「た、大雅、最近よく来るね」
「……てめえ、嫌味か?」
 大雅にギロリと睨まれて、圭二は首をすくめた。「いや、そんなつもりじゃないよ。僕はただ嬉しくて……」
「ああん? なにがだよ」
「大雅もプロを目指すんだよね。僕、嬉しいな。同じ道場で僕と同じ目標を持ってる人がいて。それが大雅だっていうのがもっと嬉しいよ」
「……うるせえよ」
 ニコニコと笑う圭二を一蹴して、大雅はタオルで顔を拭った。奇しくもそれは、まるで照れた顔を隠しているようにもみえた。
 学校を退学になって、学園での奉仕活動以外は一日の大半が手持ち無沙汰になった大雅は、自然とつぐみ道場に顔を出す頻度が増えていった。ほぼ毎日、といっても差しつかえない。
 道場で体を動かしているあいだはなにも考えなくてよかった。圭二がいないときは他の門下生の鍛錬を手伝ったり、道場の掃除をこなしていった。ときに相馬とスパーリングをすることもあった。
 練習とはいえ、対戦相手として自分の前に立ちはだかる相馬は、やはりプロの格闘家であり、現役のチャンピオンである風格を醸し出していた。巧みな技をもってして、大雅を指導する。大雅はそれに食らいついていくのに必死だった。
「圭二、リングに上がれ」
「うん!」
 嬉しそうに圭二が立ち上がる。先ほどまで自分も、ハードな練習をこなして疲れているはずなのに、その足取りは軽やかだった。
お願いしますの掛け声とともに、しばらくのあいだ互いの出方を伺っていた二人は、やがて組み合った。大雅の左手が圭二の首を掴む。ぐんと体を引き寄せ、右腕を圭二の脇腹に絡ませようとしたが、それは払われてしまった。
(……!!)
 圭二がぐるんと身をかがませ、大雅の懐に飛び込んできた。ドッと音がして、大雅は尻餅をつくように後ろ手に倒れた。上半身は宙に浮いていたが、圭二が体重をかけて押し倒そうとしてくる。
 大雅は隙を見逃さなかった。腹筋に力を入れ、ぐわりと下半身を宙に上げ、すかさず圭二の首に足を巻き付けた。両足で頸動脈を絞め付ける——三角絞めだ。
 さすがの圭二も顔を強ばらせ、拘束を解こうと躍起になる。闇雲に大雅の膝を裏拳で叩き、ほんの少し拘束が弱まったところで衣擦れの音がした。
(こいつ……)
 ぬっ、と、圭二の頬と自分の太腿の隙間から、圭二の指先が現れたのを、大雅は確認した。上半身を押し込んできて、大雅の拘束を緩ませようとしてくる。圭二の顔が大雅の胸元まで徐々に迫ってくる。
(まずい……)
 両腕をねじ込まれた。圭二は自分の顔の前で手を組み、大雅の胸を圧迫した。そのまま力を込めて上体を起こすと、大雅の足の拘束は簡単に解かれた。
(やっぱりこいつに寝技を仕掛けようとしても、簡単にはいかねえか………)
 ブザーが鳴る。二人は組み合うのをやめ、向き合って一礼をした。五分一ラウンドの時間制限では、圭二の牙城を崩すことはかなわなかった。
「もうちょっとだと思ったんだけどなあ……」
 リングロープをくぐり、道場の床に足を着けたとき、大雅はぼそりと呟いていた。周りに誰もいないと思っていたのに、門下生のひとりに聞かれていたようで、彼がのしのしと近づいてくる足音が大雅の耳にも聞こえてきた。
「いやあ、大雅クン、さっきの組み合いはヒヤヒヤしたヨ。あわよくばキミが圭二くんから一本取るんじゃないかってネ」
「……あざっす」
 小太りの男の名は羽生といった。三十代前半の勤め人である彼は、最近体が鈍って腹が出てきたという理由でつぐみ道場でトレーニングを行っている。週に二、三回ほど顔を出すのが常となっている男だった。羽生に限らず、社会人の門下生は、自分の仕事や家庭等の兼ね合いもあり、道場に通う頻度は彼と同じくらいになる。誰も彼もがその道のプロを目指して競技に勤しんでいるわけではない。彼らのような一般の門下生こそ、つぐみ道場の運営を支えているのだ。
「いやあ、ボクももう少し闘えるようになったら、大雅クンに手合わせを挑んじゃおうカナ!」
「オレと羽生さんじゃ、階級が違います」
 どう返せばいいのか分からなかったから、至極当たり前のことを口にしてしまった。大雅はぺこりと頭を下げ、圭二のもとへ歩いていく。リング上では、別の二人の組み合いがはじまっていた。
「圭二」
「今日はよく話しかけてくるね、大雅」
「わりいかよ」
「いつもこんなふうに機嫌がいいと良いんだけどなあ。……あっ、ごめん、深い意味はないから、聞き流してね」
「話があるからおまえに話しかけているんじゃねえか。そうじゃなきゃ、おまえみたいなヘタレとはつるまねえよ」
 憎まれ口を叩く大雅に、圭二は苦笑した。本気で大雅が悪態をついているわけじゃないことは、圭二も分かっていた。だから聞き流す。
「……おまえはオレの弱点を知っているよな」
「それは、競技上の話、かな」
「それ以外になにがあるってんだよ」
「あ、ああ、ごめん。大雅がこの道場に入った頃から、僕たちはずっと一緒だからね。君の癖やパターンも、だいぶ知っているつもりだよ」
 大雅は顔を上げ、圭二と視線を合わせた。栗鼠のようなつぶらな瞳に、いまは自分の何もかもを見透かされているかのような心地にとらわれる。
「いちばんの君の弱点は……そうだなあ……言ってもいいのかい?」
「なに勿体ぶってんだよ。さっさと言えよ」
「でも言っちゃうと、余計に意識しちゃうかもしれないし」
「うるせえ、さっさと言え」
 大雅がすごむと、圭二は少しだけ視線をはずして迷うような仕草をみせたあと、やがて意を決したように口を開いた。
「大雅は優しすぎるってところ、かな」

 どういう意味だと掴みかかりそうになった。おまえはなにか勘違いをしている。おまえ自身のことならともかく、オレが優しいだと……? ふざけんじゃねえ。
「やさしいって、オレをぶっ倒すのが簡単だって言いてえのかよ」
 日本語は、同じ音の言葉でも、まったく意味の異なる言葉がある。圭二の発言を自分は「優しすぎる」という意味で捉えたが、あるいは「易しすぎる」と言いたかったのかもしれないという可能性に賭けてみたが、圭二には一笑された。
「いくら僕でもそんな回りくどい言い方はしないよ」
「じゃあなんだよ」
「ほら、さっきの組み合いで、大雅は三角絞めで僕を絞め上げようとしたけれど、僕が苦し紛れに君の足を殴ったとき、君はちょっと力を緩めてくれただろう」
「てめえのためじゃねえ!!」
 あのとき、力が緩んでしまったことは自覚していた。なぜそうしてしまったのかは自分でも分からなかった。ただ、意図的に相手を思って攻撃の手を緩めたわけではないはずだ。
「いまは練習で、僕が相手だからいいけれど、あれが試合だったなら、君は勝機を逃していたかもしれない。そればかりか、一気に形成を逆転されて、負けてしまうことだってあるんだよ。今回だけじゃない。君はこれまでにも僕との手合わせで、攻撃の手を緩めることがあった。もちろん意識的にやっているわけじゃないだろうし、僕が相手のときだけの癖なのかもしれない。……理由はどうあれ、それをこれからも対戦相手全員にやっていくことになったら、君は誰にも勝てないよ」
 大雅は思わず目の前にあったサンドバッグに蹴りを入れていた。打撃音が道場内に響き渡り、鎖が軋む。
 なにも心当たりがないことを指摘されたのに、図星を突かれたような気分になった。攻撃の手を緩めてしまったことは事実なのだ。事実、相手には隙を与えてしまった。圭二の言うとおり、あれが試合だったなら、取り返しのつかない展開になっていたかもしれない。
「悪いけど僕なら、誰が相手でも、闘いの最中に相手に情けをかけることはしないよ。……それが普通だよね」
 トイレに行ってくるよと言って、圭二は大雅のわきを通り抜けて更衣室に引っ込んでいった。情けなんてかけてねえんだ、オレも……。だがいまはなにを言っても、言い訳にしか捉えられないような気がして、大雅はこみ上げてきた感情をサンドバッグにぶつけることしかできなかった。