なぜかピアス男子に溺愛される話

 ちゃんと向き合う――そう決めてから、もう一週間が経った。
 あの夜以来、毎晩のように公園に行くのが、いつの間にか日課になっていた。

 向き合うとは言った。
 ......けど、あれからの黒瀬との距離感は、正直おかしいと思う。

「俺ら、付き合ってないよな?」

 あまりにも不自然な状況に、思わず確認する。
 黒瀬は笑いもせず、あっさりと答えた。

「付き合ってないね」

「付き合ってない人たちは、こんなことしないんじゃないでしょうか」

 場所は学校の西校舎の外れ。昼休み、人通りのない階段。
 黒瀬は俺を抱きしめるように、ぴったりとくっついていた。

「そんなんじゃ弁当食べれないだろ」

 抗議めいた声を出すが、黒瀬は肩越しに俺を見て、口元だけで笑った。
 ――昼間の爽やかな笑顔とも、夜の挑発的な笑みとも違う、どこか反則みたいな顔で。

 何が悔しいって、謎にピッタリ収まってしまっているこのサイズ感。

 俺は諦めてコンビニで買った新商品、たっぷりカスタードクリームを頬張っていた。
 口の端にクリームがついているのに気づかず、ぼんやりしていると――

「......なあ」

 黒瀬が突然手を伸ばして、俺の頬を優しく掴んだ。
 そのままぐっと引き寄せられて、一気に距離が縮まる。

 次の瞬間、黒瀬の舌が俺の唇の端をそっとなぞった。

「な、な......お前、誰か見てたらどうするんだよ!」

 慌てて辺りを見回すけど、階段の裏は人影もなく静かだった。

「こんなとこ、誰も来ねぇよ」

 黒瀬は得意げに笑いながら、さらに少しだけ顔を近づけてくる。

 ――やっぱり、こいつは危険だ!

 俺は菓子パンの袋と一緒にビニール袋を握りしめ、そのまま立ち上がった。

「教室、戻るからな!」

「まだ早いだろ?」

「ここから遠いからいいんだよ!」

 ほとんど逃げるように階段を降り、早足で歩き始める。

 教室に戻ると、颯太がもう席に座っていた。
 もともと今日、ふたりで食べていたのは、颯太が部活の集まりでいなかったからだ。

「夏希、お前どこで食べてたんだ?」

「あー、えっと......」

「俺とふたりで食べてたんだよ」

 後ろから黒瀬の声が割り込んできた。
 何気ない一言のはずなのに、ふたりの間にピリッとした空気が走る。
 ......なんでだろ、やっぱりこのふたり、仲悪そうなんだよな。

「おーい、黒瀬ー!」

 廊下から呼ばれて、黒瀬は一度だけ俺を見てから出ていった。

 残された教室で、颯太が机に肘をつきながら俺を見上げる。

「お前、最近黒瀬と仲良いよな」

「まぁ、隣の席だし?」

「俺は部活忙しくて全然遊べてなかったからなぁ」

 そう言って颯太はわざとらしく膨れる。

「あっ、そうそう! 来週の土曜日、クラスの奴らで海行こうってなってて。夏希、来れるか?」

「来週は何もないから行けるよ」

「お前、基本暇だろ」

「うるせーな」

 笑いながら軽く突っ込む。
 それでも、颯太の口元にはわずかに得意げな色が混じっていた。

「もう海の時期か。でもまだちょっと早くないか?」

「混むよりいいだろ。最近、暑いし」

 そう言った通りにこの1週間は一気に暑くなり、あっという間に約束した土曜日になった。

 朝から太陽は高く、海は眩しいほどに輝いていた。青い空に浮かぶ白い雲がゆっくり流れ、波音が心地よく耳を撫でる。海岸はすでに人で賑わい、潮風に乗って笑い声が響いていた。

「海、来たーー!!!」

 みんな一気にテンションが上がって、次々と海へ向かって駆け出した。

「よっしゃ、行くぞ!」

 俺もそう叫んで、全力で海面へ飛び込んだ。水しぶきが四方に広がり、冷たさが体中を突き抜ける。

「おい、夏希! こっち来いよ!」

 颯太が手を振る。俺は波の間を泳ぎながら笑顔を返した。みんなで潜っては顔を出し、砂浜に戻ってははしゃぎ合う。

 でも問題がひとつ―――

「黒瀬、どこまで行けるか勝負しようぜ!」

 みんなが盛り上がる中、俺はふと視線を黒瀬に向けた。笑顔で輪の中にいる黒瀬と目が合いそうになった瞬間、

 あっ、また逸らした。

 ずっと俺のことを避けてる気がして、近づこうとすると必ず顔を背けられる。

(なんでだよ......)

 不意に波が大きくなり、俺はふざけて黒瀬の近くに泳ぎ寄った。

「なあ、黒瀬」

「ん、どうしたんだ?」

 俺に対しても、どこか作り笑いを浮かべながら返事をする。

「俺のこと、なんか避けてないか?」

「そんなことないよ」

 そう言って笑った直後、男子が黒瀬を呼びに来た。

 砂浜に座って休んでいると、黒瀬がちらりと俺を見た。わずかに目が合った瞬間、黒瀬はすぐに視線をそらす。

(......やっぱり避けてる)

 俺が話しかけようとすると、すっとかわされる。
 目も合わせてくれない。
 あいつは女の子にはニコニコしているのに、なんで俺だけ避けるんだよ。

 俺のこと、好きなんじゃなかったのか......そんな思いがよぎるけど、同時になんだかイライラも募っていく。

「あー、なんで俺がこんなに悩まなきゃいけないんだ!」

 自分に言い聞かせるように、俺は気持ちを振り切った。

「もういいや、気にせず遊ぼう」

 そう心に決めると「夏希ビーチバレーしようぜ!」と誘われて「今、行く!」と俺は走り出す。

 ビーチバレーで盛り上がっていた俺は、勢いよくスパイクを打とうと飛んだ。

 爽快な音が響き渡る――が、着地した瞬間、左足がぐらついた。

「っ......!」

 バランスを崩して、そのまま尻をついてしまった。

「夏希、大丈夫か!」

「完全にグネってたな」

 すぐにみんなが心配して駆け寄って来た。

「うん、大丈夫。ちょっと捻っただけだし」

 そう笑って立ち上がろうとしたけど、じわじわと痛みが広がってくるのを感じていた。

 そのとき、突然背中から支えられた感覚がして、体がふわっと宙に浮く。

「うわぁっ!!」

 驚いて振り向くと、黒瀬が腰に腕を回して軽々と抱え上げていた。

「俺が救護室に連れてくよ」

 周囲に向かっては穏やかに言う黒瀬の声。俺は恥ずかしくて、体をばたつかせる。

「ちょっと、おい! このくらい大丈夫だから、放せよ!」

 必死に抵抗する俺の耳元で、黒瀬が低く囁く。

「じっとしてろ」

「っ――」

 その声に抗えず、俺は黙って黒瀬に身を任せた。

 救護室の扉を開けると、看護師さんがすぐに足首を診てくれた。

「軽い捻挫だね。今、歩けるかな?」

 俺が頷くと、看護師さんは湿布を取り出して丁寧に貼ってくれた。

「今日はもう安静にしておいてね。無理はしないように」

 少しホッとしながら、救護室の中を見回すが、黒瀬の姿はもうなかった。
 気になって探しに出る。

 すると隅の方から、クラスの女子の声が聞こえてきた。

「せっかく黒瀬くんと話してたのに、上野のせいで行っちゃったね」

 俺は思わず耳をそばだてる。俺のことは呼び捨てかよ......。

「ほんとそれ。帰りもいつも一緒だし、正直、邪魔だよね」

「なんで黒瀬くんと一緒にいるんだろう」

 その言葉に、俺は軽く苦笑いを浮かべた。
 まあ、そうだろうな。女子からすれば俺のことは邪魔なんだろう。

 少しすると、女子たちの話がピタリと止まる。
 俺は不思議に思って振り返ると、いつの間にか黒瀬がそこに立っていた。

 みんなは気まずそうに視線を泳がせる。

「あ、黒瀬くん......」

 黒瀬はニコニコと笑みを浮かべていたが、その口元が少し引き締まる。

「俺、そういうこと言う子、嫌いだなぁ」

 その言葉に、顔の笑みがほんの少しだけ険しく変わった。

「私たち、そういう意味で言ったんじゃ、ね?」

 慌てて女子たちが言い訳をし、みんなもうんうんと頷く。

「俺は好きで夏希くんといるから、邪魔しないでね」

 そう言い放つと、みんなは軽く笑って一目散にその場から逃げていった。

 俺は思わず黒瀬の腕を掴んだ。

「逃げんなよ」

 その言葉に、黒瀬は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

 海の砂は熱くて、裸足の足の裏にじんわり響く。俺たちは少し離れたところで二人きりになっていた。

「足、大丈夫なのかよ」

 しばらく続いた静寂を破ったのは黒瀬だった。

 俺は黒瀬のラッシュガードを強く握り、ぐっと引き寄せた。

「なんで俺のこと避けてんだよ! 好きだったんじゃねぇのかよ!」

 そんな俺を見て、黒瀬は一瞬戸惑ったように視線を逸らす。

「......なんなんだよ」

(もう俺のこと、興味ねぇってか......)

 俺は意地を張って、声を強める。それでも黒瀬は黙ったまま答えようとしなかった。

「じゃあ、もういい。女子とでも楽しく話してろよ」

 すると、離そうと緩めた俺の手を、黒瀬がふっと握り返した。少し照れたように耳を赤くしてから、小さな声で言った。

「我慢するのに......必死なんだよ」

「......我慢?」

 思わず顔を上げると、黒瀬は真剣な眼差しで続けた。

「お前、忘れてるみたいだけど俺、お前のこと好きなんだぞ」

 その言葉が胸にじんわりと響く。

「好きなやつが、そんな格好してたら......触りたくなるし、他のやつといさせたくねぇって思うだろ」

 耳がほんのり赤く染まっているのが分かった。普段は見せない、どこか余裕のない表情――

(こいつ、ほんとうに俺のこと好きなんだな......)

 目を逸らしながらも、じっと俺の手を握り返すその指先から、確かな気持ちが伝わってきた。

 なんだか、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

 いつもとは違う黒瀬、少し弱さの見える顔を見て、俺は思わず調子に乗った。

「なんか黒瀬耳、赤くない?」

 俺はいつものやり返しにニヤリと近づくと、黒瀬はすっと距離を取る。

「うるせぇよ......」

 でも、その声はどこか頼りなげで、俺にはそれが逆にかわいく思えた。

 俺は調子にノリ、ふざけてからかっていると、足元が砂で滑る。

「うわぁっ!」

 危うく転びそうになる俺を、黒瀬がすっと腕を伸ばして支えようとした。

 けれど、力の加減が合わずに二人してバランスを崩し、ざぶんと波打ち際の浅瀬へ倒れ込んだ。

 水しぶきが上がり、しばらくの間、海の音と波のさざめきだけが辺りに響く。

 ゆっくりと目を開けると、目の前には黒瀬の顔がある。黒瀬の体の上に押し倒されている格好だった。

 濡れた長い髪が、俺の顔や肩にさらりと降り注ぐ。

 太陽の光を浴びて、その髪はキラキラと輝いていた。

 筋肉の感触と近さに耐えられず、俺は咄嗟に視線を逸らした。

 呼吸が少し早くなるのを感じる。

 すると、黒瀬が低い声で囁いた。

「......キスしてもいいか?」

 その言葉に、心臓が跳ね上がる。

 なんて答えればいいんだよ......。

 言葉が出ず、ただ黙ってしまった俺の沈黙を、黒瀬は肯定だと受け取ったらしい。

 ゆっくりと、指が俺の頬に触れる。

 そのまま唇が近づき、柔らかく重なる感触。

 あの時とはまた違う甘い温もりに、俺は思わず目を閉じてしまった。
 キスが深くなる瞬間、黒瀬の舌が唇の間に滑り込んできた。
 その感触のあまりの突然さに、「んっ!」と小さく叫びながら跳ね起きる。

 周囲の波の音や潮の香りが、急に意識の外へ押しやられた気がした。
 慌てて両手で彼の口元を塞ぎ、動揺を隠せない。

「お前、今、舌......!」

 パニックの俺を見て、黒瀬は一瞬驚いたように目を見開く。
 だがすぐに両手をそっと握り返し、細めた目で優しく「ちゅっ」と唇を軽く重ねた。

 その一瞬の仕草に、心臓がまた激しく波打った。

 深く息を吸い込み、まだ高鳴る鼓動を感じながら体を起こす。
 肌にまとわりつく塩気の混ざった潮風が、汗ばんだ頬を優しく冷やしていった。

「そろそろ戻らないとな」

 黒瀬がそう言ってゆっくり立ち上がった。俺も体を起こし、まだ鼓動が早いまま少しふらつきながら歩き出す。

 背中越しに見る黒瀬の姿は、さっきまでの軽やかな態度とは違って、どこか柔らかく見えた。

 胸の奥がざわつくのを感じて、どうしようもなく気持ちが揺れているのがわかった

「好き」かどうかまだわからないけど、あの瞬間の温もりや、唇に触れられた感覚が、胸の奥に強く残っている。

 今こうして触れられていて、どこか安心している自分に気づいた。

 黒瀬が他の誰かと楽しそうにしているのを見ると、心がざわついて、少しだけ嫉妬した自分がいた。その感情が嘘じゃなかったと認めざるを得なかった。

 キスを拒めなかったのも、ただの迷いじゃない。確かに、心が揺れているんだ。

 夏の海風が背中を撫で、少し熱くなった頬を冷やす。

 黒瀬はほんの少し足を止め、風に揺れる髪をかきあげながら、優しく俺の名前を呼んだ。

「夏希」

 その声が、風に溶けて優しく届く。俺の胸に小さな火が灯った。