黒瀬の動きが、ふっと止まる。
俺の言葉を飲み込むみたいに、じっと見つめてくる。
「......ほんとに?」
「ああ! 信じろよ......俺が好きなのは、黒瀬だけだから!」
言った瞬間、顔が熱くなる。
でも嘘じゃない。
胸の奥から勝手にこぼれ落ちた言葉だった。
黒瀬は少し黙ったあと、ふっと力を抜いた。
目元の険しさが溶けて、代わりに切なそうな笑顔になる。
「......そっか。夏希がそう言うなら......信じる」
「当たり前だろ。俺......黒瀬にだけ、こんな顔してんだから」
そう言った途端、黒瀬の腕の力が強くなる。
ぎゅうっと抱きしめられて、耳元に低い声が落ちてきた。
「......ごめん。俺、夏希のことになると余裕ねぇな」
胸の奥がじんわり熱くなる。
怒ってたのに、こんな言い方されたら......ずるい。
「うん。でも......ちょっとだけ、嫉妬してくれるの......悪くないかも」
「は?」
驚いた顔をして、それからふっと笑う。
いつもの優しい黒瀬に戻っていて、胸があったかくなる。
「......ほんと、かわいいよな。夏希は」
「だから可愛いって言うなって!」
顔が真っ赤になるのを誤魔化すように、俺は思い切り黒瀬の胸を叩いた。
でも、その胸の温かさを離れる気にはなれなかった。
黒瀬の腕の力がようやく緩んで、俺はほっと息を吐いた。
でも胸の奥は、まだどきどきして落ち着かない。
「......黒瀬」
呼ぶと、黒瀬は小さく首をかしげて俺を見てくる。
さっきまでの嫉妬まじりの視線じゃなくて、今はただ――俺の顔を確かめるみたいに。
「......ごめんな。夏希のこと疑ったわけじゃないけど......」
「うん」
「夏希が誰かに触れられるの、やっぱり無理だ」
その低い声に、胸がじんわり熱くなる。
ずるい。そうやって本音を真っ直ぐぶつけられると、何も言えなくなる。
「俺だって......嫌だよ。黒瀬が他の女子に笑ってんの」
「えっ」
「......すげー、モテるし。内緒って言ってたときも、正直、心臓ばくばくだった」
顔が熱い。言ってから、もう取り消したいくらい恥ずかしい。
でも黒瀬は、驚いたあと――すぐに嬉しそうに笑った。
「......そっか。じゃあ、おあいこだな」
「......おあいこ?」
「俺も嫉妬する。夏希も嫉妬する。だったら、同じだろ」
そう言って、また俺の髪をぐしゃっと撫でてくる。
指先がやけに優しくて、胸の奥がまた熱くなる。
「......じゃあ、これからはちゃんと言えよ」
「......うん」
「不安になったときとか、ヤキモチ焼いたときとか。俺は聞きたい。夏希が何を感じてるか、もっと知りたい」
そのまっすぐな視線に、息が詰まる。
......本当、逃げ場がない。
「......わかった」
頭をぽんっと撫でられて、思わずむっとする。
でも、その笑顔を見てたら反論できなくて――気づいたら、俺まで笑ってた。
◆
放課後。
いつものように一緒に並んで歩いて、校門を出る。
西日に照らされた道を、部活帰りの声や自転車のベルが通り抜けていった。
ふと、横にある掲示板の前で黒瀬が足を止める。
「......あ」
つられて視線をやると、大きなポスターが貼ってあった。
――花火大会。来週の土曜日。
「なあ、夏希」
「ん?」
「一緒に行かね? これ」
軽い調子で言うのに、その横顔はどこか期待してるみたいで。
胸がくすぐったくなる。......けど。
「あ......」
声が詰まった。
そういえば、その日はもう地元の友達と行く約束をしてたんだった。
「どうした?」
黒瀬が首をかしげる。
俺は慌てて笑ってごまかした。
「いや、その日さ......地元のやつと行くって、ちょっと前から決まってて」
「......そうなんだ」
一瞬、黒瀬の表情がわずかに曇る。
胸がぎゅっと痛む。
「ごめん、やっぱ断る! 黒瀬と行く方が――」
慌てて口走ったとき、黒瀬はふっと笑った。
いつもの柔らかい笑顔で。
「いいよ。地元の友達なんだろ?」
「え......でも」
「友達との約束、大事にしろよ。俺は夏希の彼氏だから......別に焦らなくても、チャンスはいくらでもあるし」
軽く言うのに、胸に響いて。
なんだよ、そういうとこ......ずるい。
俺は思わず俯いて、呟いた。
「......じゃあ、また今度。違う祭りとか、黒瀬と一緒に行きたい」
口に出した瞬間、胸が熱くなる。
黒瀬はほんの一瞬驚いた顔をして――すぐに、あの柔らかい笑顔を見せた。
「......絶対な」
夕焼けに照らされた横顔がやけにまぶしくて、目を逸らした。
けど、心臓はさっきからずっと跳ねっぱなしだ。
花火のポスターが風に揺れる。
次の約束を胸にしまい込んで、俺たちは並んで歩き出した。
祭り当日。
薄暗くなり始めた外へ出ると、空気がいつもよりざわついている気がした。中学校の正門前が集合場所だ。少し遅れて駆け足で向かうと、もう二人とも来ていた。
「おせーよ!」
先に見つけた陽翔が、笑いながら声を張る。
「悪い悪い!」息を整えつつ合流すると、自然と肩を並べる形になった。
そのまま三人で足を向けた先は、毎年恒例の地元最大の祭り。
「まじでこのメンバー久しぶりだな。最後に会ったの、五か月前とかだろ?」
樹が笑いながら言う。
「ほんとそれ。この祭りなかったら、俺ら会わないんじゃねぇーの?」
俺たちは中学からの仲間だけど、今は三人とも別々の高校に通っている。だからこうして顔を合わせるのは、思ってる以上に難しい。
「そういやさ、聞いてくれよ。俺、この前......」
始まったのは近況報告。部活の話、クラスの話、恋バナ。くだらないのに、どうしようもなく懐かしい。
そうして笑い合っているうちに、祭りの会場にたどり着いた。
「......うわ、やっぱ人すげぇ」
「迷子になるなよー」
色とりどりの提灯、漂う屋台の匂い、押し寄せる人波。
ここは地元でいちばん大きな祭りだ。遠くからも人が集まってきて、通りは賑わいと熱気で埋め尽くされている。俺たちにとって、この祭りはもう毎年の恒例行事。
――ただ、それが「当たり前」じゃなくなっていることに、少しだけ胸がきゅっとする。
屋台の明かりが並ぶ通りに出ると、甘い匂いと焼けた醤油の香ばしさが風に混ざってくる。
「お、たこ焼き! 絶対食う」陽翔がいきなり列に吸い込まれそうになるのを、樹が肩を掴んで止めた。
「まだ始まったばっかだろ。先に一周してからだ」
「えー、腹減って死ぬ」
「死なねぇよ」
くだらないやりとりに思わず笑ってしまう。ほんと、この感じ、懐かしい。
そうして屋台をひやかしながら笑っているうちに、花火の時間が近づいてきた。さっきよりもさらに人が増えてきて、歩くのもやっとだ。
イカ焼きを頬張りながら、陽翔がふとつぶやく。
「そういえばさ――影山、お前の学校に転校したんだろ?」
「......影山?」
思わず首を傾げる。知らない名前だ。
「あれ、違ったっけ? 健太が言ってたんだけど」
陽翔が目を丸くする。健太は同じ高校に通うやつで、陽翔と仲がいい。でも、俺はほとんど話したことがない。
――転校生? そんなやつ、いたっけ......?
「影山って、あの小学校の頃のだろ?」
隣で樹が会話に入ってくる。
「そうそう!」と陽翔が頷く。
「お前、仲良くしてなかったか?」
「だよな、俺もそのイメージだったわ」
言われるたびに混乱が深まる。小学校の頃の影山......? そんなやつ、いたか?
「......名前、なんだよ」
思わず聞き返すと、陽翔はイカ焼きの串を持ったまま、うーんと考え込む。
そして、ぱっと顔を上げた。
「あっ! ......思い出した。零だ!」
その瞬間、胸の奥で何かが強く脈打った。
影山零――。
その名前に、胸の奥がざわつく。
頭の片隅に、忘れていたはずの記憶が少しずつ蘇りはじめた。
もしかして......影山零って――黒瀬のこと、なのか?
けど、俺の知ってる影山は大人しくて、どこにでもいるような普通のやつだった。
今の黒瀬とはどうしても結びつかない。
「そういえばさ、苗字変わったって言ってたな」
陽翔の何気ない一言に、心臓が一瞬止まった気がした。
「......黒瀬?」
無意識に声が漏れる。
「そうそう!」
陽翔があっけらかんと笑う。
――やっぱり。
目の前の祭りの喧騒が、一瞬遠くへ引いていくような感覚に襲われた。
――来年は、一緒に花火を見よう。
あの日、影山零と交わした小さな約束。
忘れていたはずのその言葉が、鮮やかに蘇った瞬間――胸の奥が熱くなる。
「......っ!」
気づけば体が勝手に動いていた。
屋台の灯りが揺れる人混みの中を、俺はただ前へ走る。ざわめきも視界も何もかも遠のいて、頭の中を占めているのは黒瀬のことだけだった。
「おい! 夏希!?」
「どこ行くんだよ!」
背中の方で、陽翔と樹の声が聞こえた。呼び止められても、振り返る余裕なんてない。
黒瀬――。
あいつは、最初から俺のことを知っていた。
なのに、なんで。なんで、何も言わなかったんだよ......!
胸の奥で何かが弾けるように熱くなり、足は止まらなかった。
息が詰まるほど走りながら、俺はただその名前を心の中で呼び続けていた。



