テレビでは梅雨明けと言っていたのに、ここ数日はずっと雨が続いている。陽太は毎日のようにユニフォームを泥だらけにして帰ってきて、長いあいだ洗濯室で泥を落とすのに奮闘している。
「毎日ごめんな、大雅」
「いいよ、気にすんなって」
 大雅は、どうせやることもないからといって、陽太の洗濯を手伝うようになった。施設暮らしではなく、親元で暮らしていたら、陽太もこういうことは親にやってもらえるのだろうが、しょうりつ学園では自分でやらないといけない。
 練習量が多くなって、余計に腹を空かせて帰ってくる陽太のために、大雅はこっそり食事量を他の児童より増やしてやっている。多枝や織田に気付かれていないわけはないが、ふたりはなにも言わないので、きっと黙認してくれているのだろう。衣食住が整っていないと、生活もままならなくなる。影ながら陽太のサポートをするのは、大雅もなんだか楽しかった。
 七月生まれの大雅は、ついに十八歳の誕生日が間近に迫っている。自分が今後どうするのか、彼の中ではもう結論が出ていた。
 半月ほど前に、大雅は改めて藤本に話し合いの場を設けてもらった。
「マサノリ先生、オレ、やっぱり来月に学園を出ていくよ」
「ほんとうにいいのか」
 念を押された。まだ学園にいる猶予はあるのに、それを捨ててまで、なにを急ぐことがあるのだと、暗に言われているような気がしたが、それは自分の思い違いだと解釈することにした。
「決めたんだ。相馬さんもそれでいいと言ってくれている」
大雅はしっかりと藤本の目を見て言った。皮肉にもそのとき、大雅ははじめてまともに藤本の顔を見たような気がした。そうして大雅がしょうりつ学園を巣立つのは、七月の末に決まった。

 自分で決めたのに、その後も大雅の心は揺らいだ。ある時は「本当に良かったのだろうか」と、眠れなくなるほどに後悔しそうになったり、また別の時には「はやくここを出て新しい生活がしたい」と、未来に期待を持ったりした。
大雅も、しょうりつ学園の職員たちも、口に出して告知したわけではないが、こういうものは雰囲気で察せられるのだろう。彼が退所する噂は、数日もしないうちに学園中に広まっていた。それが分かったのは、園庭で花蓮に呼び止められて、「大雅くん、退所しちゃうの?」と聞かれたときだった。
「えっ? なんで知ってんだよ」
 大雅は最初、おっちょこちょいな一面のある氏原か、おしゃべりオバサンの森本か、職員の誰かが口を滑らせたのだろうと訝しんだ。
「ケイたちが騒いでたのを聞いちゃった」
 ケイたちの「たち」とは誰なのか気になったが、そんなことを指摘したら、みみっちいやつだと思われそうだと思ったので、黙っておいた。それに自分が退所することは事実だから、隠す必要もない。
「オレ、オマエらみてえに学校行ってねえだろ。ほんとはそんなヤツ、ここにいたらいけないんだ」
「なにそれ、マサノリ先生に言われたの?」
「ちげえよ」
 大雅は思わずクスリと笑った。「むしろここの先生たちは来年の三月まではオレをここに置いてくれようとしてた。だけど、オレは断ったんだ。温情なんていらねえってな」
 花蓮の手前、結論を出すまでに大いに悩み、決断してからもその心が揺らぎまくったことは言わないでいた。
「もう決まったことだから、私がどうこう言っても仕方ないけど、やっぱり来年、大雅くん、陽太くん、ケイ、私の四人が、おなじタイミングで退所したかったな」
 そんなことを思っているのは、花蓮、オマエだけじゃねえのか。
 ふいに頭の中に浮かんだ思いは、口には出さなかった。言えば花蓮を傷つけてしまうことくらい、大雅にだって分かる。陽太と別れるのは寂しいが、さほど絡みのなかった花蓮たちに、陽太に対して抱く感情とおなじものは抱けない。
「二度と会えねえわけじゃねえんだから、そんなに寂しがらなくてもいいと思うぞ」
「そうだね。大雅くんはこれから、どんどん有名になっちゃうかもしれないし、そうなったら活躍も見られるかもしれないもんね」
「そんなもん、わからねえよ」
 言葉を濁して、大雅はそっぽを向いた。自分はたまたまデビュー戦に勝てただけだ。その戦績をこれから良い方に伸ばしていけたら、花蓮の言うとおり『有名』になれるのかもしれないが、いまはそんなもの目指していないし、考える余裕もない。
「もういいか? オレ、道場に行かなきゃ」
「あっ、ごめんね、呼び止めちゃって」
 花蓮はまだなにかを言いたそうな顔をしていたが、大雅はそれに気付かず、「じゃあな」と言って彼女の元から立ち去った。

 道場に行くと、大雅の試合日が正式に決まったと相馬から知らされた。八月の中旬の日曜日、世間は夏休みの真っ只中だ。
「相手は大雅より経験のある選手だ。鷹斗のときは互いにデビュー戦だったから力の差はあまりなかったが、今回は格上の相手と言ってもいいだろう。だが、気負わずに頑張ろう」
 試合のフライヤーには、大雅の対戦相手は藤池基樹と書かれている。相馬が言うには、これまでアマチュア四戦四勝の二十歳の選手で、OPKDの団体の中で、いま最もプロに近い選手だという。
「つまりオレはコイツを倒せば、プロになる確率がぐんと大きくなるわけですね」
 意気込んでいる大雅に、相馬は肯定も否定もしなかった。
「総合格闘技でプロになるには、とにかく試合をこなすことがいちばん重要だ。言うまでもないが、ただ試合に出ればいいというものではないぞ。ちゃんと実績を残さなければならない。あとは態度だな。少し前のお前では、とてもではないが、私は推薦しなかっただろうな」
「う……」
「心配するな。いまはお前も心を入れ替えたようだし、真面目に練習もしているからな。私の道場からのプロ志望の選手として、ちゃんと団体に推せるだろう」
 相馬が言うには、総合格闘技には、ボクシングでいうプロテストのような、プロになるための明確な基準がないらしい。簡単にいえば団体であるOPKD側に認められればいいのだ。
「つまり、オレ次第ってわけですね」
「そうだな。人生において、与えられたり示されたりしてもらえた学生時代が終われば、あとは何事も自分で切り拓いていかなければならない。大雅が今後、どんな選手になるのかは、私が道を示すことは出来ても、実際にそこを辿るのはお前自身だからな」
 大雅はこくりと頷いた。試合日と対戦相手が決まったいま、一分一秒でも多く練習がしたい。相馬は藤池のことを大雅よりも格上の選手だと言った。自分の弟子だからといって、大雅を贔屓目で見るようなことはしないだろうとは分かっていたが、師匠の口からそれを告げられて、自分の未熟さをひしひしと感じた。
 大雅のスパーリングに一番付き合ってくれるのは圭二だったが、相馬の許可を得て、いつでも三笠たちの胸を借りられることとなった。
「大雅クンは、もうボクたちの手の届かないところにいってしまったネ」と、冗談混じりに羽生が言った。彼は継続して真面目に道場に通っているからか、最近体が絞れてきたようにみえる。最近はよく佐門と共に練習をしている。
「僕と羽生さんは、大雅くんのファンみたいなものですから、試合の日は応援にいきますよ」
 その佐門がにこにこと伝えてきたので、大雅は顔を真っ赤にしてぺこりと頭を下げた。
「良かったね、大雅」と圭二にニヤニヤしながら言われたので、佐門たちの見えないところで彼の太腿に蹴りを喰らわせておいた。

 試合に向けての調整が、練習の中に組み込まれた。藤池は強烈なボディーブローを得意とする、キックボクシングがベースの選手だという。
「ボディーの強化をしておいたほうがいいな。よし、腹打ちトレーニングをやってみようか」
 相馬に言われて、大雅はごくりと唾を飲み込んだ。
「腹を殴られて、腹筋が強くなるんですか……」
「少し違うな。腹にいくら打撃を加えようとも、腹筋そのものは強化できない。このトレーニングの目的は腹圧を強くすることだ」
 相馬は道場のカウンターからペンとメモ用紙をとってきて、その紙に『腹腔』と書いた。
「これは『ふくこう』と読む。簡単にいえば、腹の中の空間のことだ」
 相馬の手のひらが、大雅の腹直筋に触れた。鳩尾の下辺りを撫でられたので、全身がぞわりとした。
「ここには、胃や肝臓などの内臓が収められている。つまり人間がここに攻撃を喰らえば、悶絶するほどの苦しみが全身を襲い、嘔吐したり、衝撃で内臓が破裂したりする。そうならないように、鍛える必要があるんだ」
「格闘家が試合中にボディーを喰らっても簡単に倒れないのは、その腹腔ってやつを鍛えているからですか?」
 自分が強烈なボディーを喰らう様子を想像してしまう。口の中に、酸っぱい唾が湧き出てきた。
「腹腔内圧というものの圧が下がると、腹の壁が緩くなってしまう。そうしたときに攻撃を喰らえば、内臓を直接殴られたも同然だ。ボディーを喰らって悶絶してしまう場合は、腹圧が下がってしまっている状態だな。それをできるだけ防ぐために、腹圧をいつでも高めた状態でいられるように鍛えるのが腹打ちトレーニングの目的だ」
 分かったような、分からないような。相槌を打たないでいると、相馬はそのまま話を続けた。
「自転車には乗ったことがあるか?」
「ば、馬鹿にしないでくださいっ、それくらいオレにだってあります」
「自転車のタイヤには空気が入っているだろう」
「はい」
「あれは空気が入っているから、中のチューブがいろんな衝撃に耐えられるが、空気圧が低ければ、パンクもしやすくなる。理屈はそれとおなじだよ」
 どれだけタイヤの空気圧が適正でも、釘を踏んでしまうとか、耐えうる以上の衝撃が加わるとパンクしてしまうのと、どれだけ鍛えても想定以上の攻撃を喰らって倒れてしまうのはおなじようなものなのだろうと、大雅は解釈した。
「わかりました。オレ、頑張ります!」
 勝つためにはなんだってやるつもりだ。大雅は気合いを入れて、道場の隅に転がっていたメディシンボールを取りにいった。三笠たちがそれを腹に落とすトレーニングをしているのを見たことがある。
「おっ、大雅、ついにアレをやるのか」
 その三笠がなにかを察して話しかけてきた。大雅はごくりと唾を飲み込んで、仰向けに寝転がった。頭の後ろで手を組むように言われて、そのとおりにする。
「じゃあ、いくぞ」
 実際の試合で、攻撃をしてくる相手が、わざわざ予告をしてくることは有り得ないが、相馬の掛け声に、大雅はぐっと腹に力を込めた。
「ぐっ……」
 ボールが落ちてくるのが見えていても、その衝撃を耐えるのは大変だった。閉じているはずの唇の隙間から息が漏れる。大雅は歯を食いしばって、連続で落ちてくるメディシンボールの重みをすべて腹に受けることに注力した。
「こんなもの、まだ序の口だぞ! なに辛そうな顔をしている!」
 頭上から降ってくる相馬の声。それに答える間もなく、腹に衝撃が加わり続ける。
「試合では、不意をついて腹をぶち抜かれるぞ!」
 等間隔で振り下ろされるボールのほうが易しいというのだ。確かにそうだ。試合では、相手も自分も、互いを倒そうと死力を尽くすのだから、この程度の衝撃に耐えられなければ、自分の膂力は到底通用しない。それに、攻撃がとんでくるタイミングもいつか分からない。相手に隙をみせないことが一番だが、仮に攻撃を喰らってしまっても、それに耐えられるように鍛えないといけないのだ。

「ぐっ……ハアッ……ハアッ……」
「よし! これまでだ!」
 一ラウンド分の時間が経過して、タイマーのブザーが道場内に鳴り響いた。相馬の声に、大雅は安心してばたりと手足を投げ出した。
「ぐあっ!」
 しかし、力を緩めた腹に、相馬の非情な一撃が沈み込んだ。
「し……ししょ……」
 全身から血の気が引いて、思わず腹を抱えて海老のように丸まってしまった。
「フェイントだ。油断をするから、そうなるんだぞ」
 相馬は笑っていたが、大雅は涙目になってしばらくうずくまる羽目となった。
「ラウンド終了のゴングが鳴っても、意図的にでなくとも攻撃がとんでくることがある。相手の振り抜いてしまった拳がお前に当たったりな。だからインターバルになっても、自陣に戻るまでは油断をしてはいけない。それがきっかけで勝敗が決まるのは納得がいかないだろう」
「……は、はい……」
 ずりずりと体を引き摺って起き上がる。苦しみのピークは過ぎた。相馬に支えてもらって、立ち上がる。足裏で床を踏みしめて、自力で立てることを確認する。
「二ラウンド休憩だ。その後、続きをやるからな」
「えっ……!?」
 大雅と相馬のトレーニングを見守っていた三笠たち一同は、絶句した大雅の様子にどっと湧いた。
 その後、しばらく休憩した大雅は、リングのコーナーに立ち、プロ選手の三人と圭二から、しこたま腹を鍛えられた。いままでの練習の中で一番辛く、油断をすればそのまま倒れ込んでしまいそうになったが、懸命に耐えた。
 脳裏によぎるかつての自分。理不尽な暴力を受け、無様に地に伏していたときの記憶が蘇る。リングの上で足を踏ん張る大雅は、もうあの頃のオレではないと、必死で自分に言い聞かせていた。圭二や三笠たちの猛攻に耐える気概には、最早大雅の実力だけではなく、心の底から湧いてくる意地も重なっていた。——オレは一分前の自分よりも強くなる。強くなって、オレ自身がちゃんと笑える未来へ歩いていくのだ。