大雅の外泊許可が出たのは、梅雨まっただ中の、六月に入った頃だった。藤本と相馬が幾度も入念に打ち合わせを行い、決まったことだ。報せを聞いて、リュックに数日分の着替えを詰め込んでいるとき、大雅は胸が高鳴ってしょうがなかった。
「気をつけて行ってこいよ」と、藤本や平山などの支援員や、陽太に見送られて大雅は学園を出発した。
「大雅がいねえから、ようやく一人部屋を満喫出来るぜ」
「ただつぐみ道場に行くだけなのに大袈裟なんだよ」
大雅は口を尖らせてそう言ったが、晴れやかな表情のなかに喜びは隠しきれていない。最近はようやく、嬉しいとか、楽しいとか、そんな感情を抱くことに慣れてきた。
道場に着いて中に入ると、相馬が迎えてくれた。
「こんにちは。今日からしばらくよろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
相馬に家を案内された。雄也は大学に行っているらしく、中は誰もおらずしーんと静まりかえっていた。
大雅は以前に泊まらせてもらった和室に荷物を置くように指示された。
「和室で申し訳ないが、ここが将来的にお前の部屋になるからな」
「え? 本当ですか?」
「二階は私と雄也が使っているからな。一応空き部屋はあるが、私たちが近くにいると気が休まらないだろう。お前が望むなら、ここを洋室に改修することも考えるが」
「そんなっ、オレはここでっ、このままで大丈夫です!」
大雅は慌てて言った。自分の部屋が与えられるだけでも贅沢だと思った。
「荷物を置いたら、いつものように道場で練習をするか?」
「はい!」
着替えしか持ってこなかったから、圧倒的に手持ち無沙汰となる。トレーニング以外に時間を潰す方法は思い浮かばなかった。
「師匠、みんなが来るまで、スパーリングに付き合ってもらえませんか?」
「いいだろう」
大雅は相馬の背中を追った。オレはここで、アイツらを見返せるくらいに、幸せになってやるんだ。今日はそのための第一歩だ。
道場での練習が終わって、学園に帰らずに門下生たちを見送るのは、なんだか奇妙な感覚だった。大雅は道場の清掃を引き受けてやり過ごしたが、圭二は帰らない大雅を見ながら、不思議そうな表情を浮かべていたような気がした。
相馬の家に戻ると、雄也が帰っていた。
「やあ大雅くん。久しぶりだね」
「ッス、お世話になります!」
「はははっ、そんなにかしこまらなくていいよ」
雄也はTシャツの上にエプロンをつけて、キッチンに立っている。味噌汁のいい香りがリビング中に漂っていた。
「風呂に入ってきなさい」
相馬に言われて、大雅は素直に頷いた。
浴室に入ると、すでに湯舟にお湯が沸いていた。いつもは複数人で風呂に入るから、ひとりになるのは奇妙な感覚だった。風呂だけに関わらず、これからはひとりでやることが多くなるのだろうなと思う。湯舟に浸かり、目を閉じる。湯のぬくもりが、肌から体の芯に染み渡っていく。
風呂から上がると、夕食が食卓に並んでいた。相馬に促されて席につく。
「大雅くんが来るから、張り切っちゃった」
雄也が笑う。「兄ちゃんと僕だけじゃ作りがいがなくってね。この人、食には無頓着で、必要な栄養が摂れればそれでいいっていうから、そんなこと言うんだったら、プロテインでも飲んでろって言いたくなるよ」
口数の多い雄也に、相馬はあえて刺激をしないようにと黙っているようだった。
「まあ、それでも僕はちゃんと作るけどね。さ、食べようよ」
茶碗大盛りのご飯を大雅に渡してくれた。「魚、食べられるよね」
「はい! なんでも食います!」
仮に好き嫌いがあったとしても、お世話になっている立場の自分が言えるわけがない。
「大雅くんもそのうち、ここに住むんだから、今のうちに嫌いなものとか言っといてよ」
「いえ、本当になんでも……」
「なら助かるよ。兄ちゃんとおなじ道を行くんだろ? 僕も応援してるからな」
大雅はぺこりと頭を下げた。一通りの炊事を終えた雄也も、エプロンを外して食卓についた。三人でいただきますと合掌し、箸をとった。
「大雅くんのことは、兄ちゃんから聞いているよ。僕のことも、兄だと思って色々頼ってくれたらうれしいな」
大雅は味噌汁の具はなんだろうと椀の中をかき混ぜていた。白菜と油揚げが箸に絡みつく。顔を上げると、正面に座っている雄也と直に目が合った。
もしもオレに師匠や雄也さんみたいな本当の兄がいたら、あの家での境遇も違っていたのだろうか。
味噌汁を啜りながら考える。
駄目だ。もしそうだとしても、アイツらにとっては標的が増えるだけ。オレ以外に、オレとおなじ目に遭うヤツが増えるだけだ。
あの子はまだ、大丈夫だろうか。
鷹斗と闘った試合の日に見た、自分の弟らしき少年の姿が脳裏に浮かんだ。子供を育てる資格のないヤツらに限って、なんで産むのだろう。
ここで悶々とひとりで考えていたとしても、あの子が救われるわけでも、実態が暴かれるわけでもないのだ。それでも、自分はもうアイツらとは関係がないのだと割り切ることはできない。どんな形であれ、家族として繋がってしまった以上、その関係からは逃れられない。
「またなにか深刻なことを考えているのか」
雄也の隣に座っている相馬が、眉をひそめて尋ねてきた。大雅は慌てて汁椀をテーブルに置いて、平静を取り繕った。
「お前はもっと、いろんな見聞を広げたほうがいいかもしれないな。必死で生きてきたこれまでも、しっかりとお前の糧となっているだろうが、如何せんそればかりに囚われがちになっているように感じる。忘れろとは言わないし、忘れることなどは出来ないだろうが、色々な経験や知識が増えれば、自ずと楽になったりもするからな」
「もう、兄ちゃん、訳の分からない演説ばかりしてないで、さっさと飯食えよ」
雄也が冗談半分、本音半分と言ったような口調でそう言った。「兄ちゃんは昔からくそ真面目だから、堅苦しい話しかしないけど、ごめんね大雅くん」
「……いえ、有り難いです」
大雅にとって、人生の指南をしてくれたのは、相馬が初めてだった。親も教師も、なにも教えてはくれなかった。どれだけ助けられたか。その恩を返すには、やはり格闘技の世界で、相馬の教え子として名を上げていくのが一番だと考えた。大雅自身も、それを望んでいる。
成し遂げたい目標がある。それだけでも、人生は豊潤になるのだ。
夕食が終わると、相馬たちは順番に風呂に入った。大雅に気を遣ってくれたのか、リビングのテレビは点いていたが、彼らは興味のある番組などはないようで、自由に過ごしていいと言われても、そわそわして仕方がなかった。
「折角だから、二階も案内しようか」
相馬は見かねたのか、大雅を連れて階段を上がった。
二階には部屋が四部屋と、廊下の突き当たりにトイレがあった。奥の向かい合った二部屋が、それぞれ相馬と雄也の部屋で、手前の二部屋は、元々彼らの両親の寝室と書斎として使われていた部屋だという。
「父と母の寝室は、いまは物置となっているが、こっちの書斎は、雄也がたまに使っているよ。あいつは本を読むのが好きでな。幼い頃から買い集めた本が置かれている。大雅も興味があったら、読ませてあげてもいいと言っていたが、見てみるか?」
なにもやることがなかったので、大雅は頷いた。相馬は、階段から見て右側の部屋の扉を開けて、大雅を中に促した。
「うわあ!」
思わず声を上げてしまうような光景が広がっていた。四方の壁に、天井近くまでの高さの本棚が並んでいて、相馬家の皆がいそいそと集めた書物がずらりと並んでいた。窓際には年季のはいった立派な文机が置かれていて、その前に座布団を敷いて本が読めるようにしているらしかった。
大雅は部屋の中に入って、まじまじと本棚を眺めた。学校の図書室や、一時保護所のデイルームにあった本棚、それにしょうりつ学園の男子棟の本棚は、それぞれ置いてある本の内容は無難なものが多かったが、相馬家の書斎に置いてあるものは、どれも彼らの趣味嗜好が色濃く表れていた。
雄也はどうやら、青春ものやファンタジーを好むらしく、比較的新しめの本は概ねそのいずれかの内容が多かった。大雅はその中から何冊か見繕って借りることにした。
「おやすみなさい」
相馬と、ちょうど風呂から上がってきた雄也に挨拶をして、部屋に戻る。すると途端に緊張の糸がほぐれたのか、布団に倒れ込むなり睡魔が襲ってきた。結局借りた本を開くこともなく、あっという間に眠りについたのだった。
「気をつけて行ってこいよ」と、藤本や平山などの支援員や、陽太に見送られて大雅は学園を出発した。
「大雅がいねえから、ようやく一人部屋を満喫出来るぜ」
「ただつぐみ道場に行くだけなのに大袈裟なんだよ」
大雅は口を尖らせてそう言ったが、晴れやかな表情のなかに喜びは隠しきれていない。最近はようやく、嬉しいとか、楽しいとか、そんな感情を抱くことに慣れてきた。
道場に着いて中に入ると、相馬が迎えてくれた。
「こんにちは。今日からしばらくよろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
相馬に家を案内された。雄也は大学に行っているらしく、中は誰もおらずしーんと静まりかえっていた。
大雅は以前に泊まらせてもらった和室に荷物を置くように指示された。
「和室で申し訳ないが、ここが将来的にお前の部屋になるからな」
「え? 本当ですか?」
「二階は私と雄也が使っているからな。一応空き部屋はあるが、私たちが近くにいると気が休まらないだろう。お前が望むなら、ここを洋室に改修することも考えるが」
「そんなっ、オレはここでっ、このままで大丈夫です!」
大雅は慌てて言った。自分の部屋が与えられるだけでも贅沢だと思った。
「荷物を置いたら、いつものように道場で練習をするか?」
「はい!」
着替えしか持ってこなかったから、圧倒的に手持ち無沙汰となる。トレーニング以外に時間を潰す方法は思い浮かばなかった。
「師匠、みんなが来るまで、スパーリングに付き合ってもらえませんか?」
「いいだろう」
大雅は相馬の背中を追った。オレはここで、アイツらを見返せるくらいに、幸せになってやるんだ。今日はそのための第一歩だ。
道場での練習が終わって、学園に帰らずに門下生たちを見送るのは、なんだか奇妙な感覚だった。大雅は道場の清掃を引き受けてやり過ごしたが、圭二は帰らない大雅を見ながら、不思議そうな表情を浮かべていたような気がした。
相馬の家に戻ると、雄也が帰っていた。
「やあ大雅くん。久しぶりだね」
「ッス、お世話になります!」
「はははっ、そんなにかしこまらなくていいよ」
雄也はTシャツの上にエプロンをつけて、キッチンに立っている。味噌汁のいい香りがリビング中に漂っていた。
「風呂に入ってきなさい」
相馬に言われて、大雅は素直に頷いた。
浴室に入ると、すでに湯舟にお湯が沸いていた。いつもは複数人で風呂に入るから、ひとりになるのは奇妙な感覚だった。風呂だけに関わらず、これからはひとりでやることが多くなるのだろうなと思う。湯舟に浸かり、目を閉じる。湯のぬくもりが、肌から体の芯に染み渡っていく。
風呂から上がると、夕食が食卓に並んでいた。相馬に促されて席につく。
「大雅くんが来るから、張り切っちゃった」
雄也が笑う。「兄ちゃんと僕だけじゃ作りがいがなくってね。この人、食には無頓着で、必要な栄養が摂れればそれでいいっていうから、そんなこと言うんだったら、プロテインでも飲んでろって言いたくなるよ」
口数の多い雄也に、相馬はあえて刺激をしないようにと黙っているようだった。
「まあ、それでも僕はちゃんと作るけどね。さ、食べようよ」
茶碗大盛りのご飯を大雅に渡してくれた。「魚、食べられるよね」
「はい! なんでも食います!」
仮に好き嫌いがあったとしても、お世話になっている立場の自分が言えるわけがない。
「大雅くんもそのうち、ここに住むんだから、今のうちに嫌いなものとか言っといてよ」
「いえ、本当になんでも……」
「なら助かるよ。兄ちゃんとおなじ道を行くんだろ? 僕も応援してるからな」
大雅はぺこりと頭を下げた。一通りの炊事を終えた雄也も、エプロンを外して食卓についた。三人でいただきますと合掌し、箸をとった。
「大雅くんのことは、兄ちゃんから聞いているよ。僕のことも、兄だと思って色々頼ってくれたらうれしいな」
大雅は味噌汁の具はなんだろうと椀の中をかき混ぜていた。白菜と油揚げが箸に絡みつく。顔を上げると、正面に座っている雄也と直に目が合った。
もしもオレに師匠や雄也さんみたいな本当の兄がいたら、あの家での境遇も違っていたのだろうか。
味噌汁を啜りながら考える。
駄目だ。もしそうだとしても、アイツらにとっては標的が増えるだけ。オレ以外に、オレとおなじ目に遭うヤツが増えるだけだ。
あの子はまだ、大丈夫だろうか。
鷹斗と闘った試合の日に見た、自分の弟らしき少年の姿が脳裏に浮かんだ。子供を育てる資格のないヤツらに限って、なんで産むのだろう。
ここで悶々とひとりで考えていたとしても、あの子が救われるわけでも、実態が暴かれるわけでもないのだ。それでも、自分はもうアイツらとは関係がないのだと割り切ることはできない。どんな形であれ、家族として繋がってしまった以上、その関係からは逃れられない。
「またなにか深刻なことを考えているのか」
雄也の隣に座っている相馬が、眉をひそめて尋ねてきた。大雅は慌てて汁椀をテーブルに置いて、平静を取り繕った。
「お前はもっと、いろんな見聞を広げたほうがいいかもしれないな。必死で生きてきたこれまでも、しっかりとお前の糧となっているだろうが、如何せんそればかりに囚われがちになっているように感じる。忘れろとは言わないし、忘れることなどは出来ないだろうが、色々な経験や知識が増えれば、自ずと楽になったりもするからな」
「もう、兄ちゃん、訳の分からない演説ばかりしてないで、さっさと飯食えよ」
雄也が冗談半分、本音半分と言ったような口調でそう言った。「兄ちゃんは昔からくそ真面目だから、堅苦しい話しかしないけど、ごめんね大雅くん」
「……いえ、有り難いです」
大雅にとって、人生の指南をしてくれたのは、相馬が初めてだった。親も教師も、なにも教えてはくれなかった。どれだけ助けられたか。その恩を返すには、やはり格闘技の世界で、相馬の教え子として名を上げていくのが一番だと考えた。大雅自身も、それを望んでいる。
成し遂げたい目標がある。それだけでも、人生は豊潤になるのだ。
夕食が終わると、相馬たちは順番に風呂に入った。大雅に気を遣ってくれたのか、リビングのテレビは点いていたが、彼らは興味のある番組などはないようで、自由に過ごしていいと言われても、そわそわして仕方がなかった。
「折角だから、二階も案内しようか」
相馬は見かねたのか、大雅を連れて階段を上がった。
二階には部屋が四部屋と、廊下の突き当たりにトイレがあった。奥の向かい合った二部屋が、それぞれ相馬と雄也の部屋で、手前の二部屋は、元々彼らの両親の寝室と書斎として使われていた部屋だという。
「父と母の寝室は、いまは物置となっているが、こっちの書斎は、雄也がたまに使っているよ。あいつは本を読むのが好きでな。幼い頃から買い集めた本が置かれている。大雅も興味があったら、読ませてあげてもいいと言っていたが、見てみるか?」
なにもやることがなかったので、大雅は頷いた。相馬は、階段から見て右側の部屋の扉を開けて、大雅を中に促した。
「うわあ!」
思わず声を上げてしまうような光景が広がっていた。四方の壁に、天井近くまでの高さの本棚が並んでいて、相馬家の皆がいそいそと集めた書物がずらりと並んでいた。窓際には年季のはいった立派な文机が置かれていて、その前に座布団を敷いて本が読めるようにしているらしかった。
大雅は部屋の中に入って、まじまじと本棚を眺めた。学校の図書室や、一時保護所のデイルームにあった本棚、それにしょうりつ学園の男子棟の本棚は、それぞれ置いてある本の内容は無難なものが多かったが、相馬家の書斎に置いてあるものは、どれも彼らの趣味嗜好が色濃く表れていた。
雄也はどうやら、青春ものやファンタジーを好むらしく、比較的新しめの本は概ねそのいずれかの内容が多かった。大雅はその中から何冊か見繕って借りることにした。
「おやすみなさい」
相馬と、ちょうど風呂から上がってきた雄也に挨拶をして、部屋に戻る。すると途端に緊張の糸がほぐれたのか、布団に倒れ込むなり睡魔が襲ってきた。結局借りた本を開くこともなく、あっという間に眠りについたのだった。



