大雅がしょうりつ学園を出て、まず始めに行ったことは、携帯電話の契約だった。そのまま相馬の家に直行するのかと思いきや、大雅の予想に反して車は逆方向を走っていた。
 街のショッピングモールに着くと、相馬に促されて彼のあとをついていった。
「必要なものを買い揃えよう。事前に準備しておこうかと考えたが、お前が使うものなのだから、気に入ったものを選ばないとな」
 それでも、スマートフォンはいろいろな種類があり、大雅は色々と目移りしてしまったので、結局機種は相馬に選んでもらった。
「どうせ使うなら、一番いいやつにしよう」
 そう言って相馬が選んだのは、最新のハイエンドモデルだった。契約が終わって、相馬に端末を渡された大雅は、目を丸くしてそれを眺めていた。
 その後、モール内のテナントとして入っている家具屋で箪笥や食器を買い、さらには新しい衣服も揃え、二人とも両手いっぱいになるほどの荷物を車に積み込んだあと、ついに相馬の自宅へと向かった。
「いろいろ買っていただいて、ありがとうございます。お金は返しますので」
 大雅は始終、恐縮していた。学園を出る時に、藤本から大雅名義の通帳を渡されていた。そこには、大雅が小遣いの中から貯金にあてた分や、中学生のときに支給された児童手当が丸々入金されている。子供が施設等に入所した場合、児童手当は施設の設置者に支給されるが、施設での子供にかかる費用は自治体の措置費で賄われるため、しょうりつ学園では児童名義の口座に貯金して、退所時に通帳を渡すという方法をとっている。
「そのお金はお前の為にと、藤本さんが貯めておいてくれたものだろう。ちゃんと、とっておきなさい。私のことは気にしなくていい」
 相馬に対する恩がどんどん積み重なっていく。いずれ、自分はそれに押し潰されやしないだろうかと、肝が冷えた。
「こういうことを以前からやってみたくてな。私も雄也も、それほど金遣いが荒いけではないから、たまにはぱっと使わないとな」
 OPKDのチャンピオンである相馬がこれまでに稼いだファイトマネーは、相当な額なのだろうと、大雅は推察した。大金を手にすると、欲に目が眩んで生活が豪華になりそうなものだが、相馬にそのような気配はない。彼の実直さが私生活にも現れている証だった。
「今日は大雅を迎え入れるために、道場は休みにしてある。圭二や鷹斗には、お前が私の家に住むことになったと伝えるか?」
「どうせいつか分かることですから、俺から言ってもいいですか?」
 やっかみ癖のある者なら、贔屓されているだの、特別扱いを受けているだのと妬みを言うかもしれないが、二人なら大丈夫だろうと、大雅は思った。
「ああ、そのほうがいいだろうな」
 かねてから決めていた予定通り、大雅はつぐみ道場の従業員として雇われることになった。ただし、大雅の希望で、それは来年の三月まで。そのあいだにこれから自分がどんな生き方をしていくのか、考えていくこととなった。
「高卒の学歴が欲しいとか、もし大学に進学したいなら、定時制や通信制の学校に行くとか、高卒認定試験を受けて進学するという道もある。もちろん、勉強が嫌ならそのまま働くという手もある。ゆっくり考えなさい」
「……オレ、流石に一生ここでお世話になるわけにはいきませんから、そのうちひとり暮らしをしようと思っています」
「そうか。私としては、いつまでいてくれても構わないんだがな」
 しかしそれでは気を遣ってばかりで、大雅の心が疲弊してしまうであろうことも、相馬は分かっていた。
「師匠にいつでも頼れて、いつでも鍛錬が出来て、格闘家として成長していくには最高の環境だと思います。だからオレは、それに慣れて甘えたくないんです」
「言うようになったな、大雅」
 まもなく大雅が学校を退学になってから一年が経とうとしている。そのあいだの彼の変わりようは凄まじかった。反省の意を示すために頭を丸め、叱責する自分に低頭してきたときのことを、相馬は昨日のように思い出す。大雅にとっては理不尽すぎた措置は、彼の心に甚大な影響を与え、否応にも立ち直らせるきっかけとなったのだ。

 荷物をすべて運び終えると、相馬は車を車庫に入れた。
「師匠、車持ってたんですね」
 道場が面している表通りではない家の裏側に車庫があり、車や自転車などが置かれていた。
「普段はあまり乗らないが、やはり荷物を運ぶときなどには必要だからな」
「師匠が運転してるの、見慣れてないから新鮮でした」
 大雅がそう言うと、相馬は照れたように笑った。

 小学生だった頃、設楽という名の教師がいた。大雅が六年生の頃の担任だった。いまの相馬とおなじくらいの年齢の男性教師は、大雅の家庭が普通ではないであろうことに勘づいて、なんとか力になれないかと考えた。
 その頃になると、大雅の空元気が通用しなくなるほど、彼の異質さはほかの児童たちや、教師のあいだで目立っていた。大雅の生涯の中で、最も親からの虐待がエスカレートしていた時期でもあった。
「藤堂、なんかおまえくせえな」
 それはクラスメイトの一言から始まった。「前から思ってたんだけど、おまえ最近ションベンくせえんだよ。ちびってんのか?」
 大雅は表情が凍り付いたのが自分でも分かった。自分の体から発せられている臭いには気付いていた。それでも、どうすることもできなかった。

 家の玄関の下駄箱の上に、インスタントコーヒーの瓶が置かれている。それは、大雅が自分の尿を入れるために男から渡された容器であった。
 大雅はその頃、家のトイレで用を足すのを禁じられていた。小便を便器の外や床に飛び散らせ、そのままにしているからという理由であった。学校にいればトイレにいけるが、休日だった。外出を禁じられ、どこにも逃げ場のない大雅は、土日の二日間、ずっと尿意を我慢できるはずもなく、ぎりぎりまで我慢して、膀胱がはち切れそうになってから、瓶に排尿するという方法をとっていた。
 瓶に入った尿は、トイレに流すことは許されなかった。
「てめえの体内から出てきた汚ねえもんを、なんでうちで処理しなきゃならねえんだよ」
 瓶を抱えて震えながら立っている大雅に、男はそう言い放った。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
 ではどうしたらいいのか分からずに、大雅はべそをかきながら謝った。
「飲めよ」
「え……」
 大雅は絶句した。単なるその場の思いつきであったとしても、男の発言はこの家においては絶対だった。言うことを聞かなければ、どんな目に遭うか分からない。殴られるのも、自分の尿を飲むのもどちらも耐えがたい苦痛でしかなかったが、このまま渋っていれば、そのどちらも自分にふりかかってくる可能性が高い。だったら、素直に従っているほうがいい。
 大雅は瓶の口を、自分の顔に近づけた。男の言うことを聞けと脳が命令をしても、体が全力で拒否していた。ぎゅっと目を瞑り、息を止める。手が震えていて、瓶の中身がかすかに波打っている気配がした。
 唇の先に、生暖かい液体が触れる。今しがた、自分の体内から出てきたばかりのものを、再び体の中に戻す。大雅はえづきながら、口の中に流れ込んでくる尿を必死で喉の奥に押し込んだ。息を止めていても、堪えようのないえぐみが舌の上に残った。
「汚ねえガキだなあ、おい。お前ほんとに人間なのか? でもまあ、自分のションベン飲んだら水分補給も出来るから、自給自足になってちょうど良かったじゃねえか」
 ゲラゲラと笑いながら男が言う。空になった瓶を抱えたまま、大雅は嗚咽をこらえていた。殴られずに済んだ。ここで声をあげて泣いてしまったら、うるさいと怒鳴られて、結局暴力を振るわれるかもしれないから、どんなに辛くとも泣いてはならない。
口で呼吸をして、空気の味で口の中の不快感を誤魔化す。一度胃の中に入ってしまえば、腹も膨れるし、自分の心の中に湧いた感情に気付かないふりをすれば、なによりも痛い目に遭わなくて済んだのが幸いだった。
 その後も大雅は、尿意を催すたびに、瓶の中に用を足し、それを飲んで体の中に戻すことを強いられた。玄関に置いてある瓶は、日数が経つにつれて透明だった表面が、白く濁ったように劣化していった。
 尿は、排出してすぐに飲んだほうが苦痛は緩和された。時間が経過して室温とおなじ温度になったそれを口に含むと、アンモニアの刺激が強くなり、辛い思いを助長させるだけだった。
 やがて大雅は、下着の中に少しずつ失禁することで、尿意を和らげて我慢しようと考えた。時折失敗して、想定より多い量の尿で下着を汚してしまうこともあった。
その企みはすぐに両親にバレた。
「臭えんだよ、ゴミが!!」
 侮蔑の言葉を浴びながら、暴行を受け、下着を脱がされる。汚れたパンツを口の中に押し込まれたり、頭から顔全体に被せられたりした。腹を蹴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけた大雅は、(こうしたほうが、おしっこを飲むよりマシかもしれない)と心の中で思っていた。

 週が明けると、大雅は汚れた衣類のまま学校に行くことになった。朝からしおりにネチネチと嫌味を言われながら、学校に行く支度をする。集団登校の時間には間に合わず、ひとりで登校する日が多くなった。自分がどんなに惨めな格好をしていたとしても、家から離れられるだけで、大雅にとっては救いだった。
 クラスメイトに貶されはじめたことがきっかけで、大雅は次第に学校でも元気をなくしていった。登校すれば、教師に保健室に連れていかれて、着替えを促される。
「一体どうしたの?」と養護教諭に尋ねられても、本当のことなど言えるはずもなく、涙をこらえながら口を閉ざすほかなかった。あるいはそこでありのままを教師たちに伝え、助けを求めていたら、大雅はもっと早くに保護されていただろう。しかし、家でされていることを公にすれば、自分がどうしようもない悪い子供であることがみんなにバレてしまう、それだけは阻止しなければならないと思っていた。
 担任の設楽は、大雅の母親であるしおりにコンタクトを取ろうと考えた。あくまで虐待の疑いがあることは伏せ、大雅の家での様子はどうかを聞き出すというていで、大雅が学校にいるあいだに家庭訪問をおこなった。
 しおりは居留守を使った。だが、教師が家に来たのは分かったから、すぐに夫にそれを告げた。なにも知らずに帰宅した大雅が、「てめえ、自分のことを棚に上げて、都合良く先公にチクりやがったな」と激昂した男に暴行を受けたのは言うまでもない。——オレは誰にもなにも言ってないのに……。なんでこんなことになってんだよ……。
 自分の体に男の拳が沈みこむたびに、大雅の心は絶望に染まっていった。あいつらが……、なにも知らない教師どもが余計なことをするから、オレは殴られなきゃいけないんだ。こればかりは、オレは悪くないぞ……。

 それからも相変わらずの仕打ちは続いていたが、両親が体裁を気にしたのか、少なくとも汚い格好のまま学校に行くことはなくなった。だが、大雅の心は完全に壊れていた。
 設楽が余計なことをしなければ、自分は酷い目に遭わなかったはずだ。なにも知らないくせに、自分の行為は正しいと思っているやつらに限って、他人のテリトリーにずかずかと踏み込んでくるのだ。結果、どうせなにも出来ないのなら、放っておいてくれ。
 やがて大雅は、クラスで浮いた存在となった。児童たちはみんな腫れ物をさわるかのような扱いで大雅と触れ合うようになり、次第に誰も彼に話しかけなくなった。
 大雅はそれでもよかった。表立って無闇な詮索をされずに済んだから、むしろ好都合だった。
 食事にありつける機会も減っており、毎日食いつなぐのに必死だった。水道水を飲んで空腹を誤魔化したり、学級菜園で育てているきゅうりやトマトなどをもぎ取って、隠れて食べた。給食室の裏に置いてあるごみ置き場を漁って、残飯を拾ったりもした。
 誰かに見つかったらどうしようとか、なんで自分はこんなにまでして生きているんだろうと、悔しさと情けなさで胸が押し潰されそうになったが、相変わらず自ら命を絶つ勇気はなかった。幸いだったのは、誰にも見向きをされなくなったから、隠れてこそこそと行動がしやすくなったことだった。
 自分の命は自分で守らなければならない。死ねないのなら、どんな方法を駆使してでも、生きなければならない。そのためには、誰も信用してはならない。
 設楽は、大雅と顔を合わせるたびに声をかけてきた。大雅は空虚な眼差しで設楽を一瞥して、すぐに目を逸らした。設楽は設楽で、大雅をなんとかしてやりたいと思っていたが、その善意は、大雅には正しく伝わらなかったのだ。
「藤堂くん、ちょっといいか」
 ある日の放課後、設楽は大雅を呼び出した。帰ろうとしていた大雅だったが、無言のまま設楽のあとについていった。自分たちが人気の少ないほうへ向かっているのは分かった。やがて辿り着いたのは、図書準備室だった。
「少し話をしようか」
 オレはなにも話すことなんかない。大雅は視線だけで訴えたが、設楽は気付かず、大雅を椅子に座らせて、自分も向かい合って座った。
「藤堂くん、俺は君を助けたいんだ。だから本当のことを話してくれないか」
 大雅は黙ったまま、じっと机の端を見ていた。木目の数を数えてみたりする。
「答えにくかったら、頷くか、首を振るだけでもいい。俺の質問に答えてくれ」
 設楽は教師になって数年が経ち、目まぐるしい日々にようやく慣れてきたころであったが、大雅のような児童のケースは初めてだった。自分の少年時代は、何不自由のない家庭環境で過ごしてきたから、子を虐げる親がいるなど、まるで別次元の話だと考えていた。大雅のことは、彼が低学年の頃から家庭環境に問題があるのではないかと、教師のあいだでも話題になっていたが、いざ自分が受け持つようになってようやく、その問題に正面から向き合わなければならないと思った。クラスに大雅が割り振られたとき、正直にいえば、厄介なやつを押しつけやがってと、自分の上司たちに反感を抱いたが、考え直し、どうせやるなら、自分が彼を助け出すのだという気概をもって挑む決心をした。
「腹減ってないか?」
 設楽はそう言って、あらかじめこの部屋に持ってきていた個包装の菓子が詰まった容器を机の上に置いた。大雅がちらりとそれを見て、ごくりと喉をならしたのを見逃さなかった。「ここは俺の……秘密基地みたいな場所でな。他の先生やお前たちに隠れて、腹が減ったときに食べられるようにお菓子を隠してるんだ。他のやつらには内緒だぞ。ほら、俺も食うから、藤堂くんも遠慮すんなって」
 なにもかもが嘘だった。設楽は普段、図書室の辺りには近寄らないし、隠れてお菓子を食べることもしない。いま用意している菓子は、設楽が自腹をきって、大雅のために用意したものだった。
 大雅が菜園の野菜や給食室の残飯をくすねていることは、教師たちにはばれていた。いくら大雅がうまく隠れていると思っていても、学校には数多の目がある。勿論問題になったが、設楽が「僕がなんとかしますから、あいつを責めないでやってください」と懇願したのだ。
 大雅にたった一言、「ぼくは両親から虐待を受けています」と認めさせればいいのだ。そうすれば、設楽たちも容易に次の一手を打てる。
「昨日の夜はちゃんと飯を食ったか?」
「その痣はどうした? 転んだだけじゃそうはならないだろう」
「なにも心配することなんてないんだ。だから、答えてくれよ」
 大雅が両親から虐待を受けているという事実が、もう確定していると言わんばかりの質問に、大雅はなにも答えられないでいた。ここで設楽が尋ねてきたことに対してすべて認めたら、いまよりもっと楽になれるかなと、大雅の心が揺らいだときもあったが、それはつまり自分が悪い子供なのだと認めたも同然だ。どれだけ理不尽な目に遭って、周りに奇異の眼差しを向けられようとも、大雅は自分を責めるほかなかった。
「……うるせえんだよ! もうオレのことなんか放っておいてくれよ!」
 設楽が図書準備室に大雅を連れていって、何度目かのとき、ついに大雅は口を開いた。だが、それは設楽が期待していた言葉ではなく、はっきりとした拒絶の意思だった。「先生がオレのためにお菓子を用意してくれたり、こうして時間を作ってくれてるのは有り難いけど、もういいんだよ! オレはこれ以上、惨めな思いをしたくない。だから放っておいてくれよ!」
 どれだけ強がっていても、空腹には抗えなかった大雅は、設楽の用意した菓子を食べて、涙を流したこともあった。それを見た設楽は、このまま大雅を家に連れ帰って、自分が代わりに育ててやりたいという衝動にかられたが、実際に行動に移せないもどかしさにやきもきしながら、いまにも頭の先から噴き出してきそうな、大雅の両親への憤懣を堪えるしかなかった。
「……分かった。ごめんな藤堂くん、つらい思いをさせて。……でも、もしも君がお腹が空いてどうしようもなくなったら、この部屋に来なさい。こういう食べ物とかをこっそり置いておくから」
 その後、設楽が一対一で大雅を呼び出すことはなくなったが、図書準備室に設楽が用意した食べ物や飲み物は定期的に減っていた。身銭をきってでも、大雅のためになにかしてやりたいと思う一心で設楽は食べ物を補充し続けたが、教師という立場でありながら、自分が受け持つ児童が抱える、根本的な問題を解決できない自分に無力感を抱きながら月日を過ごすこととなった。

 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬になって、大雅たち六年生がそろそろ卒業を迎える時期となった頃、ようやく事がうごいた。
 設楽は、ほかの正義感の強い教師たちと結託して、ずっと大雅の虐待の証拠を確立しようと、水面下で動いていたのだ。
「藤堂くんの御両親は虐待の事実を認めないでしょうから、我々が児相に通報しても、思い通りに動いてもらえないかもしれない。それどころか、下手に動くことによって、藤堂くんがもっと酷い暴力を受ける可能性だってあります。設楽先生の意には反するかもしれませんが、別の理由で児相に相談して、そこから虐待の事実を浮き彫りにして、保護してもらうようにしませんか」
 それは、教頭の提案であった。
藤堂大雅という児童が、校内で食べ物をくすねたり、他の児童とは違って、誰とも関わろうとしないなど、『問題行動』が多くみられている。過去には万引きをするなど、幼いながら犯罪に手を染めた事実がある。我々教師は一丸となって該当児童の対応を行っていたが、学校という機関だけでは手に負えない事態にまで発展してしまった。——事実の見方を湾曲させた筋書きだった。
「不良行為をしたり、そういうおそれのある児童、家庭環境に問題があり、生活指導が必要な児童が入所する、児童自立支援施設という福祉施設があります。我々が児相に相談する内容だと、藤堂くんはもしかするとそちらに送致されるかもしれませんが、家にいるよりはマシでしょう」

 大雅の知らないところで、大人たちによって着々と事は進められていた。設楽たちは大雅が学校で起こした、あるいは起こしたと考えられる問題行動を記録にまとめ、児童相談所に持参した。相談を受けた児童相談所の職員は、両親に接触を図り、実態の確認を行った。『両親ではなく、大雅のほうに問題がある』というニュアンスで話を持ちかけた職員に、大雅の両親はいかに自分たちの息子が問題児で、手を焼いているかを意気揚々と話してきかせた。大雅に負わせた心の傷など、まるで認知もしていないと言いたげに、彼らはただ、自分たちの正当性を訴えた。
 大雅が小学校を卒業したあと、春休みのあいだに、彼を一旦児童相談所で一時保護しようという話が決まりつつあった。その経過報告が設楽たちにも届いたとき、小学校の教師たちは手のひらを返したかのように、大雅が両親からひどい虐待を受けている可能性が高いことも伝えた。
 大雅が小学校に在籍していた数年間のあいだにあった出来事や見聞を詳細に記録し、再び児童相談所に提出したのだ。まもなくして、大雅の緊急保護が決まった。大雅が中学校に入学する前日のことだった。
 大雅は児童相談所に保護されたが、彼の両親は逮捕されなかった。設楽たちが提出した記録に正当性はあれど、その事実は確認できなかったからだ。あくまでも大雅の事案は、『該当の児童は問題行動を繰り返すおそれがあり、またそれにより両親による虐待のおそれがある』という理由で処理されたのだった。