「良かったね、大雅。師匠のもとで暮らせるなんて、羨ましいなあ」
 それは、大雅が圭二や鷹斗に、自分が相馬の家に居候をすることになったと伝えたときの、圭二の第一声だった。
「じゃあオマエも頼み込んで住まわせてもらえよ」
「え? やだよ」
 真顔で言われてしまった。ちょっと腹が立ったので、「てめえと一緒に住むなんか、こっちから願い下げだ」と言い放ってやった。
「大雅さんもついに施設を出て、自由な生活が始まったんですね!」
 やはり施設は集団生活であるという前提があるから、どうしても色々と縛られてしまう。それでも、家にいた頃に比べると、しょうりつ学園は天国のようなところだったが、相馬の家に移って数日が経ったいま、鷹斗の言ったことが分かる気がする。
 相馬や雄也は大雅のプライベートに関して、ほとんど干渉してこない。自由な時間が圧倒的に増えたから、ちゃんと自分を律していないと、あっという間にその恵まれた境遇に呑まれてしまうと思った。
 試合の日が近づいているため、大雅は鍛錬により集中した。道場で汗を流しているときは、相馬も熱心に指導にあたってくれるから、その干渉が心地よかった。圭二たちとともに、ぶっ倒れる寸前まで肉体を追い込むのも、格上と言われている相手に挑むという闘志をめらめらと燃えたぎらせた。
 ミットやサンドバッグに打ち込む打撃の精度も上がった。相馬にはまだまだ通用しないが、プロ練でのスパーリングは、誰が相手でもそこそこ渡り合えるようになってきた。
「大雅は成長が著しいっすね。あやうく自分もダウンをとられるかと思ったっすよ」
 松橋は大雅よりも階級は上だが、体格が近いので、いい練習相手になってくれている。他の門下生とは違い、いちばん実戦に近い練習が出来るから、大雅も彼とまみえるのが楽しみだった。そんな相手から褒められて、自分が成長している実感がわいて、モチベーションアップに繋がる。
「ありがとうございます。オレ、いつか松橋さんを倒せるようになりたいッス」
「ハハハッ! 大雅も言うようになったっすね。 でも、自分もそんな簡単には倒されないっすよ」
 松橋も、後輩の成長は嬉しかった。水分補給をして、すこし休んだあと、補強練習に臨む。プロ練に参加したばかりの頃は、すぐに息切れをしていた大雅も、いまは難なく皆についていけている。

 練習が終わって、皆を見送ったあと、大雅は相馬と共に道場の掃除をするのが日課となっていた。門下生で最後に簡単な掃除はするものの、汗を拭き取るのみのような簡単な作業だったので、これまでは相馬がひとりで行っていたのだという。
「師匠、今日もありがとうございました!」
 道場の戸締まりのときに、大雅は毎日相馬に締めの挨拶をする。
「お疲れさま。あとは私がやっておくから、風呂に入ってきなさい」
「はい!」
 相馬の家に住むようになってから、大雅は道場のシャワールームを使う頻度が減った。元々設置数も少ないため、圭二たちに譲るようになったのだ。
 ひとりで風呂に入るのも、最初は逆に落ち着かなかったが、何日かすれば慣れてきた。ゆっくりと湯舟に浸かれるのは、何物にも代えがたい幸せだった。
一人の時間が増えると、陽太は元気にしているかなとか、今頃学園ではみんな、なにをしているのだろうと思うことが増えた。思いを巡らせるたびに、もうアイツらとは違う場所で暮らしているのだと、ひしひしと感じる。後ろ髪を引かれるとまで言ってしまえば大仰な表現になってしまうが、かといって完全に断ち切れるような存在でもなかった。
 思い出に浸って、いつも自分の中で結論づくのは、これから、自分なりに頑張ろうということだった。
 頑張ろう頑張ろうと心の中で意気込んでいるだけで、実際なにもしてねえじゃねえか。自嘲する。なんだか日常の流れの速さより、自分の心がずっと急いているような気がして、ずっと落ち着かない。

「出稽古……ですか?」
 相馬の提案に鷹斗が聞き返したのを、大雅は彼らのすぐそばで聞いていた。
「折角の夏休みだ。なにか、夏らしいことをしてみないかと思ってな。ここにいるお前たちは、学校の部活には入っていないだろうが、部活の交流試合みたいな感じだな。OPKDの、他のジムの同年代の選手たちと交流を深めるんだ」
「師匠、それって、鷹斗が前にいたジムのやつらとも会うってことですか?」
 鷹斗の表情が強張っているのに気付いて、代わりに大雅が尋ねた。
「安心しなさい、それはない。さすがに私も、そこまで配慮のないことはしないよ」
 相馬の声を聞いて、鷹斗はあからさまに安心したようだった。鷹斗は聡いから、相馬が出稽古を口にしたときから、もしかするとトラウマと向き合わねばならないかもしれないと危惧したのだろう。
 こうしてつぐみ道場に在籍する中高生たちのなかで、希望者は相馬の引率のもと、『出稽古』に行くこととなった。大雅は学生ではないが、相馬の補佐という名目で彼らに着いていくよう命じられた。
「大雅は試合が控えているからいい機会になるだろう。ただし、くれぐれも怪我はするなよ」
 相馬に強く念押しされた。
「どこのジムに行くんですか?」
 鷹斗は、かつての所属ジムに行かないと分かると、憑きものがとれたかのように、晴れ晴れとした表情で相馬に尋ねた。その様子に、大雅は笑ってしまいそうになった。
「ジョウネンジムといって、私がかつて、とても世話になったジムだ」
「師匠がチャンピオンになったときに所属していたジムですよね!」
 話に割り込んできたのは圭二だった。たしかそんなことを、過去に大雅も聞いたことがあった。
「私の師が運営をしているジムだ。OPKDの団体の中では、最も有名なジムだな。故につぐみ道場よりも規模が大きいから、選手層も厚い。設備も整っているし、お前たちもいろいろ勉強になることだろう」
「オレはつぐみ道場にいるだけで、充分勉強になりますけど」
 大雅は、相馬にはいつも感謝をしているというニュアンスで言ったつもりだったが、相馬に窘められてしまった。
「出稽古は、今回私たちが行う初の試みだ。では、その目的は何なのか。分かる者はいるか?」
 出稽古を希望したのは、圭二と鷹斗だけであった。つぐみ道場には他にも何人か中高生の門下生はいるが、いずれもタイミングが悪く、参加出来なかったという。
「はい!」
 正座をしたまま、圭二が子どものような仕草で左手を挙げた。「いつもと違う環境で、いろいろな人を相手に練習することによって、自分が所属している道場にいるだけでは得られない経験を積みにいくことだと思います」
「違う環境で練習をして、自分の戦術や知識を増やすのが目的だと思います」
 圭二に続いて、鷹斗が言った。相馬は大きく頷いて、大雅はどう思う、と問うてきた。
「オレも二人の言った通りだと思います! あとは、礼儀やマナーを学ぶとか、そんな感じ……ですか」
「お前が自ら礼儀という言葉を言うとは、驚きだな」
 かつて、相馬に一番ふてぶてしい態度をとっていたのは、大雅だった。そんな態度が丸くなったのは、相馬が根気強く彼に接してきた賜物だったが、相馬は大雅の成長を目の当たりにして、感慨深くなった。
「概ねお前たちの言ったとおりだ。この道場にいるだけでは知り得ないことを学ぶ良い機会だぞ。もしかすると、私の指導が間違っているかもしれないしな」
 師匠の教えをおかしいとは思ったことはなかったが、自虐気味にいう相馬の言葉には、一同は苦笑するほかなかった。

 数日後、大雅、圭二、鷹斗、相馬の四人は道場を出発した。相馬は車を出そうかと提案したが、若者たちはトレーニングもかねて徒歩で行くと聞かなかった。
 ジョウネンジムには徒歩と電車で行く。つぐみ道場の最寄り駅から東に三駅の街にあり、その駅からは徒歩で二十分ほど歩けばたどり着ける。大雅は勿論、圭二も、鷹斗も、初めて来る場所のようだった。
 ガラス張りのエントランスの扉を押す。通りの窓越しに、すでにジムの内部は見えていて、練習生たちがサンドバッグやミットを打ち、汗を流している様子が確認できた。
「おお、爽平くん」
 四人が中に入ると、トレーナーらしき男がすぐに気付き、こちらに駆け寄ってきた。
「ご無沙汰しております」
 相馬は礼儀正しくそう言って頭を下げた。
「こんにちは!」
 大雅たち三人の声が続く。師匠に恥をかかせまいと、誰もが思っていた。
「ジョウネンジムのオーナーの溝田さんだ。私の恩師でもある。くれぐれも失礼のないようにな」
 相馬の紹介に、溝田はニコニコと笑いながら、「よろしくな」と三人に握手を求めてきた。
「爽平くんは馬鹿がつくほどの真面目な男だから、融通が利かなくて君たちも大変だろう」
 がっしりと握った手をぶんぶんと振りながら、溝田は大雅に言う。
「いえっ! 師匠にはいつもすごくお世話になっています! 藤堂大雅です!」
「爽平くん、君は教え子に師匠と呼ばせているのか?」
「いや、それはこいつらが勝手に……」
 いつもは凜としている相馬も、自分の師の前ではたじたじだ。その様子も、相馬が『爽平くん』と呼ばれているのも、なんだか新鮮だった。
 
 ジョウネンジムは、つぐみ道場よりひとまわり大きな広さだった。入口を入ってすぐに靴箱が置かれており、練習生の外靴が並んでいる。土間を上がってすぐに練習場につづいているのは、つぐみ道場とおなじ造りだ。
 大雅たちに気付いた練習生たちが一斉に「こんにちは!」と挨拶をしてきたので、負けじと大きな声で「こんにちはっ!」と返した。一瞬の間のあと、再び打撃音が響き始めた。
「じゃあ、更衣室で着替えてきて。着替え終わったら、練習に合流するからな」
 溝田に言われて、大雅たちは入口の突き当たりにある部屋の中に入った。
「なんか汗臭いっすね」
「バカ、そんなこと言うんじゃねえよ、失礼だろ」
 この少しのあいだに、溝田は陽気で大雑把な印象を抱いたが、あまり間違いではなさそうだ。部屋の中に窓がないせいか、男たちの汗の臭いが充満していて、清掃が行き届いているつぐみ道場の更衣室と比べると、正直汚いなと、大雅も思った。
 トレーニングウェアに着替えて、三人は再び練習場に戻ると、相馬がジョウネンジムの練習生たちに囲まれていた。OPKDの現役選手、そしてなによりもチャンピオンという肩書きがあるから、相馬は団体の中では有名な選手なのだ。
「お前ら、爽平くんに憧れて、ジムを鞍替えするなよ!」と冗談交じりに溝田が言う。
 その後、溝田の思いつきで、希望の選手は相馬とスパーリングをすることとなった。
「いいなあ、僕たちだって、まともに師匠とスパーなんてやったことないのに」
 圭二がぼやいている。大雅はごくりと喉を鳴らして、成り行きを見守った。
 ジョウネンジムの練習生の中で、今回の合同練習に参加するのは、五人の高校生だった。その中の、いちばんやんちゃそうな少年が、大雅の金髪をじろじろと品定めをするように見てきた。圭二と鷹斗は大人しそうな雰囲気だから、気が合わないと思ったのかもしれない。あるいは、大雅に自分とおなじ匂いを感じて、警戒をしているのか。その少年は、大石義人と名乗った。
「おれ、高二っス。藤堂くんは?」
 見た目はおっかないのに、随分と人懐っこいヤツだと大雅は思った。
「オレ……高校生じゃないんだ……。十八歳。……学年でいえば、ウチの圭二とおなじ、高三なんだけどな」
「じゃあ、おれの一個上ッス! くん、なんて言ってすみませんっ! 藤堂さん!」
 義人は茶色の髪をフェードカットにして短く揃えていた。眉はほとんど剃られていて、細い一本の線のように、瞼のうえに生えている。口を開くと、薄い唇の向こうに犬歯がみえた。
「いや、オレはそういう礼儀とか気にしないから……」
 大雅はぼそぼそと言った。相馬に聞こえたら、窘められそうな気がしたからだ。
「藤堂さん、ヨロシクッス! おれと一緒にトレーニングしましょう!」
 なんだか懐かれちまったみたいだ、と、圭二の顔を見ると、彼はにやにやと笑いながら静観しているだけだった。

 つぐみ道場とジョウネンジムの違いは、大雅もすぐに目の当たりにした。つぐみ道場では、準備運動を行ってからまずミット打ちや技術練習、筋トレを順番にこなし、最後にスパーリングをする。だが、ジョウネンジムでは、準備運動のあと、すぐにスパーリングに移った。
「大雅は、大石くんとペアを組みなさい」
「ッス」
 三分三ラウンドずつ順番にリング上でスパーリングをすることとなった。大雅と、義人たちを合わせるとちょうど八人。四巡すればみんながリング上で練習できる。
 圭二たちがスパーリングにいそしんでいるあいだに、大雅は相馬にスパーリングの順番が違うことに、なにか意味があるのかと聞いてみた。
「スパーリングを最初に行うのと最後に回すのとでは、その効果が違う。練習をはじめてすぐに行うスパーリングは、体が疲れていないから、やりたい動きを高い精度で確かめられる。だから、試合の感覚に近くなるんだ。逆に、練習の後半にするスパーリングでは、試合の終盤になって疲れているときとおなじ感覚を味わえる。疲れていても、それに負けないスタミナと精神力を鍛えるために効果的だな」
 普段の練習が当たり前だと思わないことが大切だ。違う環境で練習すれば、視野も広くなる。いまよりももっと強くなるためには、色々な方法を取り入れ、すべてを糧にする必要があるのだろう。

 すべての練習が終わって、一同はヘトヘトになって床に倒れ込んだ。そんな中で相馬とのスパーリングをしたいと言う猛者は誰もおらず、彼は肩透かしを食らっていた。
「藤堂さん、今日は楽しかったッス! おれも今度、つぐみ道場さんにお邪魔させてください!」
「こちらこそありがとう。おれも楽しかったよ」
 義人はすっかり大雅のことが気に入ったようだった。悪い気はしなかった。連絡先を教えてくださいと言われたので、まだ使いこなしていないスマホを更衣室から持ってきて、情報を交換した。
義人と話していると、鷹斗が険しい顔でこちらを見ているように感じた。大雅さんは俺の先輩だぞと言いたげな表情だった。

「師匠のスパーリング、見たかったッス」
 帰り道、ふとこぼした大雅の言葉に、圭二も鷹斗もうんうんと頷いた。
「きっと師匠なら、僕たち三人を同時に相手にしても、みんな倒しちゃいそうですね」
「買いかぶるな。私はそこまで超人じゃないぞ」
「オレたちからしたら、チャンピオンってだけで充分超人ッス」
 義人と話していたら、喋り方が移ってしまったようだ。言葉遣いを乱すなと、また叱られるかとひやひやしたが、相馬はとくになにも言わなかった。
 つぐみ道場の近くで、圭二たちと別れたあと、大雅は相馬とともに帰路についた。
「師匠、今日はありがとうございました。めちゃくちゃ良い経験になりました。また行きたいです」
「お前に懐く後輩もひとり増えたようだし、ジョウネンジムには定期的に出稽古に行かせてもらおうか。あちらの生徒さんにも、私の道場へ来てもらうのもいいな」
「みんな喜ぶと思います。オレもそのときは色々手伝います」
 つぐみ道場の前のコンビニが見えてきたとき、大雅は新しいボールペンとノートが欲しかったことを思い出した。
「師匠、オレ、ちょっとコンビニに寄ってもいいですか」
「なにか買うのか? もうすぐ試合だから、暴飲暴食は絶対にするなよ」
「いや、食べ物は買いません」
「そうか。ならば、私は先に帰っているからな。道場は閉まっているから、そのまま家に戻ってきなさい」
 返事をして、つぐみ道場の前で相馬と一旦わかれた。小走りで道路を渡り、コンビニの敷地に足を踏み入れる。店の入口の前には、一台の軽自動車が停まっていたので、それを避けるようにして店内を目指した。
 車の横をすり抜けようとしたときだった。
「うわっ!」
 運転席の扉が突如開いて、大雅の進路を阻んだ。
(なんだよ、あぶねえな……)
 思わずチッと舌打ちが出る。歩行者がいるのに、周りも見ないでドアを開けた運転手に怒りが湧いて顔を上げたとき、大雅の表情は凍り付いた。

「久しぶりだなあ、大雅」

 口をぽかんと開けたまま立ち尽くす。腹の底から轟々と戦慄が湧き上がってきて、全身の汗が一瞬にして干上がったような感覚がおそってきた。
「……あ……あっ……」
 声が出ない。体が言うことを聞かない。まるで相手の視線に、体中の細胞が射止められてしまったかのようだった。
 バタンと運転席の扉が閉まる音が、大雅の耳に大きく響いてくる。
「あっ……お……おとう……さん……」
 そこにいたのは、大雅の義父——藤堂昇だった。