「ほう、圭二がそんなことを」
自分以外の門下生が全員帰宅した頃を見計らって、大雅は相馬に話したいことがあると申し出た。先ほどの圭二とのやりとりを、相馬に報告したのだ。二人は互いに正座をして向き合っていた。道場内は、空調が効いているというのに、大雅は全身にじんわりと汗をかいていた。練習のせいではない。相馬と向き合っていること、そしてこの場で繰り広げられている話の内容が、彼の精神を焦らせていたからだ。
「オレ、格闘技に向いていないのでしょうか」
「結論を出すには尚早すぎるとは思わないか」
「あ、はい、いや……はい」
狼狽えて言葉が絡まってしまう。すみませんと頭を下げる。また体が火照ってきたので、思わずシャツの袖を肩まで捲り上げた。
「圭二の言ったことに、大雅は心当たりがないのか」
「ありません。正直、あいつがなんでそんなことを言ったのかも分からないんです」
うーむと、相馬は唸った。圭二が言ったことに、相馬も心当たりがあったからだ。
たとえばミット打ちのとき、「思いきり打ってこい」と言わなければ、大雅の打撃の精度は突出して強くはない。寝技の練習のとき、互いに組み合っていても、大雅の攻撃では簡単に拘束が外れてしまうことが多々ある。
(圭二はそれを、優しさだと表現したか……)
大雅に格闘家としての才能がないわけではない。彼の境遇を鑑みるととても喜べたものではないが、人並み以上の打たれ強さもある。度胸もある。
互いが互いを倒そうと対峙するリングの上では、ともすると自分よりも強いかもしれない相手と拳を交えることに恐れをなしてはならない。その点大雅は、普段から肝が据わっているともいえる。どんな格上の選手とまみえることになったとしても、彼が怖じ気づくことはないだろう。
それでも大雅は、まだ年端もいかぬ少年だ。まったく予想だにしていなかった自分の弱点を、好敵手ともいえる圭二に突きつけられた。その事実が彼をひどく動揺させていることは明白だ。まだ成熟していない少年の心は揺らぎ、思わず相馬に助けを求めてきたのだろう。
「たしかに私も、圭二の言ったことに心当たりがないわけではない。だからといって、気に病むようなことではないと思う。たとえば……」
ここで相馬は言葉を切って、大雅の様子をみた。普段、勝ち気そうな三白眼の目が、いまは不安げに揺れている。プロの格闘家としてリングに上がるという夢は、おそらく彼が初めて心に抱いた希望だろう。ならば易々と手放したくないはずだ。しかしそれが、挑戦する前から潰えてしまうのではないかと危惧しているのだ。
「大雅。お前は人の痛みを、ここにいる誰よりも知っている。だから、もしかすると、自分の攻撃で目の前の相手が苦しむさまを見たくないと、無意識に思っているのかもしれない。私や圭二が、お前と親しい関係だから、余計にその気持ちが強くなり、いざというときに力を緩めてしまうのかもしれない」
「……じゃあ、実際に試合で闘うときは、大丈夫だということですか」
大雅の切実な質問に、相馬は首肯することができなかった。「そればかりは、実際にやってみないとわからないな」
言葉に出さずとも、大雅は明らかに落胆したような素振りをみせた。
「いいか大雅。どんなスポーツにおいても、試合では全力で相手とぶつかり合わなければならない。ひいてはそれが、自分との闘いにもなる。誰もがみんな、勝利や栄光を掴むために、自分の限界を超えようとするものだ。たとえば大雅、お前がリングに立ったとき、目の前に立ちはだかる相手は本気でお前を倒そうとしてくるだろう。だが、お前も勝たなければ、先には進めない。そんな状況のなかで、お前は勝つために自分を奮い立たせ、すべての力を出し切る必要があるだろう。大事な場面で悔いのない闘いができるかどうか。力を発揮するために、お前はそれまでの自分よりも強くあらねばならないのだ」
大雅は無言のまま、相馬に言われたことを頭の中で反芻していた。腿の上に置いた拳をぎゅっと握りしめる。勝つために自分がやらねばならないこと。それは、一秒前の自分よりも、今の自分が強くあること。もしも自分が拳を交える相手を慮っているのだとしたら、それが無意識であったとしても、闘いの場においてはふさわしくはない行為だ。場合によっては手を抜いていると捉えられるかもしれない。
——悪いけど僕なら、誰が相手でも、闘いの最中に相手に情けをかけることはしないよ。……それが普通だよね。
圭二に言われた言葉が蘇ってくる。決して自分は情けをかけているつもりなどなかった。それでも、圭二はそう解釈してしまった。静かに彼は怒っていたのかもしれない。練習だとはいえ、手を抜くとは何事だ、と。
そしてそれは、優しさなどではない。
「とはいえ、大雅。お前の癖は、すぐに克服できるようなものでもなさそうだ。『無意識にやっているかもしれない』というのが、なかなか厄介だな。だが、案ずることはない。まずは大雅の心に巣くっている、見えない自分に打ち勝てるように頑張ろう」
相馬の分厚い手のひらが、わしゃわしゃと大雅の頭を撫でた。面映ゆくなって顔を伏せた大雅だったが、心の中があたたかい安心感で満たされていくのが分かった。
道場のシャワールームで、熱いお湯を頭からかぶりながら、大雅は排水口をじっと見つめていた。体を流れ落ちていくお湯のように、心の中の不安も、疑念も、なにもかもが簡単に流されてくれればいいのに。
感情をもって生きていくというのが面倒なのか。あるいは、ただ単純に、自分に与えられた境遇が、この鬱々とした想いを抱かせているのか。
しゃがみ込む。お湯が床に打ち付ける音が、耳のそばに近づいてくる。心が重い。自分が年齢を重ねるたびに、色々なことを知っていって、知見は広がっていくけれど、その分思い悩むことも増えてくる。小学生の頃、親に虐げられていたときと比べると、またベクトルの違う感情が、大雅の心を苛んでいっているのだ。
信じられるのは、自分だけだった。それは今も根本的には変わっていない。信じられるものが少ないというのに、その自分さえ疑いたくなるときがある。
たとえばいまの現状を——自分の日常を、いっそ壊してしまいたくなることがある。衝動にまかせてしまえば簡単なことだろうが、理性が感情に歯止めをきかせているあいだは、簡単に行動には移せないことも分かっている。
現状に満足していないことは確かなのに、ではどうすれば満足出来るのかが分からない。何かを許せばいいのか、あるいは何かが足りないのか。自分の気持ちを抽象的な言葉でしか推し量ることができないのは、やはり何も分かっていない証なのではないだろうか。ならば。
焦らずに、それが分かるまで現状に留まっておくべきなのか。なにもかも曖昧なままで先に進もうとしても、また途中でもがき苦しむしかないような気がする。今はまだ、大人になる途中の道端で、石ころに躓いて転んでしまっただけなのだとしたら。傷の痛みに耐え、立ち上がれる時がいつか訪れるものだと信じるしかない。
誰かの言葉に叱咤されたり、あるいは道標を見つけたとしても、最終的に動き出すのは結局、自分でしかないのだから。
立ち上がり、シャワーを止める。ほとんど長さのない髪の先から、雫がぼたぼたと体に流れ落ちてきて、大雅は手のひらで力強く顔をこすった。
シャワールームを出る。タオルで全身の水分を拭き取る。どうすればいいのかわからなくて現状を打破することができない場合は、ときに立ち止まってゆっくりすることも大事なのかもしれないと、大雅は考えていたのだった。
自分以外の門下生が全員帰宅した頃を見計らって、大雅は相馬に話したいことがあると申し出た。先ほどの圭二とのやりとりを、相馬に報告したのだ。二人は互いに正座をして向き合っていた。道場内は、空調が効いているというのに、大雅は全身にじんわりと汗をかいていた。練習のせいではない。相馬と向き合っていること、そしてこの場で繰り広げられている話の内容が、彼の精神を焦らせていたからだ。
「オレ、格闘技に向いていないのでしょうか」
「結論を出すには尚早すぎるとは思わないか」
「あ、はい、いや……はい」
狼狽えて言葉が絡まってしまう。すみませんと頭を下げる。また体が火照ってきたので、思わずシャツの袖を肩まで捲り上げた。
「圭二の言ったことに、大雅は心当たりがないのか」
「ありません。正直、あいつがなんでそんなことを言ったのかも分からないんです」
うーむと、相馬は唸った。圭二が言ったことに、相馬も心当たりがあったからだ。
たとえばミット打ちのとき、「思いきり打ってこい」と言わなければ、大雅の打撃の精度は突出して強くはない。寝技の練習のとき、互いに組み合っていても、大雅の攻撃では簡単に拘束が外れてしまうことが多々ある。
(圭二はそれを、優しさだと表現したか……)
大雅に格闘家としての才能がないわけではない。彼の境遇を鑑みるととても喜べたものではないが、人並み以上の打たれ強さもある。度胸もある。
互いが互いを倒そうと対峙するリングの上では、ともすると自分よりも強いかもしれない相手と拳を交えることに恐れをなしてはならない。その点大雅は、普段から肝が据わっているともいえる。どんな格上の選手とまみえることになったとしても、彼が怖じ気づくことはないだろう。
それでも大雅は、まだ年端もいかぬ少年だ。まったく予想だにしていなかった自分の弱点を、好敵手ともいえる圭二に突きつけられた。その事実が彼をひどく動揺させていることは明白だ。まだ成熟していない少年の心は揺らぎ、思わず相馬に助けを求めてきたのだろう。
「たしかに私も、圭二の言ったことに心当たりがないわけではない。だからといって、気に病むようなことではないと思う。たとえば……」
ここで相馬は言葉を切って、大雅の様子をみた。普段、勝ち気そうな三白眼の目が、いまは不安げに揺れている。プロの格闘家としてリングに上がるという夢は、おそらく彼が初めて心に抱いた希望だろう。ならば易々と手放したくないはずだ。しかしそれが、挑戦する前から潰えてしまうのではないかと危惧しているのだ。
「大雅。お前は人の痛みを、ここにいる誰よりも知っている。だから、もしかすると、自分の攻撃で目の前の相手が苦しむさまを見たくないと、無意識に思っているのかもしれない。私や圭二が、お前と親しい関係だから、余計にその気持ちが強くなり、いざというときに力を緩めてしまうのかもしれない」
「……じゃあ、実際に試合で闘うときは、大丈夫だということですか」
大雅の切実な質問に、相馬は首肯することができなかった。「そればかりは、実際にやってみないとわからないな」
言葉に出さずとも、大雅は明らかに落胆したような素振りをみせた。
「いいか大雅。どんなスポーツにおいても、試合では全力で相手とぶつかり合わなければならない。ひいてはそれが、自分との闘いにもなる。誰もがみんな、勝利や栄光を掴むために、自分の限界を超えようとするものだ。たとえば大雅、お前がリングに立ったとき、目の前に立ちはだかる相手は本気でお前を倒そうとしてくるだろう。だが、お前も勝たなければ、先には進めない。そんな状況のなかで、お前は勝つために自分を奮い立たせ、すべての力を出し切る必要があるだろう。大事な場面で悔いのない闘いができるかどうか。力を発揮するために、お前はそれまでの自分よりも強くあらねばならないのだ」
大雅は無言のまま、相馬に言われたことを頭の中で反芻していた。腿の上に置いた拳をぎゅっと握りしめる。勝つために自分がやらねばならないこと。それは、一秒前の自分よりも、今の自分が強くあること。もしも自分が拳を交える相手を慮っているのだとしたら、それが無意識であったとしても、闘いの場においてはふさわしくはない行為だ。場合によっては手を抜いていると捉えられるかもしれない。
——悪いけど僕なら、誰が相手でも、闘いの最中に相手に情けをかけることはしないよ。……それが普通だよね。
圭二に言われた言葉が蘇ってくる。決して自分は情けをかけているつもりなどなかった。それでも、圭二はそう解釈してしまった。静かに彼は怒っていたのかもしれない。練習だとはいえ、手を抜くとは何事だ、と。
そしてそれは、優しさなどではない。
「とはいえ、大雅。お前の癖は、すぐに克服できるようなものでもなさそうだ。『無意識にやっているかもしれない』というのが、なかなか厄介だな。だが、案ずることはない。まずは大雅の心に巣くっている、見えない自分に打ち勝てるように頑張ろう」
相馬の分厚い手のひらが、わしゃわしゃと大雅の頭を撫でた。面映ゆくなって顔を伏せた大雅だったが、心の中があたたかい安心感で満たされていくのが分かった。
道場のシャワールームで、熱いお湯を頭からかぶりながら、大雅は排水口をじっと見つめていた。体を流れ落ちていくお湯のように、心の中の不安も、疑念も、なにもかもが簡単に流されてくれればいいのに。
感情をもって生きていくというのが面倒なのか。あるいは、ただ単純に、自分に与えられた境遇が、この鬱々とした想いを抱かせているのか。
しゃがみ込む。お湯が床に打ち付ける音が、耳のそばに近づいてくる。心が重い。自分が年齢を重ねるたびに、色々なことを知っていって、知見は広がっていくけれど、その分思い悩むことも増えてくる。小学生の頃、親に虐げられていたときと比べると、またベクトルの違う感情が、大雅の心を苛んでいっているのだ。
信じられるのは、自分だけだった。それは今も根本的には変わっていない。信じられるものが少ないというのに、その自分さえ疑いたくなるときがある。
たとえばいまの現状を——自分の日常を、いっそ壊してしまいたくなることがある。衝動にまかせてしまえば簡単なことだろうが、理性が感情に歯止めをきかせているあいだは、簡単に行動には移せないことも分かっている。
現状に満足していないことは確かなのに、ではどうすれば満足出来るのかが分からない。何かを許せばいいのか、あるいは何かが足りないのか。自分の気持ちを抽象的な言葉でしか推し量ることができないのは、やはり何も分かっていない証なのではないだろうか。ならば。
焦らずに、それが分かるまで現状に留まっておくべきなのか。なにもかも曖昧なままで先に進もうとしても、また途中でもがき苦しむしかないような気がする。今はまだ、大人になる途中の道端で、石ころに躓いて転んでしまっただけなのだとしたら。傷の痛みに耐え、立ち上がれる時がいつか訪れるものだと信じるしかない。
誰かの言葉に叱咤されたり、あるいは道標を見つけたとしても、最終的に動き出すのは結局、自分でしかないのだから。
立ち上がり、シャワーを止める。ほとんど長さのない髪の先から、雫がぼたぼたと体に流れ落ちてきて、大雅は手のひらで力強く顔をこすった。
シャワールームを出る。タオルで全身の水分を拭き取る。どうすればいいのかわからなくて現状を打破することができない場合は、ときに立ち止まってゆっくりすることも大事なのかもしれないと、大雅は考えていたのだった。



