日中、学園の正面玄関の掃除をしていると、様々な人の出入りがあることが分かる。郵便配達員、宅配便の配達員、営業職のようなスーツを着た青年、誰かの親らしき二人組の男女——いずれも大雅の見知った顔ではなかったが、挨拶をされるたびに、頭を下げてもごもごと「こんにちは」と返した。
 これだけ人の出入りがあるのだということは、自分がまだ学生の身分であった頃は気付かなかった。日中、門扉は開かれている。それは暗に、誰でも敷地内に立ち入ることが出来るのだと示しているようでもあった。
 流石に不審者が侵入してきたらそれを排除するくらいのマニュアルくらいはあるだろうが、大雅の目には、あまりにも無防備に映った。
 半年前の試合会場で、自分の親の姿を確認してから、アイツらが学園にやって来たり、街中で突如出くわして、不意に対面するようなことが起こったりしたら……という不安が心の中をぐるぐると回るようになった。
 オレはもう大丈夫だ。成長して体も鍛えたし、もうあの頃のやられっぱなしだった無様な自分じゃない。
 不安を無理矢理打ち消すように、自分に言い聞かせるが、両親の姿をみただけで過呼吸を起こした事実があるから、説得力の欠片もなかった。
 オレはこれから大人になっても、ガキの頃のトラウマにずっと悩み続けないといけないのだろうか。記憶に刻み込まれた痛みやつらさを、忘れられるときはこないのだろうか。
 いくら安全な場所で身を守られていたとしても、すでに受けた痛みを癒やすことには繋がらない。大雅自身が、折り合いをつけて、植え付けられたトラウマと向き合うほかないのだ。それは健全に育てられた子供と比べて、大きなハンディキャップを与えられたようなものだった。

「大雅、ちょっとおつかいに行ってきてくれないか?」
 正面玄関から、平山が顔を覗かせて呼びかけてきた。十八歳間近の男をつかまえて、「おつかい」というのも如何なものかと思ったが、大雅は「分かった」と言って平山のもとへと駆け寄った。
「晩めしの付け合わせの材料が足りなくてな。買ってきてほしいんだ」
 平山が二つに折りたたんだメモ用紙と、金の入ったナイロンのサコッシュを渡してきた。「行くときに学園のチャリを使っていいからな」
「気をつけてな!」
 平山に見送られながら、大雅は自転車にまたがって学園を出発した。
 学園の外に出れば、仮に突然親が目の前に現れたとしても、自分でなんとかしなければならない。学園から最寄りのスーパーまでは自転車で十分くらい。よもやそんな短い距離で、自分の身が脅威にさらされるとは思わないが、不測の事態とは、自分が予想もしていなかったタイミングで起こるものなのだ。

 メモに書かれていた食材を買いそろえ、大雅は急いで学園に戻った。そもそも自分と親は、いまは生活圏が違うのだから、いろいろと考えすぎだと自分に言い聞かせる。それにこれまでは一度も親と接触したことなんてなかったじゃないか。なにをびびってんだよ、オレは。
 平山に食材を渡し、おつりをお駄賃としてもらったあと、部屋に戻る。今日は平日で、男子棟の皆は学校に行っているため、大雅以外の中高生の児童は誰もいなかった。
 陽太が集めている野球のコミックを、本棚から引っ張り出して手に取る。なにかしていないと、余計なことばかりを考えてしまって、余計に落ち込んでしまいそうだった。
 こんなときに限って、目が冴えてしまう。つぐみ道場に行きたかったが、今日は道場内のメンテナンスだとかで休みだといわれていた。相馬のところで住むようになれば、そのメンテナンスとやらも手伝うことになるのだろうかと思うと、なんだか奇妙な感覚になった。

 夕方ちかくになって、夕食の準備を手伝うために厨房に降りた。今日は厨房の職員が休みとのことで、氏原と平山が調理の業務を担っていた。だから平山は大雅にお遣いを頼んだらしい。
「おお、大雅。もはや俺たちより厨房の仕事には詳しくなったみたいだから、今日は色々と教えてくれよ」
 平山の割烹着姿は似合わない。そんなことをいうと、ややこしくなりそうだから、大雅は黙って手を洗った。
 夕食は主菜が麻婆豆腐、副菜が青梗菜と油揚げの炒め物と、かぼちゃの煮物だった。買い物に行ったとき、豆腐を何丁も買うようにメモに書かれていたということは、豆腐を丸々買うのを忘れていたのだろう。
「オレが麻婆豆腐を作るよ」
 児童たちに人気のメニューは、ひと月に一回は献立に登場する。織田や多枝に教わりながら、麻婆豆腐は何度か作ったことがあった。
「マサノリ先生から聞いたぞ、大雅。なんだかすごい決断をしたそうじゃないか」
 てのひらにのせた豆腐をさいの目に切っているとき、ふいに平山に言われた。藤本と話した内容は、おそらく職員間で共有されたのだろう。青梗菜を洗って、まな板の上にのせている氏原も、二人の会話に聞き耳を立てているようにみえた。
「うん……。でも、ちゃんとうまくやれるかなって、あとになって考え込んじゃって。衣食住はあんまり心配してねえけど、それ以外のことで、さ」
 大雅の言葉には含みがあった。切った豆腐をボウルに流し入れ、また次のパックを開ける。大雅は普段から多くを語らない傾向にあるが、自分がなにかを言うことで、周りにどんな影響を与えてしまうかを考えてしまうようになった。周りの誰も信用しようとせず、差し伸べてくれようとした手を振りはらってきたようなやつが、突然誰かに縋るような真似をするのは、なんだか違うような気がしたのだ。
「俺は大雅なら大丈夫だと思うぞ。これまでもいろんな事を乗り越えてきたんだ。お前は、きっと自分が思っているよりも強いから。それは、俺たちが保証する」
 どこかで聞きかじったような何番煎じかもわからないありふれた声かけだったが、不思議と反発はわかなかった。
「相馬さんに言われたんだ。不安なら、学園を退所する前に、何度かうちに泊まりにきなさいと。そういうのって、オレでも出来るのかな」
「マサノリ先生の許可があれば出来ると思うぞ。俺が聞いておいてやろうか」
 豆腐を切り終わったら次は挽肉だ。麻婆豆腐の味付けは市販のルウで行うが、それだけでは肉が足りない。食べ盛りの児童達が満足するように、しょうりつ学園では追加の挽肉を大量に入れるのが恒例だった。
「やった! 助かる」
 相馬の家に泊まれるなら、一日でも早く行ってみたかった。一度だけ相馬の家で一夜を過ごした日のことは、雄也さんの作ってくれた飯は旨かったなとか、早朝に一緒に稽古をした師匠はカッコよかったなとか、思わず頬が緩んでしまうような思い出として、心の中に残っている。これまではどちらかというと辛い記憶のほうが多かったけれど、この先に待っている未来で出会う出来事は、そんな幸せな思い出ばかりになるようなものであってほしい。
 大雅が明日の飯を心配することなく、それ以上の幸せを求めるのは、人として当たり前に与えられた権利であるというのに、なにもかもが特別なもののように思えて仕方がなかった。