試合会場は、星野公園でのイベントのとき以上に緊迫していた。パンツ一丁になって軽量を終えた大雅は、そのままファイトショーツを身につけて、来るべき時を待っていた。
「大雅、そろそろバンテージを巻くから、手を出しなさい」
試合会場となったのは、星野公園の近くの体育館で、大雅たちが到着すると、すでに選手たちが殺気を放ちながら各々の準備をしはじめていた。
大雅は相馬と共に控え室に入り、青コーナーの他の選手に混じって準備をはじめた。試合の順番は四回戦で最後から二番目だった。
「ちゃんと仕上がっているな。ここにいる誰よりも強そうだ」
シャツを脱いだ大雅の体を見て、相馬が小声で囁いた。大雅を自信付けるための一言だったが、大雅は嬉しそうにはにかんだ。
相馬が大雅の手にバンテージを巻いているあいだ、彼はじっと押し黙ってそれを眺めていた。
「随分とじっと眺めているな」
「っ……はいっ!」
ふと我に返ったように、大雅は目を丸くした。少しだけ目を逸らして、恥ずかしそうに口を開いた。
「オレ……師匠に初めてあったときに、バカみたいなことやって、手当てをしてもらったときに、バンテージみたいに包帯を巻いてもらったことがあったの覚えていますか」
「忘れもしないさ。あのときのお前は強烈だったからな」
「オレ、そのとき、なんというか、変な気分になったんです。師匠のことを見て、この人についていけば、オレの人生も変わるんじゃねえかって。そのときは師匠が総合の選手だって知らなかったから、自分の拳を見て、なんかボクサーみたいだって思って、それで自分がちょっとだけ強くなったような感じがして、オレが本当に強くなったら、もっといろんなことが変わるかもしれねえって思ったのを思い出して……」
あのとき、オレは自分の心に光が射し込んだような気がしたんです——と、大雅は顔を赤くしてもごもごと続けた。
朝陽とは一日の始まりに顔を見せるもの。ゆえに、物事のはじまりに例えられることも多い。相馬と初めて会ったあの日、自傷した拳に包帯を巻いてもらった大雅は、自分の中でなにかが始まる気配を感じた。
試合前の緊張で、小刻みに震えている拳を握りしめた。バンテージは、あの時の包帯とおなじかたちで、手首まで巻き付けられている。違うのは、目の前が拓けたように、夢に向かって邁進する方法がその手の中に在ることだ。
「藤堂選手、入場してください」
控え室に入って、時計の針が一周半したころ、大雅はスタッフに呼ばれた。
「はい!」
立ち上がる。アップも終えて、体は温まっている。待機中、大雅のセコンドに相馬がついていることに気付いた他の選手たちが羨ましそうに話しかけてきた。彼らはいずれも勝ったり負けたりしたようで、笑顔で戻ってくる者も、消沈して戻ってくる者もいた。
「藤堂、頑張れよ!」
部屋を出るときに、大雅のあとに試合に出る選手が声を投げてきた。控え室にいた五人の選手の中で、一番多く話しかけてきた青年だった。大雅は「おう!」と拳を突き出す。会場へ向かう通路のひんやりとした空気を全身に直に浴びながら、大雅は地面を踏みしめた。
藤池基樹は、階級が同じなのに、いざ向かい合うと随分と大きく見えた。それは彼が醸し出している雰囲気のせいかもしれないと、大雅は思った。
リングに入る直前に、圭二や鷹斗たち、つぐみ道場の面々が応援のために駆けつけてくれているのが見えた。
マウスピースを噛みしめ、グローブを着けた拳を突き合わせると、大雅はリングの中央に進み出て、藤池と向き合った。藤池のよく日に焼けた体は、鍛えた体をより威圧的に見せている。大雅は目を逸らさなかった。コイツが積み上げてきた鍛錬の数と同じくらい、いや、それ以上にきっとオレはオレと闘ったんだ。だからオレは、コイツよりも強くなった。
ゴングが鳴る。フィスト・バンプ。そして距離を取り、互いの出方を伺う。
大雅は組技の練習も重ねてきたが、まだ幾分か自信がなかったから、自分の得意な立ち技を中心に試合を進めたいと思っていた。
「私が手に入れた情報では、藤池選手も立ち技を得意としているらしい。バックボーンは空手ということもあってか、これまでの試合では強烈な三日月蹴りで相手を倒しているな」
藤池との試合を視野に入れた鍛錬のとき、相馬が教えてくれた。三日月蹴りを喰らったらどんなふうになるのかが気になったが、そんなに危険なら、隙を与えなければいいと言うと、相馬は不意を突かれたように驚いていた。
(コイツ、なんか焦ってねえか?)
試合開始直後、大雅は藤池の構えをみてそう思った。なにをその心に抱いているのかは推し量れなかったが、ガードが少し下がっているような気がした。大雅が格下だと思って油断しているのか、それとも別の理由があるのか、或いはこちらを油断させるために、わざとガードを開けて誘っているのか。まだ経験の乏しい大雅には、いずれも判断がつかなかった。
(直感を信じるしかねえっ!)
大雅は間合いを詰めた。シュッと鋭い呼気が、歯の隙間から溢れ出る。大雅は左の足裏を力強く地面に叩きつけ、同時にぐるりと腰を回し、右足を振り上げた。誰もが息をつく間もなく描かれた弧は流れるように美しく、風を切る音がリング上を裂いた。足首がしなり、自分の踵が藤池の顎を撃ち抜いたのが分かった。
会場にどよめきが起こって、次の瞬間、大雅の視界に、リング上で大の字になって失神している藤池の姿が映った。一ラウンド開始からわずか十五秒後の出来事であった。
藤池のセコンドやリングドクターが、倒れている彼を囲み、手当てを始めた。藤池はすぐに目を覚ましたが、自分に降りかかった現実を把握できていないようで、大雅が呆然と立っている様子を見て、立ち上がって試合を再開させようとしていた。
「基樹、終わりだ! 落ち着け!」
セコンドの声は、まるで芯が入っていない。彼もまた、藤池になにが起こったのかを呑み込めていない一人だった。
「大雅」
相馬に名を呼ばれた。大雅は藤池の陣営に一礼をしたあと、彼のもとに駆け寄った。
「し、師匠……オ、オレ……」
自分の回し蹴りが藤池を仕留めたというのに、大雅には実感がなかった。むしろまだなにも成し遂げていない気がした。もっと闘いたい。強くなるために苦難を乗り越えたのだという実感が欲しい。
「流石に私も驚いたよ。あっという間だったな、よくやった」
こんなに落ち着いた気持ちなのは、自分だけなのか。大雅は数多の祝福の声を受けながら、まるでそれが他人事のように感じていた。
「大雅! 大雅!」
圭二が興奮して、気持ちが言葉にならないのか、しきりに名前を呼んでいる。コイツ、人を応援するときに語彙力が無くなるのは変わらねえなと苦笑する。
大雅の勝利をレフェリーが宣言して、試合が終わる。担架で運ばれる藤池の姿を見送りながら、大雅もリングを下りる。
相馬に付き添われながら控え室に戻る最中も、四方から祝福は降りかかってきたが、大雅はボーッとした表情のまま、とぼとぼと歩いていた。
もっと嬉しいと思っていた。格上といわれていた相手を瞬殺したのだ。
控え室に戻り、グローブを外す。今になってようやく、全身が汗ばんできた。どくんとひとつ、大きな鼓動を感じる。パイプ椅子に座って、息を吐いた。
——オレは……勝ったんだ……。
そしてその時、ようやく大雅は自分の戦績にまたひとつ白い星が点いたことを実感した。
「大雅、お前がこの試合に勝った暁には、きっと、これまでにない世界が見えてくるだろう。そのための一歩だ。胸を張って歩きなさい」
試合の直前、相馬に言われた言葉を思い出す。
オレは知っている。自分がどうしたら幸せになれるのかを、もう知っている。試合に勝ったことで、またひとつそれに近づけたんだ。
勝利の余韻をようやく実感する。滾る心を押し込めて、平静に努めるのはとても大変だった。
目の前がすっきり晴れたかのようだ。暗い闇夜が明け、光は、なにも見えず周りを手探りで確かめながら歩いてきたこれまでの迷い道をも照らし出している。
「大雅」
名を呼ばれる。相馬が背中越しに彼を呼んだのだ。
顔を上げ、振り返った大雅は——笑っていた。
満面の笑顔だった。
屈託なく笑えるようになったんだな、大雅。
良かったな。
相馬は、大雅の幼い頃を知らない。だが、かつてはこうして笑っていたことがあったのだろうなと思った。奥底に封じ込めていた光が、もう一度大雅の心を満たしてくれている。
明けない夜はない。使い古された言葉も、それが真実であると実感したとき、何よりも信憑性を増して思考に染み渡ってくる。
大雅はバンテージが巻かれたままの拳をぐっと突き上げて、心の底から湧き上がる喜びの雄叫びをあげたのだった。
「大雅、そろそろバンテージを巻くから、手を出しなさい」
試合会場となったのは、星野公園の近くの体育館で、大雅たちが到着すると、すでに選手たちが殺気を放ちながら各々の準備をしはじめていた。
大雅は相馬と共に控え室に入り、青コーナーの他の選手に混じって準備をはじめた。試合の順番は四回戦で最後から二番目だった。
「ちゃんと仕上がっているな。ここにいる誰よりも強そうだ」
シャツを脱いだ大雅の体を見て、相馬が小声で囁いた。大雅を自信付けるための一言だったが、大雅は嬉しそうにはにかんだ。
相馬が大雅の手にバンテージを巻いているあいだ、彼はじっと押し黙ってそれを眺めていた。
「随分とじっと眺めているな」
「っ……はいっ!」
ふと我に返ったように、大雅は目を丸くした。少しだけ目を逸らして、恥ずかしそうに口を開いた。
「オレ……師匠に初めてあったときに、バカみたいなことやって、手当てをしてもらったときに、バンテージみたいに包帯を巻いてもらったことがあったの覚えていますか」
「忘れもしないさ。あのときのお前は強烈だったからな」
「オレ、そのとき、なんというか、変な気分になったんです。師匠のことを見て、この人についていけば、オレの人生も変わるんじゃねえかって。そのときは師匠が総合の選手だって知らなかったから、自分の拳を見て、なんかボクサーみたいだって思って、それで自分がちょっとだけ強くなったような感じがして、オレが本当に強くなったら、もっといろんなことが変わるかもしれねえって思ったのを思い出して……」
あのとき、オレは自分の心に光が射し込んだような気がしたんです——と、大雅は顔を赤くしてもごもごと続けた。
朝陽とは一日の始まりに顔を見せるもの。ゆえに、物事のはじまりに例えられることも多い。相馬と初めて会ったあの日、自傷した拳に包帯を巻いてもらった大雅は、自分の中でなにかが始まる気配を感じた。
試合前の緊張で、小刻みに震えている拳を握りしめた。バンテージは、あの時の包帯とおなじかたちで、手首まで巻き付けられている。違うのは、目の前が拓けたように、夢に向かって邁進する方法がその手の中に在ることだ。
「藤堂選手、入場してください」
控え室に入って、時計の針が一周半したころ、大雅はスタッフに呼ばれた。
「はい!」
立ち上がる。アップも終えて、体は温まっている。待機中、大雅のセコンドに相馬がついていることに気付いた他の選手たちが羨ましそうに話しかけてきた。彼らはいずれも勝ったり負けたりしたようで、笑顔で戻ってくる者も、消沈して戻ってくる者もいた。
「藤堂、頑張れよ!」
部屋を出るときに、大雅のあとに試合に出る選手が声を投げてきた。控え室にいた五人の選手の中で、一番多く話しかけてきた青年だった。大雅は「おう!」と拳を突き出す。会場へ向かう通路のひんやりとした空気を全身に直に浴びながら、大雅は地面を踏みしめた。
藤池基樹は、階級が同じなのに、いざ向かい合うと随分と大きく見えた。それは彼が醸し出している雰囲気のせいかもしれないと、大雅は思った。
リングに入る直前に、圭二や鷹斗たち、つぐみ道場の面々が応援のために駆けつけてくれているのが見えた。
マウスピースを噛みしめ、グローブを着けた拳を突き合わせると、大雅はリングの中央に進み出て、藤池と向き合った。藤池のよく日に焼けた体は、鍛えた体をより威圧的に見せている。大雅は目を逸らさなかった。コイツが積み上げてきた鍛錬の数と同じくらい、いや、それ以上にきっとオレはオレと闘ったんだ。だからオレは、コイツよりも強くなった。
ゴングが鳴る。フィスト・バンプ。そして距離を取り、互いの出方を伺う。
大雅は組技の練習も重ねてきたが、まだ幾分か自信がなかったから、自分の得意な立ち技を中心に試合を進めたいと思っていた。
「私が手に入れた情報では、藤池選手も立ち技を得意としているらしい。バックボーンは空手ということもあってか、これまでの試合では強烈な三日月蹴りで相手を倒しているな」
藤池との試合を視野に入れた鍛錬のとき、相馬が教えてくれた。三日月蹴りを喰らったらどんなふうになるのかが気になったが、そんなに危険なら、隙を与えなければいいと言うと、相馬は不意を突かれたように驚いていた。
(コイツ、なんか焦ってねえか?)
試合開始直後、大雅は藤池の構えをみてそう思った。なにをその心に抱いているのかは推し量れなかったが、ガードが少し下がっているような気がした。大雅が格下だと思って油断しているのか、それとも別の理由があるのか、或いはこちらを油断させるために、わざとガードを開けて誘っているのか。まだ経験の乏しい大雅には、いずれも判断がつかなかった。
(直感を信じるしかねえっ!)
大雅は間合いを詰めた。シュッと鋭い呼気が、歯の隙間から溢れ出る。大雅は左の足裏を力強く地面に叩きつけ、同時にぐるりと腰を回し、右足を振り上げた。誰もが息をつく間もなく描かれた弧は流れるように美しく、風を切る音がリング上を裂いた。足首がしなり、自分の踵が藤池の顎を撃ち抜いたのが分かった。
会場にどよめきが起こって、次の瞬間、大雅の視界に、リング上で大の字になって失神している藤池の姿が映った。一ラウンド開始からわずか十五秒後の出来事であった。
藤池のセコンドやリングドクターが、倒れている彼を囲み、手当てを始めた。藤池はすぐに目を覚ましたが、自分に降りかかった現実を把握できていないようで、大雅が呆然と立っている様子を見て、立ち上がって試合を再開させようとしていた。
「基樹、終わりだ! 落ち着け!」
セコンドの声は、まるで芯が入っていない。彼もまた、藤池になにが起こったのかを呑み込めていない一人だった。
「大雅」
相馬に名を呼ばれた。大雅は藤池の陣営に一礼をしたあと、彼のもとに駆け寄った。
「し、師匠……オ、オレ……」
自分の回し蹴りが藤池を仕留めたというのに、大雅には実感がなかった。むしろまだなにも成し遂げていない気がした。もっと闘いたい。強くなるために苦難を乗り越えたのだという実感が欲しい。
「流石に私も驚いたよ。あっという間だったな、よくやった」
こんなに落ち着いた気持ちなのは、自分だけなのか。大雅は数多の祝福の声を受けながら、まるでそれが他人事のように感じていた。
「大雅! 大雅!」
圭二が興奮して、気持ちが言葉にならないのか、しきりに名前を呼んでいる。コイツ、人を応援するときに語彙力が無くなるのは変わらねえなと苦笑する。
大雅の勝利をレフェリーが宣言して、試合が終わる。担架で運ばれる藤池の姿を見送りながら、大雅もリングを下りる。
相馬に付き添われながら控え室に戻る最中も、四方から祝福は降りかかってきたが、大雅はボーッとした表情のまま、とぼとぼと歩いていた。
もっと嬉しいと思っていた。格上といわれていた相手を瞬殺したのだ。
控え室に戻り、グローブを外す。今になってようやく、全身が汗ばんできた。どくんとひとつ、大きな鼓動を感じる。パイプ椅子に座って、息を吐いた。
——オレは……勝ったんだ……。
そしてその時、ようやく大雅は自分の戦績にまたひとつ白い星が点いたことを実感した。
「大雅、お前がこの試合に勝った暁には、きっと、これまでにない世界が見えてくるだろう。そのための一歩だ。胸を張って歩きなさい」
試合の直前、相馬に言われた言葉を思い出す。
オレは知っている。自分がどうしたら幸せになれるのかを、もう知っている。試合に勝ったことで、またひとつそれに近づけたんだ。
勝利の余韻をようやく実感する。滾る心を押し込めて、平静に努めるのはとても大変だった。
目の前がすっきり晴れたかのようだ。暗い闇夜が明け、光は、なにも見えず周りを手探りで確かめながら歩いてきたこれまでの迷い道をも照らし出している。
「大雅」
名を呼ばれる。相馬が背中越しに彼を呼んだのだ。
顔を上げ、振り返った大雅は——笑っていた。
満面の笑顔だった。
屈託なく笑えるようになったんだな、大雅。
良かったな。
相馬は、大雅の幼い頃を知らない。だが、かつてはこうして笑っていたことがあったのだろうなと思った。奥底に封じ込めていた光が、もう一度大雅の心を満たしてくれている。
明けない夜はない。使い古された言葉も、それが真実であると実感したとき、何よりも信憑性を増して思考に染み渡ってくる。
大雅はバンテージが巻かれたままの拳をぐっと突き上げて、心の底から湧き上がる喜びの雄叫びをあげたのだった。



