陽太が野球部の仲間たちと挑む、高校野球の地区予選がついに始まった。早朝に学園を出ていった彼の応援に行くため、大雅は試合が行われる隣町の球場まで足を運んだ。
大雅が鷹斗との試合を行った公園の敷地内にある球場で、毎年高校野球の地方予選が行われる場所だ。
大雅に野球のことはよく分からない。簡単なルールくらいは知っていたし、まったくやったことがないわけではないが、何せスポーツに打ち込んだのは、相馬と出会ってからが初めてなのだ。
大雅が観客席に腰を下ろしたとき、すでに試合は始まっていた。大雅が座ったのは、外野席。そこからは球場に散っている選手たちの背中が見える。
——アイツはたしか、ショートだったよな……。
目を凝らさなくとも、そのポジションを見れば陽太の姿を見つけられた。試合は〇対〇のまま、四回の裏まで進んでいた。
大雅は、退屈な試合だと思って、ぼんやりと球場を眺めていた。陽太が出ているからといって、彼以外に知り合いがいないのだ。テレビの実況中継では、アナウンサーが試合の様子を事細かに報せてくれるから流れはなんとなく分かるものの、いまはそんなものはない。大きな動きがないときは大雅にとってはよく分からなかった。
大雅のほかに外野席にいる者たちの話し声と、風の音や近くの木々にとまっているであろう鳥のさえずりが耳の近くで鳴っている。肩に提げたバッグの中から、水筒を取り出して水を飲んだ。
どちらのチームも、一歩も相手にリードを許さないまま、その後も試合は進んでいったが、その均衡が崩れたのは最終回だった。
打者のバットが球を打ち抜く快音が、球場に響いた。外野席からも歓声が上がる。大雅はハッとして、球場に視線を戻す。直前まで自分がなにを見ていたのかは思い出せなかった。
バッターボックスに立つ打者は、陽太のチームの選手ではなかった。打球は選手たちの頭上で放物線を描き、大雅のいる外野席へと迫ってくる。陽太とおなじユニフォームを着た外野の選手が、こちらに向かって走ってきたが、その奮闘むなしく、白球はフェンスを越え、あろうことか大雅の目の前に落ちてきた。
「おう兄ちゃん、運がいいな。ホームランボールが目の前に落ちてくるなんてな」
足元でバウンドした球を、大雅は両手でキャッチした。近くにいた初老の男に話しかけられ、大雅は苦笑した。
試合終了。九回裏。相手校のツーランホームランにより、陽太の短すぎる夏が終わった瞬間だった。
大雅の手におさまった白球を打ったのが、陽太のチームメイトの誰かだったら。あるいは陽太自身だったら。大雅はもっと嬉しかったのだろうか。
観客席をあとにして、大雅は球場の正面入口に向かった。公園の遊歩道でもある木陰のそばに立っていると、やがて陽太たちが姿を現した。陽太がすぐに大雅の姿に気付き、チームメイトになにか声をかけたあと、駆け足でこちらに近づいてきた。
「大雅! 観に来てくれてたのか!?」
目が充血している。褐色の肌の中に浮かぶ悲しみがひどく目立ってみえた。無理をして明るい声を出しているのは、すぐに分かった。
「途中からだけど、外野から観てた」
「ありがとな、わざわざ。……折角来てくれたのに、無様なところ見せちまったな」
「いや……」
陽太のユニフォームは、泥だらけになっていた。それは他のチームメイトたちもおなじで、彼らがここでたしかに、激闘を繰り広げた証だった。
「ごめんな……大雅……」
「あっ、謝んなよ……」
陽太の顔がくしゃりと歪む。次第に目が潤んできて、彼はそれに気付いたかのようにさっと手の甲で目頭を拭った。
「おれたちならいけると思ったんだ……マジで……」
陽太は目を伏せ、声を震わせながら続けた。野球部のキャプテンになってから、陽太は悩みながらもひたむきに頑張っていた。実際に練習をしている光景はみたことはないけれど、朝早くから夜遅くまで練習をしていたことは容易に想像出来た。おそらく、この数ヶ月、陽太は自分の全てを野球に注ぐ勢いで生きてきただろう。
試合に負けて、甲子園に出場する夢は潰えた。全国の高校野球の選手たちの大多数が目指であろう栄光を掴み取る好機を、たった一度試合に負けただけで奪われたのだ。
「ありがとうな大雅、まじでありがとう……」
打ちひしがれる陽太をみて、いたたまれなくなった大雅だったが、だからといって気の利いた台詞も思いつかず、「ああ……うう……」と変な声を漏らすことしか出来なかった。
「おい! 北村、なにやってんだ、いくぞ!」
やがて陽太はチームメイトに呼ばれて、涙を拭ったあと、「じゃあ、あとでな」と言い残し、大雅の元から離れていった。
折角挨拶をしにきてくれたのに、なにか言ってやるべきだっただろうか。
遠くなっていく陽太の背中を見つめながら、大雅は考えた。頑張ったなとか、お疲れさまとか、そんな簡単な言葉でも良かったんじゃないか。アイツを励ますのは、きっと苦楽をともにしたチームメイトたちのほうが相応しい。馬鹿だな、オレ……。周りのみんなに与えてもらってばかりで、こういうときにオレはなにもしてやれない。どうしたらいいか、そのすべを知らないから。
夕方になって、陽太が学園に帰ってきた。大雅は厨房の手伝いをしていたため、すぐに彼と話すことができなかったが、夕食の席で、空元気の愛想を振りまく様子をみて、またいたたまれなくなった。
「やめろよ!」
気がつけば大雅は、声を張っていた。周りが静まり、言葉をかけられた陽太が目を丸くして大雅の顔を見ていた。
「どうしたんだよ、大雅」
「そうやって平気なふりをすんなって言ってんだ。オレ、よく分かんねえけど、でもさ、たぶん、そうやってると、どんどん自分が辛くなるんじゃねえのか? 悔しいときは悔しいってちゃんと言わねえと、なんか駄目なような気がする」
しどろもどろになって、大雅は言った。おなじテーブルの中学生たちも、箸をとめて大雅と陽太の様子を気まずそうに見つめている。
「ヘヘ、大雅、自信ねえくせにそんなこと言うんじゃねえよ」
陽太の口調は穏やかだった。「おれの悔しい気持ちは、学校に置いてきた。もうおれは野球部を引退したんだ。いくらここで悔やんでも、それは変わらない。言ったろ? おれは野球は辞めないって。甲子園に行くことだけが野球じゃねえよ」
報われない努力もある。大事なのは、その結果にいつまでも囚われないことだ。
部屋に戻って二人きりになったとき、陽太は申し訳なさそうに大雅の顔を見た。
「ごめん、大雅。みんなの前ではかっこつけてあんなこと言ったけど、おれ、やっぱ辛いわ」
陽太はそう言って、枕に顔をうずめ、声を殺して感情を爆発させた。前に進むには、もう少し自分の気持ちに正直になる必要がある。陽太の涙が止まらないのは、きっと彼がそれだけ、ひたむきに野球に情熱を注いでいた証だろう。
「陽太、よく頑張ったな。お疲れ」
返事はなかった。くぐもった陽太の嗚咽が、少し大きくなっただけだった。
大雅が鷹斗との試合を行った公園の敷地内にある球場で、毎年高校野球の地方予選が行われる場所だ。
大雅に野球のことはよく分からない。簡単なルールくらいは知っていたし、まったくやったことがないわけではないが、何せスポーツに打ち込んだのは、相馬と出会ってからが初めてなのだ。
大雅が観客席に腰を下ろしたとき、すでに試合は始まっていた。大雅が座ったのは、外野席。そこからは球場に散っている選手たちの背中が見える。
——アイツはたしか、ショートだったよな……。
目を凝らさなくとも、そのポジションを見れば陽太の姿を見つけられた。試合は〇対〇のまま、四回の裏まで進んでいた。
大雅は、退屈な試合だと思って、ぼんやりと球場を眺めていた。陽太が出ているからといって、彼以外に知り合いがいないのだ。テレビの実況中継では、アナウンサーが試合の様子を事細かに報せてくれるから流れはなんとなく分かるものの、いまはそんなものはない。大きな動きがないときは大雅にとってはよく分からなかった。
大雅のほかに外野席にいる者たちの話し声と、風の音や近くの木々にとまっているであろう鳥のさえずりが耳の近くで鳴っている。肩に提げたバッグの中から、水筒を取り出して水を飲んだ。
どちらのチームも、一歩も相手にリードを許さないまま、その後も試合は進んでいったが、その均衡が崩れたのは最終回だった。
打者のバットが球を打ち抜く快音が、球場に響いた。外野席からも歓声が上がる。大雅はハッとして、球場に視線を戻す。直前まで自分がなにを見ていたのかは思い出せなかった。
バッターボックスに立つ打者は、陽太のチームの選手ではなかった。打球は選手たちの頭上で放物線を描き、大雅のいる外野席へと迫ってくる。陽太とおなじユニフォームを着た外野の選手が、こちらに向かって走ってきたが、その奮闘むなしく、白球はフェンスを越え、あろうことか大雅の目の前に落ちてきた。
「おう兄ちゃん、運がいいな。ホームランボールが目の前に落ちてくるなんてな」
足元でバウンドした球を、大雅は両手でキャッチした。近くにいた初老の男に話しかけられ、大雅は苦笑した。
試合終了。九回裏。相手校のツーランホームランにより、陽太の短すぎる夏が終わった瞬間だった。
大雅の手におさまった白球を打ったのが、陽太のチームメイトの誰かだったら。あるいは陽太自身だったら。大雅はもっと嬉しかったのだろうか。
観客席をあとにして、大雅は球場の正面入口に向かった。公園の遊歩道でもある木陰のそばに立っていると、やがて陽太たちが姿を現した。陽太がすぐに大雅の姿に気付き、チームメイトになにか声をかけたあと、駆け足でこちらに近づいてきた。
「大雅! 観に来てくれてたのか!?」
目が充血している。褐色の肌の中に浮かぶ悲しみがひどく目立ってみえた。無理をして明るい声を出しているのは、すぐに分かった。
「途中からだけど、外野から観てた」
「ありがとな、わざわざ。……折角来てくれたのに、無様なところ見せちまったな」
「いや……」
陽太のユニフォームは、泥だらけになっていた。それは他のチームメイトたちもおなじで、彼らがここでたしかに、激闘を繰り広げた証だった。
「ごめんな……大雅……」
「あっ、謝んなよ……」
陽太の顔がくしゃりと歪む。次第に目が潤んできて、彼はそれに気付いたかのようにさっと手の甲で目頭を拭った。
「おれたちならいけると思ったんだ……マジで……」
陽太は目を伏せ、声を震わせながら続けた。野球部のキャプテンになってから、陽太は悩みながらもひたむきに頑張っていた。実際に練習をしている光景はみたことはないけれど、朝早くから夜遅くまで練習をしていたことは容易に想像出来た。おそらく、この数ヶ月、陽太は自分の全てを野球に注ぐ勢いで生きてきただろう。
試合に負けて、甲子園に出場する夢は潰えた。全国の高校野球の選手たちの大多数が目指であろう栄光を掴み取る好機を、たった一度試合に負けただけで奪われたのだ。
「ありがとうな大雅、まじでありがとう……」
打ちひしがれる陽太をみて、いたたまれなくなった大雅だったが、だからといって気の利いた台詞も思いつかず、「ああ……うう……」と変な声を漏らすことしか出来なかった。
「おい! 北村、なにやってんだ、いくぞ!」
やがて陽太はチームメイトに呼ばれて、涙を拭ったあと、「じゃあ、あとでな」と言い残し、大雅の元から離れていった。
折角挨拶をしにきてくれたのに、なにか言ってやるべきだっただろうか。
遠くなっていく陽太の背中を見つめながら、大雅は考えた。頑張ったなとか、お疲れさまとか、そんな簡単な言葉でも良かったんじゃないか。アイツを励ますのは、きっと苦楽をともにしたチームメイトたちのほうが相応しい。馬鹿だな、オレ……。周りのみんなに与えてもらってばかりで、こういうときにオレはなにもしてやれない。どうしたらいいか、そのすべを知らないから。
夕方になって、陽太が学園に帰ってきた。大雅は厨房の手伝いをしていたため、すぐに彼と話すことができなかったが、夕食の席で、空元気の愛想を振りまく様子をみて、またいたたまれなくなった。
「やめろよ!」
気がつけば大雅は、声を張っていた。周りが静まり、言葉をかけられた陽太が目を丸くして大雅の顔を見ていた。
「どうしたんだよ、大雅」
「そうやって平気なふりをすんなって言ってんだ。オレ、よく分かんねえけど、でもさ、たぶん、そうやってると、どんどん自分が辛くなるんじゃねえのか? 悔しいときは悔しいってちゃんと言わねえと、なんか駄目なような気がする」
しどろもどろになって、大雅は言った。おなじテーブルの中学生たちも、箸をとめて大雅と陽太の様子を気まずそうに見つめている。
「ヘヘ、大雅、自信ねえくせにそんなこと言うんじゃねえよ」
陽太の口調は穏やかだった。「おれの悔しい気持ちは、学校に置いてきた。もうおれは野球部を引退したんだ。いくらここで悔やんでも、それは変わらない。言ったろ? おれは野球は辞めないって。甲子園に行くことだけが野球じゃねえよ」
報われない努力もある。大事なのは、その結果にいつまでも囚われないことだ。
部屋に戻って二人きりになったとき、陽太は申し訳なさそうに大雅の顔を見た。
「ごめん、大雅。みんなの前ではかっこつけてあんなこと言ったけど、おれ、やっぱ辛いわ」
陽太はそう言って、枕に顔をうずめ、声を殺して感情を爆発させた。前に進むには、もう少し自分の気持ちに正直になる必要がある。陽太の涙が止まらないのは、きっと彼がそれだけ、ひたむきに野球に情熱を注いでいた証だろう。
「陽太、よく頑張ったな。お疲れ」
返事はなかった。くぐもった陽太の嗚咽が、少し大きくなっただけだった。



