「ちょっと琥珀、あんた全然連絡もよこさないで! ったく、帰ってくる気あるの?」
「あるよ。だって、もうすぐ新学期が始まるじゃん」
「新学期って、あんた……。そっか。じゃあ待ってるから」
「うん。あのさ、母さん。心配かけてごめんな。俺、もう大丈夫だから」
「琥珀……。あんた成長したね」
「うん。おれ、秩父に来てよかったよ」
「そっか」
それから少し母親と話をしてから、俺は電話をきった。普段明るい母親の声が、涙で揺れているのを感じた俺は、ずっと心配をかけてきたんだな、と少しだけ罪悪感に包まれる。
「でも、本当はずっとここにいたいんだ」
俺は荷造りをしながら空を見つめる。
明日俺は、秩父を後にする――。
朝四時に起きてメイとキイの散歩に行くこと、千尋さんが作った朝食をみんなでワイワイと食べること。じいちゃんとばあちゃんと和菓子を作ること……。それに、悠介と手を繋ぐこと。
これが最後、ということを感じる度に、どうしても涙が出そうになる。
最近はお互い寂しいからか、悠介といてもあまり会話が弾まない。
それでも、悠介はいつも俺の元を訪ねてきてくれた。
「琥珀、アイス半分こしよう」
「あ、ありがとう」
「今日も暑いなぁ」
「本当だよ。マジで嫌になる」
そんな世間話をポツリポツリと交わすだけ。きっとこれ以上話をしていたら、「帰りたくない」「帰らないで」なんていうマイナスの言葉が口から溢れ出してしまうのを、お互いにわかっていたから。
だから俺は心に刻み込む。
軒下に吊るされた風鈴の音も、蚊取り線香の懐かしい香りも。ヒグラシの少しだけ寂しそうな鳴き声も……。
それだけじゃない。耳を覆いたくなるほど賑やかな蝉の大合唱に、どこまでも広がる向日葵畑、冷たい川の水に、真っ青な空と入道雲。夕方になると茜色に染まる縁側。夜空一面に硝子細工のように光る星々を、縁側から眺めているのも好きだった。
その全ての思い出の中に、いつも悠介がいて――。秩父でできた思い出は笑顔で溢れていた。
「もうすぐ『さよなら』だね」
「あぁ」
言ってはいけないと思いつつも、つい口から零れ出た言葉。
「東京になんて帰るなよ」って引き留めてほしいけれど、笑顔で「バイバイ」って言ってほしい。相反する思いが、俺の中でグラグラと音をたてて揺れているような気がした。
「なぁ、琥珀。今日の夜、空けといて?」
「ん? なんかあるの?」
「うん。どうしても琥珀に見せたいものがあって」
「あ、うん。わかった」
少しだけ寂しそうに笑う悠介を見ているのが辛くて、俺はそっと空を見上げる。
このまま夏が終わらなければいいのに……と、俺は思う。
でも、ただ一つだけやり残したことがある。
俺は、悠介に本当の思いを伝えることができずにいた。
◇◆◇◆
「琥珀、行くぞ」
「うん」
悠介が俺を迎えに来たのは、想像以上に遅い時間だった。辺りは真っ暗で、空には一面に星が瞬いている。こんな綺麗な星空を見ることができるのも、今日が最後だ。
「駄目だ、やっぱり寂しい」
俺は悠介に見つからないように、そっと手の甲で涙を拭った。
「なぁ、悠介、ここって……」
「そう。琥珀が初めて秩父に来た日、魚釣りに来た場所だよ」
「はぁ? 今から魚釣りすんの?」
「いいからいいから。もう少し頑張って歩いてよ」
そう笑いながら、俺にむかってそっと手を差し出してくれる。俺はその手を見つめてから、ギュッと握った。この手の温もりを忘れないように……。
「ほら、ついた。ここだよ」
「え? ここ? 魚釣りをした場所より、大分上流だね」
「まぁね。どうしてもこれを、最後に琥珀と見たかったんだ」
「最後……」
悠介の言葉が胸に突き刺さる。
最後なんて言う言葉は聞きたくもないし、認めたくもない。でも、明日俺は東京へ帰らなくてはならない。
「悠介、俺……」
そう口を開こうとした時――。
「わぁ……すごい……」
俺はその光景に、言葉を失ってしまった。
川のせせらぎが静かな空間に響き渡る川原一面に広がる数々の淡い光。ポゥッと光を放つ幻想的な光景は、舞い散る桜のようにも、深々と降り積もる雪のようにも見えた。
「もしかして、これ、蛍?」
「そう。この時期、この場所でたくさん見られるんだよ」
「俺、蛍なんて初めて見た」
「凄く綺麗だろう?」
「うん。めっちゃ綺麗……」
「これを琥珀に見せたかったんだ」
「そっか……。ありがとう、悠介」
照れくさそうにはにかむ悠介の顔が、涙でユラユラと揺れる。最後まで、俺に感動をくれるなんて……本当にズルいよ。
蛍が淡い光を放ちながら飛び交う光景があまりにも儚くて、泣きたくなる。最後まで泣かないって決めたのに……。胸がいっぱいで、苦しいくらいだ。
ありがとうって、何百回言えば、悠介に俺の気持ちが届くだろうか。ううん、そうじゃない。俺が本当に伝えたい思いは、もっと違う――。
「悠介」
「ん?」
「俺さ、悠介が好き」
「琥珀……」
「俺、悠介が大好きだ!」
俺たちの周りをふわぁっと淡い光が包み込む。それがあまりにも綺麗で、俺が蛍に視線を移すとデコピンを食らってしまった。
「いってぇ!」
「琥珀がこんな時によそ見なんかするからだろう?」
「だって、蛍が綺麗だから……」
「よそ見なんかしないで、俺だけを見てろよ」
「え? 蛍だよ?」
「蛍でも駄目。琥珀には、俺だけを見ててほしいの」
蛍にさえヤキモチを妬く悠介が愛おしくて、俺はそっとその頬に触れる。その瞬間、好きだって思いが溢れ出てしまう。
駄目だ、もう止められない……。
「俺は悠介が好きだ」
「ったくさぁ、告白してくるまでに時間がかかり過ぎなんだよ」
「だって……」
「待ちくたびれちまうとこだった」
「ごめん」
「あははは! いいよ。ちゃんと伝えてくれてありがとな」
悠介が俺の頬を両手で包み込んで、額と額をコツンと合わせる。あまりの至近距離に、今まで経験したことがないほど心臓が高鳴っていった。
もう、唇がくっついちゃう……。
涙でいっぱいになった瞳で悠介を見つめると、幸せそうにふわりと笑った。唇が触れるか触れないかの距離で寸止めされたから、俺は思わずギュッと瞳を閉じた。
緊張のせいか体が小さく震えて、喉の奥にグッと力が籠る。不安と期待で心臓が壊れてしまいそうだ。
「琥珀、好きだ」
「俺も、好き……大好き……」
胸がいっぱいになってしまった俺の瞳からは、ポロポロと涙が溢れ出す。
悠介と離れたくない。ずっと秩父にいたい――。それに、最後にこんなにも綺麗な蛍が見られるなんて思ってもいなかった。
「琥珀は、めんこいなぁ」
「めんこくなんかねぇだんべぇに!」
「ううん。琥珀はめんこいよ。大好き」
俺と悠介の唇が静かに重なり合う。キスは甘いって何かの雑誌に書いてあったけど、俺の涙のせいで塩辛い。
でも、柔らかくて気持ちいい……。
「琥珀、手を繋ごう」
「うん。俺も悠介と手を繋ぎたい」
そっと手を握り合ってから、もう一度キスをした。
その時、蛍が一斉に夜空に向かって飛び立っていく。
「わぁ、綺麗だなぁ」
「うん。綺麗だ」
「悠介、俺この光景を一生忘れない」
「俺も、一生忘れないから」
そっと寄り添う俺たちを、蛍たちが優しく包み込んでくれたのだった。
「よし、これで大丈夫だ」
俺は布団を畳んで丁寧に押し入れにしまう。それから、使わせてもらっていた部屋を箒で綺麗に掃除した。これで、この部屋ともお別れだ
昨夜、最後だからと悠介と一緒に寝たのだけど、「今、琥珀と手を繋いだら止まんなくなっちゃうから駄目!」と、手を繋いではもらえなかった。
「別に付き合ってるんだから、手を出せばいいじゃん?」と俺が本気で言ったら「駄目! 俺は琥珀を大事にしたいの!」と顔を真っ赤にして怒っていたっけ。
そんなやり取りを思い出して、思わず笑ってしまう。
「お世話になりました」
俺は慣れ親しんだ部屋に一礼して、リュックサックを背負ったのだった。
「こうちゃん、また来てね」
「また冬休みにでも遊びにおいで!」
「うん。ありがとう。お世話になりました」
想像以上の盛大な見送りに、俺の目頭が熱くなる。
「琥珀兄ちゃん、帰っちゃヤダ!」と大泣きする、功丞と宗助を宥めるのも大変だったし、「元気で頑張ってね」と涙を流す祖父母を置いてここを去ることにも心が痛んだ。
本当は俺も帰りたくない。そう言いたかったけれど「また来るからね! ありがとうございました!」と俺は笑顔で皆に手を振る。
「駅まで送ってくよ」
「ありがとう」
そう声をかけてくれた悠介の寂しそうな顔に、俺の胸は締め付けられた。
無人駅にはいつも通り人影はない。
夏休みになって久しぶりにここを訪れたときは、本当に最悪の気分だった。でも今は違う。
「なぁ、悠介。俺、少しは成長できたかな?」
いつも通り手を繋いでいてくれる悠介をそっと見上げる。悠介の目元が心なしか赤く染まっていて、さっきから何度も鼻をすすっている。そんな悠介を見ていると、俺まで泣きたくなってしまう。俺たちは無言のまま駅へと向かった。
一時間に一本しか来ない電車がもうすぐやってくる。そしたら、本当にお別れだ。
「俺、絶対にまた秩父に来るから。悠介、待っててくれる?」
「当たり前だろう? 待ってるに決まってるじゃん」
少しだけ続く沈黙。この時間が勿体ないから何か話をすればいいのに、言葉が出てきてくれない。悠介の手をギュッと握り締めると、痛いくらいの力で握り返してくれた。
「琥珀はもう東京に帰って大丈夫なの? また辛い思いしない?」
「大丈夫だよ。俺はもう負けない。もし先輩に何か言われたら『俺にはイケメンの彼氏ができたんだ!』って言い返してやるから」
「もし琥珀に何かあったら、俺がすっ飛んでいくから呼んでね」
「うん。ありがとう。でも大丈夫だよ。楽しかった思い出が、俺をきっと支えてくれるから」
俺は悠介に向かって笑いかける。
「最後くらい笑って『バイバイ』をしたかったけれど、駄目だ。涙が溢れてくる。ごめん、悠介」
「無理すんな。俺だって泣きたいくらい寂しい」
悠介が着ているシャツの袖で涙を拭う。
このまま電車が来なければいいのに……といくら願っても、電車はホームへと向かって走ってきてしまう。
「悠介、今度会えた時にも、また手を繋いでくれる?」
「もう、何回も言ってるだんべぇに(言ってるだろうに)。恥ずかしいから、めった聞かないで(何回も聞かないで)」
「うん。俺、秩父も悠介も大好きだ」
最後にそっとキスを交わして、俺は電車へと乗り込む。
「またね、琥珀」
「うん、またね」
俺たちを引き離すかのように電車の扉が閉まって――、発車してしまった。
「悠介……」
窓から悠介を見ると、電車が遠ざかっても手を振り続けてくれている。一生懸命泣くのを我慢していたみたいだから、きっと今頃、悠介は泣いているかもしれない。
俺は居ても立ってもいられずに、電車の窓についているレバーをガチャガチャと動かす。花火大会の日、母親が子供に外の景色を見せるために、窓を開けていたのを思い出したのだ。
「開けよ、開いてくれ!」
俺が思いきりレバーを持ち上げると、勢いよく窓が開く。その瞬間、蝉の鳴き声と、熱風が車内に流れ込んできた。
「悠介ぇ‼」
俺は窓から上半身を乗り出して叫ぶ。こんなのよく見かける朝ドラのワンシーンじゃないんだかだら――。そう考えると恥ずかしくなるけれど、今はそんなことなど言ってられない。
だって、俺は……。俺は悠介と本当はずっと一緒にいたかった。
俺が大声で愛しい人の名を呼ぶと、弾かれたように悠介が顔を上げる。それから、勢いよく誰もいないホームを走り出しだ。
「悠介‼」
「琥珀‼」
「悠介ぇ‼」
いくら悠介が柔道関東大会の常連だとしても、走っている電車に追いつくはずなんてない。無情にも、俺たちの距離はどんどん離れていく一方だ。
「俺は、ずっとお前のことが好きだかんなー‼」
「悠介‼ 悠介ぇ‼」
ホームの一番端まで走った悠介が、俺に向って両手を振ってくれる。俺はその姿を必死に目に焼き付けようとしたのに、駄目だ……、悠介の姿が涙で滲んで見えなくなってしまった。
「俺も悠介が大好きだー‼」
どうかこの声が、悠介に届いていますように……。
「ありがとう、悠介」
俺は頬を伝う涙を、手の甲で拭った。
「あ、ここ……」
車窓に広がる世界に俺の胸は熱くなる。
祖父母の和菓子屋に、悠介の家の畑。それにメイとキイと毎日散歩したあぜ道。悠介と釣りに行った川だってキラキラと輝きながら流れている。
「向日葵畑だ……」
その遥か先に、一面の向日葵畑が見えた。
溢れ出る涙を拭って、俺は晴れ渡った空を見上げる。
「またここに帰って来よう」
少しずつ遠くなる向日葵畑を見つめながら、俺はそう心に誓った。
【END】



