カナカナ……。カナカナ……。
「ん、んんッ」
俺はヒグラシの鳴き声で目を覚ます。ヒグラシって朝も鳴くんだ、とびっくりしてしまう。でもそのどこか物悲しいけれど、美しい鳴き声に思わず聞き惚れてしまった。
隣の布団にはすでに悠介の姿はなかった。時計を見ると朝の五時……。俺は自分が朝寝坊をしてしまったのではないかと慌てて布団から起き出した。
家にいたときは特にすることもなかったから、朝の九時まで寝ていることなんて当たり前だった。俺はまだ眠い目をこすりながら祖父のいる店へと向かった。
祖父母の店は同じ建物の中にあるものの、何しろ屋敷自体が広いせいでやけに遠く感じる。店に繋がる扉を開けたら、仕込みをしている祖父母がいた。
「じいちゃん、おはよう」
「おう、こうちゃん。随分早起きじゃないか?」
「でも、もうみんな起きて仕事しているんだろう?」
「あははは! 秩父の朝は早いから、みんな四時には起き出して仕事を始めるんだよ。朝の涼しいうちに仕事をしたほうが効率いいだろう?」
「そりゃあ、そうだけど……」
祖父母は、俺が生まれたときには既に和菓子屋を切り盛りしていた。何度か雑誌に取り上げられたこともあるらしく、はるばる遠方から買いに来るお客もいるらしい。店の奥からは、祖母が小豆を煮詰めている甘い香りが漂ってきた。もうすぐお盆になるから、きっと繁忙期になることだろう。
あの頃から全然変わってない――。
俺が幼い頃よく目にした光景に胸が熱くなった。
「あれ? じいちゃん、まだみたらし団子なんて作ってんの?」
「あぁ。だってこうちゃんが好きだったから、いつか帰ってきたときに食べさせてやろうと思ってね」
「なんだよ、それ……」
「みたらし団子だけじゃなくて、苺大福もあるよ」
「そっか」
俺は天邪鬼だから、こういった優しさが苦手だ。素直にありがとうと感謝を伝えることや、喜んで見せることができないのだ。
「あ、じいちゃん。悠介どこにいるか知ってる?」
「あぁ、悠介君なら畑でご両親の手伝いをしていると思うから行ってごらん」
「でも、じいちゃんとばあちゃんの手伝いはしなくて大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。まだ開店までには大分時間があるからね」
「わかった。ちょっと行ってくるね!」
「熱中症には気を付けるんだよ!」
「うん」
俺はスニーカーを履くと、祖父の家の裏にある畑へと向かう。この畑は悠介の家の敷地で、学校の校庭くらいの広さがある。そして、その畑の向こう側に悠介の家が建っているのだ。
朝の五時だというのに、真夏の日差しは燦燦と降り注ぎ、少し動いただけで汗が噴き出してくる。
「こんな朝早くから畑仕事なんて凄すぎるだろう。俺には絶対無理だ……」
俺はただ畑に出てきただけなのに、早速弱音を吐いてしまう。やっぱり俺には田舎の生活なんて向いてない、早々に帰ろうと思ったとき「琥珀、おはよう!」と遠くから声がした。
声がした方を向くと、麦わら帽子を被り、肩にタオルをかけた悠介が俺に向って手を振っている。額からポタポタと垂れる汗を手の甲で拭う姿が男らしくて、思わず惚れ惚れしてしまった。
「あ、琥珀君おはよう!」
「お、はようございます……」
「採れたてのキュウリ食べる? 美味しいわよ!」
「え、えっと……。すみません、まだ目が覚めてなくて」
悠介の両親も笑顔で話しかけてくれる。秩父の人って、みんな朝からこんなにも元気なのだろうか、と俺は度肝を抜かれてしまった。
「今さ、この畑にあるキュウリとかトマト、ナスを収穫してるんだ。それを袋詰めにして農産物直売所に出荷したり、無人販売所に並べるんだけど……なんせ畑が広いからさぁ。毎朝大変なんだよ」
「本当だな。こんだけ畑が広いと、たくさん収穫できそうだ。悠介は、これを毎日手伝ってるの?」
「うん。じいちゃんとばあちゃんが足腰弱くなってきたから、俺が手伝わないと収穫が間に合わないし」
「へぇ。偉いんだな」
「そんなことないよ。農家の子に生まれてきたなら、これくらいは手伝わないと」
悠介の後ろにある籠の中には、収穫されたばかりの野菜がたくさん入っている。どの野菜も朝露でキラキラと輝いていて、新鮮そのものだ。普段琥珀がスーパーで見かける野菜とは、明らかに鮮度が違って見える。
「まだ時間がかかるから、琥珀は琥珀のじいちゃん家で待っててよ。終わったら、みんなで朝ご飯を食べよう」
「でも、俺だって何か手伝いたいよ。俺にできることはないかな?」
「ん-、琥珀にできることかぁ。あんまり無理をさせたくないんだよね」
「大丈夫だ! 俺だって男だ。力仕事だってできるし。あんまり馬鹿にすんじゃねぇよ!」
「そっか。じゃあ、メイとキイの散歩をお願いしようかな? いつも仕事が全部終わった後に行くんだけど、琥珀に行ってもらえるなら助かるなぁ」
「メイとキイの散歩に行けばいいんだな?」
「うん、そうだよ。あんまり遠くまで行かなくてもいいからね。でも熱中症になると困るから、この帽子を被っていって」
悠介は自分が被っていた麦わら帽子をそっと俺に被せてくれる。それから俺の頭をそっと撫でて「うん、麦わら帽子を被った琥珀も可愛い」と嬉しそうに笑った。
俺はその笑顔に、息が止まりそうになってしまう。なんで悠介は、こんなにもかっこいいのだろうか……。大人に成長してしまった悠介に、俺は戸惑いを隠しきれない。
「あ、あのさ。メイとキイってどこにいるの?」
「あっちの畑の隅にいるよ。首輪もついてるし、リードで縛ってあるから、近所を一周してきてもらえれば十分だからね」
「わかった。行ってくる」
「うん。お願いね。白いほうがメイで、茶色いほうがキイだから」
「了解」
犬の散歩くらい俺にもできるはずだ。ただ居候させてもらい、みんなからも優しくされることに申し訳なさを感じていた俺は、自分にもできる仕事を与えてもらえたことが嬉しかった。
「メイとキイは何犬だろう。人懐こくて可愛い犬だといいなぁ」
田舎だから柴犬みたいな日本犬が似合うだろう。元々犬好きの俺は、なんだかワクワクしてきてしまう。
しかし、俺がメイとキイのいる場所に辿り着いた瞬間、思わず目を疑ってしまい、足が動かなくなってしまった。
「え? ちょっと待って……」
「メエーメエー」
「もしかして秩父の犬って、メエーって鳴くのか?」
何度か深呼吸を繰り返してから、そっと目を開く。きっとこれは何かの見間違いに違いない。
「でも、やっぱりそうかぁ……」
俺の目の前には二匹のヤギがいた。一匹は真っ白で、もう一匹は白に茶色のブチ模様がある。まだ小さいし、角も生えていないから子ヤギなのだろう。真ん丸の瞳に小さな尻尾をフリフリと振る姿はとても愛らしい。
「でも俺、ヤギの散歩どころか犬の散歩だってろくにしたことないよ」
俺はがっくりとその場にしゃがみ込み、頭を抱えてしまう。そんな俺を励ますかのように、メイとキイが優しく体を擦り寄せてくる。そんな姿はとても可愛らしかった。
「わかった。散歩に行ってみよう?」
「メエ―メエ―」
「でも、俺はヤギの散歩初心者だからお手柔らかにお願いね」
「メエ―メエ―」
「本当にわかってるのかな?」
俺は不安を感じながらもリードを柱から外し、散歩に出掛けたのだった。
「わ! ねぇ、ちょっと待ってよ! とりあえず真っ直ぐ歩いて!」
ヤギの散歩は俺の想像の何倍も過酷だった。メイとキイはそれぞれ行きたい方向へと進み、全く協調性なんてない。しかもこんなにも可愛らしいのに、物凄い力でリードを引くものだから、俺のほうが引き摺られてしまい、もはや誰の散歩かもわからない。
「やっぱり田舎生活なんて俺には無理だよ。帰りたい」
つい先程から、道端の草を食べ始めてしまい全く動かなくなってしまった二匹を見て、俺は溜息を吐く。それにここは、悠介の家の畑から大分離れた場所だから、きっと誰も助けには来てくれないだろう。この二匹をなんとか説得して、自力で帰るしかない。
「なぁ、そろそろ帰ろうよ。お前たちの小屋の前にも同じような草がたくさん生えてたじゃん?」
「メエ―メエー」
「そんなに美味いの? はぁ、俺も腹が減ったなぁ」
俺は二匹の傍にしゃがみ込み、その様子をジッと観察してみる。あまりにも一生懸命食べているものだから、段々可笑しくなってきてしまった。
「なぁ、もういい加減帰ろうって」
「ふふっ。可愛い三匹のヤギを見つけた」
「ふぇ? びっくりした。悠介か」
「琥珀がなかなか帰ってこないから、心配になって探しちゃったよ」
俺がもう一度ヤギに声をかけたとき、頭上から楽しそうな声が聞こえてくる。その声の主がわかってしまった俺は、唇を尖らせながら軽く睨みつけてやった。
「なぁ、メイとキイがヤギだなんて、俺聞いてなかったぞ」
「だって、琥珀をびっくりさせたかったんだもん」
「びっくりさせ過ぎだよ! ヤギの散歩なんて生まれて初めてだったんだぞ」
「でも子ヤギが三匹じゃれてるみたいで、見てて可愛かったよ」
「はぁ⁉ お前もしかして……」
「ごめんね、しばらく遠くから眺めてた」
「最悪。性格悪過ぎだろう。マジで嫌いだ」
「だからごめんって。よし帰ろう。畑仕事も終わったから、朝ご飯にしよう。みんな琥珀のことを待ってるから」
そう言うと「メイ、キイ、おいで」と悠介が二匹の名を呼ぶ。二匹は小さな耳をピクピクと動かした後、「メエー」と鳴いて悠介の後をついて行ってしまう。
その光景を見た俺は、「なんだよ、その態度の違いは」と小さく舌打ちをしたのだった。
「琥珀君、お疲れ様。ヤギの散歩ありがとうね」
「い、いえ。俺は別に何も……」
「まぁまぁ、ご飯はたくさんあるからお腹いっぱい食べてね」
千尋さんに呼ばれた俺は、悠介の家で朝ご飯をいただくこととなった。みんな朝の一仕事を終え風呂に入ったのだろう。清々しい顔をしている。
時計を見るとまだ七時。一日は始まったばかりだ。
「都会の子の口に合うかわからないけど、これがナスを甘じょっぱく炒めたナスの油みそで、これはうちの畑で獲れたキュウリの糠漬け。ご飯におなめを乗せても美味しいから食べてみて」
「はい」
「琥珀くん華奢だから、いっぱい食べてね」
「はい、いただきます」
千尋さんは俺の母親に似ていてとても明るい性格をしている。割とズケズケ物事を言うのだけれど、それが全然嫌味に感じられない。
俺はテーブルに並べられたたくさんのおかずに感動してしまう。いつも遅くまで寝ている俺は、コーンフレークや菓子パンで朝ご飯を済ませてしまうことが多かった。
「ここにある野菜、みんな悠介たちが作ったのか?」
「そうだよ。どれも新鮮で美味しいから食べてみてよ」
「うん」
そんな俺を横目に、悠介はもう三杯目のおかわりをしている。それは、見ていて気持ちよくなってしまう程だった。
俺は目の前にあるキュウリの糠漬けを口に放り込む。
「悠介、これ凄く美味しい」
「だろう? いっぱい食いな」
「ありがとう」
俺は遠慮しながらも、テーブルに並べられた料理を頬張ったのだった。
◇◆◇◆
「はい、琥珀。これ昨日話したばあちゃんが作った梅ジュース」
「あ、サンキュー」
「美味いから飲んでみて」
「うん」
悠介から手渡されたグラスには氷がたくさん入っていて、オレンジ色をした梅ジュースが注がれている。その氷が溶けてカランと音をたてる。
一口飲むと甘酸っぱい爽やかな味が、口中に広がった。
「これ超美味い!」
「でしょ? 今年は梅が豊作だったからたくさん漬けてあるんだ。今がちょうど飲み頃だよ」
「へぇ。梅からこんなに美味しいジュースができるんだな」
「不思議だよね。梅と角砂糖だけなのにさ。昔の人の知恵って本当に驚かされるよ」
祖父母の家の縁側には山から涼しい風が吹いてきて、俺の癖っ毛をサラサラと揺らしていった。自分の家にいたときにはクーラーの効いた部屋に一日中いたけれど、こうやって自然の風を感じるのも悪くないかもしれない。
ふと、祖父母が営んでいる店のほうが騒がしくなってきたから、俺はそちらに視線を向けた。
「なぁ、もしかしてじいちゃんたちがやってる和菓子屋って、案外繁盛しているの?」
「え? 琥珀知らないの? 遠くからお客さんも来るくらいだし、今は天然氷のかき氷が大人気なんだから。すごいときには長蛇の列ができるくらいだよ」
「へぇ、知らなかった……」
俺は梅ジュースを飲み干しながら店のほうを眺める。
「今はテレビで秩父の特集をしていることが多いから、立派な観光スポットだよ。中でもやっぱり、天然氷を使ったかき氷は大人気だよね」
「そうなんだ」
「今度食べさせてもらおうよ? 俺は特にイチゴ味のかき氷に練乳をたっぷりかけたのが好きなんだ」
そう悠介は嬉しそうに笑う。
昨夜久しぶりに祖父母に再会したけれど、二人共腰が曲がっていて、前回会ったときに比べて小さく見えた。そんな二人を見て、あぁ年をとったんだな……と、少しだけ寂しく感じた。
「こっちの生活に慣れたら、じいちゃんたちを手伝おうかな?」
「あ、それいいんじゃない? 琥珀綺麗な顔をしてるから、きっといい看板娘になるよ!」
「だから俺は女じゃないって。お前っていちいち勘に触ることを言うよなぁ」
「あははは! だってムキになる琥珀を見てると可愛くて」
「はぁ⁉」
「でも、本当にびっくりするくらい綺麗になってたっていうのは本当だよ」
「なぁ、お前いつもそうやって女を口説いてんのか?」
「そんなわけないじゃん。俺が口説くのは琥珀だけだよ」
「だからさぁ! お前どこまで本気で話してるのかがわからねぇよ」
「あははは! 可愛いなぁ」
照れくさそうに笑う悠介を見ていると、俺の鼓動がまた高鳴り出す。本当に気に食わないのに、気になって仕方がない。
きっとこの暑さにやられたせいだ――。俺は高鳴る鼓動にも、徐々に熱を帯びる頬にも気付かないふりをした。
◇◆◇◆
「ねぇ、琥珀。今日はさ、もう夕方までやることないからどっかに遊びに行かない?」
「はぁ? 遊びに行くって買い物とか映画でも見にいくってこと?」
縁側にゴロンと横になりながら悠介が声をかけてくる。さすがに日差しが強くなってきて、額に汗が滲んできた。
「そうだなぁ。今日は天気がいいから山に山菜取りか、川に釣りに行くか……どっちがいいかなぁ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。俺は山にも川にも行かないぞ?」
「じゃあ、畑の草むしりでもする?」
「……あのさ、選択肢はそれしかないのかよ?」
「うーん、今日は暑くなりそうだから川に釣りにでも行こう! よし、そう決まったら準備しなきゃだね」
「ちょ、ちょっと待て! 俺は行くって言ってないぞ!」
「でも俺一人で行ってもつまんないもん。だから一緒に行こう! 二人で行ったらきっと楽しいよ」
「だから待って!」
「いいからいいから」
嬉しそうに俺の手を引く悠介に引き摺られるように、悠介の家の物置へと連れて行かれたのだった。
「釣り竿に、一応クーラーボックスも持っていこうかな」
「こんな気楽に行って魚なんか釣れるのかよ?」
「うん。この時期は案外釣れるんだよ。はい、琥珀も麦わら帽子被ってね。それから虫よけスプレーを全身にかけるよ」
「わぁ! このスプレー臭い……」
悠介は俺の頭に麦わら帽子を載せると、全身に虫よけスプレーをかけてくれる。そのスプレーはベトベトして気持ちが悪い。
「なんで俺がこんな目に合わないといけないんだよ」
「えー? 楽しいじゃん」
悠介は鼻歌を歌いながら釣り竿を持ち、俺に向って笑う。こいつは本当に気に食わない。だって俺の意見なんて全く尊重してくれないのだ。
ガキみたいに扱うし、ヤギの散歩もさせられた。それに今は行きたくもない釣りに連れて行かれようとしている。なんでこんな目に合わなければならないのだろうか。
でも、不思議とこいつの笑顔を見てしまうと何も言い返せなくなってしまう。俺はそれがすごく悔しかった。
「川の上流まで行くから、結構歩くよ。大丈夫?」
「大丈夫だって。だから馬鹿にすんなよ」
「わかったって。ごめんね。じゃあ行こうか」
俺に背を向けて歩き出す悠介の後を、俺は必死について行ったのだった。
「なぁ、もう着くか?」
「そうだなぁ。できたらもう少し上流まで行きたいけど、琥珀が疲れたならここら辺でもいいか」
「もう十分歩いただろうが……。あー! 蝉の声がうるさい!」
「蝉に八つ当たりしたってしょうがないよ。それに、まだまだ、こんなの序の口なんじゃないの?」
「だから、うっせぇよ……。俺はお前と違って都会育ちなんだよ」
悠介はクーラーボックスからペットボトルのお茶を取り出して、俺に向って投げてくれる。悠介の長い髪に汗が伝い、それがひどく艶っぽく見えた。
「琥珀はその大きな岩にでも座って休んでてよ」
「あー、疲れたぁ」
俺は岩にゴロッと寝そべる。岩はヒンヤリしていて気持ちがいい。
悠介に連れて来られた場所は、近所に流れている川の大分上流だ。周りは大きな木々に覆われていて、それが日除けの役割をしてくれている。川が近くにあるせいか、そこを吹き抜ける風はとても爽やかで、涼しく感じられた。
ここは悠介の穴場スポットらしく、俺たちの他に釣り人の姿も見当たらない。
川がサラサラと流れる音に、木々の間から洩れる夏の日差し。そして蝉の鳴き声。秩父ではミンミンゼミやツクツクボウシ。それにカナカナと蝉のことを呼ぶんだって、前悠介が教えてくれた。
ここへ来なければ、こんな環境に身を置くことなんてなかった。
「ここはひどく落ち着くなぁ。時間が止まっているみたいだ……」
「だよね。俺もここは大好きな場所なんだ」
「川の水がめっちゃ綺麗だ」
頑張れば歩いて渡れそうなほど小さな川は、川底まで見えるくらい透き通っている。岩に隠れて潜んでいる魚が見える程だ。
「なぁ、魚の餌って何なの?」
「あぁ、これだよ。ミルワーム。これでよく釣れるんだよ」
「わぁぁぁぁ⁉ なんだよ、それ! 芋虫じゃん!」
「あははは! ちゃんとした餌だよ。すぐに釣れるから待ってて」
「そんなに簡単に釣れるのか?」
「うん。ここなら子供が遊びで使うような釣り竿でも釣れると思うよ」
「へぇ……」
悠介がミルワームと呼んだ白い芋虫のようなものを釣り針につけて川に垂らすと、すぐに釣り竿がピクピクと動き出す。
「あ、もうかかったみたい!」
悠介が竿をあげると大きな魚が針を飲み込んでいる。その魚を陸に上げて、丁寧に針を外してクーラーボックスに入れた。その慣れた手つきに、俺はつい見入ってしまった。
「悠介すごい! デッカイ魚が釣れたじゃん!」
「これはヤマメだよ。塩焼きにしても唐揚げにしても美味しいんだ」
「へぇ。塩焼きとか美味しそう」
「じゃあ、夕飯はヤマメの塩焼きにしようか?」
「うん!」
悠介につられてつい俺まで嬉しくなってきてしまう。
あぁ、こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。そう思うと、鼻の奥がツンとなった。
「あ、沢蟹がいる」
「本当? もし捕まえられるならクーラーボックスに入れておいてよ。沢蟹も素揚げにすると美味しいんだよ」
「へぇ。そうなんだ。じゃあ……」
俺は意を決して水の中に手を入れる。
「え? 冷たい。川の水ってこんなに冷たいんだ」
夏だというのに川の水は冷たくて、思わず手を引っ込めてしまう。それを見た悠介が笑っている。その透き通った水の中にもう一度手を入れて、そっと沢蟹を追いかけた。
手が痛くなってしまうほど冷たい川の水も、うるさいくらいに鳴く蝉も、忌々しいほど降り注ぐ真夏の日差しも……悪くないと思える自分がいることに、自分自身が驚いてしまう。きっと秩父に来なければ、俺は一日スマホをいじって一日が過ぎていたことだろう。でも、それが俺の当たり前だった。
沢蟹には逃げられてしまったけれど、俺の心の中に、不思議な感情が芽生えていた。
「なぁ、悠介」
「ん? どうした?」
「なんで俺が突然ここに来たのか聞かないの? だって、おかしくない? 突然俺がここに来るなんてさ」
「うーん、そうだなぁ」
釣り竿を構えながら悠介が何かを考えるように空を見上げた。
「おかんにちょっとだけ聞いたけど、琥珀は話したくないでしょ? だから聞かないだけ。もし話したくなったら教えてよ」
「いや、いい。だって俺がここに来た理由を悠介が知ったら、こうやって一緒にいられなくなると思うし」
「へぇ、そうなんだ。結構訳ありなんだね」
そう言いながら、悠介はまた魚を一匹釣りあげる。その魚はニジマスだって教えてくれた。
「でもさ、俺は何があっても琥珀と一緒にいたいと思うよ」
「……なんだよ、それ」
「だって、琥珀は琥珀じゃん」
そんな無邪気な笑顔を向けられてしまうと、なんと言い返したらいいのかがわからなくなってしまう。悠介の顔を直視できなくて、俺はそっと視線を外した。
「それより琥珀お腹空いた? 近所の駄菓子屋で買ったお菓子があるけど食べる?」
「え? でもいいの? 俺が食べたら悠介の分が減っちゃうじゃん」
「別にいいよ。たくさん買ったからさ。半分こしようよ」
「……悠介って、案外いい奴なんだな」
「ん?」
「なんでもない」
「ふふっ。変なの」
駄菓子を互いにつまみ食いしながら釣りを続けていたら、かなり時間がたっていた。
ねぇ、さっきから遠くのほうで雷が鳴り始めたから、そろそろ帰ろうか?」
「あ、うん。でも俺、沢蟹を一匹も捕まえられなかった」
「大丈夫だよ。その分、俺がたくさん魚を釣ったから」
「え? 本当に?」
「うん。今日は大漁だったよ」
俺がクーラーボックスの中を覗き込むと、たくさんのヤマメとニジマスが入っていた。こんな短時間にたくさんの魚を釣っていたことに感心してしまう。俺なんて沢蟹の一匹すら捕まえられなかったのに……。
「帰ろう、琥珀。お昼ご飯食べてなかったからお腹空いたでしょ?」
「でも、悠介がさっきお菓子をくれたから大丈夫」
「それに、夕ご飯には魚がたくさん食べられるしね」
「うん」
もしかしたら、悠介は俺が思っている以上にいい奴なのかもしれない。
「おいで、こっちだよ」
「ちょっと待ってよ」
「ゆっくりでいいから転ばないようにね」
「だから、ガキ扱いするなって」
「あははは。ごめんね、つい癖で」
優しい笑みを浮かべながら俺に手招きをする悠介を見て思う。悠介は、この大自然のように大きくて、逞しくて、優しい……。そう思ってしまう俺は、単純すぎるのだろうか。
◇◆◇◆
「やばい、雨が降ってきた。琥珀走るよ!」
「うん!」
突然バケツをひっくり返したように降り出す雨に、俺たちは大慌てで走り出す。大地を震わすように雷鳴が轟き、ピカッと目の前が光る。本格的な夕立に、俺たちは神社の境内に逃げ込んだ。
「予想より早く雨が降り出しちゃったね。琥珀大丈夫? びしょ濡れになっちゃった」
「全然平気だって。悠介だってびしょ濡れじゃん」
「俺は大丈夫だよ」
悠介は首に掛けていたタオルで俺の髪を拭いてくれる。「またガキ扱いしやがって」と言いかけた言葉を俺は呑み込む。濡れたシャツが悠介の体に張り付き、筋肉が浮き出ているのを目の当たりにしてしまい、何も言えなくなってしまったのだ。
悠介の体って、こんなに逞しいんだ……。
洋服越しにはわからなかったけれど、そのしなやかについた筋肉に、綺麗に浮き出た鎖骨。俺は目のやり場に困って視線を彷徨わせてしまった。
「ねぇ、琥珀。この神社覚えてる?」
「ん? 神社?」
戸惑いを隠しきれない俺は、悠介の言葉に我に返る。そっと辺りを見渡すと、そこは小さい頃悠介とよく遊びに来ていた神社だった。
「覚えてる。よくここで虫取りしたよね」
「そうそう。この神社にある天狗の仮面が怖くてさぁ。でも怖いもの見たさでよく見に来てたよね」
「うん。超懐かしい」
俺はまだまだ降りやみそうもない、真っ暗な空を見上げる。
「今ふと思い出したんだけどさ、俺がブータン(雌のカブトムシ)を琥珀に見せたら、ゴキブリだ⁉ って大泣きしちゃってさぁ。あの時はマジで焦ったなぁ」
「だって、ブータンなんて秩父弁知らなかったし。俺、そもそも秩父弁なんかわかんないんだからさ」
「ふふっ。そうだよね。でも、琥珀はめんこいよ」
「めんこい?」
「うん。すごくめんこい……」
めんこいってどういう意味? と口を開こうとした瞬間、稲妻が天を割き、ドンッという地響きと共に雷鳴が鳴り響く。
「わぁぁぁッ!?」
「どこか近くに雷が落ちたかもね」
俺はすぐ隣にいた悠介に咄嗟にしがみついた。それでもこんなこと悠介は慣れっこなのだろう。飄々としている。
雷鳴は鳴りやむどころかどんどん激しくなり、大雨で一寸先も見えない程だ。
「大丈夫? 琥珀怖い?」
「ううん。全然怖くねぇ……」
「嘘ばっかり。琥珀は、子供の頃から雷が苦手だったもんね」
悠介は、自分にしがみつく俺の頭を優しく撫でてくれる。ガキ扱いされて癪だけれど、今はそんなことを言っている場合ではない。俺は無我夢中で悠介に体を寄せた。
濡れた洋服越しに伝わってくる悠介の体温は心地よくて、俺の恐怖心が少しずつ和らいでいくのを感じる。次の瞬間、俺はその温もりから一気に引き離されてしまった。
「は⁉ なんで突き放すんだよ! 怖いんだからくっついててもいいだろう⁉」
「やっぱり怖いんじゃん⁉」
「こんな夕立、怖いに決まってるじゃんか!?」
「でも駄目、駄目だよ、琥珀! 今は駄目!」
「今は駄目って、今怖いんだから仕方ないだろう⁉」
「でも、駄目なの! お願いだから離れて‼」
「嫌だ! だって怖いんだもん! 絶対離れねぇ!」
まだ雨はザーザーと音をたてて降っているし、雷だって鳴っている。俺は嫌がる悠介に夢中でしがみついた。
「じゃあはっきり言うべぇか(言おうか)⁉ 今の琥珀は自分がどんな格好してるかわかってねぇだんべぇに(わかってないだろう)⁉ ち、乳首だって浮いて見えっし、俺だって男だから、そんな色っぺぇ(色っぽい)格好でひっつかれたら(くっつかれたら)たまげちまうんだよ(びっくりしちゃうんだ)‼」
「え? ちょっと、悠介……。何言ってんだかわかんないんだけど……」
「肌だってのめっこそうだし(つるつるしてそうだし)、琥珀、本当にめんこいし(可愛いし)。だら(だから)、めった(何度も)ひっつかないでくれ(くっつかないでくれ)!」
「あ、あの。えっと……。悠介、なんかわからないけど、ごめん?」
「はぁはぁはぁ……。俺こそ、ごめん」
「ぷっ。あはははは! 悠介、顔真っ赤じゃん!? ウケる!」
「ちょ、ちょっと琥珀、こっちは真剣なんだからな!」
「あはははは! だからごめんって。でも早口だし、秩父弁丸出しだし。俺、何言ってるか全然わからなかった! あはははは!」
息を切らしながら顔を真っ赤にしている悠介を見ていると、可笑しくて――。俺は腹を抱えて笑ってしまう。あぁ、俺ってまだこんな風に笑えるんだなって、びっくりしてしまった。
いつの間にか夕立は去って、空が夕焼けに染まっていた。温かな風が境内の中を吹き抜けていき、濡れた髪を揺らしていった。
「言い合いしてるうちに雨が上がったな。このまま髪と洋服が乾いちゃいそう」
「本当だね。大丈夫? 琥珀、風邪ひかない?」
「大丈夫だよ。それより、今鳴いてる蝉がカナカナだろう?」
「そう。ヒグラシのことをカナカナって言うんだ」
「俺、カナカナの鳴き声を聞くと凄く落ち着く」
ようやく普段通りの落ち着きを取り戻したのか、悠介が前髪を掻き上げている。乱れた長い髪が頬に掛かる姿が色っぽい。相変わらず濡れた洋服から透ける筋肉が、今の俺には目の毒だ。
悔しいけれど、悠介は男らしくてかっこいい。
「あ、琥珀、虹が掛かってるよ」
「本当だ。それに二重になってる!」
「超ラッキーじゃん! 綺麗だね」
二人して顔を見合わせて笑う。
「雨で地面がぬかるんでるから、手を繋ごう? ほら、手を貸して」
「だから、俺はガキじゃないって」
「でも、琥珀って昔からよく転んで怪我ばっかりしてたじゃない?」
少しだけ照れくさそうに悠介が手を差し伸べてくれたから、俺は文句を言いながらもその手を掴む。悠介がギュッと握り締めてくれた瞬間、嬉しくて胸が締め付けられた。
「ねぇ、琥珀。帰ったらお風呂に入ろう」
「は? 一緒に入るの? 悠介のエッチ」
「違うって。別々に入るんだよ。琥珀こそ、俺と一緒に入りたいんじゃないの? どうしても一緒に入りたいなら、入ってあげないこともないけど……」
悪戯っ子のように笑って見せる悠介の頬も、うっすら赤くなっている。それは夕日のせいだろうか。恥ずかしくなってしまった俺は、照れ隠しに話題を変えてしまう。
「それより俺、早く魚が食べたい!」
「うん、新鮮なうちに食べよう! 俺、魚捌くのも得意なんだよ」
「マジで? 超楽しみ!」
「沢蟹がないのは残念だけどね……」
「うっせぇよ。今度はクーラーボックスいっぱいに捕まえてやるからな!」
「それは楽しみだなぁ」
二人で顔を見合わせて笑う。俺に向って微笑む悠介に、ドキドキせずにはいられなかった。



