ちゃんと向き合う――そう決めてから、もう一週間が経った。
あの夜以来、毎晩のように公園に行くのが、いつの間にか日課になっていた。
向き合うとは言った。
......けど、あれからの黒瀬との距離感は、正直おかしいと思う。
「俺ら、付き合ってないよな?」
あまりにも不自然な状況に、思わず確認する。
黒瀬は笑いもせず、あっさりと答えた。
「付き合ってないね」
「付き合ってない人たちは、こんなことしないんじゃないでしょうか」
場所は学校の西校舎の外れ。昼休み、人通りのない階段。
黒瀬は俺を抱きしめるように、ぴったりとくっついていた。
「そんなんじゃ弁当食べれないだろ」
抗議めいた声を出すが、黒瀬は肩越しに俺を見て、口元だけで笑った。
――昼間の爽やかな笑顔とも、夜の挑発的な笑みとも違う、どこか反則みたいな顔で。
何が悔しいって、謎にピッタリ収まってしまっているこのサイズ感。
俺は諦めてコンビニで買った新商品、たっぷりカスタードクリームを頬張っていた。
口の端にクリームがついているのに気づかず、ぼんやりしていると――
「......なあ」
黒瀬が突然手を伸ばして、俺の頬を優しく掴んだ。
そのままぐっと引き寄せられて、一気に距離が縮まる。
次の瞬間、黒瀬の舌が俺の唇の端をそっとなぞった。
「な、な......お前、誰か見てたらどうするんだよ!」
慌てて辺りを見回すけど、階段の裏は人影もなく静かだった。
「こんなとこ、誰も来ねぇよ」
黒瀬は得意げに笑いながら、さらに少しだけ顔を近づけてくる。
――やっぱり、こいつは危険だ!
俺は菓子パンの袋と一緒にビニール袋を握りしめ、そのまま立ち上がった。
「教室、戻るからな!」
「まだ早いだろ?」
「ここから遠いからいいんだよ!」
ほとんど逃げるように階段を降り、早足で歩き始める。
教室に戻ると、颯太がもう席に座っていた。
もともと今日、ふたりで食べていたのは、颯太が部活の集まりでいなかったからだ。
「夏希、お前どこで食べてたんだ?」
「あー、えっと......」
「俺とふたりで食べてたんだよ」
後ろから黒瀬の声が割り込んできた。
何気ない一言のはずなのに、ふたりの間にピリッとした空気が走る。
......なんでだろ、やっぱりこのふたり、仲悪そうなんだよな。
「おーい、黒瀬ー!」
廊下から呼ばれて、黒瀬は一度だけ俺を見てから出ていった。
残された教室で、颯太が机に肘をつきながら俺を見上げる。
「お前、最近黒瀬と仲良いよな」
「まぁ、隣の席だし?」
「俺は部活忙しくて全然遊べてなかったからなぁ」
そう言って颯太はわざとらしく膨れる。
「あっ、そうそう! 来週の土曜日、クラスの奴らで海行こうってなってて。夏希、来れるか?」
「来週は何もないから行けるよ」
「お前、基本暇だろ」
「うるせーな」
笑いながら軽く突っ込む。
それでも、颯太の口元にはわずかに得意げな色が混じっていた。
「もう海の時期か。でもまだちょっと早くないか?」
「混むよりいいだろ。最近、暑いし」
そう言った通りにこの1週間は一気に暑くなり、あっという間に約束した土曜日になった。
朝から太陽は高く、海は眩しいほどに輝いていた。青い空に浮かぶ白い雲がゆっくり流れ、波音が心地よく耳を撫でる。海岸はすでに人で賑わい、潮風に乗って笑い声が響いていた。
「海、来たーー!!!」
みんな一気にテンションが上がって、次々と海へ向かって駆け出した。
「よっしゃ、行くぞ!」
俺もそう叫んで、全力で海面へ飛び込んだ。水しぶきが四方に広がり、冷たさが体中を突き抜ける。
「おい、夏希! こっち来いよ!」
颯太が手を振る。俺は波の間を泳ぎながら笑顔を返した。みんなで潜っては顔を出し、砂浜に戻ってははしゃぎ合う。
でも問題がひとつ―――
「黒瀬、どこまで行けるか勝負しようぜ!」
みんなが盛り上がる中、俺はふと視線を黒瀬に向けた。笑顔で輪の中にいる黒瀬と目が合いそうになった瞬間、
あっ、また逸らした。
ずっと俺のことを避けてる気がして、近づこうとすると必ず顔を背けられる。
(なんでだよ......)
不意に波が大きくなり、俺はふざけて黒瀬の近くに泳ぎ寄った。
「なあ、黒瀬」
「ん、どうしたんだ?」
俺に対しても、どこか作り笑いを浮かべながら返事をする。
「俺のこと、なんか避けてないか?」
「そんなことないよ」
そう言って笑った直後、男子が黒瀬を呼びに来た。
砂浜に座って休んでいると、黒瀬がちらりと俺を見た。わずかに目が合った瞬間、黒瀬はすぐに視線をそらす。
(......やっぱり避けてる)
俺が話しかけようとすると、すっとかわされる。
目も合わせてくれない。
あいつは女の子にはニコニコしているのに、なんで俺だけ避けるんだよ。
俺のこと、好きなんじゃなかったのか......そんな思いがよぎるけど、同時になんだかイライラも募っていく。
「あー、なんで俺がこんなに悩まなきゃいけないんだ!」
自分に言い聞かせるように、俺は気持ちを振り切った。
「もういいや、気にせず遊ぼう」
そう心に決めると「夏希ビーチバレーしようぜ!」と誘われて「今、行く!」と俺は走り出す。
ビーチバレーで盛り上がっていた俺は、勢いよくスパイクを打とうと飛んだ。
爽快な音が響き渡る――が、着地した瞬間、左足がぐらついた。
「っ......!」
バランスを崩して、そのまま尻をついてしまった。
「夏希、大丈夫か!」
「完全にグネってたな」
すぐにみんなが心配して駆け寄って来た。
「うん、大丈夫。ちょっと捻っただけだし」
そう笑って立ち上がろうとしたけど、じわじわと痛みが広がってくるのを感じていた。
そのとき、突然背中から支えられた感覚がして、体がふわっと宙に浮く。
「うわぁっ!!」
驚いて振り向くと、黒瀬が腰に腕を回して軽々と抱え上げていた。
「俺が救護室に連れてくよ」
周囲に向かっては穏やかに言う黒瀬の声。俺は恥ずかしくて、体をばたつかせる。
「ちょっと、おい! このくらい大丈夫だから、放せよ!」
必死に抵抗する俺の耳元で、黒瀬が低く囁く。
「じっとしてろ」
「っ――」
その声に抗えず、俺は黙って黒瀬に身を任せた。
救護室の扉を開けると、看護師さんがすぐに足首を診てくれた。
「軽い捻挫だね。今、歩けるかな?」
俺が頷くと、看護師さんは湿布を取り出して丁寧に貼ってくれた。
「今日はもう安静にしておいてね。無理はしないように」
少しホッとしながら、救護室の中を見回すが、黒瀬の姿はもうなかった。
気になって探しに出る。
すると隅の方から、クラスの女子の声が聞こえてきた。
「せっかく黒瀬くんと話してたのに、上野のせいで行っちゃったね」
俺は思わず耳をそばだてる。俺のことは呼び捨てかよ......。
「ほんとそれ。帰りもいつも一緒だし、正直、邪魔だよね」
「なんで黒瀬くんと一緒にいるんだろう」
その言葉に、俺は軽く苦笑いを浮かべた。
まあ、そうだろうな。女子からすれば俺のことは邪魔なんだろう。
少しすると、女子たちの話がピタリと止まる。
俺は不思議に思って振り返ると、いつの間にか黒瀬がそこに立っていた。
みんなは気まずそうに視線を泳がせる。
「あ、黒瀬くん......」
黒瀬はニコニコと笑みを浮かべていたが、その口元が少し引き締まる。
「俺、そういうこと言う子、嫌いだなぁ」
その言葉に、顔の笑みがほんの少しだけ険しく変わった。
「私たち、そういう意味で言ったんじゃ、ね?」
慌てて女子たちが言い訳をし、みんなもうんうんと頷く。
「俺は好きで夏希くんといるから、邪魔しないでね」
そう言い放つと、みんなは軽く笑って一目散にその場から逃げていった。
俺は思わず黒瀬の腕を掴んだ。
「逃げんなよ」
その言葉に、黒瀬は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
海の砂は熱くて、裸足の足の裏にじんわり響く。俺たちは少し離れたところで二人きりになっていた。
「足、大丈夫なのかよ」
しばらく続いた静寂を破ったのは黒瀬だった。
俺は黒瀬のラッシュガードを強く握り、ぐっと引き寄せた。
「なんで俺のこと避けてんだよ! 好きだったんじゃねぇのかよ!」
そんな俺を見て、黒瀬は一瞬戸惑ったように視線を逸らす。
「......なんなんだよ」
(もう俺のこと、興味ねぇってか......)
俺は意地を張って、声を強める。それでも黒瀬は黙ったまま答えようとしなかった。
「じゃあ、もういい。女子とでも楽しく話してろよ」
すると、離そうと緩めた俺の手を、黒瀬がふっと握り返した。少し照れたように耳を赤くしてから、小さな声で言った。
「我慢するのに......必死なんだよ」
「......我慢?」
思わず顔を上げると、黒瀬は真剣な眼差しで続けた。
「お前、忘れてるみたいだけど俺、お前のこと好きなんだぞ」
その言葉が胸にじんわりと響く。
「好きなやつが、そんな格好してたら......触りたくなるし、他のやつといさせたくねぇって思うだろ」
耳がほんのり赤く染まっているのが分かった。普段は見せない、どこか余裕のない表情――
(こいつ、ほんとうに俺のこと好きなんだな......)
目を逸らしながらも、じっと俺の手を握り返すその指先から、確かな気持ちが伝わってきた。
なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
いつもとは違う黒瀬、少し弱さの見える顔を見て、俺は思わず調子に乗った。
「なんか黒瀬耳、赤くない?」
俺はいつものやり返しにニヤリと近づくと、黒瀬はすっと距離を取る。
「うるせぇよ......」
でも、その声はどこか頼りなげで、俺にはそれが逆にかわいく思えた。
俺は調子にノリ、ふざけてからかっていると、足元が砂で滑る。
「うわぁっ!」
危うく転びそうになる俺を、黒瀬がすっと腕を伸ばして支えようとした。
けれど、力の加減が合わずに二人してバランスを崩し、ざぶんと波打ち際の浅瀬へ倒れ込んだ。
水しぶきが上がり、しばらくの間、海の音と波のさざめきだけが辺りに響く。
ゆっくりと目を開けると、目の前には黒瀬の顔がある。黒瀬の体の上に押し倒されている格好だった。
濡れた長い髪が、俺の顔や肩にさらりと降り注ぐ。
太陽の光を浴びて、その髪はキラキラと輝いていた。
筋肉の感触と近さに耐えられず、俺は咄嗟に視線を逸らした。
呼吸が少し早くなるのを感じる。
すると、黒瀬が低い声で囁いた。
「......キスしてもいいか?」
その言葉に、心臓が跳ね上がる。
なんて答えればいいんだよ......。
言葉が出ず、ただ黙ってしまった俺の沈黙を、黒瀬は肯定だと受け取ったらしい。
ゆっくりと、指が俺の頬に触れる。
そのまま唇が近づき、柔らかく重なる感触。
あの時とはまた違う甘い温もりに、俺は思わず目を閉じてしまった。
キスが深くなる瞬間、黒瀬の舌が唇の間に滑り込んできた。
その感触のあまりの突然さに、「んっ!」と小さく叫びながら跳ね起きる。
周囲の波の音や潮の香りが、急に意識の外へ押しやられた気がした。
慌てて両手で彼の口元を塞ぎ、動揺を隠せない。
「お前、今、舌......!」
パニックの俺を見て、黒瀬は一瞬驚いたように目を見開く。
だがすぐに両手をそっと握り返し、細めた目で優しく「ちゅっ」と唇を軽く重ねた。
その一瞬の仕草に、心臓がまた激しく波打った。
深く息を吸い込み、まだ高鳴る鼓動を感じながら体を起こす。
肌にまとわりつく塩気の混ざった潮風が、汗ばんだ頬を優しく冷やしていった。
「そろそろ戻らないとな」
黒瀬がそう言ってゆっくり立ち上がった。俺も体を起こし、まだ鼓動が早いまま少しふらつきながら歩き出す。
背中越しに見る黒瀬の姿は、さっきまでの軽やかな態度とは違って、どこか柔らかく見えた。
胸の奥がざわつくのを感じて、どうしようもなく気持ちが揺れているのがわかった
「好き」かどうかまだわからないけど、あの瞬間の温もりや、唇に触れられた感覚が、胸の奥に強く残っている。
今こうして触れられていて、どこか安心している自分に気づいた。
黒瀬が他の誰かと楽しそうにしているのを見ると、心がざわついて、少しだけ嫉妬した自分がいた。その感情が嘘じゃなかったと認めざるを得なかった。
キスを拒めなかったのも、ただの迷いじゃない。確かに、心が揺れているんだ。
夏の海風が背中を撫で、少し熱くなった頬を冷やす。
黒瀬はほんの少し足を止め、風に揺れる髪をかきあげながら、優しく俺の名前を呼んだ。
「夏希」
その声が、風に溶けて優しく届く。俺の胸に小さな火が灯った。
あの夜以来、毎晩のように公園に行くのが、いつの間にか日課になっていた。
向き合うとは言った。
......けど、あれからの黒瀬との距離感は、正直おかしいと思う。
「俺ら、付き合ってないよな?」
あまりにも不自然な状況に、思わず確認する。
黒瀬は笑いもせず、あっさりと答えた。
「付き合ってないね」
「付き合ってない人たちは、こんなことしないんじゃないでしょうか」
場所は学校の西校舎の外れ。昼休み、人通りのない階段。
黒瀬は俺を抱きしめるように、ぴったりとくっついていた。
「そんなんじゃ弁当食べれないだろ」
抗議めいた声を出すが、黒瀬は肩越しに俺を見て、口元だけで笑った。
――昼間の爽やかな笑顔とも、夜の挑発的な笑みとも違う、どこか反則みたいな顔で。
何が悔しいって、謎にピッタリ収まってしまっているこのサイズ感。
俺は諦めてコンビニで買った新商品、たっぷりカスタードクリームを頬張っていた。
口の端にクリームがついているのに気づかず、ぼんやりしていると――
「......なあ」
黒瀬が突然手を伸ばして、俺の頬を優しく掴んだ。
そのままぐっと引き寄せられて、一気に距離が縮まる。
次の瞬間、黒瀬の舌が俺の唇の端をそっとなぞった。
「な、な......お前、誰か見てたらどうするんだよ!」
慌てて辺りを見回すけど、階段の裏は人影もなく静かだった。
「こんなとこ、誰も来ねぇよ」
黒瀬は得意げに笑いながら、さらに少しだけ顔を近づけてくる。
――やっぱり、こいつは危険だ!
俺は菓子パンの袋と一緒にビニール袋を握りしめ、そのまま立ち上がった。
「教室、戻るからな!」
「まだ早いだろ?」
「ここから遠いからいいんだよ!」
ほとんど逃げるように階段を降り、早足で歩き始める。
教室に戻ると、颯太がもう席に座っていた。
もともと今日、ふたりで食べていたのは、颯太が部活の集まりでいなかったからだ。
「夏希、お前どこで食べてたんだ?」
「あー、えっと......」
「俺とふたりで食べてたんだよ」
後ろから黒瀬の声が割り込んできた。
何気ない一言のはずなのに、ふたりの間にピリッとした空気が走る。
......なんでだろ、やっぱりこのふたり、仲悪そうなんだよな。
「おーい、黒瀬ー!」
廊下から呼ばれて、黒瀬は一度だけ俺を見てから出ていった。
残された教室で、颯太が机に肘をつきながら俺を見上げる。
「お前、最近黒瀬と仲良いよな」
「まぁ、隣の席だし?」
「俺は部活忙しくて全然遊べてなかったからなぁ」
そう言って颯太はわざとらしく膨れる。
「あっ、そうそう! 来週の土曜日、クラスの奴らで海行こうってなってて。夏希、来れるか?」
「来週は何もないから行けるよ」
「お前、基本暇だろ」
「うるせーな」
笑いながら軽く突っ込む。
それでも、颯太の口元にはわずかに得意げな色が混じっていた。
「もう海の時期か。でもまだちょっと早くないか?」
「混むよりいいだろ。最近、暑いし」
そう言った通りにこの1週間は一気に暑くなり、あっという間に約束した土曜日になった。
朝から太陽は高く、海は眩しいほどに輝いていた。青い空に浮かぶ白い雲がゆっくり流れ、波音が心地よく耳を撫でる。海岸はすでに人で賑わい、潮風に乗って笑い声が響いていた。
「海、来たーー!!!」
みんな一気にテンションが上がって、次々と海へ向かって駆け出した。
「よっしゃ、行くぞ!」
俺もそう叫んで、全力で海面へ飛び込んだ。水しぶきが四方に広がり、冷たさが体中を突き抜ける。
「おい、夏希! こっち来いよ!」
颯太が手を振る。俺は波の間を泳ぎながら笑顔を返した。みんなで潜っては顔を出し、砂浜に戻ってははしゃぎ合う。
でも問題がひとつ―――
「黒瀬、どこまで行けるか勝負しようぜ!」
みんなが盛り上がる中、俺はふと視線を黒瀬に向けた。笑顔で輪の中にいる黒瀬と目が合いそうになった瞬間、
あっ、また逸らした。
ずっと俺のことを避けてる気がして、近づこうとすると必ず顔を背けられる。
(なんでだよ......)
不意に波が大きくなり、俺はふざけて黒瀬の近くに泳ぎ寄った。
「なあ、黒瀬」
「ん、どうしたんだ?」
俺に対しても、どこか作り笑いを浮かべながら返事をする。
「俺のこと、なんか避けてないか?」
「そんなことないよ」
そう言って笑った直後、男子が黒瀬を呼びに来た。
砂浜に座って休んでいると、黒瀬がちらりと俺を見た。わずかに目が合った瞬間、黒瀬はすぐに視線をそらす。
(......やっぱり避けてる)
俺が話しかけようとすると、すっとかわされる。
目も合わせてくれない。
あいつは女の子にはニコニコしているのに、なんで俺だけ避けるんだよ。
俺のこと、好きなんじゃなかったのか......そんな思いがよぎるけど、同時になんだかイライラも募っていく。
「あー、なんで俺がこんなに悩まなきゃいけないんだ!」
自分に言い聞かせるように、俺は気持ちを振り切った。
「もういいや、気にせず遊ぼう」
そう心に決めると「夏希ビーチバレーしようぜ!」と誘われて「今、行く!」と俺は走り出す。
ビーチバレーで盛り上がっていた俺は、勢いよくスパイクを打とうと飛んだ。
爽快な音が響き渡る――が、着地した瞬間、左足がぐらついた。
「っ......!」
バランスを崩して、そのまま尻をついてしまった。
「夏希、大丈夫か!」
「完全にグネってたな」
すぐにみんなが心配して駆け寄って来た。
「うん、大丈夫。ちょっと捻っただけだし」
そう笑って立ち上がろうとしたけど、じわじわと痛みが広がってくるのを感じていた。
そのとき、突然背中から支えられた感覚がして、体がふわっと宙に浮く。
「うわぁっ!!」
驚いて振り向くと、黒瀬が腰に腕を回して軽々と抱え上げていた。
「俺が救護室に連れてくよ」
周囲に向かっては穏やかに言う黒瀬の声。俺は恥ずかしくて、体をばたつかせる。
「ちょっと、おい! このくらい大丈夫だから、放せよ!」
必死に抵抗する俺の耳元で、黒瀬が低く囁く。
「じっとしてろ」
「っ――」
その声に抗えず、俺は黙って黒瀬に身を任せた。
救護室の扉を開けると、看護師さんがすぐに足首を診てくれた。
「軽い捻挫だね。今、歩けるかな?」
俺が頷くと、看護師さんは湿布を取り出して丁寧に貼ってくれた。
「今日はもう安静にしておいてね。無理はしないように」
少しホッとしながら、救護室の中を見回すが、黒瀬の姿はもうなかった。
気になって探しに出る。
すると隅の方から、クラスの女子の声が聞こえてきた。
「せっかく黒瀬くんと話してたのに、上野のせいで行っちゃったね」
俺は思わず耳をそばだてる。俺のことは呼び捨てかよ......。
「ほんとそれ。帰りもいつも一緒だし、正直、邪魔だよね」
「なんで黒瀬くんと一緒にいるんだろう」
その言葉に、俺は軽く苦笑いを浮かべた。
まあ、そうだろうな。女子からすれば俺のことは邪魔なんだろう。
少しすると、女子たちの話がピタリと止まる。
俺は不思議に思って振り返ると、いつの間にか黒瀬がそこに立っていた。
みんなは気まずそうに視線を泳がせる。
「あ、黒瀬くん......」
黒瀬はニコニコと笑みを浮かべていたが、その口元が少し引き締まる。
「俺、そういうこと言う子、嫌いだなぁ」
その言葉に、顔の笑みがほんの少しだけ険しく変わった。
「私たち、そういう意味で言ったんじゃ、ね?」
慌てて女子たちが言い訳をし、みんなもうんうんと頷く。
「俺は好きで夏希くんといるから、邪魔しないでね」
そう言い放つと、みんなは軽く笑って一目散にその場から逃げていった。
俺は思わず黒瀬の腕を掴んだ。
「逃げんなよ」
その言葉に、黒瀬は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
海の砂は熱くて、裸足の足の裏にじんわり響く。俺たちは少し離れたところで二人きりになっていた。
「足、大丈夫なのかよ」
しばらく続いた静寂を破ったのは黒瀬だった。
俺は黒瀬のラッシュガードを強く握り、ぐっと引き寄せた。
「なんで俺のこと避けてんだよ! 好きだったんじゃねぇのかよ!」
そんな俺を見て、黒瀬は一瞬戸惑ったように視線を逸らす。
「......なんなんだよ」
(もう俺のこと、興味ねぇってか......)
俺は意地を張って、声を強める。それでも黒瀬は黙ったまま答えようとしなかった。
「じゃあ、もういい。女子とでも楽しく話してろよ」
すると、離そうと緩めた俺の手を、黒瀬がふっと握り返した。少し照れたように耳を赤くしてから、小さな声で言った。
「我慢するのに......必死なんだよ」
「......我慢?」
思わず顔を上げると、黒瀬は真剣な眼差しで続けた。
「お前、忘れてるみたいだけど俺、お前のこと好きなんだぞ」
その言葉が胸にじんわりと響く。
「好きなやつが、そんな格好してたら......触りたくなるし、他のやつといさせたくねぇって思うだろ」
耳がほんのり赤く染まっているのが分かった。普段は見せない、どこか余裕のない表情――
(こいつ、ほんとうに俺のこと好きなんだな......)
目を逸らしながらも、じっと俺の手を握り返すその指先から、確かな気持ちが伝わってきた。
なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
いつもとは違う黒瀬、少し弱さの見える顔を見て、俺は思わず調子に乗った。
「なんか黒瀬耳、赤くない?」
俺はいつものやり返しにニヤリと近づくと、黒瀬はすっと距離を取る。
「うるせぇよ......」
でも、その声はどこか頼りなげで、俺にはそれが逆にかわいく思えた。
俺は調子にノリ、ふざけてからかっていると、足元が砂で滑る。
「うわぁっ!」
危うく転びそうになる俺を、黒瀬がすっと腕を伸ばして支えようとした。
けれど、力の加減が合わずに二人してバランスを崩し、ざぶんと波打ち際の浅瀬へ倒れ込んだ。
水しぶきが上がり、しばらくの間、海の音と波のさざめきだけが辺りに響く。
ゆっくりと目を開けると、目の前には黒瀬の顔がある。黒瀬の体の上に押し倒されている格好だった。
濡れた長い髪が、俺の顔や肩にさらりと降り注ぐ。
太陽の光を浴びて、その髪はキラキラと輝いていた。
筋肉の感触と近さに耐えられず、俺は咄嗟に視線を逸らした。
呼吸が少し早くなるのを感じる。
すると、黒瀬が低い声で囁いた。
「......キスしてもいいか?」
その言葉に、心臓が跳ね上がる。
なんて答えればいいんだよ......。
言葉が出ず、ただ黙ってしまった俺の沈黙を、黒瀬は肯定だと受け取ったらしい。
ゆっくりと、指が俺の頬に触れる。
そのまま唇が近づき、柔らかく重なる感触。
あの時とはまた違う甘い温もりに、俺は思わず目を閉じてしまった。
キスが深くなる瞬間、黒瀬の舌が唇の間に滑り込んできた。
その感触のあまりの突然さに、「んっ!」と小さく叫びながら跳ね起きる。
周囲の波の音や潮の香りが、急に意識の外へ押しやられた気がした。
慌てて両手で彼の口元を塞ぎ、動揺を隠せない。
「お前、今、舌......!」
パニックの俺を見て、黒瀬は一瞬驚いたように目を見開く。
だがすぐに両手をそっと握り返し、細めた目で優しく「ちゅっ」と唇を軽く重ねた。
その一瞬の仕草に、心臓がまた激しく波打った。
深く息を吸い込み、まだ高鳴る鼓動を感じながら体を起こす。
肌にまとわりつく塩気の混ざった潮風が、汗ばんだ頬を優しく冷やしていった。
「そろそろ戻らないとな」
黒瀬がそう言ってゆっくり立ち上がった。俺も体を起こし、まだ鼓動が早いまま少しふらつきながら歩き出す。
背中越しに見る黒瀬の姿は、さっきまでの軽やかな態度とは違って、どこか柔らかく見えた。
胸の奥がざわつくのを感じて、どうしようもなく気持ちが揺れているのがわかった
「好き」かどうかまだわからないけど、あの瞬間の温もりや、唇に触れられた感覚が、胸の奥に強く残っている。
今こうして触れられていて、どこか安心している自分に気づいた。
黒瀬が他の誰かと楽しそうにしているのを見ると、心がざわついて、少しだけ嫉妬した自分がいた。その感情が嘘じゃなかったと認めざるを得なかった。
キスを拒めなかったのも、ただの迷いじゃない。確かに、心が揺れているんだ。
夏の海風が背中を撫で、少し熱くなった頬を冷やす。
黒瀬はほんの少し足を止め、風に揺れる髪をかきあげながら、優しく俺の名前を呼んだ。
「夏希」
その声が、風に溶けて優しく届く。俺の胸に小さな火が灯った。



