教室の窓から、やわらかな朝日が差し込む。
 だけど、なんだか頭がぼんやりと重い。
 ......昨日のことをぐるぐる考えすぎて、ほとんど眠れなかったせいだな。

 席に着くと、すぐに黒瀬と目が合った。
 けれど俺は、その視線を切るようにそっと俯く。
 じっと射抜くような視線が、背中に突き刺さってくるのを感じながら――気づかないふりをした。

 昼休み。
 いつものように弁当を広げると、颯太が箸を持ったまま俺の顔を覗き込んできた。

「夏希、顔色悪くない? 大丈夫か?」

「ちょっと頭痛いけど、平気だよ」

 心配かけないように笑ったつもりだったが、颯太はまだ心配そうに俺を見てくる。

 ......そんなに具合悪そうに見えるのか、俺。

 その時、ふと横から視線を感じた。
 黒瀬が、ちらっと俺のほうを見て――目が合う。
 けど、俺はすぐにぷいっとわざとらしくそらした。

「なんだよ、喧嘩でもしたのか?」

 颯太が冗談めかして言う。

「なんでもない」

 わざとツンとした声を出して、俺は弁当をつつき続けた。

 食べ終わると、なんとなく教室にいたくなくて、トイレへ向かった。

「......さすがに、子供っぽすぎたかな」

 一人、鏡に映る自分の顔を見てそう思う。

(でも、悪いのは俺じゃないし)

 ......てか、あれじゃ、俺がめちゃくちゃ意識してるみたいじゃん!

 鏡の前でため息をついたその瞬間――

 ガシッ。

「わっ!? ちょ――!」

 腕を掴まれ、そのまま個室の前まで強引に引っ張られる。振り返ると、黒瀬がすぐそこに立っていた。

「お前、何して......」

 言いかけた俺の顎に、黒瀬の手がそっと添えられ、顔をぐっと近づけられる。

 やばっ......これ、キスされる......!?

「っ......!」

 反射的に目をぎゅっと閉じる。だけど、唇じゃなくて額に柔らかい温もりが触れた。

 ゆっくり目を開けると、黒瀬の長いまつげが視界いっぱいに広がっていた。

「やっぱ熱あるな」

「......え? 熱......?」

 黒瀬の言葉で初めて自分の体の火照りに気づく。
 黒瀬はにやりと笑って、また距離を詰めてきた。

「なあ、夏希。今、キスされると思っただろ」

「っ――! してねぇ!!」

「耳まで真っ赤でかわいい」

「からかってんじゃねぇ!!」

 俺が押し返そうとしても、黒瀬はびくともしない。
 むしろ腕を軽く回してきて、逃がさない。

「......やめてほしいなら、保健室行くぞ。連れてってやる」

「......っ」

 それ、どっちにしろ逃げられねぇじゃん......!

 結局、俺は黒瀬に腕を掴まれたまま、保健室に向かう。

「先生いないけど勝手に入っていいのか?」

「体調悪いんだから、いいに決まってるだろ」

 保健室のドアを開けると、誰もいない静かな部屋。
黒瀬は迷わずベッドのカーテンを引いて、俺を横にした。

 黒瀬はベッドの脇に座り、静かに俺の顔を覗き込む。

「......あんま寝てないのか?」

 そう言うと、黒瀬の指先がそっと俺の目元をなぞった。

 柔らかくて、どこか優しい感触に思わず息を呑む。

「もとわといえばお前のせいだろ」と俺はぽつりとつぶやいた。

 黒瀬はじっと俺の顔を見つめて、少しだけ間を置いてから、静かに言った。

「俺のせい?」

 それを聞いて、俺は素直に答えた。

「お前のこと考えてたら、寝れなかったんだよ」

 すると黒瀬は、ふっと笑みを浮かべて、

「ずっと俺のこと考えてたんだ」

 黒瀬の言葉に思わず顔が熱くなる。慌てて反対側に顔を向けるけど、心臓のドキドキは止まらない。

 後ろから黒瀬の手がそっと伸びてきて、優しく頭を撫でられた。

「先生には言っとくから、ちゃんと寝とけよ」

 その声がなんだか柔らかくて、胸の奥がじんわり温かくなる。

 こんなふうに頭撫でられたの、いつぶりだろう......?

 考えているうちに、安心感がどんどん広がっていって、瞼が重くなっていった。

 黒瀬のぬくもりを感じながら、自然と眠りに落ちていく自分がいた。



 しばらくして、ふと目を覚ました。

 目を開けると、視界の中にはすぐそこに横たわっている黒瀬が飛び込んでくる。

「なっ......!」思わず声にならない驚きが胸を突き上げる。

 こいつ......寝てるのか?
 よく見ると、黒瀬は静かに寝息をたてていた。
 でも、なんでこいつまで寝てるんだよ......と思いながら、つい顔をじっと見つめてしまう。

(あっ、ピアス)

 きらりと光るピアスがひとつだけ、耳に付いていた。
 長い髪で隠してたんだな。
 よく見ると、ピアスの穴の跡がたくさんあって、痛くないのかと少し心配になった。

 思わず、腕をそろーりと伸ばしてピアスに触れようとしたその時、

「なにしてんだ?」

 黒瀬が目を覚まして驚き、腕をすっと引っ込めた。

「いつから起きて......」

「もしかして、俺、寝込み襲われてた?」

「そんなわけあるか!」

 黒瀬はクスリと笑いながら、声を少し落として言う。

「そんなでかい声出るなら、もう大丈夫だな」

 確かに、さっきまで感じていただるさも、頭の痛みもすっかり消えていた。



 放課後、昇降口で靴を履き替えていると、背後から声がした。

「夏希、帰んぞ」

 振り返ると、黒瀬がいつもの片手ポケットのまま立っている。
 ......なんで当たり前みたいな顔して待ってんだよ。

「別に一緒に帰るなんて――」

「言ってねぇけど、俺がそうしたい」

 俺の返事なんか無視して、黒瀬は歩き出す。結局、俺も小走りで追いつく形になった。

 並んで歩くと、夕方の風が少し冷たくて、頬をくすぐった。
 さっきまでの保健室のことを思い出すと、なんとなく胸がくすぐったくなる。

「あのさ......」

 少し間を置いて、俺は小さく呟いた。

「......今日は、ありがと」

 黒瀬が横目で俺を見て、少し口角を上げた。

「へぇ、素直じゃん」

「うるせぇ」

 言いながら、なんかもう顔が熱い。
 やっぱり言わなきゃよかったかもしれない。

 そう言った俺に、黒瀬は前を見たまま、少しだけ笑った。
 そして、不意に声のトーンを落とす。

「......いいよ。俺が夏希に優しくするのに理由なんて一つしかないし」

「なんだよ?」

 ちらりとこちらを見て、にやりと口元だけ笑う。

「下心があるから」

「......し、下心って!」

 思わず声を上げると、黒瀬はますます楽しそうに笑った。
 その横顔が、夕日に照らされてやけに鮮やかに見える。

「お前、ほんと分かりやすいな」

「からかうなよ!」

 俺が呆れた声を出すと、黒瀬はふっと目を細めて笑った。
 その笑顔は、学校でクラスメイトに向けるときみたいな、作り物の笑顔じゃない。
 本当に楽しそうで――なんか、胸の奥がざわつく。

(......いや、ちょっと待て。いいやつかもって、昨日の今日で思うとかチョロすぎだろ、俺)

 そう自分に突っ込みながらも、つい横顔をじっと見てしまう。
 まったく、あいつは無自覚に俺の心をかき乱す。

 気づけば、あっという間に家の前まで来ていた。

「また明日な」

 黒瀬が振り返りながら嬉しそうに手を振った。
 その元気な声に、俺も思わず笑って返す。

「あぁ」

 自然に交わした言葉が、なんだかいつもより温かく感じられた。

 家に帰ると、リビングで冬弥が珍しくテレビに集中していた。
 声をかけてみたが、冬弥はまるで聞こえていないかのように無視した。

「なあ、冬弥」

 俺は少しだけ声のトーンを落として、思い切って訊いた。

「黒瀬って、夜はいつも一緒にいるのか?」

 冬弥はちらりとテレビから視線を逸らして、短く答えた。

「最近会ったばっかで、よく知らねぇ......」

 言葉少なで、部屋にぎこちない空気が漂う。
 思春期特有の、兄弟ならではの微妙な距離感だった。

「......そうか」

 俺もそれ以上は言わず、視線をテレビに戻した。

 しばらくすると保育園の妹が駆け寄ってきて、両手を広げて俺に駆け寄ってくる。

「お兄ちゃん、いっしょに遊ぼ!」

「おう、いいよ。今日は何して遊ぶ?」

 妹は満面の笑みでぴょんぴょん跳ねながら、リビングのクッションを指差す。

「かくれんぼしよ!」

 俺が笑って頷くと、そこへ小学生二年生の弟がノートと鉛筆を持って現れた。

「お兄ちゃん、わかんないとこ教えて!」

 そして俺を取り合うように、二人がそれぞれ手を引っ張ってくる。

 妹は不満そうに「いや、お兄ちゃんは私の!」と言い張る。

 弟も負けじと「俺のほうが先に教えてもらうんだ!」と譲らない。

 俺は笑いながら、「よし、二人とも順番な」と言って仲裁しつつ、わちゃわちゃした二人の間に挟まれた。

 やっと全てのことが終わり、部屋でひと休みする時間が訪れた。
 最近の暑さに耐えかねて、俺は窓を開ける。

 その時、隣の部屋のドアがガチャッと音を立てて開く。

 まさかと思って振り返ると、そこに立っていたのは黒瀬だった。
 さっきまでの柔らかい雰囲気とは打って変わって、ピアスがバチバチに輝く、あの日の黒瀬。

「こんな時間からどこ行くんだ?」

 思わず口に出しそうになったけど、俺は関係ないと自分に言い聞かせた。

 ......でも、なんだか気になって仕方がなくて、ついその後を追いかけてしまった。

 黒瀬の背中を静かに追いながら、頭の中で昼間と今のの黒瀬が交差する。

 昼間の黒瀬は、優しくて爽やかで、みんなに好かれる“いい奴”。
 一方で、夜になると、ピアスをバチバチに付けて、どこか近寄りがたい雰囲気を纏う。

「なんでついてきたんだ?」

 振り返ると、黒瀬の瞳は夜の闇に鋭く光ってるようだった。

「......ただ、気になったっていうか」

 俺の声は小さくて、けど正直な気持ちだった。

「どこ、行くんだよ」

 俺が問いかけると、黒瀬は少し考えるように眉をひそめる。

「ちょっと散歩」

 そう言ってから、少し間を置き、ふと挑発的な笑みを浮かべて言った。

「お前も来るか?」

 誘われるまま、俺は黙って頷いた。

 二人で夜の街を歩く。街灯の明かりがぽつぽつと灯り、静かな空気が心地よい。

 やがてたどり着いたのは、小さな公園だった。

 街の喧騒から離れた、まるで隠れ家のような場所。

 黒瀬はゆっくりとベンチに腰を下ろし、俺も隣に座る。

「ここ、よく来るのか?」

 そう聞くと、黒瀬はぼそりと答えた。

「ここ好きなんだ」

 小さな公園のベンチに並び、静かな夜風が頬を撫でる。
 黒瀬は無言で遠くを見つめている。

「......お前、なんかあったのか?」

 思わず声をかけると、黒瀬は少し驚いたように俺を見た。

「別に......なんにもないよ」

 そう言いながらも、その声には微かな揺らぎが混じっていた。

 街灯の明かりで、黒瀬のピアスがきらりと光る。
 やっぱり......かっこいいな。そう思いながら、つい視線が吸い寄せられてしまう。

「......お前さ、よく俺のこと見るよな」

 不意に笑みを含んだ声がして、ドキッとする。

「ち、ちがっ......! ピアス見てただけだろ」

 慌てて否定すると、黒瀬は口の端を上げた。

「気になる?」

 そう言って、俺の手を取る。
 驚く間もなく、ぐっと耳元へ引き寄せられた。

「ほら」

 間近で見るピアスは、街灯の下でいっそう鮮やかに光っていた。
 少しだけ照れながら、そっと指先で触れると――ジャラ、と小さく音が鳴った。

「......痛くないのか?」

「もう安定したから、痛くねぇよ」

 短く答える声が、妙に近くて、心臓の鼓動がやけにうるさい。

「黒瀬はいつ開けたんだ?」

 俺が尋ねると、黒瀬は少し考えるように目を細めた。

「んー、中学の時にはもう開けてたな」

「はやっ。中学でピアスとか怒られるだろ」

 思わずツッコむと、黒瀬は苦笑いを浮かべた。

「まぁ、怒られたな」

「なんでそんなに開けようと思ったんだよ」

 俺が問い詰めると、黒瀬は少しとぼけて言った。

「さぁ、どうだったかな」

 黒瀬はどこか遠くを見つめる。

 黒瀬が一人で夜のこの公園に来るのは、いったい何を考えているんだろう。

「お前、俺のことめっちゃ聞くけど、自分のことはあんまり言わねぇよな」

 俺は少しだけ口ごもりながらも答えた。

「別に、そんなことないけど」

「今日だって、颯太に心配されてたのに『大丈夫』って言ってたじゃん」

 そう言われて、つい苦笑いが漏れた。

「長男だからか、人に頼るのとか甘えるのがなんか苦手なんだよ」

 黒瀬はしばらく黙って俺を見つめていたけど、やがて笑みを浮かべた。

「俺には甘えろよ。どんな夏希でも受け止めるよ」

 思わず顔が真っ赤になって、視線を逸らす。

「お前、よくそんな恥ずかしいこと、平気で言えるな」

 薄暗い公園のベンチに並んで座り、俺たちは言葉少なに夜の冷気を感じていた。
 気づけば、腕時計の針は10時を指している。

「......親は、心配しないのか?」

 ふと、俺は尋ねる。

 黒瀬は少しだけ視線を落とし、静かに口を開いた。

「親は昔から離婚と再婚を何度も繰り返してて、正直、あんまり俺のことなんて気にしてないと思う」

 その声はどこか冷めていて、だけど痛みが隠せていなかった。

「今も、また再婚して弟ができたんだけど......なんか、俺だけ家族じゃないみたいで」

 黒瀬は拳をぎゅっと握りしめて、続ける。

「家の中にいると、気まずくてさ。だから、よくここに来るんだ」

 沈黙が少しだけ長く続く。

「......そうだったんだな」

「なんでお前が悲しそうなんだよ」

 黒瀬は一瞬驚いた顔をしたが、やがてわずかにだけ笑った。

「言ったの、初めてかもな」

 時計の針が静かに動き続ける夜。
 二人の間に少しだけ、暖かいものが流れ始めていた。

 黒瀬がゆっくりと立ち上がる。

「そろそろ帰るか?」

 その言葉に、俺は無意識のうちに腕を伸ばしていた。

「待って......」

 気づいたら黒瀬の手首をぎゅっと掴んでいた。
 夜風が頬を撫でる中、心臓の音だけが大きく響く。

 黒瀬は驚いたように振り返り、少しだけ目を見開く。

「......どうした?」

 言葉にはできないけど、離したくない気持ちがそこにあった。

 俺は少し躊躇いながらも、黒瀬の手首を握ったまま問いかけた。

「......明日も、ここに来ていいか?」

 黒瀬は一瞬、驚いたように目を見開いた。
 そして、少しだけ顔を背けながらも、静かな声で答える。

「......それどういう意味かわかってる?」

 黒瀬の瞳を見つめると、言葉が喉の奥で引っかかった。
 それでも、逃げたくなかった。

「わかってるけど......俺、好きだとかよくわかんなくて」

 声は少し震えていて、目を逸らしかける。

 黒瀬は静かに頷いた。

「無理に答えなくていいよ。俺はずっと待ってるから」

 俺はゆっくりと息を吐き、でも決意を込めて言った。

「ちゃんと向き合いたい。お前のこと、もっと知りたいんだ」

 黒瀬の表情がふっと和らいだ。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥で固まっていた何かが、少しずつほどけていく。
 夜風が頬を撫で、ふたりの間の空気がやけに近く感じられた。

 正直、黒瀬のこと好きだとかそんなことはまだわからない。
 でも、たしかに今、黒瀬との距離が縮まった――そう感じた。