逃げようと思えば、後ずさりしてすぐに駆け出せば間に合うだろう。つぐみ道場は目と鼻の先だ。それは分かっていたが、大雅の足は動かなかった。いや、そもそも逃げようとは思っていなかった。あまりにも唐突に予期せぬ出来事が降りかかってきたから、思考が追いついていないというのもあるが、逃げ出したところでなにも解決しないだろうという思いも、この場で足を踏みとどまらせている原因だった。
 昇はまるで品定めをするかのように、大雅の頭から爪先まで視線を這わせた。大雅はようやく半開きになっていた口を閉じ、昇を見据えた。
「なんだその目は? 俺がお前を育ててやった恩も忘れて、随分と反抗的な態度だなあ」
 昇に言いたいことは山のようにある。それなのに、頭の中から言葉がすべて消え去ったかのように、思考が真っ白になった。オマエのせいでオレは……、オレの人生は、無茶苦茶になったんだぞ。
 家にいた頃は、こんな目に遭うのは、自分が悪いからだとずっと思っていた。そうじゃなかったのだと知ったとき、大雅は、じゃあ自分が味わってきた屈辱は一体何だったのかと、唖然となった。
 普通の親は、子供に理不尽な暴力は振るわない。時折テレビのニュースで、親が子を殴って逮捕されているという報道が流れていたが、大雅にはそのどれもが信じられなかった。たったそれだけのことで捕まるのなら、オレの親は何回捕まることになるんだ……。
「なんでここが……分かったんですか」
 言葉遣いが、自然と敬語になっていた。空っぽになった頭に、過去の仕打ちがフラッシュバックして、涙が出そうになっている自分に気付く。それでも昇にその感情を悟られないように、必死で感情を鎮めた。
「屑が。格闘技をやって、自分が強くなったつもりか? ああ? バカみてえなイベントにアホ面で参加して、自分よりも年下の雑魚に勝っていい気になってんじゃねえよ、ボケが。ゴミ屑がどこにいようと、俺にはお見通しなんだよ。高校も辞めさせられて、施設も追い出されたゴミを拾ってくれる物好きなやつもいるんだなあ」
 大雅は歯を食いしばって、昇の罵詈雑言に耐えた。悔しい。情けない。なんでオレがこんなことを言われなきゃいけねえんだよ。おなじように耐えていたあの頃と違うのは、昇に対して、怒りが芽生えたことだった。
 ふいに煙草の匂いが鼻をついた。昇はあの頃から一日に一箱近くの喫煙をして、毎晩決まって缶ビールを三本飲んでいた。おそらくそれは今も変わっていないのだろう。
「お前みたいな屑が家にいるせいで、こっちはストレスが溜まって煙草の量が増えるんだよ。さっさと死んでくれねえかなあ!」と、何度も言われた。それがふいに脳裏をよぎって、あのとき本当にベランダに走って身を投げていたら、オレも、お父さんもお母さんも、楽になれたのだろうかと思った。
 やっぱりオレは生きている価値なんかないんだ。どうせ誰にも期待されていないし、このまま生きていたって何の役にも立たない。格闘家になったって、それが何だというんだ。オレなんか、生まれてこなければよかったんだ……。
 家を出てから、少しずつ積み上げてきたはずの自尊心が一気に崩れ落ちた。はじめからそんなものは存在していなかったかのように、大雅の心は小学生の頃に引き戻された。
「大人を舐めんのも大概にしろよクソガキィ……。お前がどこでなにをしていようが、なにもかも筒抜けなんだよ」
 昇は大雅に恐怖を植えつけるために、事実を誇張して伝えることが多かった。具体性のない言葉で脅したとしても、幼い大雅にとってはそれだけで萎縮し、親に絶対服従を貫くほかなかったからだ。
 だが、大雅は十八歳になった。中身のない脅しで屈するような少年ではなくなった。
「オレが試合に出たイベントのチラシを、どっかで見たんですよね。そこにオレの所属がつぐみ道場と書いてあったから、ネットかなにかで調べて、オレの居場所を突き止めた。筒抜けなんかじゃなくて、お父さんが自分でオレがなにをしているか確かめたんですよね」
 昇がぴくりと眉をひそめたのが分かった。一段階、機嫌が悪くなった証拠だ。舌打ちが聞こえて、大雅はビクッと体を震わせた。
「生意気になったなあ、大雅。調子に乗ってんじゃねえぞ」
 ぐいと一歩近づいてきて、胸倉を掴まれる。
 大雅の心臓が飛び跳ねた。ぐっと喉が鳴る。昇は大雅のシャツの襟元を引っ張って、彼の体を引き寄せた。
「児相のやつらに入れ知恵をしたのは、お前か?」
 静かに、耳元で囁かれた。昇の吐息が耳朶にねちょりとまとわりつく。言われたことの意味が分からず、口をつぐんでいると、横っ面をはたかれた。
「聞かれたことに答えろよ、大雅。なあ、さっさと答えろよ!!」
 もう一発。殴られた衝撃で首をひねったかのように、大雅は横を向いたまま、制止していた。
「親の言うことが聞けねえのか、大雅ぁ!!」
 昇の語気が強くなる。それでも大雅は昇から顔を背けたまま、じっと自分の足元を見つめていた。

——オレは、こんなものに……ずっと怯えていたのか……?

 ガキの頃は、毎日暴力に怯えながら震える日々を過ごしていた。
 恐怖に心が歪んで、世の中の何にも期待せずに生きていた。
 家から離れてしょうりつ学園に入所しても、陽太が心配するほどにうなされた夜があった。
刻みつけられたトラウマに耐える最中、心はずっと血を流していた。痛くて痛くて、どうしようもなかった。安全な場所に自分がいると分かっていても、傷は瘡蓋にはならず、すこしの感情の揺らぎで血が出てくるような感覚だった。ふとしたきっかけで過去のことを思い出し、気分が沈み込む。忘れようにも忘れられるわけがなかった。
平手打ちをくらった頬を触る。表皮はじんじんと痛んでいるが、ただそれだけだった。
 あの頃となにも変わっていない。コイツの目つきも、腹が立ったらすぐ手が出るところも、自分より弱いと判断した相手には、とことん強気で粋がるところも。
 そう思うのは、大雅自身は変わったからだ。
「なんだぁ? その反抗的な目は」
 昇が吐き捨てるように言った。言われて、大雅は自分が義父の顔をじっと見据えていることに気付いた。
心の岸辺は凪いでいた。昇を前にして、こんなにも落ち着いている自分に驚いている。
「自分の立場をまだ分かってねえみたいだなあ、オラ!」
 今度は反対の頬をはたかれた。やはり、ただそれだけ。鋭利な痛みがはしったが、今度は体の軸もぶれなかった。大雅はなにも言わずに昇の顔を見ていた。ほんの少し、昇がたじろいだ気がした。
(この気持ちはなんだろう……)
 戸惑っていた。あれだけ怖いと思っていた相手を前にして、過去とおなじだけの恐怖を抱くどころか、腹も立たない。ただ心にぽっかりと空洞が空いたような感覚だった。
(オレは、コイツのことを恐れていたはずなのに、いまはなにも思わねえ。それどころか、コイツはこの程度の人間だったのかと、拍子抜けをしているくらいだ)
「おいクソガキ。ビビっちまってなにも言えねえのか?」
「……誰がてめえなんかにビビるかよ」
 少し間が開いて、大雅は自分が口走った言葉に驚いた。相手には悟られぬように平静を装ったが、どくんどくんと心臓の鼓動が大きく、速くなった。
 驚いたのは昇もおなじだったようだ。まさか舐めくさっていた相手が口答えをしてくるとは思わなかったのだろう。薄い唇を少し開いたまま、大雅の言ったことが理解できないというふうに顔を顰めていた。そうして、大雅の俄な反抗心が昇の五臓六腑に染み渡ってようやく、屈辱的な心情に気付いたように、顔を真っ赤にして大雅を睨みつけた。
「親に向かって、なんだその口の利き方は!」
 こいつに関しては恐れるものなどなにもないと吹っ切れた大雅は、昇の顔をみて嘲るように鼻で笑ってみせた。
「それ、本気で言ってんのか?」
「ど、どういう意味だ」
 かつてのように昇がいまいち強気で出られないのは、いまは大雅のほうが優位に立っているからだろうと推察した。そして、大雅に対して後ろめたい感情があるのだろうか。それでも必死で面子を保とうと躍起になっているであろうことは、大雅にも伝わってきた。
「オレはアンタのことを親だと思ってねえよ。まともに育ててもらった覚えもねえし、そんなヤツが今頃オレに何の用があるんだよ」
 心臓はドキドキと波打っているのに、頭の中は冷たい水で浸されたかのように、思考がすっきりとしていた。昇に対する憎しみや怒りが隙あらば表に出ようとしてくる。昇がこれ以上理性を失って、自分に命の危険が及ぶような——たとえば激昂して刃物で刺してくるとか——行為をしてこないかと危惧する思いもあったが、たとえそうなったとしても、生涯の中で、最も恨むべき相手を目の前にして、大雅はとても平静ではいられなかった。
「お前だろ、児相のボケ共にチクって、タイキを連れていかせたのは」
「は? 誰だよそれ」
 言いながら、タイキとは誰のことを指すのかを、大雅はなんとなく分かっていた。星野公園での試合のときに、昇としおりに連れられていた、大雅の弟にあたる少年だろう。
「しらばっくれんじゃねえよ。俺たちがわざわざ、お前の試合を観に行ってやったあの直後、児相のやつらが来たんだ。それまでは一度も来なかったくせにな。タイキの体に痣があるだの、発育不良だのと、何度も何度もしつこく難癖をつけやがって、挙げ句タイキを連れて行きやがった。お前が入れ知恵をしたとしか考えられねえんだよ。なあ、大雅。どうなんだよっ!?」
 とんでもないとばっちりだとは思ったが、思い当たることはあったので、大雅はふんとせせら笑ってやった。
「良かったじゃねえか。殺人犯になる前に、なんとかしてもらえて。それにオレは、試合を観に来てくれなんて一度も頼んでねえよ」
 物理的に人は殺さなかったが、子供を虐げる行為は殺人と同義なのではないか。本来ならば、親は子を導き育てるもの。それが出来ない者に、子供を授かる資格はない。
「オレに飽き足らず、自分より弱い子供を作って、また憂さ晴らしでもしていたのか? なにも知らねえタイキを毎日泣かせて、服従させようとしてたのか? たしかにオレはあの日、アンタたちの姿をみて、みっともなく動揺して、しょうりつ学園の先生に泣きついたさ。でも、オレがやったのはそれだけだ。あとのことは、オレの知ったことじゃねえよ」
「やっぱりお前か。どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだクソガキがあ! てめえはいつもいつも俺に逆らいやがって。ガキは大人しく親の言うことを聞いていればいいんだよ。なあ大雅、お前はいつまでも変わらねえな。その人を小馬鹿にしたような目で俺を見て、まともな人間になろうともしない。俺が何度正してやろうとしたか、お前に俺の苦労なんか、なんも分からねえだろうな」
 倫理が破綻していると、大雅は思った。コイツにはなにを言っても無駄だ。そもそも最初から分かり合えるはずがなかったのだ。自分より弱い者を虐げることで理性を保ち、その相手が自分の思い通りに動かなければ、もっと痛めつけて従わせようとする。反面、自分より強い者には、手も足も出ない。つまりはコイツこそが、ただの臆病者なのだ。そんな臆病者をずっと恐れていた過去のオレは一体何だったんだろう。
 大雅は悔しさに頭が眩みそうになった。
「いいから帰ってくれよ……もう、オレの邪魔をしないでくれ」
 過去のことを蒸し返したりはしないから、これから先のオレの人生に、足を踏み入れないでくれ。
 親は今頃何処でなにをしているのだろうかと、いままで一度も考えなかったわけじゃない。それは大雅の心の中に、自分が生きている罪悪感というものがあって、どんな形であっても自分にはちゃんと親という存在がいるのだと、ほんの少しでも思っていたからだ。
 昇やしおりのことを、決して好きだとは言えなかった。それでも自分には帰る場所があった。学校に必要なものは買い揃えてくれたし、たとえば中学に上がる前に買ってくれた制服は、「大雅はすぐに大きくなるだろうから、ちょっと大きめのサイズにしよう」と言ってくれた。成長して制服を買い直すのは、金も手間もかかるからだといえばそれまでだが、大雅にとってはその配慮が嬉しかった。親に自分のことを気にかけてもらえていると感じられたからだ。
 親子としての歯車が、そんなふうにずっと上手く噛み合っていれば、大雅も昇もしおりも、普通に暮らせていたのだろうか。
 どんな親でも、自分の親であることには変わりない。悔しいけれど、偏りはあったにしろ、衣食住がなかったわけではない。
「恩知らずの出来損ないが……」
 昇が消え入るような声で呟いた。愛情の欠片もない言葉が重く、文鎮のように大雅の記憶を逃がさないようにと抑えつけてくる。そのとき、大雅は思った。この男は、しおりには惚れたものの、オレの存在は邪魔だったんじゃないか。自分の種でもないガキを、息子として取り扱うには、荷が重かったのかもしれない。
 だからせめて、自分の都合の良いように言うことを聞く存在に仕立て上げようとした。だが、暴力で大雅を抑え込もうとすれば済むほど、思い通りにはならなかった。
昇はただ、自分の思い通りに動いてくれる人間だけを、そばに置いておきたかったのだ。
「最後にひとつだけ聞かせてくれないか」
 大雅は目を伏せた。昇が肯定も否定もしなかったから、先を続けた。「なんであのとき試合を観に来たんだよ。もしかしてアンタたちはオレがいなくなってからもずっと、オレのことを気にしていたのか」
 新たに産まれた息子にタイキと名付けたのは、オレが兄だと意識していたからか? タイガとタイキ。ふたり合わせて自分の子供だって、ほんとうはそう思いたかったんじゃないのか?
 昇はなにも言わなかった。
 大雅は分かっていた。自分の求めている答えが返ってくるわけがないと。オレはこんなヤツになにを期待しているんだ。——分かっている。この世界には、子を育てる資格もない人間が子を作り、そしてやはり人の道を外れていく事態など、ごまんと存在することを。そして大雅の両親も、そのうちの一例なのだと。分かっているのに、大雅は心の何処かで求めていた。自分の『お父さん』と『お母さん』が抱える感情の中に、ほんの少しでも、親としての情を持っていてほしいと。

「大雅!」
 背後から自分の名を呼ぶ声がして、大雅はハッとした。相馬だ。振り返ると、道場とコンビニのあいだの道を渡り、こちらに歩いてくる様子がみえた。
「遅いから様子を見に来たが、どうしたんだ? こちらの方は?」
 相馬が大雅の隣に立ったことで、昇の顔が引き攣ったのが分かった。
「オレの父親……と戸籍上はなっている人です」
 瞬間的に、相馬の顔がキッと引き締まった。大雅の人生を狂わせた元凶が目の前に現れたのだ。だが、事を荒立てるわけにはいかない。「大雅に何か用でしょうか」と、相馬は穏やかな口調で尋ねた。
「息子に会いに来てなにか悪いのか?」
 相馬が下手に出たことによって、昇はホッとしたのか、挑発をするような口ぶりでそう言った。「大体お前はなんだ。いきなり割って入ってきて」
「申し遅れました。私はこの向かいの道場を運営しています、格闘家の相馬爽平です。大雅くんには私の道場のスタッフとして、住み込みで働いてもらっています」
 大雅には両親はもういないと聞いておりますがと、皮肉めいたことを言ってやろうかと思ったが、ここは大人としての対応を心がけようと決めた。
「そういうことだから。オレはもう家に戻る気はないし、アンタたちに関わりたくもない。だからもうオレの視界に現れんな」
 あえて強い言葉を使って、突き放すような物言いをした。自分にも言い聞かせるためだ。昇から視線を外して、ふと車の後部座席の窓を見たとき、大雅は「あっ!」と声を上げそうになった。車内に人影が見える。スモークガラスの奥にいるのは、紛れもなく母親のしおりだった。よく見ると少し窓が開いていた。これまでのやりとりを、しおりも聞いていたのだろう。
 そのとき、大雅の頭の中に、洪水のようにしおりとの思い出が溢れた。まだ優しかったときのことも、自分を虐げるようになってからのことも、何もかもがごちゃ混ぜとなって、それは大雅の目を潤ませる雨となった。
「師匠」
 感情を押し込めた声で、大雅は相馬を呼んだ。「お騒がせしてすみません。帰りましょう」
 拳をぎゅっと握りしめる。大雅は大きく息を吸ったあと、一呼吸置いて、再び口を開いた。

「お母さん、オレを産んでくれてありがとう。 ……さようなら」

 喉が鳴る。車の窓に向かって深い一礼をしたあと、誰の反応も待たずに、大雅は彼らに背中を見せた。自分にも刻みつけた決別の意思だった。
なんで泣いているんだ、オレは。アイツらはオレのことを無茶苦茶にした、どうしようもないヤツらなんだぞ。むしろ清々しただろう。——そのはずなのに、なんで泣いているんだ。
大雅はそれから一度も振り返らずに、相馬の家の中に入った。玄関の扉を閉めた瞬間、全身が脱力して、体の震えが止まらなくなった。
結局は怖かったのだ。いくつか歳を重ねて、体が大きくなっても、親と向き合うときの自分は、ずっとあの頃のままなのだと痛感した。
しばらくして、相馬が家に入ってきた。大雅は玄関でしゃがみ込んでいたが、相馬の姿を見た途端、慌てて立ち上がった。
「大丈夫か、大雅」
 相馬の声は優しく、怒りと悲しみが渦巻いていた大雅の心にしんみりと染み渡った。
「師匠……」
 大雅の声が落ちる。次の瞬間、大雅は膝からふっと力が抜けて、前のめりに頽れそうになった。
「おっと……」
 大雅は相馬に上半身を抱きかかえられた。
「師匠……すみません、オレ……」
「前に言っただろう。我慢しなくていいと。私の前では、素直になりなさい」
 大雅は相馬の腕の中で、静かに肩を震わせた。

 大雅はリビングに移って、相馬の淹れてくれたココアが入っているマグカップを両手に抱えていた。相馬の優しさを心に染み渡せるかのように、時折それを口に含んでいる。
「大雅、落ち着いたか?」
 台所で洗い物をしていた相馬だったが、作業が終わったようで、自身もマグカップにコーヒーを淹れ、大雅の隣に座った。
「はい、ありがとうございます」
 そうは言ったが、ちっとも落ち着いていなかった。相馬はコーヒーを一口啜ると、テーブルにマグカップを置いた。
 会話がないと、部屋は静まりかえっていた。
「……話をしてもいいか、大雅」
「はい」
 大雅は頷いた。
「しょうりつ学園の藤本さんは、大雅が学園を出たあとに、御両親がお前に接触してくることをいちばん心配していた。学園を出れば、大雅は自由になるが、その分、危険も多くなるかもしれないと」
 藤本が秘密裏に相馬へ託したことがある。しばらくは大雅の動向を注視してほしいと。だが、相馬も、こんなに早い段階で両親が接触してくるのは予想外だった。
 大雅が学園を退所したという情報を、彼らがどうやって掴んだのかは分からないが、もしかするとずっと前から、両親は大雅のことを見ていたのかもしれないと、相馬は考えた。
「オレがアイツらに家に連れ戻される可能性があると思ったんですか」
「たしかにお前は心身ともに強くなった。だが、過去にトラウマを抱える者は、それに立ち向かうとき、身につけた強さを発揮できないこともある。だから先ほど、仮にあの人が無理矢理お前をあの車に押し込もうとしたら、思うように抵抗できなかった可能性もある。だが、お前は私たちの心配をよそに、うまく取りなしたな」
 一呼吸おいて、相馬は改めて大雅の横顔を見た。
「えらいぞ、大雅」
 それはまるで幼い子供に言うような口調だった。大雅は鼻を啜って、ココアを一口飲んだ。
「……師匠、オレは頭がおかしいんでしょうか。オレはあんなにアイツらのことを憎んで、もう二度と会いたくないとさえ思っていたのに、車の中にお母さんがいたのに気付いたとき、ほんの少しだけ、家に帰りたいと思ったんです。でも、自分がまさかそんなことを思うはずないだろうって思い直して、あんなこと言ったんですけど、言ったあとに心に穴が空いたみたいに、なんだかすごく悲しい気持ちになったんです。それだけじゃなくて、ついに言ってやったぞ、コイツらと縁を切ってやったとも思って、頭がこんがらがって、しんどくなりました」
「私も藤本さんも、大雅が御両親と会って、折角立ち直った心がまた崩れてしまわないかと心配していたが、大丈夫そうだな。……お前の頭はおかしくなどないから、安心しなさい。上手くは言えないが、私が大雅とおなじ立場であれば、きっと私も自分の抱いた感情を整理するのに時間がかかるはずだ」
 大雅が伏せていた顔を上げて、相馬を見た。
「お前が家に入ったあと、差し出がましいかとは思ったが、御両親に私から話をさせてもらったよ。大雅はいま、貴方たちに負わされた傷を抱えながらも、懸命に生きようと頑張っている。貴方たちに親としての思いがまだあるのなら、どうか大雅の人生の邪魔はしないでほしいと。御両親は不服そうな顔をしていたが、なにも言わずに帰っていったよ」
 結局、なんの目的があってアイツらがオレに近づいてきたのか、分からずじまいだったなと、大雅は思った。
 昇の話しぶりから察するに、タイキは両親の元を離れて暮らすことになったのだろう。そこにどんな経緯があったのかは分からないが、昇としおりに子供を育てる資格はないと、第三者に烙印を押されたのだ。
「もしも今後、御両親がお前に近づいて、なにか危害を加えようとしたときは、すぐに私に言いなさい。私が身を挺して、お前を守ってやるからな」
「そんな……師匠、大袈裟っすよ。……でも、ありがとうございます」
 大雅は苦笑した。これは勘でしかないが、おそらく昇たちが今後、自分に近づいてくることはないんじゃないかと思った。
 相手が自分より強いと分かれば、手出しはしてこない。あの男は、その程度のヤツだった。——その証拠に、オレがちょっと強い言葉を使ったら、怯んでいたからな。
 格闘家の相馬爽平と、ネットで調べれば、情報などいくらでも出てくるだろう。相馬が成し遂げてきた実績を目の当たりにすれば、アイツはしょんべんぐらいちびってビビるかもしれないと思って、大雅は少し、気分が晴れやかになった。
 根本的には何も解決していないのかもしれない。大雅の両親は健在していて、いつでも顔を合わせられる距離にいる。おそらく今後も、過去を思い出して苦しむこともあるだろう。だが、四六時中そればかりに囚われるわけにはいかないから、リングに上がれば闘わなくちゃならないのとおなじで、その都度、立ち向かえばいいのだ。どんな攻撃を喰らっても、立ち上がれる限りは何度だって立ってやる。それくらいの強さは、きっともう手にしているはずだ。