大雅が両親のもとから離れられた日は、唐突に訪れた。

 公用車の車内では、運転席に座るスーツ姿の男が、「よく頑張ったな、もう大丈夫だぞ」と、何度も言っていた。男は新城と名乗っていたような気がする。
——オレはなにを頑張ったんだ。なにが大丈夫なんだ。
 車は高速道路を走っていた。防音壁の向こうに、桜の木のてっぺんだけが顔を覗かせていた。一瞬にして後ろへと過ぎ去っていった桃色の花が、大雅の目に焼き付いていた。道中、車内ではずっとラジオがかかっていて、騒がしいDJがカレーライスとハヤシライスはどっちがいいかなどというどうでもいいことをリスナーに質問して盛り上がっていたが、大雅は「食えるならどっちでもいい」と考えていた。大雅には、食えぬ日があるのだ。
 大雅の両親は、己の機嫌次第で、大雅に満足な食事を与えなかった。食事を作っていないではなく、調理をし、食卓に並べたうえで、彼に食べることを禁じたのだ。否、禁じてはいない。
 おそるおそる食卓についた大雅が「いただきます」といって箸をとろうとしたとき、彼の耳に届くのは、舌打ちの音だった。聞こえなかったふりをして茶碗を手に取ると、今度はテーブルを拳で殴る音が鼓膜をつんざいた。
 大雅がびくびくと両親の顔を見ると、彼らは無表情でテレビを観て、食事を咀嚼している。なにも言われていないが、大雅にとってそれは「おまえは飯を食うな」と言われているも同然で、箸と茶碗を置き、項垂れるほかなかった。
 食事は、そのまま次の日まで同じ場所に放置されている。学校から帰ってきたときに、まだ居間に置いてある自分の分の食事を見て、大雅はそれでもいいから食べさせてくれと思っていた。一日一回、学校に行けば給食にありつけるが、その程度の食事量では到底足りなかった。彼はいつも腹を空かせていた。
 食べられることは有り難かった。それが次の日まで放置され、表面がかちかちになった白飯であったとしても、表面さえ我慢して食べれば、その下の部分はまだ柔らかい。おかずも冷めてはいるが、食べられないことはない。
 両親が食べている出来たての温かそうな食事は見ないようにして、大雅は食べることを許された自分の分の料理を、腹の中に入れていくのだった。

 車が歩道に面した駐車場に侵入してロータリーに停車した。窓の外に見えたのは、白い壁に茶色い屋根の教会のような建物の前だった。風見鶏がくるくると回っている。
「藤堂くん、ついたよ」
 結局車内では一言も発さなかった大雅に、新城はそう言った。新城は車を降りると、こちらに回り込んできて、後部座席の扉を開いた。促されて、車を降りる。散ってしまった桜の花びらを吹き上げるような風が大雅を包み込んだ。
 春と初夏の狭間の、爽やかな薫風であるというのに、大雅にはそれを感じる心の余裕もなかった。
 体の成長を見越して両親が用意してくれた学生服はまだぶかぶかで、腕を伸ばすと手のひらの半分が袖口に隠れてしまうほどだった。
 大雅は仏頂面のまま、その袖口をぎゅっと握りしめて新城のあとについていった。
 自動ドアをくぐり抜けると、ロビーに行き着いた。突き当たりの壁に、電源の入っていない大きな液晶テレビが設置してあり、その下には新聞や雑誌が置かれているラックがある。テレビを観られるようにあしらわれたソファーがいくつか並んでいて、母親とその子供とみられるいくつかの組が座っていた。
天井は吹き抜けとなっていて、左手にはガラス窓で仕切られた事務所のような空間が広がっている。中は蛍光灯が煌々と輝いていて、たくさんのパソコンの前に同じ数の大人たちが座っていた。
 新城が大雅を促したのは、その事務所ではなく、ロビーの反対側にある扉だった。新城はポケットから取り出した鍵で、その扉を開く。
 手で誘導され奥に進むと、廊下が続いていた。右手に扉が等間隔で並んでおり、表札には「相談室①」「相談室②」などと書かれていた。
 新城はそのうちの「相談室⑦」と書かれた部屋に、大雅と共に入った。一番奥の部屋だった。
 部屋の中にはテーブルと椅子が四脚。窓際には大雅の身長よりも高い観葉植物が置かれている。壁には時計とカレンダーが掛けられていて、装飾品の類いは見受けられない殺風景な部屋だった。
 大雅と新城は、テーブルを挟んで向かい合って椅子に座った。ふうっと、新城が大きく息を吐く。
「突然のことで戸惑っているだろう、ごめんな」
「……いえ、別に」
 新城の口角があがる。白髪混じりの頭髪をぽりぽりと掻き、言葉を続けた。
「藤堂大雅くん。君を今日付けで、この児童相談所の一時保護所にて緊急保護をすることになった。……君の、命を守るためだ。これからのことを、わたしたちと一緒に、ゆっくりと考えていこう」
 大雅は答えず、探るような目つきで新城を、そして部屋の中をぐるりと見渡した。笑わせんな。オレの命を守るだと? 緊急だと? ふざけてんじゃねえぞ。てめえらがオレのことを『緊急』だと判断するのに、いったい何年かかったんだよ。
「家には……」
「それもこれから考えていこう。ただ、藤堂くん、よく聞いてくれ。おそらく君は、ご両親と会うことはないだろう。そのための準備を、ここでしっかりと行うんだ」
 そうは言われても、実感はわかなかった。かといって、いまの状況を打破すべく動く方法も思いつかない。納得のいかぬまま、大人たちに従うしかないことを、大雅は薄々勘づいていた。
「これから藤堂くんが過ごす一時保護所には、様々な事情を抱え、ここにやって来た子供たちがたくさんいる。デリケートな問題だから、ここに来た理由を、他の子たちには言ってはいけないし、聞いてもいけない。あとは集団生活になるから、一日のスケジュールは決まっている。あとで支援員の先生がここにいらっしゃるから、詳しくは先生から説明を受けるように」
 そのとき、まるでタイミングを計ったかのように扉をノックする音がした。どうぞと新城が声を張ると、白いポロシャツとネイビーのジャージを履いた男が入ってきた。
「初めまして! 藤堂大雅くん。俺は山本雅志。よろしくなっ!」
 今まで大雅が出会ってきた大人たちの中で、一番体格のいい男だった。ポロシャツの袖から覗くむき出しの腕は太く、また胸もがっしりと山のように盛り上がっている。普段から鍛えているのだろうということが容易に想像できた。整髪料で短い髪を立たせ、額にしわが浮かぶほどににこにこと笑っている。穏やかに話す新城とは違い、山本は底抜けに明るそうな印象を抱いた。
「じゃあ、早速だけど、ここでの生活について、いくつか伝えておこうか」
 ここに持ってきた私物はすべて預かりになるという。勝手に連れてきたくせに理不尽な決まりだと思いながら、山本に渡されたジャージに着替えた。着替えているあいだ、二人は部屋から出て行ったが、頃合いをみて戻ってきたのは、山本だけだった。
「これが一日の流れだ」
 山本はそう言って、手に持っていたクリアケースから一枚の紙を取り出し、テーブルの上に置いた。見ると、食事や学習時間、運動の時間、自由時間などと、日中にやるべきことが細かく時間で区切られて並んでいた。——刑務所かよ、と、大雅は心の中で吐き捨てる。
「今は昼の一時すぎだから、みんな昼飯を食い終わってホールで自由時間を過ごしているよ。大雅も腹が減っているだろう。新城先生が、飯を持ってきてくれるからな」
「……いらねえ」
 いつの間にか「藤堂くん」から「大雅」と、名前呼びになっている。距離の縮め方が半端ねえなと、嫌悪感をいだく。本当は腹が減っていた。だが、簡単には屈したくなくて、精一杯の虚勢を張った。そんな雑な言葉遣いを親にすれば、生意気なクソガキだと罵られ、激しい暴行を受けるだろう。
「なに意地を張ってるんだよ、大雅!」
 しかし山本は、声を荒げることなく、笑いながらそう言った。まるで大雅が意固地な態度を示すことなどお見通しだと言わんばかりの余裕を醸し出していた。「たまたまだけど、今日の昼飯はカレーなんだ。特別に大盛りにしてやったからな、美味いぞ!」
 大雅はそっぽを向いた。山本は、唐揚げだのハンバーグだのカレーライスだの、子供はそういうものが好きなんだろと言いたげな口調だった。
 大雅がなにも言わないでいると、やがて扉がノックされ、お盆をもった新城が入ってきた。
「お待たせ。昼飯だよ」
 そっとテーブルの上に置かれたのは、山本の言ったとおり、大盛りのカレーライスだった。付け合わせにサラダと卵スープ、切り分けたオレンジが一切れついている。
 カレーライスの香辛料の香りが、大雅の嗅覚をくすぐった。ごくりと唾を飲み込む。食べたい。でも、これを口にすればオレはコイツらにほだされたも同然だ。
「俺たちがいたら食いにくいかな。……じゃあ、しばらくしたら戻ってくるから、そのあいだにゆっくり食えよ」
 食事の乗ったお盆と、テーブルのあいだをじっと睨みつけていた大雅の頭を撫でて、山本は新城と共に部屋を出ていった。一瞬遅れて、ハッとした大雅は二人が出ていった扉に視線をうつす。
――オレ、いま、撫でられたのか……?
 ほんの一瞬のことだった。それなのに、山本の分厚い手のひらの感触が、いまも残っている気がする。ダメだ、信じるな。オレがどんな目に遭っていても、誰も気付かず、助けてくれなかったじゃないか。

 小学生の頃、大雅は一人のクラスメイトを虐めていた。家で自分が受けている仕打ちを隠すため、学校ではやんちゃなガキ大将を演じていたのだ。
 隙を見せるわけにはいかなかった。幼い性分であったとしても、周りから自分はこう見られていたいといういっぱしの羨望はあった。
学校ではクラスの中心人物として君臨し、自分の思い通りにクラスメイトを掌握することによって、大雅は自分の存在意義を見出していた。
自分が着ている襟が伸びきったシャツも、体のところどころにある不自然な怪我も、風呂に入れずにいることにより発せられている体臭も、見る人が見れば、彼が暮らす家庭環境が普通ではないと容易に推察できるのには充分な材料だったが、両の手で数えても指が余るくらいの年齢の大雅は、自分が『強者』を演じていれば、家のことなどばれるはずがないと思っていた。実際に周りのヤツらは、大人も子供も、大雅になにも言ってこなかった。本当に気付いていなかったのか、見て見ぬふりをしていたのか、あるいは水面下ではなにかが起こっていたのか、結局大雅には知る由もなかった。
大雅が虐めていた少年の名は、『ケイジ』といった。名字は覚えていない。ただ、教室の隅の方でいつも本を読んでおり、話しかけると困ったように微笑みながら言葉を返してくる気弱そうなヤツだった。
大雅にはそれが気に入らなかった。幼い大雅が『ケイジ』という言葉の響きだけを聞いて連想するのは、鮮やかに事件を解決し、犯人を捕らえる刑事だったからだ。
コイツにはそんな強い名前なんて相応しくない。弱虫が、一丁前に強そうな名前を名乗るな。ケイジに対して、そう思ってしまったことが彼への嫌がらせをはじめるきっかけだった。
直接的な暴力は振るわなかった。筆箱を隠すとか、彼が読んでいた本を勝手に図書室に返すとか、授業中に消しゴムのカスを投げつけるとか、そういった陰湿な嫌がらせで満足していた。困ったように筆箱を探すケイジの姿を、教室の全然関係のない場所から眺めると、えも言われぬ優越感に浸ることができた。
——ほら、オマエはケイジなんだろ。だったら、その筆箱を隠したのは誰なのか、犯人であるオレまでたどり着いてみろよ。
 心の中でしかほざけない挑発は、いつまで経っても結局ケイジに届くことはなく、自分の期待とは裏腹に、ケイジが大雅に接触してくることもなかった。学年が上がらないうちに、ケイジは親の都合だかなんだかで、転校していってしまったのだった。

「……いただきます」 
空腹には抗えなかった。一人になった大雅は、そっとスプーンを手に取ると、カレーを一口すくい、口に入れた。ほのかに温かいそれは、美味かった。表面は乾燥しておらず、白飯もふっくらと炊き上がっている。
カチカチに冷えた白飯でも、カレーがかかっていれば、いくらか味はましであった。そう思っていたのに、作りたての料理を口にしたいまは、あんなものは到底人間の食べるものではなかったのだとさえ思えてきてしまう。
ぽとりと、大雅の腕に雫が落ちた。それが涙であると気づいた瞬間、次から次へととめどなく頬を伝って流れていった。情けない。なんで飯を食ってるだけで、泣いてんだよ。
部屋の外に感情が漏れないように、大雅はカレーを口に押し込み、声を殺した。嚥下と感情の波が混ざって、喉が鳴る。息が苦しくなって、鼻をすする。
ここは、食事をするのに制限時間なんてない。どんなものでも十五分で食わなければ、途端に拳がとんできていた今までとは違う。食べている途中で飯を取り上げられることもない。次から次に込み上げてくる感情を鎮めるために、少しくらい食事が遅くなっても、怒鳴り散らす人はいない。
大雅にとってそれは、特別なことだった。張り詰めていた気が、ゆっくりとほぐされていくのを感じる。まだあいつらは信用するに値しない。それでもあいつらが戻ってくるまでに、目の前の飯をゆっくりと味わう安寧のひとときを与えられたことは確実だった。
それでも習慣とは怖いもので、大雅が食事を終えたのは、スプーンを持ってからちょうど十五分が経った頃だった。ごちそうさまでしたと呟き、お盆の上にスプーンを置く。手の甲でゴシゴシと口許をこすり、なにもない白い壁を見つめる。

山本が戻ってきたのは、それからさらに十五分後のことだった。
「おっ! ちゃんと食ってるな! 良かった良かった!」
 新城の姿はない。山本は大雅の様子に満足したように頷き、反応も待たずに言葉を続けた。
「じゃあ、早速だけど、生活棟のほうに行こうか。心の準備は大丈夫か? まあ、出来てなくとも俺は連れていくけどな!」
 なにが面白かったのか、山本はガハハと豪快に笑った。
 大雅は黙って椅子から立ち上がり、山本の後ろについて部屋を出た。
 数十分前に歩いてきた方向とは逆向きに通路を歩いていった。壁の突き当たりは曲がり角になっていて、左手に通路が伸びている。飾りっ気のない無機質な空間に、ところどころ壁を補修をしたような跡が残っている。
 こちらの通路にも、いくつかの扉が並んでいたが、中は何の部屋なのかは分からなかった。
 突き当たりには、観音開きの大きな鉄扉がそびえていた。非常扉を白く塗ったようなそれは、見るからに頑丈そうな印象を与えてくる。
 山本はその扉の前に立ち止まると、ジャージのポケットからジャラジャラと鍵の束を取り出し、そのうちのひとつを扉の鍵穴に差し込んだ。
 カチャリと解錠音がして、山本がドアノブを回すと、甲高い軋み音と共に扉が開く。向こうとこちらの空間が繋がったとき、今まで遮断されていた喧騒が一気に襲いかかってきた。
「うおっ! 新人じゃん!」
 大雅といちばん最初に目が合った少年が、ウェーイ! と叫んでこちらに近づいてきた。
「マサシ! こいつ中学生? 小学生?」
 少年は大雅に興味津々だ。髪も眉も、短く整えている、見るからに素行の悪そうな少年だった。
「晃牙! いきなり絡むなびっくりするだろ!」
 山本は少年をいなすように腕をふると、二人を連れてさらに奥へと進んでいった。
 
 フロアに喧騒が響いているのは、ひとつの部屋で様々な年齢の少年たちが過ごしているからだった。学校の廊下のような通路の左手に、教室を三つほどくっつけたような大きな部屋があり、十数人の少年たちが思い思いのひとときを過ごしている。
 皆、大雅と同じようにシャツとジャージを着ていて、下は小学生から上はおそらく高校生まで、それぞれのグループに分かれていた。
「大雅、ここはおまえと同じようになんらかの事情で保護されている子供たちばかりだ。ここにいるのは男子だけだが、別の場所には女子もいる。だけどここは男女別で生活をしているから、女子に会うことはない」
 大雅が部屋に入ると、中にいた少年たちのすべての視線が否応なしに突き刺さってきた。
「新人!?」「新入りじゃん!」
 もはや囁くこともなく、少年たちは一様に大雅を指差し、喚き合っている。
「おー! みんな聞けー!」
 山本はそう言ったあと、大雅にこっそり耳打ちをした。「あいつらに自己紹介を頼む」
(は……?)
 人前で注目を浴びながら話すことは、苦手ではなかった。だが、入学式のために中学に登校したと思ったら、突然教師に呼び出されて、あれよあれよという間にここに連れてこられてきた。大人しく従ってきたが、納得はいっていない。大人たちの都合で勝手に振り回されているだけだ。
 反抗心がうまれる。大雅は膨れっ面を隠そうともせず、そっぽを向いた。
「はははっ、緊張してるのかな」
 結果的に大雅の名前は、山本から少年たちに告げられた。「じゃあ、仲良くな」と山本が大雅の肩を叩くと、さっきの眉なし少年が大雅の腕を掴んで引っ張ってきた。
「おれ、柳井晃牙。おまえとタメみたいだわ。よろしくなっ!」
 タイガとコウガ。よく似た名前の二人は、やがてこの一時保護所という狭い世界の中で、その場限りの友情を育んでいくのであった。

 一時保護所では、他の子供たちとここに来た理由を言い合うのは御法度と、大人たちは言っていたが、情報の共有は支援員の目を盗んで、忍びやかに行われているようだった。
「おれ、家に帰らずに毎日ぶらぶらしてたら、親がいつの間にかココに相談してたみたいで、小学校の卒業前にぶち込まれた」
 晃牙は、自分の境遇を簡単に教えてくれた。学校にも馴染めず、クラスで浮いていたという彼は、自分の居場所を求めて町を徘徊するようになったらしい。万引き、喫煙、原付の二人乗り、喧嘩……。まだ小学生だったというのに、非行の限りを尽くしたという。
 喧嘩っ早い彼は、保護所内にいる上級生たちと度々ぶつかっていて、支援員たちの手を焼かせていた。
「おまえはなんでココに来たんだ?」
 おれが話してやったんだから、おまえも教えてくれよと言いたげな表情で、晃牙が尋ねてきた。
 大雅は言葉に詰まった。晃牙に比べて、自分がここにきたのはおそらく、両親の虐待が原因だ。だけどそれを口にしてしまうと、自分がひどく惨めで弱い人間だと、男のくせに情けないやつだと思われやしないかと考えたのだ。
「……オレも、似たような感じ……」
「ヘヘッ、じゃあ、おれたち似たもの同士だなっ!」
 互いの共通点を見つけて、晃牙は嬉しそうにそう言った。大雅は目を伏せたまま、それ以上はなにも言えなかった。
 口数の少ない大雅の様子をみて、大人たちが決めたルールに大っぴらに背くようなタイプではないと判断したのか、晃牙が『事情』について、それ以上深掘りしてくることはなかった。
 一時保護所に入所して初めての夜、大雅は布団の中でずっと考え込んでいた。八畳ほどの広さの和室に、晃牙と布団を並べて横になっていた。晃牙はすぐに寝息をたてはじめたが、大雅は目を閉じても眠れなかった。
 誰の計らいで、オレはここに連れてこられたんだろう。今頃親はどうしているんだろう。オレのいない家で、アイツらはオレがいなくなったことを、どう考えているのだろう。

 家にいるとき、大雅が布団で寝られたことは年に数回程度だった。しこたま暴行を受けたあと、床にうずくまった大雅に、あの男は「目障りだ。俺の視界から消えろ」と言い放ち、手を洗いにいく。大雅が流した涙や汗や血が手について、汚いからだという。
 大雅は、そのあいだに逃げるように玄関に走っていく。いつまでもそこでうずくまっていては、また暴力の嵐に見舞われるからであり、彼が夜をそこで過ごすことを男が思いついた日から、玄関が大雅の居場所となったのだ。
 座ることも、横になることも許されない。裸足のまま土間に立ち、ドアスコープから漏れる外の光を見つめていた。玄関の扉には、複数箇所に凹みが生じている。どれも大雅の頭がそこにぶつかったことにより出来た損傷だった。
 日常の暴力に慣れ、意図せず打たれ強くなっていた大雅だが、一度だけ大怪我をしたことがある。玄関で、脚の高い椅子に立たされ、そこから腹を蹴られて吹っ飛んだ大雅は、ドアノブに思いきり頭をぶつけてしまった。打ちどころが悪かったのか、彼の頭からは大量の血が流れ出てきた。
「ひっ!」
 頭皮に流れる生温かい感触。やがて耳や首に流れ込んできて、床に滴り落ちてきた真っ赤な液体をみて、大雅は喉を締めるような声を上げた。
(ああ……オレ……死んじゃうのか……)
 手で頭に触れると、べっとりと血糊がついて、大雅は余計に震え上がった。
「チッ、めんどくせえな」
 男が唸った。大雅は首根っこを掴まれ、男の腕力のままに引きずられて風呂場に投げ込まれた。丸くなってうずくまる大雅の脛に、床に残っていた水滴が染み込んでいく。
「それ以上汚したら承知しねえぞ」
 パサリと音がして、体の横にバスタオルが投げられたのが見えた。大雅はベソをかきながらすかさずそれを手に取り、頭の傷口にあてがった。不思議と痛みは感じないのに、傷口からはどんどんと血が流れている気配がする。
「おーおー、脳みそ見えてるぞ、こりゃ、死ぬなあ」
 愉悦。男はさも可笑しそうにそう言った。大雅は目を瞑って、出せる限りの力で頭を抑え、うずくまったまま体を震わせていた。
(いやだ、死にたくない、助けて、ごめんなさい! ちゃんということを聞きますっ……助けてください……)
 顔に滴り落ちた血が床に落ち、水滴と混じって排水口に流れていく。自分の命が流れていってしまっているように見えて、震えが止まらなかった。
 どれくらいの時間が経ったのかはわからないが、一度離れていった男が、またすぐそばに立った気配がした。
「死ぬ前に飯を食わせてやるよ」
 大雅が顔を上げると、男は風呂場の床に丼を置いた。白飯の上に、牛肉と玉ねぎと糸こんにゃくを絡めて煮たものがかけられていた。スプーンが突き刺さっている。
「脳みそが漏れ出てこないうちに食ったほうがいいぞ」
 男はそう言ってほくそ笑んだあと、風呂の引き戸を閉めて立ち去っていった。残された大雅は、静寂の中で呆然と置かれた飯を見つめた。湯気が立っている。
 左手でタオルを抑えたまま、右手でスプーンをとる。震える手で飯を掬い、いただきますと囁いて、一口頬張った。
(こんな目に遭ったのにご飯を食べさせてもらえるなんて、やっぱりオレは死ぬんだ。こんなに血が出ているのに痛くないのは、脳みそも出てきて、頭がバカになっちゃったからなんだ……)
 間近に迫った死の気配と、空腹を天秤にかけても、食欲には抗えなかった。飯は美味かった。たとえ頭から大量に血を流していたとしても、脳みそが漏れ出ていたとしても、恐怖に心身がすくんでしまっていても、風呂場で食わされていたとしても、涙が止まらなくなるほどに飯は美味かったのだ。
結果的に大雅は死ななかった。頭がドアノブにぶつかったとき、少し切っただけだった。脳みそが見えているというのも男が脅しのために作り出した狂言で、翌朝には血は止まっていた。それでも大雅は死ぬ思いをしたのだ。いつの間にか眠っていたようで、目を覚ましたときに顔の横に落ちていた真っ赤なタオルを見て、大雅は再び涙を流したのだった。



大雅は、日頃から目の下に隈をつくる少年であった。単純に、寝不足だったからだ。玄関に立っているあいだ、座ることも寝ることも許されない。ずっと同じ体勢を続けて、疲弊し、足が棒のようになったとしても、殴られるよりはましだった。
玄関に立たされた夜に大雅が休めるのは、両親が寝室に引き上げて寝静まってからだった。自分の一挙一動で両親を起こさないよう、音を立てずに床に腰を下ろす。
寝室から少しでも物音が聞こえると、素早く元の体勢に戻れるように身構えながら、体の疲れをとるのだ。

 ここでは、当たり前のように布団を与えられ、そこに入って寝ていても、引きずり起こされて殴られることもないのだろう。
 逆に落ち着かなかった。誰にも虐げられることはないのだとわかっていても、心臓はバクバクしているし、目をぎゅっと閉じてみても一向に微睡むことはない。何度か部屋の扉が開いて、宿直の支援員が巡回をしている気配がした。
 大雅は頭まで布団をかぶって、眠っているふりをしていた。ようやくうとうとし始めて、浅い眠りと覚醒を繰り返すようになったのは、空が白みはじめた頃だった。

「おいっ! 起きろよ!!」
 晃牙は、寝るのも早かったが、起きるのも早い。一時保護所では、規則正しい生活を強いられているから、それが慣れてしまったのだという。
 大雅はもぞもぞと布団から這い出した。一時保護所に入所して迎えた初めての朝、窓の外は雨模様だった。
 晃牙にレクチャーされ、大雅は布団を畳んで押し入れに入れた。支援員が自分たちを起こしに来る前に身支度を整えておくのが、晃牙の朝のルーティーンだそうだ。
「ここでいい子ちゃんにしてると、もしかしたら早く出られるかもしれねえからな」
 晃牙は早く、一時保護所を退所したいようだった。「まあでも、おれは多分、施設にいくことになりそうだけどな」
 のちに大雅も知るようになるが、子供が入る施設というのは、児童養護施設だけではなく、児童自立支援施設という種類のものがある。前者が主に親の事情で入る施設なのに対してこちらは、非行や生活上の問題を抱えた児童たちが集まる、つまり、児童本人になんらかの問題がある場合に入る機関だ。
 宿直の支援員は廣田という若い男だった。大雅は最初、彼を見たとき、高校生の入所児童かと思ったくらいだ。「支援員の廣田だ。よろしく」と挨拶をされてびっくりしたのは、昨日の夕食のときだった。
 その廣田がドアをノックして顔を覗かせた。
「おっ、もう起きてるのか。助かるな」
「ヒロちゃん、毎回助かってんじゃん。おれらのことはいいから、ガキどもを起こしてきなよ」
「おいガキっていうな!」
 廣田は笑いながら言った。「じゃああとでな」と言い残し、扉を閉めて去っていく。少しして、廊下から廣田の大きな声と、小学生たちの騒ぐ声が同時に聞こえてきたから、彼らを起こして身支度させるのは難儀なのだろうと大雅は思った。
 大雅も、晃牙を見習ってなるべく目立たないように、模範生のように過ごそうと考えた。

 一時保護所に保護された児童たちが集まれば、喧嘩は日常茶飯事だ。ただでさえ複雑な事情を抱えた思春期の少年たちが同じ屋根の下で生活を共にしているのだから、揉め事の類いは息をするかのように起こりうる。
 いくら大雅がおとなしく過ごそうと思っても、時として騒動に巻き込まれることもある。むしろ、おとなしくしているほうが、「おまえ、スカしてんじゃねえよ」などと因縁をつけて絡んでこられたりするのだ。
 支援員の大人たちは、山の天気のようにコロコロ変わる児童たちの心情を先読みして、そういったトラブルが起こらないように気を配っていなければならない。それでも児童たちは狡猾だ。彼らの目を盗み、誰の目にも届きにくい場所で、人知れず因縁をつけてくる輩も存在するのだ。
「藤堂とかいったなあ」
 大雅の目の前には、彼よりも体格のいい年上の少年が三人、取り囲むように立っていた。トイレだ。糞尿の臭いが何年も蓄積されたこの場所で、大雅は壁に身を押しつけられ、身動きがとれないでいた。
「おまえ、なに調子乗ってんだよ。俺たちが黙ってみていたら、あのガキと一緒にバカ騒ぎしてよ。目障りなんだよ」
 大雅はぽかんとした表情で、目の前の少年たちを見つめていた。彼らがこんなことを言ってくる理由がわからなかった。いや、そこに理由など存在しない。少年たちは、ただ、自分たちが一時保護所に閉じ込められていることによって心に溜まっている鬱憤を発散させるために、無理矢理口実をつくっているのだ。
 大雅はそれを知る由もない。他人の心情を慮るには、彼はまだ幼すぎた。
「なっ、なんなんだよ、オレがなにをやっていようと関係ねえだっ……ぐふっ!」
 反論はゆるされなかった。息が急に苦しくなって、そのとき、目の前の少年の拳が、自分の腹に埋まっていることを理解した。
 大雅は殴られ慣れていた。それが幸運だったのか、あるいは不運だったのか。あの男の拳に比べれば、同年代のパンチの威力など、充分に耐えられる程度のものであった。
 それが、相手の少年たちには気に食わなかったのだろう。彼らは激昂し、下品な悪態を大声でわめき散らかした。それが自分たちの首を絞める行為だったと彼らが気付いたのは、支援員たちが現場に駆けつけたときだった。

「しょんべんしてたら、突然囲まれて一方的に殴られただけだよ」
 大雅は相手の顔を見ずに、ぶっきらぼうにそう言った。トイレから大雅を救出したのは、支援員の山本だった。誰もいない廊下の隅に引っ張られていって、なにがあったのかと詰問されたのだ。
「調子に乗ってんなよとかなんとか、因縁をつけられた。それだけだ」
 態度とは裏腹に、心臓の鼓動は早まっていた。受けた暴力は痛くなかった。だが、自分よりも年上の体の大きな少年たちに囲まれるという経験は初めてだったので、怖かったのだ。あのまま誰にも気付かれずに暴行を受け続けていたら、自分はどうなっていたのだろうか。
 他人に喩られるわけにはいかなかった。よもや自分があれだけのことで恐怖を感じたなどということが露見したら、必ずやそこにつけ込まれてしまう。自分に因縁をつけてきたあいつらにも、支援員の大人たちにも、臆病な一面をみせるわけにはいかないと、そればかりを考えていた。
 あとになって晃牙に「なにをしてたんだ」と問われたため、大雅は馬鹿正直にくだんの一連のいきさつを話してしまった。すると晃牙が激昂して、支援員のいる前にもかかわらず、大雅にいちゃもんをつけた少年たちに殴りかかってしまった。
 フロアは大騒ぎになる。今までおとなしく過ごしていた晃牙が騒ぎを起こしたのだから、大雅以外のそこにいる全員が驚いた。
 晃牙たちの取っ組み合いの喧嘩は、事務仕事をしていた支援員が数人事務所から飛び出してきて、彼らを羽交い締めにして制止したことによって、ようやく落ち着いた。
「アイツが突然キレてオレたちに殴りかかってきたんだよ。頭おかしいんじゃねえの」と、再び連行されていく少年たちが顔を真っ赤にして喚いていたが、大人たちはそうなったきっかけは少年たちのほうにあると心得ていたから、晃牙はそれほどお咎めを食らわなかったらしい。
「友達想いなのはいいが、手を出したほうが悪くなるんだぞ」と、山本にいわれたと、ムスッとしながら晃牙は伝えてきた。
 過ごしている世界が狭いほど、他人との距離は近くなる。大雅と晃牙は少年たちとはなるべく関わらないようにしながら、一触即発の事態を避けることに注力しながら過ごしていかなければならなかった。

 一時保護所での生活が長くなっていくにつれて、大雅を取り巻く環境も、目まぐるしく変わっていった。ここで保護されている児童は、週に二、三回の頻度で、担当のカウンセラーと面談を行う。生活棟から離れた部屋に呼び出され、一対一で向き合って、ここから出たあとのことについて話し合うのだ。
 大雅の両親は、大雅が一時保護所に入所した次の日に、児童相談所まで押しかけてきたらしい。詳細なやりとりの内容は教えてはもらえなかったが、対応した職員が「息子さんとは会える状況ではありません」と突っぱねてくれたらしい。
 自分のことだというのに、大雅に今後のことを決める余地は与えられなかった。一応、「藤堂くんは、どうしたいと思っている?」とは聞かれたが、そんなことを聞かれても、どう答えたらいいのか分からなかった。きっとこれは形式上だけの質問であって、オレの行き先は決まっているんだろうな……と、心の中では思っていたが、口には出さなかった。
 子どもが自分の希望を唱えても、叶わぬことのほうが多いことは知っていた。諦めとも、妥協ともつかない感情を抱き、大雅は担当ケースワーカーである梅谷の話を聞き流していた。
「結論をいえば、藤堂くんを家に帰すことは、僕たちとしても適切ではないと思っている。きみはご両親から離れて、安全で適切な環境で生活を続けていくべきだ」
 話し方が他人事みたいだと、大雅は思った。そりゃあそうだよな、だってオレはこの人の息子でもなんでもないし、たくさん対応しなければならない子供のうちの一人でしかない。出来ることなら、さっさと処理をしてしまいたいだろう。
「それでいいです」
 大雅は答えた。自分がなにを言っても、梅谷の采配で自分の行き先は決まるのだ。ならば無駄に逆らわないほうがいい。

 大雅が突然入所したのとおなじように、児童たちは何の前触れもなく「新人」が現れることもある。夜中のうちに緊急入所して、朝起きたら児童が一人増えていたということもあった。
 北斗陸斗という、覚えやすい名前の児童に出会ったのも、まさにそのシチュエーションだった。
 夜中に物音で目覚めたときに、なにか人の動きがあったような気もする。夢ともうつつともとれぬ境目でまどろんでいたから記憶のなかに、誰かが隣で寝ているというおぼえもなく、朝になって目覚めたときに、見知らぬ顔を見つけて、驚いて「うおっ!」と声をあげてしまった。
「んあ?」
 大雅の声で、陸斗も目覚めたようだ。少し吊り目の、勝ち気そうな顔つきをした少年だった。
「うわっ! おまえ、誰だよ!」
 晃牙も飛び起きて、初めて見る陸斗の全身の、上から下まで視線を移す。
「夜中に連れてこられたんだ。おれ、北斗陸斗。どっちも名前みたいだろ。どっちで呼んでくれてもいいぜ。よろしくな」
 大雅と晃牙の顔を交互に見ながら、陸斗はニッと笑ってそう言った。
 正式な起床時間になったとき、支援員の山根が部屋に入ってきた。
「おー、もう顔合わせしてるな。昨日の夜遅くに入所した北斗くんだ。お前たち二人の部屋が階段から一番近かったからとりあえずここで寝てもらったが、今日の夜からは他の小学生たちと同じ部屋になるからな」
「えっ、おまえ小学生なのか?」
 山根は、ひょろりと背の高い細身の男だった。首が長く、喉仏が目立つ。らっきょうのような輪郭と髪型をしていて、目が大きいので、視線がかち合うとちょっと怖い。普段は淡々としているが、怒るとどの支援員よりも厄介だという噂を聞いたことがある。
 大雅たちが三人で話し始めたのを確認して、彼は「じゃあ、あとは教えてやってな」といって早々と立ち去っていった。
「おれ、小学五年。おまえらは?」
「中一だけど」
「やべっ、年上!? すんません」
「いや、べつにいいけど。あ、こいつは藤堂大雅。おれとタメ。あんましゃべんないけど、悪い奴じゃねえからな」
「よろしく」
 大雅が付け加えると、陸斗はぺこりと頭を下げた。
 大雅たちが年上だと分かった途端、陸斗は急にへこへこと二人のことを敬うようになった。たった数年、それも、片方の指すらも余るほどの差しかないのに、早く生まれただけでなぜこんなにもかしこまられなければいけないのかと、大雅は心の表面がむず痒くなった。
 
陸斗の入所で、大雅の一時保護所での生活は、より騒がしいものとなった。陸斗は他の同年代の少年たちとはあまりつるまず、決まって大雅や晃牙と一緒にいたがったのだ。
ただ唯一、有馬鷹斗という陸斗と同級生の児童とだけは、名前の綴りが似ていることも相まってか、仲良くなっていた。
大雅に暴行を加えた非行少年の集団は、そのリーダー格が突然退所したことにより、みるみるうちに勢力がしぼんでいった。
閉鎖された空間に閉じ込められた年頃の少年たちは、自分の存在を誇示するかのように、己の強さを主張したがる。外にいたときはどれほど喧嘩をしてきたかや、自分の犯してきた犯罪行為の多さを競ったり、腕相撲などをして互いの強さを推し量ったり、大人たちからみればヒヤヒヤするような、それでいて青臭い……あるいは幼稚ともいえる戯れを日常的に繰り広げていた。
有馬鷹斗は、そんな声の大きい少年たちからは距離をおいて、静かに本を読んでいるようなタイプだった。大雅にはそれが、余計に異質にみえた。
 鷹斗は小説を好んで読んでいた。もっぱら活字には疎い児童たちは、コミックこそ読むことはあっても、小難しい文字の羅列しか並んでいない書籍になど見向きもしない。
「面白いのか、それ」
 大雅は一度、不思議に思って本人に尋ねてみたことがある。
「そうですね、本を読んでいると、いろいろなことを考えなくて済みますから」
 鷹斗は、その種類は違えど、大雅と同じように世の中に絶望を抱いているのだと感じられた。親の虐待や自身の非行でここに連れてこられたわけはなさそうだと、勘ぐる。
 聞いてはいけないのは規則上の決まりごとではあるが、大雅には、そもそも鷹斗の事情には触れてはいけないのだと、そんな感覚を抱いていた。
 陸斗づてでなければ、関わり合わない人種だというのが、大雅が彼に抱いた印象であった。

 毎日同じことの繰り返しではあるが、大雅にとって一時保護所の生活は、これまでの人生の中で最も刺激に満ちあふれたものだった。
 陸斗が半月足らずで行く施設がきまり、四人の中で一番早くに退所していったことも、そのあと、晃牙と鷹斗が後を追うように退所していったことも、大雅は見送る側の立場となって、無性に寂しくなった。人の出会いと別れとは、こんなにあっけないものなのか。晃牙はともかく、自分よりあとに入ってきた陸斗と鷹斗が、早く出ていったことに、大雅は少しだけ不満を抱いていた。
 元々口数の少ない大雅が、周りの児童たちの影響で少しは自己主張をするようになったと思われた矢先の出来事だったので、結局彼は再び、自分の周りのすべてを敵だと見做すかのごとく、ふてぶてしく、誰も近くに寄せ付けないような態度を振りまいてしまうようになったのだった。

 大雅の退所が遅れている原因は、彼の両親が頑なに親権を手放そうとしないことが一番の要因だったが、大雅本人にも少なからず理由があった。
 梅澤との面談で、大雅は自分が家で受けていた虐待行為について、口に出そうとしなかった。言葉巧みに梅澤が誘導しても、そもそも、うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。調査は困難を極めた。大雅が虐待を受けていたことは明白ではあったから、親が認めなくとも、大雅を養護施設で一時保護し、家庭裁判所に入所の判断を委ねることにしようという流れとなっていた。
 これほど話がこじれなければ、陸斗や鷹斗よりもはやく行き先が決まっていただろうが、彼らの退所後、タイミングが悪かったのか、近隣の養護施設に受け入れ枠の空きはなく、結局大雅が児童相談所を退所できたのは、彼が入所してから半年近く後の晩夏のことだった。