はんぺんがあまりにもじゃれついてくるので相手をしていると、ちょうどそのとき圭二が道場にやってきた。初夏の日差しはすでに暑く、自転車を漕いできた彼は地に足をつけるなり、ごくごくと水分補給をしていた。
「よう圭二、燃費がわるいヤツは、水代がかかって大変そうだな」
「一日二リットルは飲まなくちゃいけないからね。大雅もちゃんと水分摂ってるかい?」
大雅の軽口には反応せず、圭二はぱちくりと瞬きをしてみせた。お気に入りだというスポーツタイプのクロスバイクを駐輪スペースの端のほうに置いて、大雅のほうに近づいてきた。
「大雅、ちょっといいかい」
「な、なんだよ改まって」
はんぺんの相手をするためにしゃがみこんでいた大雅だったが、元々上背のある圭二が横に立つと、彼が醸し出している迫力以上の威圧を感じた。咄嗟に立ち上がって向き合う。
「中に入るか」
「いや、ここでいいよ。師匠には聞かれたくない。僕たちだけのことだから」
圭二の表情がいつもより険しい。大雅はごくりと唾を飲み込んだ。
「ちょっと前から思ってたことがあるんだ。……単刀直入に言うけど、僕たち小学生のときに同じクラスだったよね」
「あ……」
言葉に詰まった。心臓にとてつもない衝撃がはしった気がして、思わず胸を抑えてしまった。喋ることも、考えることも忘れてしまったかのように、脳と体が硬直している。
「大雅のことを大雅として認識して関わり合ったのはこの道場でだけど、なんかどこかで見たことある子だなとはずっと思ってたんだ。僕は学年の途中で転校したから、大雅は覚えていないかもしれないけど……」
「圭二……」
いつかはばれると思っていた。そして、ばれるなら、あらかじめこちらから話しておくべきか迷っていた。自分の悪行が晒されることに対する恐怖よりも、これから圭二と一緒に切磋琢磨していく仲なのなら、なにもかも包み隠さず有耶無耶にしてはいけないことだとも思っていた。
「ほら、前に話しただろ。僕が格闘技をはじめたきっかけになった男の子のこと。ずっと名前を忘れてたけど、思い出すきっかけがあってね。実はこのあいだ、当時の写真が家から出てきたんだ」
圭二はそう言って、背負っていたリュックを下ろし、チャックを開けた。中をごそごそやって、一枚の封筒を取り出す。圭二がその中から取り出したのは、一枚の集合写真だった。
「僕が転校するからって、クラスのみんなで撮った写真。ほら、ここでめちゃくちゃ笑ってピースしてるの、大雅だよね」
圭二が指差したそこに、たしかに小学生のときの自分がいた。背中に吹きつける風がやけに冷たい。冷や汗がだらだらと流れているのだ。
「あ……そうみたい……だな……」
言葉を絞り出すのに必死だった。襟元が伸びきって、薄汚れたシャツに身を包み、それでも必死で満面の笑顔を作っているその男の子が、まるで自分自身ではないように見えた。写真に写るその笑顔が作り物であると瞬時に分かるのは、その男の子が必死に隠そうとしている事情を大雅が知っているからなのか。みすぼらしい服装と相まって、そこには悲壮感すら漂っているようにみえた。
「オ、オレ、周りからみたらこんなヤツだったんだな……。なんか、馬鹿みたいなヤツだな、コイツ……」
苦笑する。呆れたふうを装って、軽口を叩くほかにリアクションが思いつかなかった。
「……ごめん!」
途端に圭二が大きな声を出したので、大雅はびくりと肩をふるわせた。
「僕、いままでなにも気付いてやれなかった。大雅が児童養護施設で暮らしているのは知ってたし、だから家庭に複雑な事情があるんだろうなって、なんとなく思ってたけど、僕は……僕はいますぐにでも大雅の親をぶん殴ってやりたい!」
「おいおい、いきなりそんな物騒なこと言うなよ……」
「物騒なもんか! だって当たり前だろ。自分の子供に、その、手を上げる親なんか、生きている資格なんてないよ!」
圭二が持っている写真の端がくしゃりと歪んだ。大雅は顔を上げて、圭二の顔を見る。くりくりとした目が潤んで赤くなっている。
「あまり興奮するなよ……圭二。オマエには関係」
「関係大有りだ!」
圭二は震える声で、大雅の言葉を遮った。くうんとはんぺんが鳴いた。カチャカチャとコンクリートを爪で叩き、そしてボウルの水を飲みにいく。この時間は道場の前を通る通行人は少ないが、それでも圭二が大きな声を出せば目立つだろう。コンビニの駐車場にいる人がちらりとこちらを向いたのが横目に映った。
「僕は……君がどう思っているかは分からないけど、大雅のことを友達だと思ってるよ。だから……だからこそ、関係ないなんて言わないでよ。……うっせえよって言われても、今日は引かないからな!」
「……なんでオレが怒られなきゃならねえんだよ」
圭二は普段温厚だから、いざ怒りの感情を抱いたとき、それを表現するのが下手なのだろう。
「大雅がこれまで、どんな目に遭ってきたのかを想像してみたら、君がずっと苦しんでたんだって分かっちゃって。きっと大雅は僕なんかに同情されるのは嫌だろうけど、それでも僕は君を放っておけないよ!」
圭二はそう言って、手に掲げた写真を見た。写真の真ん中にいる、笑顔の大雅を見て、彼はなにを思っているのだろう。クラスの中心人物らしからぬ服装。やんちゃで、取っ組み合いの喧嘩なんかも日常茶飯事で、この日も誰かと喧嘩をしたから、襟首が伸びているんです……と、当時の大雅の境遇を知らぬ人に説明すれば、そうなのかと思うだろうが、当時は既にクラスメイト達のあいだで、大雅の家が普通じゃないとまことしやかに囁かれていた。つまりほんとうの大雅の姿に気付いている者もいただろう。当の本人はうまく誤魔化していたつもりでも、端からみれば大雅の家庭の異常さは、こんなにも分かりやすく写真におさめられていたのだ。
「この頃の僕が大雅に憧れていたっていう話はしたよね。あれは嘘なんかじゃないよ。たしかに当時はいろんな噂が立ってたけど、そんなもの気にせず、みんなを引っ張っていた君のことが、本当にすごいと思っていたんだ」
もっと早く気付いていれば……と、圭二は悔しそうに続けた。コンビニのルート配送のトラックが、ウインカーのアナウンスを流しながら駐車場に入っていく。ブレーキ音が大きく鳴った。
「オマエがそう言ってくれるだけで充分だよ」
友達思いの圭二は、大雅が両親から受けていたことの全貌を知れば、もっと気に病むだろう。それこそ激昂して、本当に藤堂家に乗り込んでいくかもしれない。だから大雅は、みなまで言わないことにした。言う必要もないと思った。
人に同情されて憐れまれるのは癪にさわるはずなのに、圭二が自分のことで憤懣を抱いてくれるのは、申し訳なくもあり、少し嬉しくもあった。
「大雅!」
圭二の両腕がすっと伸びてきて、両肩を掴まれた。彼の頬は紅潮していて、真剣な眼差しで見つめられる。
「大雅はこれから、いままでの分も全部、幸せにならなくちゃいけない。うん、なれるよ。僕も一緒に手伝う。だから絶対に、諦めるんじゃないぞ!」
圭二は手のひらにも言葉にも力を込めて、大雅を正面に見据えた。
「分かったから、痛えよ」
圭二はハッと我に返ったように、大雅の肩から手を離した。「ご、ごめんね、僕、ひとりで勝手に興奮して……」
慌てたように早口になる圭二は、いつもの彼の様子に戻っていた。
人の優しさを垣間見たとき、大雅にはどうもそれが相手の本音だとは思えなかった。その場しのぎの同情なんかいらねえ。そんなものを一方的に投げつけてくるくらいなら、いっそ放っておいてくれ。
圭二はまっすぐに、彼の本心をぶつけてきた。それが分かったから、いままでとは違って、言葉を素直に受け止めることができた。
「オレも、ずっと圭二に黙ってたことがあるんだ。聞いてくれるか?」
だからオレも、言うなら今しかないと思った。
「なんだい?」
「ガキの頃さ、オマエの筆箱とかよくなくなって困ってただろ。……あれ、やってたのオレなんだ。オマエがウジウジしてるのにムカついて、陰でこそこそ嫌がらせしてたんだ。親のこととか、いろいろあって、むしゃくしゃしてて……」
ごめんな……とこぼして、頭を下げた。大雅はその姿勢のまま、圭二がなにか言うまで彼の顔を見ることが出来なかった。
圭二は、不明瞭な呻き声を漏らした。驚いているのか、呆れているのか。大雅はそのあいだも、頭を下げたまま、ぎゅっと目を瞑っていた。
「大雅、顔を上げてくれよ」
目を開き、そっと頭を上げる。
「これでもう、お互いにわだかまりはなくなっただろ」
圭二は静かにそう言った。「過去のことなんか、いまどうこう言っても仕方ないじゃないか。だからそんなこと、もう気にしなくていいよ」
軽蔑したか? オレのことを。それを聞いたところで、圭二はきっと優しく笑って否定するだろう。だから大雅は言葉を呑み込んだ。
自分が両親から受けていた痛みがいまも消えていないのと同じように、圭二の中にも、あの頃大雅が彼に与えた痛みが残っているはずだ。なかったことには出来ない。いくら圭二が許してくれたとしても、大雅が彼をいじめていたのだという事実は、ずっと自分の中で向き合っていかないといけない過去なのだ。誰かに痛みを与える行為は、時として「ごめんな」のたった四文字で済まされるものではない。
しばらくのあいだ、二人は向き合ったまま沈黙していた。やがて圭二が靴底を鳴らし、「道場に入ろうよ」と促してきた。大雅は無言のまま頷いて、圭二の背中を追った。
「こんにちは!」
圭二の明朗な挨拶が室内に響く。相馬が「こんにちは」と返してくる。それはなんの変哲もない、いつも通りの光景だった。
「よう圭二、燃費がわるいヤツは、水代がかかって大変そうだな」
「一日二リットルは飲まなくちゃいけないからね。大雅もちゃんと水分摂ってるかい?」
大雅の軽口には反応せず、圭二はぱちくりと瞬きをしてみせた。お気に入りだというスポーツタイプのクロスバイクを駐輪スペースの端のほうに置いて、大雅のほうに近づいてきた。
「大雅、ちょっといいかい」
「な、なんだよ改まって」
はんぺんの相手をするためにしゃがみこんでいた大雅だったが、元々上背のある圭二が横に立つと、彼が醸し出している迫力以上の威圧を感じた。咄嗟に立ち上がって向き合う。
「中に入るか」
「いや、ここでいいよ。師匠には聞かれたくない。僕たちだけのことだから」
圭二の表情がいつもより険しい。大雅はごくりと唾を飲み込んだ。
「ちょっと前から思ってたことがあるんだ。……単刀直入に言うけど、僕たち小学生のときに同じクラスだったよね」
「あ……」
言葉に詰まった。心臓にとてつもない衝撃がはしった気がして、思わず胸を抑えてしまった。喋ることも、考えることも忘れてしまったかのように、脳と体が硬直している。
「大雅のことを大雅として認識して関わり合ったのはこの道場でだけど、なんかどこかで見たことある子だなとはずっと思ってたんだ。僕は学年の途中で転校したから、大雅は覚えていないかもしれないけど……」
「圭二……」
いつかはばれると思っていた。そして、ばれるなら、あらかじめこちらから話しておくべきか迷っていた。自分の悪行が晒されることに対する恐怖よりも、これから圭二と一緒に切磋琢磨していく仲なのなら、なにもかも包み隠さず有耶無耶にしてはいけないことだとも思っていた。
「ほら、前に話しただろ。僕が格闘技をはじめたきっかけになった男の子のこと。ずっと名前を忘れてたけど、思い出すきっかけがあってね。実はこのあいだ、当時の写真が家から出てきたんだ」
圭二はそう言って、背負っていたリュックを下ろし、チャックを開けた。中をごそごそやって、一枚の封筒を取り出す。圭二がその中から取り出したのは、一枚の集合写真だった。
「僕が転校するからって、クラスのみんなで撮った写真。ほら、ここでめちゃくちゃ笑ってピースしてるの、大雅だよね」
圭二が指差したそこに、たしかに小学生のときの自分がいた。背中に吹きつける風がやけに冷たい。冷や汗がだらだらと流れているのだ。
「あ……そうみたい……だな……」
言葉を絞り出すのに必死だった。襟元が伸びきって、薄汚れたシャツに身を包み、それでも必死で満面の笑顔を作っているその男の子が、まるで自分自身ではないように見えた。写真に写るその笑顔が作り物であると瞬時に分かるのは、その男の子が必死に隠そうとしている事情を大雅が知っているからなのか。みすぼらしい服装と相まって、そこには悲壮感すら漂っているようにみえた。
「オ、オレ、周りからみたらこんなヤツだったんだな……。なんか、馬鹿みたいなヤツだな、コイツ……」
苦笑する。呆れたふうを装って、軽口を叩くほかにリアクションが思いつかなかった。
「……ごめん!」
途端に圭二が大きな声を出したので、大雅はびくりと肩をふるわせた。
「僕、いままでなにも気付いてやれなかった。大雅が児童養護施設で暮らしているのは知ってたし、だから家庭に複雑な事情があるんだろうなって、なんとなく思ってたけど、僕は……僕はいますぐにでも大雅の親をぶん殴ってやりたい!」
「おいおい、いきなりそんな物騒なこと言うなよ……」
「物騒なもんか! だって当たり前だろ。自分の子供に、その、手を上げる親なんか、生きている資格なんてないよ!」
圭二が持っている写真の端がくしゃりと歪んだ。大雅は顔を上げて、圭二の顔を見る。くりくりとした目が潤んで赤くなっている。
「あまり興奮するなよ……圭二。オマエには関係」
「関係大有りだ!」
圭二は震える声で、大雅の言葉を遮った。くうんとはんぺんが鳴いた。カチャカチャとコンクリートを爪で叩き、そしてボウルの水を飲みにいく。この時間は道場の前を通る通行人は少ないが、それでも圭二が大きな声を出せば目立つだろう。コンビニの駐車場にいる人がちらりとこちらを向いたのが横目に映った。
「僕は……君がどう思っているかは分からないけど、大雅のことを友達だと思ってるよ。だから……だからこそ、関係ないなんて言わないでよ。……うっせえよって言われても、今日は引かないからな!」
「……なんでオレが怒られなきゃならねえんだよ」
圭二は普段温厚だから、いざ怒りの感情を抱いたとき、それを表現するのが下手なのだろう。
「大雅がこれまで、どんな目に遭ってきたのかを想像してみたら、君がずっと苦しんでたんだって分かっちゃって。きっと大雅は僕なんかに同情されるのは嫌だろうけど、それでも僕は君を放っておけないよ!」
圭二はそう言って、手に掲げた写真を見た。写真の真ん中にいる、笑顔の大雅を見て、彼はなにを思っているのだろう。クラスの中心人物らしからぬ服装。やんちゃで、取っ組み合いの喧嘩なんかも日常茶飯事で、この日も誰かと喧嘩をしたから、襟首が伸びているんです……と、当時の大雅の境遇を知らぬ人に説明すれば、そうなのかと思うだろうが、当時は既にクラスメイト達のあいだで、大雅の家が普通じゃないとまことしやかに囁かれていた。つまりほんとうの大雅の姿に気付いている者もいただろう。当の本人はうまく誤魔化していたつもりでも、端からみれば大雅の家庭の異常さは、こんなにも分かりやすく写真におさめられていたのだ。
「この頃の僕が大雅に憧れていたっていう話はしたよね。あれは嘘なんかじゃないよ。たしかに当時はいろんな噂が立ってたけど、そんなもの気にせず、みんなを引っ張っていた君のことが、本当にすごいと思っていたんだ」
もっと早く気付いていれば……と、圭二は悔しそうに続けた。コンビニのルート配送のトラックが、ウインカーのアナウンスを流しながら駐車場に入っていく。ブレーキ音が大きく鳴った。
「オマエがそう言ってくれるだけで充分だよ」
友達思いの圭二は、大雅が両親から受けていたことの全貌を知れば、もっと気に病むだろう。それこそ激昂して、本当に藤堂家に乗り込んでいくかもしれない。だから大雅は、みなまで言わないことにした。言う必要もないと思った。
人に同情されて憐れまれるのは癪にさわるはずなのに、圭二が自分のことで憤懣を抱いてくれるのは、申し訳なくもあり、少し嬉しくもあった。
「大雅!」
圭二の両腕がすっと伸びてきて、両肩を掴まれた。彼の頬は紅潮していて、真剣な眼差しで見つめられる。
「大雅はこれから、いままでの分も全部、幸せにならなくちゃいけない。うん、なれるよ。僕も一緒に手伝う。だから絶対に、諦めるんじゃないぞ!」
圭二は手のひらにも言葉にも力を込めて、大雅を正面に見据えた。
「分かったから、痛えよ」
圭二はハッと我に返ったように、大雅の肩から手を離した。「ご、ごめんね、僕、ひとりで勝手に興奮して……」
慌てたように早口になる圭二は、いつもの彼の様子に戻っていた。
人の優しさを垣間見たとき、大雅にはどうもそれが相手の本音だとは思えなかった。その場しのぎの同情なんかいらねえ。そんなものを一方的に投げつけてくるくらいなら、いっそ放っておいてくれ。
圭二はまっすぐに、彼の本心をぶつけてきた。それが分かったから、いままでとは違って、言葉を素直に受け止めることができた。
「オレも、ずっと圭二に黙ってたことがあるんだ。聞いてくれるか?」
だからオレも、言うなら今しかないと思った。
「なんだい?」
「ガキの頃さ、オマエの筆箱とかよくなくなって困ってただろ。……あれ、やってたのオレなんだ。オマエがウジウジしてるのにムカついて、陰でこそこそ嫌がらせしてたんだ。親のこととか、いろいろあって、むしゃくしゃしてて……」
ごめんな……とこぼして、頭を下げた。大雅はその姿勢のまま、圭二がなにか言うまで彼の顔を見ることが出来なかった。
圭二は、不明瞭な呻き声を漏らした。驚いているのか、呆れているのか。大雅はそのあいだも、頭を下げたまま、ぎゅっと目を瞑っていた。
「大雅、顔を上げてくれよ」
目を開き、そっと頭を上げる。
「これでもう、お互いにわだかまりはなくなっただろ」
圭二は静かにそう言った。「過去のことなんか、いまどうこう言っても仕方ないじゃないか。だからそんなこと、もう気にしなくていいよ」
軽蔑したか? オレのことを。それを聞いたところで、圭二はきっと優しく笑って否定するだろう。だから大雅は言葉を呑み込んだ。
自分が両親から受けていた痛みがいまも消えていないのと同じように、圭二の中にも、あの頃大雅が彼に与えた痛みが残っているはずだ。なかったことには出来ない。いくら圭二が許してくれたとしても、大雅が彼をいじめていたのだという事実は、ずっと自分の中で向き合っていかないといけない過去なのだ。誰かに痛みを与える行為は、時として「ごめんな」のたった四文字で済まされるものではない。
しばらくのあいだ、二人は向き合ったまま沈黙していた。やがて圭二が靴底を鳴らし、「道場に入ろうよ」と促してきた。大雅は無言のまま頷いて、圭二の背中を追った。
「こんにちは!」
圭二の明朗な挨拶が室内に響く。相馬が「こんにちは」と返してくる。それはなんの変哲もない、いつも通りの光景だった。



