「あっ、大雅、いま、大丈夫かな」
「なんだよ」
 大雅が水を飲んでいると、圭二が背後から遠慮がちに話しかけてきた。一時間刻みのレッスンが終わり、大雅は汗だくになったシャツを脱ぎ捨てて、タオルを首にかけている格好だった。
「も、もし大雅が大丈夫なら、僕の自主練に付き合ってほしいんだ」
 チッと舌打ちをする。
「てめえ、オレを舐めてんのか?」
 圭二が大雅のコンディションに気を配ってくれているのは、彼にも伝わっていたが、その聞き方が気に食わなかった。まるでオレが、その辺の体力のねえ雑魚と一緒みたいじゃねえかよ。
 ペットボトルのキャップを閉め、床に置くと、大雅は「こいよ」と圭二を促し、道場の中央に設置されているリングに向かって歩き出した。誘ってきたのは圭二だというのに、彼はとことこと大雅の後ろをついてくるだけだ。
「ち、ちがうよ大雅、ミット打ちがしたいから、ミットを持ってほしかっただけなんだ」
 リングロープをくぐろうとしたとき、ようやく圭二が口を開いた。
「ああん!? だったらさっさとそう言えよ!」
「ご、ごめん」
 一見、危なっかしい二人のやりとりは、結局のところいつものことなので、他の門下生はさほど気にしていない。相馬も、何度注意しても圭二には手厳しい大雅の言動を、圭二が嫌がってはいない様子なのを鑑みて、黙って様子を見ていることにしている。
 圭二は小走りで道場の備品であるミットを取りに行き、大雅に手渡した。大雅はそれを無言で受け取り、腕にはめる。
「でも、折角だからリング上でやってみようかな」
 圭二はエヘヘと笑って、先ほど大雅がくぐろうとしたロープのあいだを大きく開き、リングに上がっていった。
 相馬が道場の中に設置しているタイマーは、三分間とその後一分間毎にブザーが鳴るように設定してあり、一ラウンドとインターバルの時間を知ることができる。
 大雅はグローブを拳につけ、ふうっと深呼吸をする圭二をチラリと一瞥したあと、胸の前にミットを構えた。
 ブザーが鳴る。
「お願いします」
「お願いします」
 二人の声が重なり、裸足の足裏がキャンバスを擦れる音がラウンドの始まりを告げた。

(こいつ……)
 圭二の顔が引き締まる。普段の所作からは到底想像もつかぬ鋭い眼光。その目つきになると、ああ、やはりこいつは生粋の格闘家なのだなと思う。
 圭二は、大雅がミットを構えた場所に的確に打撃を撃ち込んでくる。互いの暗黙の了解で、ミットを持つ大雅がランダムで身構えた場所に向けてパンチやキックを放つのだ。大雅は時折フェイントを混ぜて、ミットを持ったままパンチを繰り出す。それを圭二はしっかりと見切って、スウェーで回避した。
(やるじゃねえか……)
 大雅とて、圭二の実力を侮っているわけではない。長いあいだ、共にこの道場で鍛錬を積み、ときには拳を交えてきた。他の門下生を差し置いて、互いが互いの相手を手加減なく出来るのは、大雅には圭二しかいなかったし、その逆も然りであった。
 ミットに圭二の打撃が炸裂するたびに、大雅の背中を流れていた汗が飛び散る。黒いキャンバスに濃い斑点が至るところに散らばっている。互いに全力で動いているから、体力の消耗も激しかった。三分後にタイマーのブザーが鳴ったとき、圭二はコーナーポストにもたれこむようにしてずるずるとへたり込んだ。
「へっ、だらしねえな、圭二」
 大雅はそう言ってリングを降り、更衣室の扉の横に設置している冷蔵庫に、ペットボトルの水を取りにいった。受付カウンターに立って、ジム全体の様子を見渡していた相馬に軽く礼をする。
 リングに戻った大雅は、圭二の横にそっとペットボトルを置く。
「あ、ありがとう」
 ぜえぜえと大きく胸を動かして呼吸を整えている圭二は、苦しそうな声でただ一言、言葉を吐き出した。
「なんでそんなにバテてんだよ」
「そ、それは、大雅が、僕を追い込んだからじゃ、ないかっ!」
 思いのほか強い物言いで、圭二は言った。呼吸を整えるのに必死で、語尾が強くなったのだろう。
「ほら、立てよ、インターバル終わるぞ」
 大雅は容赦がない。圭二からペットボトルをひったくると、リングの外に置いてミット打ちを再開させた。
 圭二は、口をきゅっと結んで、大雅が構えたミットに打撃を撃ち込んでいく。
 ジャブ、ストレート、フック、アッパー、右ミドルからの左ミドル、間髪を入れず顔面に向かってミットを放つ。圭二はそれをかわし、大雅が自身の腹の前に構えたミットに、ボディーストレートを撃ち込んだ。
「オラ、まだ終わってねえぞ! 休んでんじゃねえ」
 顔の横にミットを構え、圭二のジャブを誘う。ジャブが撃ち込まれたその瞬間、空いている方のミットで圭二の脇腹を狙ったが、これは彼の膝でカットされた。
「なかなかやるじゃん」
「大雅に手放しで褒められると、なんか怖いよ」
 微笑を浮かべて、圭二は言った。直後に顔面にミットが飛んできたので、「うわっ!」と声をあげて慌ててそれを避ける。
「油断してんじゃねえぞ、圭二!」
 大雅が吠える。圭二はハッとしたように再び表情を引き締めて、拳を構えなおした。
「いくぞ!」
 これがスパーリングなど、実戦形式の練習ならば、圭二はタックルをして寝技に持ち込めたかもしれない。彼の得意分野である。キックボクシングのように、パンチとキックを駆使する立ち技に関しては、圭二は少し苦手だった。だからこそ、それを得意とする大雅にミット打ちを頼んだのだ。
 結局それから、五ラウンドみっちりとミット打ちに付き合って、圭二が満足したようで、その日の練習は終わった。
「ありがとう、大雅。またお願いするよ」
 リング上では饒舌になる圭二に、フンと一瞥をくれて、大雅はシャワーを浴びるために更衣室へと引っ込んでいった。