大雅の退所の日が、ついに訪れた。日が近づくにつれ、数日前から分けてもらった段ボールに荷物を詰めていき、引っ越しの準備は少しずつ進めていったが、実感がなかった。
「おまえの私物が箱にしまわれていくのをみるたびに、ああ、ホントに行っちゃうんだなって実感が強くなっていくよ」
陽太はやはり名残惜しそうであった。大雅がしょうりつ学園に入所したときから、ずっと一緒にいたのだ。いろいろなことがあったが、多感な時期を共に過ごした絆は、互いに一生忘れることはないだろう。
残された日を使って、大雅は支援員や児童たちに世話になった礼や、別れの言葉を言ってまわった。
「大雅、元気でな。幸せになれよ」
そんなような祝福の言葉を、皆一様にかけてくれた。
前日はドキドキして、なにもかもが浮ついた気持ちになった。食事を摂るのも、風呂に入るのも、ベッドで寝るのも、そのすべてが今日で最後なんだなと、脳が確かめるように心に刻みつけていった。そのせいで心身ともに疲弊したのか、眠れなかったらどうしようと危惧していたが、いつもより早くに睡魔に襲われ、つぎに目覚めたときは朝になっていた。
「よう、起きたか、大雅」
起き上がってベッドから出たとき、頭上から陽太の声が降ってきて、「うおっ!」と驚いて声を上げてしまった。
「おはよ」
「おはよう。朝からビビらせんなよ」
「いよいよだな」
「ああ」
「それと、誕生日おめでとう」
そうだった、と大雅はうなずいた。学園を去る今日は、大雅の十八歳の誕生日でもあった。
「おまえが呑気にぐーすか寝ているあいだに、おれ、いろんなこと思いだしちまって、あんま寝られなかったぜ」
「夜通し思い出でも語り合えば良かったか?」
「そんなことしたら、また泣いちまうからヤダよ!」
オレだって、オマエとおなじだよ。いま必死で、寂しいなんて思わないようにしているんだ。
大雅は部屋を出て、洗面所に向かった。顔を洗う。学校を退学になってからはなかったけれど、朝はみんな顔を洗うから、中高生のあいだで順番を競い合って洗面所を使っていた。みんな早くしろよと他の児童を急かしていたが、大雅だけは怖くて誰も声をかけなかったこともあった。
朝食を摂りに、食堂に行く。小学生たちの喧騒を聞くのも、厨房から漂ってくる食事の匂いを嗅ぐのも、今日で最後だ。
大雅が退所すること以外はいつも通りの朝で、大雅以外の児童たちはみんな、普段通りの日常を過ごしていた。
朝食は、ほとんど味を感じず、詰め込むようにして食べた。時間が近づいてくるにつれ、そわそわして心臓がだんだんと大きく弾んでいった。
朝食が終わって一度部屋に戻ったが、相馬が迎えにくる午前九時まで、大雅は部屋の中をうろうろとして忙しなかった。
部屋の時計が九時に差し掛かったとき、扉をノックする音がして、藤本が顔を覗かせた。
「準備は出来ているか」
それは、荷物のことか、あるいは心のことか。大雅はこくりと頷いた。
いよいよだと、大雅は立ち上がり、拳を握りしめた。
「相馬さんが下で待っているから、荷物を運ぼうか」
大雅が持っていくのは、衣類や日用品が詰め込まれた段ボール数箱分の荷物だけだった。格闘技の用品は、すでにつぐみ道場に保管してもらっているし、陽太のように、漫画本などの趣味のものを集めていたわけではなかったから、必要最低限のものだけを持っていくのだ。
相馬は、この日のために軽ワゴン車を調達してくれていた。大雅と陽太と、そして藤本の三人で、段ボールを積み込んでいく。
階段を往復しながら、もう二度と、しょうりつ学園で寝起きする毎日を送ることはないのだと思ったとき、自分の日常が思い出に変わってゆく瞬間をみた。当たり前からはじき出された感覚だった。体の底から、感情が怒涛のごとく溢れあがってきて、喉元をせり上がり鼻の奥がつんとなった。あまりにも凄まじい感情の波。大雅はそのとき、生まれて初めて、誰かとの別れが辛いと思った。
軽ワゴン車のトランクの扉がバタンと閉まる。相馬が振り返って、大雅を見る。視線が合って、しょうりつ学園の皆に挨拶をするように促された。
大雅は靴底をアスファルトに滑らせて、体の向きを変えた。藤本と陽太が、黙り込んだまま大雅の動向を見ている。そのとき、示し合わせたかのように、学園の建物の中から、その日出勤していた支援員と、何人かの児童たちが連れだって出てきた。
「大雅さん、元気で頑張ってくださいね!」
京輔、淳基、充の三人が、同時にそう言って大雅に握手を求めてきた。
「オマエたちも、柔道頑張れよ。オレも総合、頑張るから」
「はいっ!」
「大雅くん、寂しくなっちゃうけど、私たちもあと少しで卒業だから。そしたら、また会えるといいね」
女子児童で唯一見送りにきてくれたのは、花蓮だった。大雅は彼女に声をかけられると、なぜか顔を赤くして「お、おう。またな」ともごもご言った。
「陽太」
そして大雅は、陽太に向き直った。彼は今日も爽やかに笑って、寂しさなど微塵も抱えていないかのような態度で、大雅と接している。「……オレ……オレ、オマエにいろいろ迷惑かけて、でも助けてもらって……。陽太と出会えて良かった。また、遊ぼうな。キャッチボールやろうな。いままでありがとう、陽太。オマエはオレの……親友だ」
「よ、よせよバカ野郎」
陽太は唇を震わせてそう言った。それ以上は言葉にならなかったようで、彼はごしごしと目頭を手で拭った。
「マサノリ先生、オレのために裏でいろいろ動いてくれて、ありがとうございました。オレ、正直最初はマサノリ先生も、他の先生たちも、みんな信用できなくて、迷惑ばっかかけてたよな……。その……ごめ」
「謝るな、大雅」
藤本は大雅の言葉を遮った。大雅は驚いて、伏せていた顔を上げる。
「謝らなくていい。お前はなにも悪くない。今日、お前が元気な姿で旅立っていくのを見られるだけで、私たちがいままで支援してきた甲斐があったと思う。お前を更生させたいがために、私は色々と他の先生方とは違う接し方をしてしまったから、むしろ謝らなければいけないのは、私のほうだ」
すまなかったと、藤本はそっと言葉を締めくくった。
藤本との確執はとうに解消している。コイツは本当に施設長として学園を運営していく資格のあるヤツなのかと疑問に思っていた時期もあったが、いまは大雅自身を正しい道に導くためにあえて行った指導なのだと理解している。理解できてからは、藤本もまた、自分のために尽力してくれた人のうちの一人なのだと思えるようになった。
「達者でな、大雅。新しい生活が始まって、もしも不安なことが出てきたら、遠慮なく私たちを頼りなさい。お前が望むのなら、いつでも顔を見せに来てくれ」
親からの愛情が受けられない子供たちがいるのなら、その代わりになりたい。学園を旅立っていった子供たちにとって、此処が帰るふるさとなのだと、心のどこかでそう思っていてほしい。——それは、藤本だけならず、しょうりつ学園に勤める支援員たちが、退所していく児童たちに託す思いであった。
「大雅のことは、私にお任せください。この度は私の無謀な願いを受け入れてくださり、ありがとうございます」
相馬は、そろそろ行こうかと大雅を促した。大雅は無言のまま頷き、最後に学園の建物を一瞥したあと、見送ってくれる皆に深々と一礼をした。
初めて学園に足を踏み入れたときは、俯き、誰とも目を合わそうとしなかった大雅が、いまは胸を張り、凛とした佇まいで相馬に連れられていく。彼のその立ち振る舞いを『成長』だと定義するのは、あまりにも浅はか過ぎる。
大雅は、自分の気持ちを素直に相手に伝えられるようになっただけ。それはきっと、彼が幼い頃からずっと持っていた本能であり、ふたたび誰かを信じられるようになった何よりの証だった。
大雅が助手席に乗って、相馬がエンジンをかけると、車はゆっくりと発進した。
「ありがとう! またな!」
窓を開け、大きく手を振る。大雅は見送りの人々やしょうりつ学園の建物が見えなくなるまで、遠くなっていく景色をずっと目に焼きつけていた。
車が曲がり角を曲がって、完全に何もかもが見えなくなったとき、大雅は潤んだ目でフロントガラスを見つめた。
「我慢しなくていい」
「っ……ううっ……」
今日から新しい生活が始まるのだという希望が、大雅の心からすっかり抜け落ちてしまったかと思うくらい、いまは悲しみが感情のすべてを支配していた。
「し、師匠……オレ……正直っ……こんなにアイツらとの別れが辛いとは……思いませんでしたっ……」
「それだけ学園での生活が、充実していたということだろう。良かったな、大雅」
「っ……はいっ!」
ごしごしと目をこする。それでも、いつまでもめそめそと思い出に縋っているわけにはいかない。——オレを見送ってくれたみんなは、もう建物の中に入って普段の生活に戻っているだろう。だからオレも、師匠のところで新しい日常を創っていくんだ。それがきっと、マサノリたちに手向ける感謝のしるしだ。
涙を拭って前を向く。不思議なことに、いまなら腕立て伏せを千回ぶっ続けでできそうな、そんな力が湧いてきたような気がした。
「おまえの私物が箱にしまわれていくのをみるたびに、ああ、ホントに行っちゃうんだなって実感が強くなっていくよ」
陽太はやはり名残惜しそうであった。大雅がしょうりつ学園に入所したときから、ずっと一緒にいたのだ。いろいろなことがあったが、多感な時期を共に過ごした絆は、互いに一生忘れることはないだろう。
残された日を使って、大雅は支援員や児童たちに世話になった礼や、別れの言葉を言ってまわった。
「大雅、元気でな。幸せになれよ」
そんなような祝福の言葉を、皆一様にかけてくれた。
前日はドキドキして、なにもかもが浮ついた気持ちになった。食事を摂るのも、風呂に入るのも、ベッドで寝るのも、そのすべてが今日で最後なんだなと、脳が確かめるように心に刻みつけていった。そのせいで心身ともに疲弊したのか、眠れなかったらどうしようと危惧していたが、いつもより早くに睡魔に襲われ、つぎに目覚めたときは朝になっていた。
「よう、起きたか、大雅」
起き上がってベッドから出たとき、頭上から陽太の声が降ってきて、「うおっ!」と驚いて声を上げてしまった。
「おはよ」
「おはよう。朝からビビらせんなよ」
「いよいよだな」
「ああ」
「それと、誕生日おめでとう」
そうだった、と大雅はうなずいた。学園を去る今日は、大雅の十八歳の誕生日でもあった。
「おまえが呑気にぐーすか寝ているあいだに、おれ、いろんなこと思いだしちまって、あんま寝られなかったぜ」
「夜通し思い出でも語り合えば良かったか?」
「そんなことしたら、また泣いちまうからヤダよ!」
オレだって、オマエとおなじだよ。いま必死で、寂しいなんて思わないようにしているんだ。
大雅は部屋を出て、洗面所に向かった。顔を洗う。学校を退学になってからはなかったけれど、朝はみんな顔を洗うから、中高生のあいだで順番を競い合って洗面所を使っていた。みんな早くしろよと他の児童を急かしていたが、大雅だけは怖くて誰も声をかけなかったこともあった。
朝食を摂りに、食堂に行く。小学生たちの喧騒を聞くのも、厨房から漂ってくる食事の匂いを嗅ぐのも、今日で最後だ。
大雅が退所すること以外はいつも通りの朝で、大雅以外の児童たちはみんな、普段通りの日常を過ごしていた。
朝食は、ほとんど味を感じず、詰め込むようにして食べた。時間が近づいてくるにつれ、そわそわして心臓がだんだんと大きく弾んでいった。
朝食が終わって一度部屋に戻ったが、相馬が迎えにくる午前九時まで、大雅は部屋の中をうろうろとして忙しなかった。
部屋の時計が九時に差し掛かったとき、扉をノックする音がして、藤本が顔を覗かせた。
「準備は出来ているか」
それは、荷物のことか、あるいは心のことか。大雅はこくりと頷いた。
いよいよだと、大雅は立ち上がり、拳を握りしめた。
「相馬さんが下で待っているから、荷物を運ぼうか」
大雅が持っていくのは、衣類や日用品が詰め込まれた段ボール数箱分の荷物だけだった。格闘技の用品は、すでにつぐみ道場に保管してもらっているし、陽太のように、漫画本などの趣味のものを集めていたわけではなかったから、必要最低限のものだけを持っていくのだ。
相馬は、この日のために軽ワゴン車を調達してくれていた。大雅と陽太と、そして藤本の三人で、段ボールを積み込んでいく。
階段を往復しながら、もう二度と、しょうりつ学園で寝起きする毎日を送ることはないのだと思ったとき、自分の日常が思い出に変わってゆく瞬間をみた。当たり前からはじき出された感覚だった。体の底から、感情が怒涛のごとく溢れあがってきて、喉元をせり上がり鼻の奥がつんとなった。あまりにも凄まじい感情の波。大雅はそのとき、生まれて初めて、誰かとの別れが辛いと思った。
軽ワゴン車のトランクの扉がバタンと閉まる。相馬が振り返って、大雅を見る。視線が合って、しょうりつ学園の皆に挨拶をするように促された。
大雅は靴底をアスファルトに滑らせて、体の向きを変えた。藤本と陽太が、黙り込んだまま大雅の動向を見ている。そのとき、示し合わせたかのように、学園の建物の中から、その日出勤していた支援員と、何人かの児童たちが連れだって出てきた。
「大雅さん、元気で頑張ってくださいね!」
京輔、淳基、充の三人が、同時にそう言って大雅に握手を求めてきた。
「オマエたちも、柔道頑張れよ。オレも総合、頑張るから」
「はいっ!」
「大雅くん、寂しくなっちゃうけど、私たちもあと少しで卒業だから。そしたら、また会えるといいね」
女子児童で唯一見送りにきてくれたのは、花蓮だった。大雅は彼女に声をかけられると、なぜか顔を赤くして「お、おう。またな」ともごもご言った。
「陽太」
そして大雅は、陽太に向き直った。彼は今日も爽やかに笑って、寂しさなど微塵も抱えていないかのような態度で、大雅と接している。「……オレ……オレ、オマエにいろいろ迷惑かけて、でも助けてもらって……。陽太と出会えて良かった。また、遊ぼうな。キャッチボールやろうな。いままでありがとう、陽太。オマエはオレの……親友だ」
「よ、よせよバカ野郎」
陽太は唇を震わせてそう言った。それ以上は言葉にならなかったようで、彼はごしごしと目頭を手で拭った。
「マサノリ先生、オレのために裏でいろいろ動いてくれて、ありがとうございました。オレ、正直最初はマサノリ先生も、他の先生たちも、みんな信用できなくて、迷惑ばっかかけてたよな……。その……ごめ」
「謝るな、大雅」
藤本は大雅の言葉を遮った。大雅は驚いて、伏せていた顔を上げる。
「謝らなくていい。お前はなにも悪くない。今日、お前が元気な姿で旅立っていくのを見られるだけで、私たちがいままで支援してきた甲斐があったと思う。お前を更生させたいがために、私は色々と他の先生方とは違う接し方をしてしまったから、むしろ謝らなければいけないのは、私のほうだ」
すまなかったと、藤本はそっと言葉を締めくくった。
藤本との確執はとうに解消している。コイツは本当に施設長として学園を運営していく資格のあるヤツなのかと疑問に思っていた時期もあったが、いまは大雅自身を正しい道に導くためにあえて行った指導なのだと理解している。理解できてからは、藤本もまた、自分のために尽力してくれた人のうちの一人なのだと思えるようになった。
「達者でな、大雅。新しい生活が始まって、もしも不安なことが出てきたら、遠慮なく私たちを頼りなさい。お前が望むのなら、いつでも顔を見せに来てくれ」
親からの愛情が受けられない子供たちがいるのなら、その代わりになりたい。学園を旅立っていった子供たちにとって、此処が帰るふるさとなのだと、心のどこかでそう思っていてほしい。——それは、藤本だけならず、しょうりつ学園に勤める支援員たちが、退所していく児童たちに託す思いであった。
「大雅のことは、私にお任せください。この度は私の無謀な願いを受け入れてくださり、ありがとうございます」
相馬は、そろそろ行こうかと大雅を促した。大雅は無言のまま頷き、最後に学園の建物を一瞥したあと、見送ってくれる皆に深々と一礼をした。
初めて学園に足を踏み入れたときは、俯き、誰とも目を合わそうとしなかった大雅が、いまは胸を張り、凛とした佇まいで相馬に連れられていく。彼のその立ち振る舞いを『成長』だと定義するのは、あまりにも浅はか過ぎる。
大雅は、自分の気持ちを素直に相手に伝えられるようになっただけ。それはきっと、彼が幼い頃からずっと持っていた本能であり、ふたたび誰かを信じられるようになった何よりの証だった。
大雅が助手席に乗って、相馬がエンジンをかけると、車はゆっくりと発進した。
「ありがとう! またな!」
窓を開け、大きく手を振る。大雅は見送りの人々やしょうりつ学園の建物が見えなくなるまで、遠くなっていく景色をずっと目に焼きつけていた。
車が曲がり角を曲がって、完全に何もかもが見えなくなったとき、大雅は潤んだ目でフロントガラスを見つめた。
「我慢しなくていい」
「っ……ううっ……」
今日から新しい生活が始まるのだという希望が、大雅の心からすっかり抜け落ちてしまったかと思うくらい、いまは悲しみが感情のすべてを支配していた。
「し、師匠……オレ……正直っ……こんなにアイツらとの別れが辛いとは……思いませんでしたっ……」
「それだけ学園での生活が、充実していたということだろう。良かったな、大雅」
「っ……はいっ!」
ごしごしと目をこする。それでも、いつまでもめそめそと思い出に縋っているわけにはいかない。——オレを見送ってくれたみんなは、もう建物の中に入って普段の生活に戻っているだろう。だからオレも、師匠のところで新しい日常を創っていくんだ。それがきっと、マサノリたちに手向ける感謝のしるしだ。
涙を拭って前を向く。不思議なことに、いまなら腕立て伏せを千回ぶっ続けでできそうな、そんな力が湧いてきたような気がした。



