名もなき剣に、雪が降る ― 桶狭間影走り

第三十二話「山中にて」

 風が変わった。
 尾張の秋はまだ始まってもいないというのに、肌に触れる風の手触りだけが、あの戦の朝とは違っていた。
 矢野蓮は、ゆっくりと尾根を登っていた。
 太一が後ろからついてくる。ふたりとも口数は少なかったが、沈黙はどこか穏やかだった。
 それは、戦が終わったことによる安堵ではない。ただ、ようやく“確かめに行く時”が来たのだと、互いにわかっていたからだ。
 目的地は、あの山中、廃寺そばの野営地跡だった。
 桶狭間の出陣前、三人で最後の夜を過ごした場所。
 焚火の煙を目で追い、干し飯を分け合い、風の音に耳を澄ませた――それだけの夜。
 だが、何かを残していった夜だった。
 静が「帰ってくる」と言い、蓮が「死ぬな」と伝えた場所。
 だからこそ、いま来なければならなかった。
   ※
「……草、伸びてんな」
 太一がぽつりとつぶやく。
 誰の手も入っていない山中の跡地には、草が好き勝手に茂っていた。
 それでも、どこかで見た景色のはずだった。
 朽ちた廃寺の山門、割れた石畳、軒の落ちかけた堂の屋根――
「変わってない」
 蓮が小さく言った。
 静の声が聞こえそうだった。
 何かを断ち切るように、何も言わずに去っていった、あの夜の背中。
 二人は境内の真ん中に進み、ゆっくりと腰を下ろす。
 ふたりが腰をかけた石は、三人で並んだ夜と同じ場所にあった。
 目を凝らすと、うっすらと煤が残っていた。焚火の名残が、まだ土の色に染みていた。
 太一は懐から干し飯を取り出した。ぼそぼそとした音を立てて、それをふたつに割る。
「……あのときも、こうして食ったっけな」
「ああ」
「味、あんま覚えてねぇけどな。なんでだか、温かかった気がする」
 蓮は答えなかった。
 太一が、もう片方の干し飯を蓮の方に差し出した。
「一応、三つ持ってきてる」
 その言葉に、蓮は一瞬だけ眉を上げた。
 太一は袋の奥から、三つ目の干し飯をゆっくりと取り出し、割らずにそのまま、焚火跡のそばに置いた。
「……なあ、蓮。お前、ここに来て、何か“ある”って思ってた?」
「“ある”とは?」
「何かさ。痕跡でも、置き土産でも、遺言でも――なんでもいい。静が何か残してくれてるんじゃないかって、期待してた?」
「……わからない。ただ、来たかった。それだけだ」
 太一は、ふっと笑った。
「俺はさ、来るのが怖かったんだよ」
「なぜ」
「だって、何もなかったら、それって“完全にいなくなった”ってことだろ」
 その言葉に、蓮は一瞬だけ呼吸を止めた。
 何もないということの意味。それが、どれだけ深く人を抉るかを知っている者の声だった。
 太一は、白い布のようなものを目に留めて、ふと立ち上がった。
「……あれ」
 軒下に、それは吊るされていた。
 布切れ――否、細く裂かれた白装束の端。あの夜、静が包帯代わりに使っていた布。
「……残ってたのか」
 蓮が立ち上がり、それに触れた。
 布は風に揺れ、かすかに音を立てた。それはまるで――呼吸のようだった。
「ここに、いたんだな」
 太一が言った。
 その瞬間だった。
 蓮が、堂の壁の影、崩れた柱の裏側に、何かが転がっているのを見つけた。
 白鞘の短刀だった。
 ゆっくりと、慎重に手を伸ばす。
 それは確かに、静の白鞘だった。だが、刀は鞘から抜かれていなかった。
 静の最後の剣。名を持たない剣。
 それは、誰の手にも渡らぬまま、ここにあった。
 蓮は、両手でその鞘を抱えた。
 冷たかった。けれども――
「……あったかい」
 そう、確かに思った。
 ありえないはずのぬくもりが、まだほんのわずか、鞘に残っていた。
「……置いてったんだな」
 太一が言った。
「この寺に。ここに帰るつもりで。いつかまた戻ってくるつもりで。――でも、戻らなかった」
 蓮は答えず、白鞘を胸に抱いたまま、目を閉じた。
 焚火の跡。三人で並んだ石。吊るされた布。床板の煤。そして白鞘。
 ここは、静が確かにいた場所だった。
 ただの野営地ではない。“帰る場所”だったのだと――そう、思えた。
   ※
 日が傾き始める頃、二人は堂の縁側に座っていた。
 寺全体に沈黙が降り、風がときおり葉を揺らしていた。
 太一が煙草の袋を取り出した。
 ふたりとも、黙ってその火を見ていた。
「……俺、ずっと考えてたんだよ」
 太一が言う。
「どうして、あいつはあんなに斬れたのか。どうして、俺たちと一緒にいたのか。どうして、消えたのか――ってさ」
「答えは、出たか」
「出たような気もするし、出ないような気もする。けど、ひとつだけ、わかったことがある」
「なんだ」
「“いなくなった”ってことが、全部、答えだったのかもしれないなって」
 蓮は、しばらく黙っていた。
「……そうだな。全部、言葉にならなかったけれど、ちゃんと伝えていたのかもしれない」
「ここに置いていったもの、全部が答えだったってことか」
 蓮は、静かに頷いた。
 戦に生き、名を持たず、ただ消えていった剣士。
 けれどその男が、“いた”という事実は、こうして確かに手元に残っている。
 名を刻まないということは、忘れ去ることとは違う。
 むしろ、その逆だった。
 名がないからこそ、記憶のなかに、そのままの姿で残っていく。
 嘘も、飾りも、脚色もないままに。
 太一が、煙草を揉み消した。夕暮れのなか、ふたりはしばらく言葉を交わさなかった。
 それでも、心にはいくつもの言葉があった。
 語られぬまま、確かにそこにあった。
   ※
 下山の頃には、空に星が一つ、滲むように浮かんでいた。
 寺を出る前、蓮は白鞘を再び手に取った。
 それは、まるで「置いていってくれ」と言われたかのように、そこに在り続けていた。
「持って帰るのか」
 太一が尋ねた。
「ああ」
「それって……」
「預かりものだ。持ち主が戻ってくるまで」
 太一は、それ以上何も言わなかった。
 蓮の腕の中で、大小二本の白鞘は重く、けれど不思議なことに、温かかった。
 それは“別れの証”ではなく、“繋がりの証”だったのかもしれない。
 名もなき剣士が、確かにこの地にいたこと。
 そしてその剣が、まだ“どこかにある”ということ――
 その記憶だけが、夜のなかに、ほのかに灯っていた。