大雅の二戦目が決まった。あれこれ考えていても仕方ない。オレは自分の目標に向かって、出来ることをひとつずつこなしていくのだと、相馬の家に泊まっているあいだに結論を出して、学園に戻る日にその意向を相馬に伝えた。相馬は「じゃあ、手続きをしておくぞ」と軽く言ったが、内心では安堵していた。
 その日、大雅はプロ選手たちと共に汗を流していた。学校帰りの圭二や鷹斗も一緒だったためか、大雅が試合に出ることは、練習終わりに相馬から皆へ報された。
「大雅! 頑張ってね!」
「てめえは次の試合、やらねえのかよ」
 圭二が昨年の敗戦以来、自分から試合に出たいとは言わなくなったことに気付いた。練習は真面目にこなしているようだし、実力はあるのに何故だろうと思う。人生初めての対人戦で黒星を喫してしまったから、繊細な彼の心は打ち砕かれてしまったのだろうか。
「受験が終わったら、考えてみるよ」
 圭二はそう言って苦笑した。「僕、やりたいことが出来たんだ」
「プロの格闘家になりたいと思ってたんじゃねえのかよ」
 大雅の問いかけに、圭二は口角を上げたまま黙ってしまった。ふたりのあいだに俄に漂った気まずい雰囲気を察したのか、近くで話を聞いていた鷹斗が心配そうにこちらを見ているのに気付いたが、大雅はどうなんだよと、圭二に迫った。
「ごめん大雅、僕、いまは別の目標が出来たんだ」
 仮にプロの格闘家になれたとしても、それで食っていけるのは相馬のようなひと握りの選手だけだとは知っている。圭二が別の目標を見つけた経緯は分からないが、そういったことも加味したのかもしれない。
「……そうかよ」
 かといって、そんな彼を責められるはずもなかった。本音としては一緒におなじ舞台に立ちたかったけれど、圭二は圭二の人生を歩んでいるのだ。彼がなにを目指そうと、自分にそれを止める権利はない。
「僕、警察官になりたいと思ってるんだ」
 いろいろ考えていると、聞き流しそうになった。圭二の言った言葉の意味をようやく理解したとき、大雅はハッと顔を上げて彼を見つめた。
「去年、僕は試合に負けて、たった一回負けただけなのに、すごく落ち込んで、もう格闘技を辞めようかと思った。師匠に相談したりもしたんだ。そのときに『お前が競技を辞めようとも、私は止められないが、本当に自分のやりたいと思うことはなんなのか、ゆっくりじっくり考えてみなさい』って言われて、時期的にも、将来のことを考えないといけなくなっていたから、師匠の言うとおりにした。大学に行ってからいろいろ考えようと思ったりもしたけど、どうせ進学するなら、今のうちに目標を立てて、それに応じた大学に行こうって思ったんだ」
 親に……と言いかけて、圭二は思わず口をつぐんだ。『親に学費を出して貰うんだから、ちゃんとしなきゃ』と言おうとして、ふいに大雅の境遇が頭をよぎったのだ。
「志望校は決めてるのか」
「うん」
 頷いて、圭二が口にしたのは、県内にある大学の名前だった。法学部に行きたいという。そこで学を積んだあとに、警察官になるための道へ進むつもりだそうだ。
「小学生のときから、警察官や消防士みたいな、誰かを助けられるような仕事に憧れてたんだけど、僕なんかがやれるのかなって自信が足りなくて。でも、師匠に格闘技を習って、あの頃に比べたら勇気も出たし、一度きりの人生、僕がほんとうになりたいものを目指そうと思ったんだ」
 圭二はそのとき、口には出さなかったが、いまの目標に突き進もうと思った決定打は、鷹斗と闘ったときの大雅を見たことだった。
 プロの格闘家として活躍したいと思い、そのつもりで励んできて、自分は相馬にも期待されていると感じていた。圭二にとって初めての試合に挑むまでは、その期待に応えて頑張ろうと思った。でも負けてしまった。それもKO負けだった。それで心が折れたとは大袈裟かもしれないが、周りからどんなに励まされようとも、また自身を鼓舞して頑張ろうとも、もう元の情熱は取り戻せないと思った。挫折したのだと言われれば、否定は出来ない。周りからちやほやされて自分もその気になって、舞い上がっていただけだ。
 大雅が試合に勝ったとき、圭二は勿論、心の底から彼を祝福した。友として、また大雅がつぐみ道場にやってきた当時から知っている者として、彼の成長を目の当たりにするのは感慨深くもあった。同時に、大雅の好敵手として自分が立つのは、もう違うなと思った。
 相馬はさすがにあからさまには態度に出さないが、いまは圭二より大雅に期待をかけているような気さえしてくる。それは圭二の思い込みである可能性が高いが、一度心に沸き起こった思いを拭い去ることは出来なかった。
 不安はある。たった一回の敗北で挫折した自分が、今後襲いかかってくるであろう苦難に負けずに自分の夢を叶えられるのか。
 やってみなきゃわからないじゃないか。不安に苛まれるたびに、圭二は自分に言い聞かせるのだ。僕は変わった。いまよりも幼い頃に抱いた夢を追えるくらいには。そしてそれを、誰かに話せるくらいには。

「圭二、頑張れよ」
 それ以上のことは言えなかった。大雅は目を伏せて、バンテージを巻いたままの拳をぎゅっと握りしめる。今まで気を遣って気配を消していた鷹斗の衣擦れの音がする。
「ありがとう、大雅」
 ほんとうは、おなじ夢を一緒に目指したかった。
もう叶うことのないその想いは互いに胸の中にしまっておくことにした。
「オマエ、オレが学校を退学になったときに『大雅が退学』とか言っておちょくってきたけど、まさか『圭二が刑事になる』とか思ってんじゃねえだろうな」
「そんなこと思ってないよ! 小学生じゃないんだから。それにあのときも別にそんなつもりで言ったんじゃないって言っただろう!」
 小学生のときのオレは、オマエの名前に勝手に『刑事』を連想して苛立っていたけどなと、大雅は心の中で独りごちた。
「大雅さんも塚内さんも凄いですね。ちゃんと将来の目標があって。俺はまだ自分が何になりたいのか、よく分からないです」
「これからだよ、有馬くんは」
 圭二が微笑んだ。
「なにジジくせえこと言ってんだよ。オレら、二歳しか変わらねえんだぞ」
「そうだけど。僕たちの周りには、まだ将来のことなんて考えていない人たちがいっぱいいるでしょ。だからそんなに焦る必要ないってこと」
「はい! 頑張ります!」
 鷹斗は、つぐみ道場に入門して、すぐに大雅以外の門下生とも馴染んで、楽しくやっているようだ。圭二とも仲良くなり、二人でトレーニングをしている光景もみる。
 気がつくと、道場の中にいるのは相馬を除けば大雅たち三人だけとなっていた。大人たちは早々に帰宅したのだろう。
 相馬は道場のカウンターでパソコン業務をしていたから、大雅たちの話は聞こえていたかもしれない。三人は互いに顔を見合わせ、そそくさと更衣室に引っ込んで着替えをした。

学園に帰って夕食を食べたあと、大雅はすぐに部屋に戻ったが、そのまま何時間も目が冴えていた。
 陽太の寝息を聞きながら、考える。付けっ放しになっている常夜灯の明かりを眺めながら、深夜の静寂の中で、大雅はずっと考えていた。——オレは、ほんとうに幸せになっていいんだろうか。オレにそんな価値はあるのだろうか。
 人生に躓いた。立ち上がるのもままならないほどに、たくさん怪我をした。そのたびになにかにしがみついてなんとか歩いてきた。手を差し伸べてくれる人も、少なからずいた。
 大雅は体を起こして、そっとベランダに出てみた。梅雨の合間の晴れた夜空には、たくさんの星が瞬いている。夜空に浮かぶ星の光が、実際に地球に届くには、何年もかかるらしい。
だとすれば、いま見えるあの光は、オレがまだ虐待を受けていたときに宇宙で放たれたものなのかもしれない。
あのときは、いまみたいな夜中でもまだ起きていて、ずっと自分の境遇に心を痛めていた。自分が悪いからこんな目に遭っているのだと思っても、じゃあどうすればいいのか分からずに途方に暮れていた。ぎゅっと拳を握りしめても、自分の情けなさに絶望して死にたくなっても、心に起こった衝動を発散させるすべを見つけられなかった。
あの頃の自分に会えるなら、膝を抱えて泣いているそばに寄って、「オマエは大丈夫だ。もう少ししたら、この苦しみから抜け出せるから」と言い聞かせてやりたい。どんな場所に立っていても、自分をいちばん大切にしてやれるのは、唯一、自分自身でしかないのだ。
目を閉じる。湿っぽい夜風が、全身を撫でる。頭の中に現れた幼い頃の自分の頭を、そっと撫でてやった。

「大雅、なにしてんだ?」
「わっ!」
 突然背後から陽太に声をかけられて、大雅は驚いて声を上げてしまった。
「陽太……寝てたんじゃねえのかよ」
「ん? トイレだよ。目、覚めたら窓が開いてておまえが外にいるのが見えたから、何やってんのかなって思って声かけた」
 じゃあなと言って、陽太は部屋を出ていった。
 大雅は部屋に入って、布団に潜り込む。やがて廊下から摺り足の音が聞こえてきて、陽太が戻ってきた気配がした。
「なんだ大雅、もう布団に入ったのか」
「まだ寝てねえよ」
 二人で囁き合う。小学生たちとは違って、中高生は宿直の支援員の見回りはないが、あまり騒いでいたら怒られるかもしれない。
「夜はなんかセンチメンタルな気分になるよな。まあ大雅は四六時中なにかに悩んでそうだけど」
「なんだよそれ」
「おれもさ、最近考えるんだ。もうここを出るまで、一年切っちゃっただろ。大雅も早く出ていくなんて言うし、なんか焦っちまって」
「陽太は高校出たら働くんだろ」
「ああ。そのつもりだ。正直やりたいことなんてねえけど。いまだにプロ野球選手になりたいって思えるほど脳天気じゃねえしな。あっ、旅館で住み込みで働かせてもらうのもいいかもしれねえな。どうなろうとも野球は好きだし、どんな仕事をやるにしても、草野球とか、会社のチームとかで続けていけたらいいなとは思ってるよ」
「でもいまは、目の前のことで精一杯……だろ」
「おう大雅、よーく分かってんじゃん」
 梅雨が明ければ、陽太の高校球児としての最後の夏が始まる。野球部の主将として、チームをひとつでも多く勝利へと導いていけるのか。彼はいま、四六時中プレッシャーを浴びながら生活しているようなものだった。
「大雅も応援に来てくれよな。おまえ、暇だろ?」
 陽太は溶けるような声でそう言って、くすくすと笑った。
「ああ。試合、観に行くよ」
 会話が途切れる。それから時間も経たないうちに、陽太は再び寝息をたてはじめた。
 圭二も陽太も、みんなちゃんと自分の将来について考えているんだな。それに比べてオレは……。起こるかどうかもわからないようなことを怖がって、ずっと尻込みしたままだ。
 師匠の言ったとおりだ。——大雅。お前は不器用すぎる。拳を鍛えるだけでは、どうにもならないこともあるんだ。
 どれだけ体を鍛えて強くなったつもりでいても、心がそれについてこないとほんとうに強くなれない。恐怖に心が支配されると、体も動かなくなる。だから多分、オレがこれから生きていくためには、過去を乗り越えることが一番大事なのだ。夜な夜な悪夢を見てうなされているようでは駄目だ。もっと端的にいえば、目の前にアイツらが現れても、動揺しない自分にならないといけない。——それがオレの目標だ。