しょうりつ学園では、五月になると、園庭に鯉のぼりが飾られる。雨の日以外は毎日、ポールにセットして空に解き放つその作業を、今年は大雅が担うこととなった。青色の子供の鯉ですら、大雅の身長より長いその鯉のぼりは、学園の近所の家庭より寄贈されたものらしい。
「大雅、弁当サンキュー! 朝練行ってくるわ」
ポールのロープを手繰り寄せて、鯉たちを上空にあげている途中、すでにユニフォーム姿の陽太が自転車に乗って学園を出発していった。花が散って、すっかり葉桜となった樹木の下に、踏みにじられて土と同化しつつある花弁の断片が散らばっている。落ち葉といい、桜の花といい、こういう地面に落ちた植物の命の果ては、結局どうなって消えていくのだろうと、大雅はふと思った。
藤本と話をしたとき、ついかっこつけてあんなことを言ってしまったが、大雅は自分の発言に後悔していた。
十八歳になるまでに二ヶ月を切った。その日に学園を出ていかなければならなくなったとしても、今のままではなんの心の準備も出来ていないからだ。
夜に色々と考えすぎても無駄だとは分かっているのに、眠れなくなるほどに悩んでしまう。ベッドの上の段で寝息をたてている陽太を起こさないように一夜を過ごすのが、このところは億劫になっていた。
陽太はなにも気付いていないのか、それとも大雅から話を持ちかけるのを待っているのか、あるいは気を遣って話題に触れないようにしているのか、あの日以降も陽太の態度は変わらない。
——きっとアイツは、甲子園のことで頭がいっぱいに違いない。
まもなく始まる全国高校野球選手権大会は、陽太にとって高校最後の夏となる。キャプテンとしてチームを率いて予選に挑むのだから、プレッシャーも熱意も、人並み以上の凄まじいものとなっているだろう。邪魔をしてはいけない。いまは野球に集中させてやるべきだ。
相馬から、二戦目の試合に出てみないかと持ちかけられたのは、そんな矢先だった。
「藤堂先輩、デビュー戦で俺に勝ったんですから、きっと二回戦も勝てますよ!」と、自虐めいた発言をしながら大雅の背中を後押ししたのは、鷹斗だった。彼は無事につぐみ道場への鞍替えを果たし、学校帰りや土日などにちょくちょく顔を出していた。普段は物静かだが、大雅に懐いているのか、顔を合わせると目を輝かせてこちらに寄ってくる。
練習の合間には道場の隅に置いてある椅子に座って、分厚い文庫本を読んでいる。
「鷹斗は毎日ずいぶん長いあいだ道場にいるけど、家に帰らなくていいのか?」
大雅は、自分も人のことなんて言えないくせに気になって尋ねた。
「家にいると、なんだか気を遣ってしまって。前のジムにいたときは、練習が終わったらさっさとジムを出て、図書館とか公園とかで時間を潰していましたけど、ここは居心地がいいので、甘えてしまっています」
里親の家がいくら安全な場所であるからといって、そこで安心して過ごせるかはまた別の話だ。たしかにいま、鷹斗が両親だと呼んでいる人たちはほんとうの親ではない。必要以上に周りに気を遣ってしまう癖のある鷹斗だから、それが窮屈に感じてしまうのだろう。
「あっ、でももし邪魔だったら言ってください!」
「道場が開いているあいだは、ここにいてもいいからな」
カウンターにいた相馬が口を挟んできた。
「ありがとうございますっ!」
鷹斗は勢いよく立ち上がって相馬に向かって深々と頭を下げる。目上の者を敬う所作は素晴らしいが、大袈裟すぎないだろうかと大雅は思った。
鷹斗に薦められても、大雅は相馬の提案に対して、すぐに首を縦には振れなかった。
「あの……オレ、もう少し考えてもいいですか」
「試合のことか?」
「はい……実はオレ……」
大雅はそう言って、相馬に打ち明けた。十八歳の誕生日が来たら、学園を出なければいけなくなるかもしれないこと。藤本に大丈夫だといって、自分がそのきっかけを作ってしまったが、心がまだ固まっていないこと。そればかりを考えてしまって、日常生活がままならなくなっていること。
扉の向こうではミットやサンドバッグを打つ音が聞こえるなか、大雅は相馬と二人きりで向かい合っていた。
「お前が学校を退学になっても、見放さずに学園で生活させてくれたんだから、本当の気持ちを言えば考慮してくれるんじゃないか」
「……分からないんです」
相馬から目を逸らした。心が揺らいでいると、態度にも表れてしまう。相馬は怪訝そうに眉を動かした。
「マサノリ先生に話したオレの気持ちも嘘じゃないから、はやく学園を出たいという気持ちもあるし、それが不安だって思うのもまた事実だから、どうしたらいいか分からなくって……」
「なにも今日明日出ていけと言われているわけじゃないんだ。自分がどうすれば最善の道を辿れるのか、早々に結論を出さずにゆっくり考えなさい。いいか、大雅。こればかりはいくら私や他の者たちがお前に助言をしたとしても最終的に決めるのは、大雅自身だからな」
「……はい」
「藤本さんが了承してくださったら……にはなるが、何日か私の家に泊まるというのはどうだ? 不安になったら学園に帰ってもいいし、私と雄也は、べつに何日泊まってくれても大歓迎だ。いずれは一緒に暮らすことになるのだからな」
「で、でも……」
「大雅。自分を卑下して相手の顔色を伺うような発言は禁止だ。お前は普段から自己肯定感を低く捉えるきらいがある。それではきっと、心が疲弊してしまうだろう。お前はいま『オレなんかが』と言おうとしただろう?」
大雅は、図星だったので、思わず顔を伏せてしまった。
「自分を下げる発言は、たとえそれが本心でなくともお前の心を蝕んでいって、本来あるはずの大雅の魅力まで隠してしまう。分かりやすくいえば、たとえば試合に挑むとき、『オレなんかが勝てるのだろうか』と思うより『オレは絶対に勝つ。オレは誰よりも強い』と思うほうが、心も体も軽くなって、実力以上の力が出せることもある。きっと大雅は、過去にあまり褒められた経験がないのだろう。だから、自分の良いところを見つけづらくなっている。だが安心しなさい。お前には数え切れないほどの魅力があって、それはお前によくしてくれる皆も知っていることだ。分からなければ、私が逐一教えてやろうか」
「手放しで褒められるのは……恥ずかしいです」
顔を赤くしてそう言った大雅に、相馬はフッと微笑んだ。
「過去にはいろいろあったが、私は大雅と出会えて嬉しいよ」
大雅の顔がさらに赤くなった。もじもじと肩を震わせて、なにも言えなくなった。
練習が終わって学園に帰る途中も、学園に帰ってからも、大雅は相馬の提案についてずっと考えていた。
部活が終わって帰ってきた陽太とちょうどおなじタイミングで夕食を摂ることになった。
「大雅、おまえ大丈夫か? ぼーっとしてるぞ」
食堂はいま、二人きりだ。他の児童たちは夕食を終えて、それぞれの自由時間を過ごしている。陽太は茶碗山盛りに盛った白飯をかきこみながら、怪訝そうな顔で大雅を見つめた。「またなんか悩んでんのか?」
「あ……いや……」
「おれには隠しごとはナシだぞ」
陽太に言葉尻で詰め寄られて、大雅はごくりと唾を飲み込んだ。手に持っていた汁椀を置いて、一呼吸おいたあと、口を開く。
「いずれは言わねえととは思ってたんだけど。オレ、もしかしたら夏にここ、出ていくかもしれねえ」
「うえっ!? そうなのか?」
陽太にとっては予想外の内容だったらしい。目を見張って、聞き返してきた。
「ああ。たぶん、マサノリとかは来年の三月までならいてもいいって思ってるだろうけど、こないだマサノリと今後について話をしたときに、オレは十八歳になってすぐに出ていってもいいって言っちまったんだ」
「言わされたんじゃなくってか?」
陽太は、大雅と藤本のあいだに、まだわだかまりが残っていると思っているようだ。
「オレが言った。だってさ、よく考えたら、オレはほんとは就職して、すぐにでも出ていかなくちゃならねえ存在だろ。そんなやつがいつまでもここに居座って、施設の定員を圧迫しているわけにもいかねえじゃん。高校にいく学力のないやつは、中卒で就職して、もう社会に出ているのに、オレばかりぬくぬくと守ってもらうわけにはいかねえだろ」
「大雅が決めたんならおれはなにも言う権利はないけどさ、でも、そんなこと言って大丈夫なのか?」
心配そうに眉をひそめて尋ねてくる陽太に向かって、大雅は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「正直、なんであんなこと言っちまったんだろうってちょっと後悔してる。心の準備が出来てねえのに、かっこつけちまったみたいだ。でも、いまオレが抱えてる不安は、来年の三月になって、強制的にここを出されても、まだ残っているとも思う。だったら、夏までに気持ちを固めて、オレも、マサノリたちも、それから世話になる師匠も、納得出来る答えを出そうと考えてるんだ」
「なんかおまえ、急に成長したよな」
ふいに、陽太が遠い目をして言った。「退学になったのは痛い目にあったと思うけどさ、それでなんつうか、心に火がついたんじゃねえか?」
「……そうかな」
「ああ。おれなんてさ、野球ばっかで、高校出たらどうせどっかに就職することになるだろうし、なんも考えてねえよ」
「いまは甲子園に行くことが最優先だろ」
「行けるかどうかわかんねえけどな」
「キャプテンが弱気になってんじゃねえよ。」
おどけて言ったつもりだったが、陽太は大雅の言葉を、大雅が予想していたよりも重く受け止めたようだった。
「そう……だよな。分かってる。分かってんだ、それくらい」
間を取り繕うようにそう言った陽太に、大雅は先ほど相馬から聞いたことをそっくりそのまま言ってやった。
「だからさ、勝てるって思わねえと。気持ちに負けたら、オマエ絶対後悔するからな!」
「ヘヘッ、大雅にそんな説教される日がくるなんてなあ」
すっかり食べ終わった食器を重ねながら、陽太は苦笑した。
「説教ってなんだよ。オレはオマエのことを思って……」
陽太は立ち上がると、まるで兄が弟にそうするかのような手つきで、大雅の頭をぽんぽんと叩いた。そのまま厨房の中に入って、食べた分の食器を洗う。頬が綻んでいた。——よかったな、大雅。おまえにも信じられるものが出来たんだな。何年も一緒に暮らしてきたおなじ部屋の同級生として、おれは正直、おまえが心配で仕方なかったけど、おれを気にかけてくれるようになったってことは、誰かのことを思いやれる余裕ができたってことだよな。それってたぶん、おまえも誰かに大切に思われてるって証拠だぞ。
食器を洗う手をとめて、陽太は顔を上げた。大雅は食堂のテーブルで黙々と夕食を食べている。巣立ちの季節をいつにするかは、大雅自身が決めることだ。思っていたより少し早く別れのときが訪れたとしても、陽太にはそれを止める権利はない。
でも、なんだか寂しいなあ……。
おれが心の中に抱いた感情はきっとこの先、誰にも言えないまま風化していくんだろうなと思いながら、陽太は食器についた泡を水で流していった。
「大雅、弁当サンキュー! 朝練行ってくるわ」
ポールのロープを手繰り寄せて、鯉たちを上空にあげている途中、すでにユニフォーム姿の陽太が自転車に乗って学園を出発していった。花が散って、すっかり葉桜となった樹木の下に、踏みにじられて土と同化しつつある花弁の断片が散らばっている。落ち葉といい、桜の花といい、こういう地面に落ちた植物の命の果ては、結局どうなって消えていくのだろうと、大雅はふと思った。
藤本と話をしたとき、ついかっこつけてあんなことを言ってしまったが、大雅は自分の発言に後悔していた。
十八歳になるまでに二ヶ月を切った。その日に学園を出ていかなければならなくなったとしても、今のままではなんの心の準備も出来ていないからだ。
夜に色々と考えすぎても無駄だとは分かっているのに、眠れなくなるほどに悩んでしまう。ベッドの上の段で寝息をたてている陽太を起こさないように一夜を過ごすのが、このところは億劫になっていた。
陽太はなにも気付いていないのか、それとも大雅から話を持ちかけるのを待っているのか、あるいは気を遣って話題に触れないようにしているのか、あの日以降も陽太の態度は変わらない。
——きっとアイツは、甲子園のことで頭がいっぱいに違いない。
まもなく始まる全国高校野球選手権大会は、陽太にとって高校最後の夏となる。キャプテンとしてチームを率いて予選に挑むのだから、プレッシャーも熱意も、人並み以上の凄まじいものとなっているだろう。邪魔をしてはいけない。いまは野球に集中させてやるべきだ。
相馬から、二戦目の試合に出てみないかと持ちかけられたのは、そんな矢先だった。
「藤堂先輩、デビュー戦で俺に勝ったんですから、きっと二回戦も勝てますよ!」と、自虐めいた発言をしながら大雅の背中を後押ししたのは、鷹斗だった。彼は無事につぐみ道場への鞍替えを果たし、学校帰りや土日などにちょくちょく顔を出していた。普段は物静かだが、大雅に懐いているのか、顔を合わせると目を輝かせてこちらに寄ってくる。
練習の合間には道場の隅に置いてある椅子に座って、分厚い文庫本を読んでいる。
「鷹斗は毎日ずいぶん長いあいだ道場にいるけど、家に帰らなくていいのか?」
大雅は、自分も人のことなんて言えないくせに気になって尋ねた。
「家にいると、なんだか気を遣ってしまって。前のジムにいたときは、練習が終わったらさっさとジムを出て、図書館とか公園とかで時間を潰していましたけど、ここは居心地がいいので、甘えてしまっています」
里親の家がいくら安全な場所であるからといって、そこで安心して過ごせるかはまた別の話だ。たしかにいま、鷹斗が両親だと呼んでいる人たちはほんとうの親ではない。必要以上に周りに気を遣ってしまう癖のある鷹斗だから、それが窮屈に感じてしまうのだろう。
「あっ、でももし邪魔だったら言ってください!」
「道場が開いているあいだは、ここにいてもいいからな」
カウンターにいた相馬が口を挟んできた。
「ありがとうございますっ!」
鷹斗は勢いよく立ち上がって相馬に向かって深々と頭を下げる。目上の者を敬う所作は素晴らしいが、大袈裟すぎないだろうかと大雅は思った。
鷹斗に薦められても、大雅は相馬の提案に対して、すぐに首を縦には振れなかった。
「あの……オレ、もう少し考えてもいいですか」
「試合のことか?」
「はい……実はオレ……」
大雅はそう言って、相馬に打ち明けた。十八歳の誕生日が来たら、学園を出なければいけなくなるかもしれないこと。藤本に大丈夫だといって、自分がそのきっかけを作ってしまったが、心がまだ固まっていないこと。そればかりを考えてしまって、日常生活がままならなくなっていること。
扉の向こうではミットやサンドバッグを打つ音が聞こえるなか、大雅は相馬と二人きりで向かい合っていた。
「お前が学校を退学になっても、見放さずに学園で生活させてくれたんだから、本当の気持ちを言えば考慮してくれるんじゃないか」
「……分からないんです」
相馬から目を逸らした。心が揺らいでいると、態度にも表れてしまう。相馬は怪訝そうに眉を動かした。
「マサノリ先生に話したオレの気持ちも嘘じゃないから、はやく学園を出たいという気持ちもあるし、それが不安だって思うのもまた事実だから、どうしたらいいか分からなくって……」
「なにも今日明日出ていけと言われているわけじゃないんだ。自分がどうすれば最善の道を辿れるのか、早々に結論を出さずにゆっくり考えなさい。いいか、大雅。こればかりはいくら私や他の者たちがお前に助言をしたとしても最終的に決めるのは、大雅自身だからな」
「……はい」
「藤本さんが了承してくださったら……にはなるが、何日か私の家に泊まるというのはどうだ? 不安になったら学園に帰ってもいいし、私と雄也は、べつに何日泊まってくれても大歓迎だ。いずれは一緒に暮らすことになるのだからな」
「で、でも……」
「大雅。自分を卑下して相手の顔色を伺うような発言は禁止だ。お前は普段から自己肯定感を低く捉えるきらいがある。それではきっと、心が疲弊してしまうだろう。お前はいま『オレなんかが』と言おうとしただろう?」
大雅は、図星だったので、思わず顔を伏せてしまった。
「自分を下げる発言は、たとえそれが本心でなくともお前の心を蝕んでいって、本来あるはずの大雅の魅力まで隠してしまう。分かりやすくいえば、たとえば試合に挑むとき、『オレなんかが勝てるのだろうか』と思うより『オレは絶対に勝つ。オレは誰よりも強い』と思うほうが、心も体も軽くなって、実力以上の力が出せることもある。きっと大雅は、過去にあまり褒められた経験がないのだろう。だから、自分の良いところを見つけづらくなっている。だが安心しなさい。お前には数え切れないほどの魅力があって、それはお前によくしてくれる皆も知っていることだ。分からなければ、私が逐一教えてやろうか」
「手放しで褒められるのは……恥ずかしいです」
顔を赤くしてそう言った大雅に、相馬はフッと微笑んだ。
「過去にはいろいろあったが、私は大雅と出会えて嬉しいよ」
大雅の顔がさらに赤くなった。もじもじと肩を震わせて、なにも言えなくなった。
練習が終わって学園に帰る途中も、学園に帰ってからも、大雅は相馬の提案についてずっと考えていた。
部活が終わって帰ってきた陽太とちょうどおなじタイミングで夕食を摂ることになった。
「大雅、おまえ大丈夫か? ぼーっとしてるぞ」
食堂はいま、二人きりだ。他の児童たちは夕食を終えて、それぞれの自由時間を過ごしている。陽太は茶碗山盛りに盛った白飯をかきこみながら、怪訝そうな顔で大雅を見つめた。「またなんか悩んでんのか?」
「あ……いや……」
「おれには隠しごとはナシだぞ」
陽太に言葉尻で詰め寄られて、大雅はごくりと唾を飲み込んだ。手に持っていた汁椀を置いて、一呼吸おいたあと、口を開く。
「いずれは言わねえととは思ってたんだけど。オレ、もしかしたら夏にここ、出ていくかもしれねえ」
「うえっ!? そうなのか?」
陽太にとっては予想外の内容だったらしい。目を見張って、聞き返してきた。
「ああ。たぶん、マサノリとかは来年の三月までならいてもいいって思ってるだろうけど、こないだマサノリと今後について話をしたときに、オレは十八歳になってすぐに出ていってもいいって言っちまったんだ」
「言わされたんじゃなくってか?」
陽太は、大雅と藤本のあいだに、まだわだかまりが残っていると思っているようだ。
「オレが言った。だってさ、よく考えたら、オレはほんとは就職して、すぐにでも出ていかなくちゃならねえ存在だろ。そんなやつがいつまでもここに居座って、施設の定員を圧迫しているわけにもいかねえじゃん。高校にいく学力のないやつは、中卒で就職して、もう社会に出ているのに、オレばかりぬくぬくと守ってもらうわけにはいかねえだろ」
「大雅が決めたんならおれはなにも言う権利はないけどさ、でも、そんなこと言って大丈夫なのか?」
心配そうに眉をひそめて尋ねてくる陽太に向かって、大雅は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「正直、なんであんなこと言っちまったんだろうってちょっと後悔してる。心の準備が出来てねえのに、かっこつけちまったみたいだ。でも、いまオレが抱えてる不安は、来年の三月になって、強制的にここを出されても、まだ残っているとも思う。だったら、夏までに気持ちを固めて、オレも、マサノリたちも、それから世話になる師匠も、納得出来る答えを出そうと考えてるんだ」
「なんかおまえ、急に成長したよな」
ふいに、陽太が遠い目をして言った。「退学になったのは痛い目にあったと思うけどさ、それでなんつうか、心に火がついたんじゃねえか?」
「……そうかな」
「ああ。おれなんてさ、野球ばっかで、高校出たらどうせどっかに就職することになるだろうし、なんも考えてねえよ」
「いまは甲子園に行くことが最優先だろ」
「行けるかどうかわかんねえけどな」
「キャプテンが弱気になってんじゃねえよ。」
おどけて言ったつもりだったが、陽太は大雅の言葉を、大雅が予想していたよりも重く受け止めたようだった。
「そう……だよな。分かってる。分かってんだ、それくらい」
間を取り繕うようにそう言った陽太に、大雅は先ほど相馬から聞いたことをそっくりそのまま言ってやった。
「だからさ、勝てるって思わねえと。気持ちに負けたら、オマエ絶対後悔するからな!」
「ヘヘッ、大雅にそんな説教される日がくるなんてなあ」
すっかり食べ終わった食器を重ねながら、陽太は苦笑した。
「説教ってなんだよ。オレはオマエのことを思って……」
陽太は立ち上がると、まるで兄が弟にそうするかのような手つきで、大雅の頭をぽんぽんと叩いた。そのまま厨房の中に入って、食べた分の食器を洗う。頬が綻んでいた。——よかったな、大雅。おまえにも信じられるものが出来たんだな。何年も一緒に暮らしてきたおなじ部屋の同級生として、おれは正直、おまえが心配で仕方なかったけど、おれを気にかけてくれるようになったってことは、誰かのことを思いやれる余裕ができたってことだよな。それってたぶん、おまえも誰かに大切に思われてるって証拠だぞ。
食器を洗う手をとめて、陽太は顔を上げた。大雅は食堂のテーブルで黙々と夕食を食べている。巣立ちの季節をいつにするかは、大雅自身が決めることだ。思っていたより少し早く別れのときが訪れたとしても、陽太にはそれを止める権利はない。
でも、なんだか寂しいなあ……。
おれが心の中に抱いた感情はきっとこの先、誰にも言えないまま風化していくんだろうなと思いながら、陽太は食器についた泡を水で流していった。



