学業に従事しない児童を施設に置いておくのはあまり相応しいことではない。義務教育を終えた大雅は、高校を退学になったのなら、即刻就業先を探すなどして社会生活の基盤を整え、しょうりつ学園を退所しなければならない。
 それでも、大雅の退学が突然だったこともあり、彼をおもむろに社会に放り出してしまうと、路頭に迷ってしまうことは誰の目から見ても明らかだった。
 品行方正な青少年ならともかく、大雅のように生きづらさを抱えていて、それが良くないほうへ作用してしまっている現状を無視して放り出すわけにはいかないというのが、しょうりつ学園の職員の考えだった。
 その点では、大雅を冷淡に扱う藤本ですらも、まだ大雅には温情をもっているのだと鑑みることが出来る。

「あっ、師匠! ……お客様です」
 圭二が遠慮がちに相馬に声をかけたのは、レッスンの合間に休憩をしていたときだった。道場の入口で腕立て伏せをしていた圭二が、戸口に現れた人影に気付いたのだ。
「誰だろうか」
 相馬が呟き、戸口に手をかける。そこにいたのは、しょうりつ学園施設長の、藤本正憲だった。
 藤本は相馬の姿をみとめて、会釈をする。手には菓子折が入っていると思わしき紙袋と、黒い革張りのビジネスバッグを提げている。
「アポなしでのご訪問、大変申し訳ない。たまたま近くを通ったもので」
「いえ」
 相馬はかぶりを振って、どうぞと藤本を中に招き入れた。トレーニングを続けながらも、こちらの様子をうかがっていた圭二に声をかける。
「私は少し奥で話をしているから、みんなには自主トレをするように伝えておいてくれるか。くれぐれも怪我のないように」
「はいっ! わかりました!」
 圭二の返事を背に受けて、相馬が藤本を招き入れたのは、道場の受付カウンターの隣にある扉の奥の部屋だった。
 つぐみ道場は、元々が倉庫だったため、内部の間仕切りがない。それでも男女の各更衣室とシャワールーム、それに入会の手続きやちょっとした話し合いをするための小さな部屋は設置されている。
 部屋の中に置かれたテーブルを挟んで、相馬と藤本は向かい合わせに座った。
「いつも、大雅がご迷惑をおかけしております」
 向き合って、再び藤本は低頭する。
「いえいえ、迷惑だなんて。彼もここに来れば真面目に練習をしていますよ」
「今回のことは、大雅にとっても、我々にとっても、衝撃的な結末となってしまいました。ああ、相馬さんはお聞き及びですかな。……その」
「大雅が退学になってしまったという件ですか」
 相馬が藤本の言葉尻を拾うと、藤本は頷いた。
「あの子のことですから、きっとなにか理由があって暴力沙汰を起こしてしまったのだとは思いますが、如何せん、わたしには何も話してくれませんもので」
「こちらにも、多くは語ってはくれていないですよ。流石にこたえたのか、いつもよりは落ち込んでいる様子でしたが。……うちの門下生に、大雅と同じ高校に通う者がいましてね、一応、事の顛末は彼から聞き出すことが出来たので事情を把握している、というような次第です」
 藤本は、大雅からなにも聞き出すことが出来なかったから、ここにやって来たのかと勘ぐったが、どうやら違うようだ。しばらくはああでもないこうでもないと、大雅のことについて語り合っていたが、やがて藤本のほうから話を切り出してきた。
「本来ならば、我々が運営する施設では、義務教育を終え、高校に通わない児童を入所させておくわけにはいかない。大雅にはいずれ近いうちに、学園を退所してもらわねばならないのです」
 しかし……と、藤本は言葉を切った。
「大雅を親元に返すわけにはいかない。当時とは状況も変わり、彼もこの道場で心身を鍛え、強くはなっているでしょうが、おいそれと過去に受けた仕打ちを忘れることはできないでしょう。大雅が両親と対面したとき、過去のことがフラッシュバックして、折角立ち直りつつある心が再び崩れ去ってしまう。……そんなことも考えられます」
「だったら、あいつはたった一人で生きていかねばならないということですか!?」
 思わず声を張った相馬を、藤本は手で制した。
「決まりに則って、彼の処遇を決めるのは簡単です。しかし、我々が彼を放り出したところで、彼がうまく生きていけるとは到底思えない。そうなると誰もが分かっている状況の危なっかしい少年を、我々もほっぽり出すわけにはいきません」
「私が! 私が大雅を引き取って、この家に住まわせることはできるのでしょうか!?」
 藤本はそのとき、ふっと笑みを零した。相馬がそう言ったのは、藤本の想定通りであったからだ。
「今すぐには難しいでしょう。何せ大雅はまだ未成年。何事にも保護者の了承が必要となります。そして今の彼の保護者は、わたしです。だが、個人の気持ちはどうあれ、わたしの立場上、その提案を受け入れることはできません」
「だったらっ……」
「いいですか相馬さん。これは、わたし個人の判断であり、しょうりつ学園の運営のうえで下したものではありません。……大雅は、十八歳になるまで、つまりは彼が本来高校を卒業するはずであった再来年の三月までは、学園で面倒を見ることもかんがえています。しかし、学園を出たあとは、どんなかたちであれ、わたしたちが児童の世話をすることはかないません」
「そのあとは、このつぐみ道場で大雅を引き取ることは出来るんでしょうか」
 相馬の申し出に、藤本は肯定も否定もしなかった。
「たとえば十八歳になった彼が、プロの格闘家になろうと思いついて、こちらに住み込みで修業に来た……などということがあれば、わたしもあなたも、それをはねのける理由などないのでは?」
 相馬は手を自分の顎に当て、思案した。
「大雅はこれまで、大人はおろか周りの児童たちにも、あまり心を開いてきませんでした。しかし相馬さん、あなたやここの道場の生徒さんたちには、少なくともわたし共よりは打ち解けているようにみえます。……彼の事情を鑑みて、もしも彼が相馬さんの教えのもとに、これから格闘家として花開いていくのなら、わたしは嬉しい限りです」
 相馬の目から見て、大雅の格闘家としての技術は、圭二とともに充分に、その道を目指していける実力があると思っている。そしてそういった青少年たちをプロのリングに送り込むことも、いずれは成し遂げたい彼の夢でもあった。これはある意味チャンスなのだ。大雅が高校を退学になってしまったことは残念なことではあるが、相馬にとっては、大雅をもっと格闘技の世界に引き込むきっかけとなりつつある。
 顔には出さなかったが、相馬は心が震えていた。大雅につけ込んで、自分の夢を成し遂げようとしているのではないかと咎められる可能性もある。だが、目の前に突如現れた可能性を、みすみす逃すわけにはいかなかった。
「そうそう。忘れぬうちに」
 藤本はそう言って、持っていたバッグから茶封筒を出し、テーブルの上にスッと差し出した。
「これは今月分の月謝です。それと」
 紙袋を封筒のとなりに置く。「いつも大雅がお世話になっている、御礼です」
 では、わたしはこれでと言って、足早に立ち去っていった藤本の背中を見送る。彼はまるで、ここに長居するのはまずいと言いたげに、振り返ることはなく歩き去っていった。