「いが……大雅!!」
名前を連呼されている気がする。意識が覚醒してきて、ハッと目を開けると、陽太の顔が自分をのぞき込んでいる様子が視界に入ってきた。
「あ……」
まただ……。全身に大量の汗をかいていた。突如覚醒したせいか、夢の内容はすっかり記憶の中から消え去っていて、それでも自分がうなされていたのだということだけははっきりとわかった。
「大丈夫か!? 気分は悪くねえか?」
「ああ、ごめんな、いつも」
陽太は気にすんなとにっこり笑い、自分の寝床へと戻っていった。
壁にかかっている時計の秒針の音がやけに大きく感じる。時刻は深夜の一時すぎを指しているのがうっすらと見えた。
何度目だろうか、こうしてうなされていて、陽太に起こされるのは。
布団のなかで丸くなって、感情の高ぶりを抑える。しばらくじっとしていると、やがて陽太の寝息がきこえてくる。自分とは違って、陽太は昨日も学校に行き、部活動に汗を流してきたのだ。つまり疲れている。彼の睡眠を阻害してしまったことに申し訳なくなる。気が張り詰めてしまって、大雅はそのまま朝まで眠ることができなかった。
「大丈夫? なんか眠たそうじゃない」
「……大丈夫っす」
フライパンの上でベーコンがパチパチと音を立てて油を浴びていた。大雅はそれをフライ返しでひっくり返しながら、ぼそりと答えた。問いかけたのは、しょうりつ学園の厨房の職員としてパートで働いている織田という名の女性だった。
学生としての身分を失った大雅は、本来ならばここを退所しなければならない状況にあるはずだが、学園の業務の一部に奉仕するということを条件に、十八歳になるまでは籍を置かせてもらえることになった。
児童の誰よりも早く起床し、自分たちの朝食を準備するというのも、その奉仕のうちの一環だった。
「大雅くんが手伝ってくれるから、あたしたちも楽でいいわよ〜。あっ、あたしがこんなこと言ってたって、正憲先生に言っちゃ駄目よお!」
朝から織田はテンションが高い。子育てをとうに終えた年齢の彼女は、明るく、元気いっぱいの女性だった。背は大雅よりも低いが、横幅は大雅よりも恰幅がいい。朝食の時間になると、食堂に集まってきた児童たちにいつも元気に接している様子がよくみられている。
「言わないっすよそんなこと」
大雅は苦笑する。ほどよく焼けたベーコンを、人数分の皿に取り分けていく。皿にはすでにレタスやトマトなどの野菜が盛られており、あとは目玉焼きとトーストをのせれば、ワンプレートの朝食の完成だ。
「あら、大雅くん、またちょっと筋肉ついたんじゃない?」
織田は、大雅が着ている半袖のシャツから覗く腕の力こぶを見てそう言った。「さすが、格闘技をやってるだけあって、いいカラダね! あっ、これってこのご時世、セクハラになっちゃうのかしら!」
ギャハハと派手な笑い声を響かせる。
「織田さん、喋ってばかりいないで、ちゃんと手を動かしてください」
今まで沈黙を貫いていたもう一人の職員が、織田を咎めるように口を開いた。黒縁メガネの奥の細い目が、織田をとらえている。すらりと背の高い青年であった。彼の名は多枝。しょうりつ学園の厨房に勤める正職員だ。
「あら〜、ごめんなさいね、多枝くん」
多枝は真面目な青年であった。もとは彼もしょうりつ学園の入所児童として、数年前まで暮らしていたが、卒園後に今度は職員として入職した。いまは厨房で調理補助として働いているが、ゆくゆくは資格を取って児童指導員になることを目標としているらしい。物静かで実直な性格は、大雅とは対極を成しているともいえる。
多枝は大雅たちが出した洗い物を処理している最中だった。大雅が気を遣って、「手伝いますよ」と言ったが、「ここは大丈夫だから、織田さんのほうを手伝ってやって」とあしらわれてしまったばかりだ。
食堂の外から、小学生たちの喧騒が聞こえてくる。そろそろ食事が始まる時間だ。大雅は厨房からトースターを運び出し、食堂の各テーブルに一台ずつ置いていく。児童たちが食べるトーストは、各自で焼いて準備することになっているのだ。
大雅はトーストの上にマーガリンを塗り、砂糖をまぶして食べるのが好きだった。一口囓ると口の中にばあっと広がる甘みが、まだ「普通」だった頃の思い出を呼び起こす。それは、まだ大雅がいまよりもずっと幼かった頃、あの男が家族になる前のことだった。
大雅の母親である藤堂しおりは、大雅を産んですぐに離婚している。だから大雅は、自分の本当の父親の顔を知らずに育った。あの男が「父親」と名乗るまでは、しおりは女手ひとつで大雅を育てていたのだ。
生活は楽ではなかった。だが、他人との貧富の差など、幼い大雅には分かるはずもない。どれだけ貧しくとも、暴力のない世界の中で生きることを、その後の自分の人生と天秤にかければ、どちらが安寧だったかは一目瞭然だ。
しおりは大雅を愛していなかったわけではない。腹を痛めて念願の実子を産んだとき、自分の命に代えてでもこの子を守り抜こうと、腕の中で産声を上げる我が子を見て思ったはずだ。まだ名のついていない男の子は、世界のどんなものよりも愛おしく、そして輝いてみえた。大きく、そしてなによりも正しく生きていってほしいという願いを込めて、しおりは男の子に大雅と名付けた。
その頃にはすでに夫婦の関係に歪みが生じていた。おそらく自分は夫と別れることになるだろうと、産婦人科のベッドの上で予感はしていた。だが、どんなことがあっても大雅は渡さない。この子は、わたしが育てるのだ。この子さえいれば、わたしはどんなことがあっても生きていける。しおりは頑なに、そう思っていた。
人間とは、憐れないきものだ。ひとたび抱いたはずの覚悟は、それが幻であったかのように、いつしか綻びていく。よほど強固な意志を持たぬ限り、周りの環境や自分が立たされた境遇に影響されて、ぼろぼろと崩れ去っていくことが多い。
しおりも例外ではなかった。シングルマザーという立場で社会を生き抜いていくことは、彼女が想像していた以上に、過酷なものだった。
金がない。ただそれだけなのに、精神的にも逼迫した。それだけのことに、日常のすべてを奪われた。
大雅は次第に荒んでいくしおりを無垢な瞳で見つめ続け、そしてしおりを追い詰めていった。腹を痛めて産んだ我が子が、なによりも愛おしい存在だと感じていたはずの我が子が、やがてなによりも疎ましい存在へと変わっていった。
——こいつさえいなければ、わたしはもっと自由に生きられたのに……。
稼いだ金が、すべて生活のために消えていく。幼い子供がいるから、満足に働けず、そのため充分な収入もない。それでもあるいは独り身なら、頻繁に贅沢はできないまでも、つつましく暮らしていけたかもしれない。
——わたしがこんなに苦労しているのは、ぜんぶ大雅のせいだ……。
ある日のことだった。仕事から帰ってきたときに、玄関の戸口で「おかあしゃん、おかえり」と、舌っ足らずな言葉で迎えてくれた大雅の横っ面を、気がつけば平手打ちしていた。
右手にじんじんと熱を帯びて、一瞬なにが起こったのか分からなかった。大雅もおなじだった。幼い膂力では、突然の暴力に耐えられるはずもない。床に転げ、へたれ込み、突如襲ってきた頬の痛みに、彼はわんわんと泣いた。
耳をつんざくような幼子の泣き声に、しおりの感情は一層沸き立った。
「うっせえんだよ!! だまれよ!!」
そう言って大雅の髪を掴み、床に顔面を押しつける。痛みと息ができない苦しさと、自分の身になにが起こっているのかわからない戸惑いで、大雅はさらに喚いた。手足をばたつかせ、苦痛から逃れようともがく大雅をみて、しおりははっと我に返った。
——わたしはなにをしているんだ。
この子はなにも悪くない。仕事から帰ってきたわたしを、ただ玄関先まで迎えにきてくれただけじゃないか。
そっと大雅を抱き寄せる。ごめんねごめんねと、赤く腫れた頬を撫でる。大雅のぬくもりを感じる。彼が自分とおなじように生きているひとりの人間であることを理解する。
「おかあしゃん、おかえり」と、大雅はもう一度言った。涙目で微笑んでいる。しおりはもう一度ごめんねと呟き、彼をそっと抱きしめた。
大雅をリビングに座らせたしおりは、冷蔵庫から食パンを一枚取り出し、トースターで焼いた。マーガリンの蓋を開け、残り少なくなっていることに気付く。ああ、また買わなくちゃと思いながら、焼き上がったパンに塗る。砂糖は賞味期限がないから、特売の日にいくつか買っておいた。大雅は甘いものが好きだから、砂糖をたくさんかけてあげよう。
「おかあしゃん、これ、ぼくが食べていい?」
大雅は自分の前に出されたトーストをみて、不思議そうに聞いてきた。
「ごめんね、こんなのしかなくって……」
しおりの言った言葉の意味が、大雅に伝わったのかどうかは分からない。それでも大雅はうれしそうに「いただきましゅ」と言って、四等分にされたトーストを一切れ掴んで、嬉しそうに頬張った。
「おいしいね、おかあしゃん。ぼくだけがたべたらずるいから、おかあしゃんもいっしょにたべよう」
独り占めはよくないと、大雅は幼いながらも考えたのだ。
それ以来、一度揺らいでしまったしおりの心が、元に戻ることはなかった。一度大雅に手を上げてしまったことが、負の感情が決壊した始まりだったのだ。
大雅は母親からの愛情を求めた。それは子供として至極当然の願いで、必ず与えられるべきものであった。しかし、しおりは時として感情を爆発させ、大雅の求愛を拒んだ。次第に大雅の体には痣が増えていき、それに比例するかのように彼は笑わなくなった。
大雅が小学校に入学してしばらくした頃、あの男が現れた。しおりと男が出会ったのはほんの些細な出来事。しおりが運転していた自動車がハンドル操作を誤って側溝に片輪を転落させてしまい、そこに通りがかった男が、しおりのことを助けたことがきっかけだった。
しおりが男と付き合うようになり、やがて同棲を始めるようになるのは時間の問題だった。
しおりは男の前では、大雅を子供として扱った。「前の旦那との子なんだけど」とことわりをいれるしおりに、男は「大丈夫、一緒に育てよう」と言った。
式は挙げなかったが、夫婦の籍は入れた。そして男は大雅の父親となり、しおりの夫となった。
育児の負担が減ったしおりは、男と一緒になったこともあり、ようやく三人での生活は安定するものと思われたが、現実はそう甘くなかった。自分になかなか懐かないことを疎ましく思った男は、やがて大雅に手を上げるようになったのだ。
最初は言うことを聞かない大雅を叱るときに、手が出てしまう程度のものだった。しかし、しおりと同様、一度手を出してしまえば、行為はどんどんエスカレートしていくものだ。最初は躾のつもりと軽い気持ちで手を上げた行為が、いつしか男の中で、大雅を服従させるための手段となった。
言うことを聞かない生意気なガキだから殴った。親に逆らうなどもってのほか。口で言っても分からないなら、殴ってでも分からせる必要がある。この家で一番偉いのは、この俺だ。何の役にも立たないクソガキは、おとなしく俺の言うことを聞いていろ。
男が大雅を虐げることを、しおりはなにも言わなかった。いや、大雅には言ったことがあった。
「あんたが悪いから、お父さんに迷惑をかけているのよ」と。だが、いくら大雅が男やしおりを怒らせないように努力をしても無駄だった。彼らはただ、自分の都合で大雅を振り回し、非情の限りを尽くしたのだから。
それでも大雅は、しおりの作ってくれるシュガートーストの味を忘れたことはなかった。野菜のたっぷり入ったポトフ、チャーハン、ミートソースのスパゲッティ……。オレはお母さんの作った手料理を、もう二度と食べられることはないんだろうか。
ふいに心をよぎった想いは、そんなものは初めからなかったかのように、すぐに消えていったのだった。
名前を連呼されている気がする。意識が覚醒してきて、ハッと目を開けると、陽太の顔が自分をのぞき込んでいる様子が視界に入ってきた。
「あ……」
まただ……。全身に大量の汗をかいていた。突如覚醒したせいか、夢の内容はすっかり記憶の中から消え去っていて、それでも自分がうなされていたのだということだけははっきりとわかった。
「大丈夫か!? 気分は悪くねえか?」
「ああ、ごめんな、いつも」
陽太は気にすんなとにっこり笑い、自分の寝床へと戻っていった。
壁にかかっている時計の秒針の音がやけに大きく感じる。時刻は深夜の一時すぎを指しているのがうっすらと見えた。
何度目だろうか、こうしてうなされていて、陽太に起こされるのは。
布団のなかで丸くなって、感情の高ぶりを抑える。しばらくじっとしていると、やがて陽太の寝息がきこえてくる。自分とは違って、陽太は昨日も学校に行き、部活動に汗を流してきたのだ。つまり疲れている。彼の睡眠を阻害してしまったことに申し訳なくなる。気が張り詰めてしまって、大雅はそのまま朝まで眠ることができなかった。
「大丈夫? なんか眠たそうじゃない」
「……大丈夫っす」
フライパンの上でベーコンがパチパチと音を立てて油を浴びていた。大雅はそれをフライ返しでひっくり返しながら、ぼそりと答えた。問いかけたのは、しょうりつ学園の厨房の職員としてパートで働いている織田という名の女性だった。
学生としての身分を失った大雅は、本来ならばここを退所しなければならない状況にあるはずだが、学園の業務の一部に奉仕するということを条件に、十八歳になるまでは籍を置かせてもらえることになった。
児童の誰よりも早く起床し、自分たちの朝食を準備するというのも、その奉仕のうちの一環だった。
「大雅くんが手伝ってくれるから、あたしたちも楽でいいわよ〜。あっ、あたしがこんなこと言ってたって、正憲先生に言っちゃ駄目よお!」
朝から織田はテンションが高い。子育てをとうに終えた年齢の彼女は、明るく、元気いっぱいの女性だった。背は大雅よりも低いが、横幅は大雅よりも恰幅がいい。朝食の時間になると、食堂に集まってきた児童たちにいつも元気に接している様子がよくみられている。
「言わないっすよそんなこと」
大雅は苦笑する。ほどよく焼けたベーコンを、人数分の皿に取り分けていく。皿にはすでにレタスやトマトなどの野菜が盛られており、あとは目玉焼きとトーストをのせれば、ワンプレートの朝食の完成だ。
「あら、大雅くん、またちょっと筋肉ついたんじゃない?」
織田は、大雅が着ている半袖のシャツから覗く腕の力こぶを見てそう言った。「さすが、格闘技をやってるだけあって、いいカラダね! あっ、これってこのご時世、セクハラになっちゃうのかしら!」
ギャハハと派手な笑い声を響かせる。
「織田さん、喋ってばかりいないで、ちゃんと手を動かしてください」
今まで沈黙を貫いていたもう一人の職員が、織田を咎めるように口を開いた。黒縁メガネの奥の細い目が、織田をとらえている。すらりと背の高い青年であった。彼の名は多枝。しょうりつ学園の厨房に勤める正職員だ。
「あら〜、ごめんなさいね、多枝くん」
多枝は真面目な青年であった。もとは彼もしょうりつ学園の入所児童として、数年前まで暮らしていたが、卒園後に今度は職員として入職した。いまは厨房で調理補助として働いているが、ゆくゆくは資格を取って児童指導員になることを目標としているらしい。物静かで実直な性格は、大雅とは対極を成しているともいえる。
多枝は大雅たちが出した洗い物を処理している最中だった。大雅が気を遣って、「手伝いますよ」と言ったが、「ここは大丈夫だから、織田さんのほうを手伝ってやって」とあしらわれてしまったばかりだ。
食堂の外から、小学生たちの喧騒が聞こえてくる。そろそろ食事が始まる時間だ。大雅は厨房からトースターを運び出し、食堂の各テーブルに一台ずつ置いていく。児童たちが食べるトーストは、各自で焼いて準備することになっているのだ。
大雅はトーストの上にマーガリンを塗り、砂糖をまぶして食べるのが好きだった。一口囓ると口の中にばあっと広がる甘みが、まだ「普通」だった頃の思い出を呼び起こす。それは、まだ大雅がいまよりもずっと幼かった頃、あの男が家族になる前のことだった。
大雅の母親である藤堂しおりは、大雅を産んですぐに離婚している。だから大雅は、自分の本当の父親の顔を知らずに育った。あの男が「父親」と名乗るまでは、しおりは女手ひとつで大雅を育てていたのだ。
生活は楽ではなかった。だが、他人との貧富の差など、幼い大雅には分かるはずもない。どれだけ貧しくとも、暴力のない世界の中で生きることを、その後の自分の人生と天秤にかければ、どちらが安寧だったかは一目瞭然だ。
しおりは大雅を愛していなかったわけではない。腹を痛めて念願の実子を産んだとき、自分の命に代えてでもこの子を守り抜こうと、腕の中で産声を上げる我が子を見て思ったはずだ。まだ名のついていない男の子は、世界のどんなものよりも愛おしく、そして輝いてみえた。大きく、そしてなによりも正しく生きていってほしいという願いを込めて、しおりは男の子に大雅と名付けた。
その頃にはすでに夫婦の関係に歪みが生じていた。おそらく自分は夫と別れることになるだろうと、産婦人科のベッドの上で予感はしていた。だが、どんなことがあっても大雅は渡さない。この子は、わたしが育てるのだ。この子さえいれば、わたしはどんなことがあっても生きていける。しおりは頑なに、そう思っていた。
人間とは、憐れないきものだ。ひとたび抱いたはずの覚悟は、それが幻であったかのように、いつしか綻びていく。よほど強固な意志を持たぬ限り、周りの環境や自分が立たされた境遇に影響されて、ぼろぼろと崩れ去っていくことが多い。
しおりも例外ではなかった。シングルマザーという立場で社会を生き抜いていくことは、彼女が想像していた以上に、過酷なものだった。
金がない。ただそれだけなのに、精神的にも逼迫した。それだけのことに、日常のすべてを奪われた。
大雅は次第に荒んでいくしおりを無垢な瞳で見つめ続け、そしてしおりを追い詰めていった。腹を痛めて産んだ我が子が、なによりも愛おしい存在だと感じていたはずの我が子が、やがてなによりも疎ましい存在へと変わっていった。
——こいつさえいなければ、わたしはもっと自由に生きられたのに……。
稼いだ金が、すべて生活のために消えていく。幼い子供がいるから、満足に働けず、そのため充分な収入もない。それでもあるいは独り身なら、頻繁に贅沢はできないまでも、つつましく暮らしていけたかもしれない。
——わたしがこんなに苦労しているのは、ぜんぶ大雅のせいだ……。
ある日のことだった。仕事から帰ってきたときに、玄関の戸口で「おかあしゃん、おかえり」と、舌っ足らずな言葉で迎えてくれた大雅の横っ面を、気がつけば平手打ちしていた。
右手にじんじんと熱を帯びて、一瞬なにが起こったのか分からなかった。大雅もおなじだった。幼い膂力では、突然の暴力に耐えられるはずもない。床に転げ、へたれ込み、突如襲ってきた頬の痛みに、彼はわんわんと泣いた。
耳をつんざくような幼子の泣き声に、しおりの感情は一層沸き立った。
「うっせえんだよ!! だまれよ!!」
そう言って大雅の髪を掴み、床に顔面を押しつける。痛みと息ができない苦しさと、自分の身になにが起こっているのかわからない戸惑いで、大雅はさらに喚いた。手足をばたつかせ、苦痛から逃れようともがく大雅をみて、しおりははっと我に返った。
——わたしはなにをしているんだ。
この子はなにも悪くない。仕事から帰ってきたわたしを、ただ玄関先まで迎えにきてくれただけじゃないか。
そっと大雅を抱き寄せる。ごめんねごめんねと、赤く腫れた頬を撫でる。大雅のぬくもりを感じる。彼が自分とおなじように生きているひとりの人間であることを理解する。
「おかあしゃん、おかえり」と、大雅はもう一度言った。涙目で微笑んでいる。しおりはもう一度ごめんねと呟き、彼をそっと抱きしめた。
大雅をリビングに座らせたしおりは、冷蔵庫から食パンを一枚取り出し、トースターで焼いた。マーガリンの蓋を開け、残り少なくなっていることに気付く。ああ、また買わなくちゃと思いながら、焼き上がったパンに塗る。砂糖は賞味期限がないから、特売の日にいくつか買っておいた。大雅は甘いものが好きだから、砂糖をたくさんかけてあげよう。
「おかあしゃん、これ、ぼくが食べていい?」
大雅は自分の前に出されたトーストをみて、不思議そうに聞いてきた。
「ごめんね、こんなのしかなくって……」
しおりの言った言葉の意味が、大雅に伝わったのかどうかは分からない。それでも大雅はうれしそうに「いただきましゅ」と言って、四等分にされたトーストを一切れ掴んで、嬉しそうに頬張った。
「おいしいね、おかあしゃん。ぼくだけがたべたらずるいから、おかあしゃんもいっしょにたべよう」
独り占めはよくないと、大雅は幼いながらも考えたのだ。
それ以来、一度揺らいでしまったしおりの心が、元に戻ることはなかった。一度大雅に手を上げてしまったことが、負の感情が決壊した始まりだったのだ。
大雅は母親からの愛情を求めた。それは子供として至極当然の願いで、必ず与えられるべきものであった。しかし、しおりは時として感情を爆発させ、大雅の求愛を拒んだ。次第に大雅の体には痣が増えていき、それに比例するかのように彼は笑わなくなった。
大雅が小学校に入学してしばらくした頃、あの男が現れた。しおりと男が出会ったのはほんの些細な出来事。しおりが運転していた自動車がハンドル操作を誤って側溝に片輪を転落させてしまい、そこに通りがかった男が、しおりのことを助けたことがきっかけだった。
しおりが男と付き合うようになり、やがて同棲を始めるようになるのは時間の問題だった。
しおりは男の前では、大雅を子供として扱った。「前の旦那との子なんだけど」とことわりをいれるしおりに、男は「大丈夫、一緒に育てよう」と言った。
式は挙げなかったが、夫婦の籍は入れた。そして男は大雅の父親となり、しおりの夫となった。
育児の負担が減ったしおりは、男と一緒になったこともあり、ようやく三人での生活は安定するものと思われたが、現実はそう甘くなかった。自分になかなか懐かないことを疎ましく思った男は、やがて大雅に手を上げるようになったのだ。
最初は言うことを聞かない大雅を叱るときに、手が出てしまう程度のものだった。しかし、しおりと同様、一度手を出してしまえば、行為はどんどんエスカレートしていくものだ。最初は躾のつもりと軽い気持ちで手を上げた行為が、いつしか男の中で、大雅を服従させるための手段となった。
言うことを聞かない生意気なガキだから殴った。親に逆らうなどもってのほか。口で言っても分からないなら、殴ってでも分からせる必要がある。この家で一番偉いのは、この俺だ。何の役にも立たないクソガキは、おとなしく俺の言うことを聞いていろ。
男が大雅を虐げることを、しおりはなにも言わなかった。いや、大雅には言ったことがあった。
「あんたが悪いから、お父さんに迷惑をかけているのよ」と。だが、いくら大雅が男やしおりを怒らせないように努力をしても無駄だった。彼らはただ、自分の都合で大雅を振り回し、非情の限りを尽くしたのだから。
それでも大雅は、しおりの作ってくれるシュガートーストの味を忘れたことはなかった。野菜のたっぷり入ったポトフ、チャーハン、ミートソースのスパゲッティ……。オレはお母さんの作った手料理を、もう二度と食べられることはないんだろうか。
ふいに心をよぎった想いは、そんなものは初めからなかったかのように、すぐに消えていったのだった。



