虐待をする親という人種は、往々にしてその行為を連鎖させる場合が多い。外国で出版された有名なノンフィクションでも、ひとりの少年が受けた虐待は、彼が救い出されてからはその弟に矛先が向かったと書かれているものがある。
 藤本がしょうりつ学園に受け入れた過去の実例においても、何件かの事例で同様のケースが存在した。いずれの場合でも、かつて藤本が大雅に言った通り、第三者の介入は、ことが起こってしまってからでないと難しいというのが現状だ。
 あのイベントの試合の日、大雅は自分の両親を会場で発見し、さらには自分の弟がいるという現実を突きつけられて、過呼吸に陥った。大雅が我を忘れて取り乱したのはあのときだけだったが、口に出さないまでもおそらく、彼の中での親や弟への感情はざわつきを抑えられていないだろう。
 藤本は業務の一環で児童相談所に赴く機会があるが、藤堂家の件は情報共有をしておく必要があると考えたため、早急に報告を行った。
「しかし、御両親はその児童に手をあげているとは断定できないでしょう」
 そう言ったのは、藤本の対応にあたったケースワーカーの男だった。顔を合わせたときに国中と名乗っていたその男は、随分と淡々とした対応をする職員だという印象を、藤本に抱かせた。
「藤本さん、貴方も長年施設の運営を担い、我々とも連携をとっていますから、充分に存じ上げているかと思いますが、我々は推測だけでは動けないんですよ。うちの職員が状況を調査しに向かうことは出来ますが、御両親を刺激してしまうことにもなりかねませんよ」
 話にならないと、藤本は心の中でため息をついた。児童相談所の言い分は、立場上仕方のないことだと割り切るしかないのだが、それでは救える命も救えないではないか。
 自分が藤堂家に押し入って、大雅の弟を保護するというシナリオも頭の中で描いてみたが、そんなことを実際にしたところで、手が後ろに回るのは藤本自身だ。そもそも児童相談所の言う通り、虐待など起きていないかもしれないのだ。悲劇は起こらないに越したことはない。疑わしきは罰せずという言葉もある。大雅に言われたからといって、なにも起こっていないひとつの家庭に首を突っ込むのも、不適切なような気がした。

 年度末は、児童養護施設では一年の中で最も児童の退所が多くなる時期だ。学校の卒業を機に施設を退所する者が多いなかで、大雅が新年度いっぱいはまだ学園に住まわせるという措置が続いていた。
 支援員の中でも、大雅の処遇については幾度となく話し合いがもたれてきたが、それでもこのまま彼の籍を学園に置いておくことに懸念を持つ職員は絶えない。
「仕方ないでしょ。園長先生がそう決めたんだから。でもわたしは、どっちかというと正憲先生のやり方に賛成かな」
 職員から不安の声が上がるたびにそう言って説得するのは森本だったが、藤本にとっても彼女の存在は有り難かった。
「大雅が希望すれば、十八になってすぐに学園を退所するってのも出来ますよね」
「なに? 平山くんは大雅くんを追い出したいわけ?」
「いや、そうじゃないっすけど。あいつ、このところ毎日のように道場に通ってるじゃないですか。そっちで引き取ってくれるって話もあるんでしょ。だったら、僕たちがいつまでもここに縛っておくより、そっちにいったほうがあいつも幸せになれるんじゃないかなと思っただけですよ」
 なにもすべての児童が年度末に退所するわけではない。理由によっては、年度途中の退所も有り得る。藤本は他の児童たちと時期を合わせて、来年三月の退所を見込んでいたが、大雅が望むのならば、彼が十八歳の誕生日を迎える今年の七月にも、相馬のもとへ送り出せるのだ。
 一度でも例外的な実例を作ってしまったら、「あの子のときはこうしたのだから、この子もそうするべきだ」という意見がおこる。大雅の件は藤本が許可した特例で、今後、大雅のような児童が現れたとしても、同様の対応をするのか否かは分からない。
 大雅以外の子供たちは、おおむね大雅が学園で生活を続けることに関してはなにも疑問に思っていないが、彼らが大人になって知識が増えたとき、「あいつは特別扱いを受けていた」と思い込まれる可能性だってある。藤本がとった選択が正しかったのかどうかは、結局誰も結論づけることは出来ないだろう。

「大雅、少しいいか」
 道場が休みなのか、午後の時間に珍しく学園にいた大雅を、藤本は呼び止めた。園庭の鉄棒にぶら下がって、懸垂をしていた彼は、藤本の声を背中に受けて、ぎくりと身を固めたが、ぴょんと地面に降り立つと、なにも言わずに屋内に戻ってきた。
 そのまま食堂のテーブルで、二人は向き合った。
「今日は相馬さんのところには行かないんだな」
「たまには体を休めろって言われたから」
 大雅は藤本と目を合わそうとはしないが、以前より口調は柔らかくなっていた。藤本に対する警戒心が薄れたのだろうか。
「それはそうと、大雅はもうすぐ十八になるな」
「……うん」
 頷くまでに、少し間があいた。
「今後のことなんだがな。私たちはお前が陽太とおなじように、本来高校を卒業する来年の三月までここで生活をしていく心づもりをしているが、もしもお前が希望するなら、十八歳になったタイミングで学園を出て、相馬さんのところでお世話になるという方法もあるんだ」
「知ってるよ。なんとなくそんな気はしてたから。でも、なんでいきなりそんな話をしてくるんだよ」
 下手なことは言えないと思った。大雅はまだ大人達に、完全に心を許していない。伝える言葉の表現を間違ってしまえば、少しずつ積み上げてきたものはすぐに崩れ落ちてしまうだろう。
「十八歳の誕生日を前に、大雅がどう思っているのかを知りたくてな。お前は私のことをよく思っていないだろうが、学園での担当支援員は私だからな」
「オレ、気付いたことがあるんだ」
 大雅はそう言って、藤本と正面から目を合わせてきた。
「マサノリ先生は、オレのせいで、あえて憎まれ役を買って出てたんだろ」
「……なぜそう思うんだ」
「前までのオレは、ムチャクチャで、誰も信用できなくて、悪いこともいっぱいやってきたけど、学校を退学になって、やっと自分で自分の首を絞めてるって気付いた。そんで、どこにも居場所がなくなって、もうオレの人生は終わりだって絶望したとき、学生じゃなくなったオレは、どうなるんだろうって怖かった。家に戻されるのかとか、カンベみたいなもっと厳しい施設に送られるのかとか、そんなことばかり考えて、ああ、ここの大人達も、オレを見捨てるんだなって思ったりもした。でも、マサノリ先生はオレを追い出さなかった。ほんとは出ていかなきゃいけない立場だってのは分かってたから、ここにオレを置いてくれるなら、これからはちゃんと真面目な人間になろうと思ったんだ」
 大雅はそこで言葉を切って、スンと鼻をすすった。オレ、喉が渇いたとこぼして、慌てたように立ち上がり、食堂の隅に設置してある冷水機に水を汲みにいった。
 戻ってきて、水を一気に飲み干したあと、再び口を開く。
「相馬師匠の道場も自由に通わせてもらって、師匠のおかげで夢も出来て、オレみたいなヤツがこんなにいい想いをしていいのかなって思う。マサノリ先生、オレに分からないように、相馬師匠とずっとやり取りしてくれてたんだろ? オレ、じつは知ってるんだ。毎月、マサノリ先生がつぐみ道場に顔出してること。一回、見ちゃってさ。そんで、道場の友達……塚内圭二っていうヤツなんだけど、ソイツもマサノリ先生のことよく見るって言ってたから。マサノリ先生はオレへの当たりはキツいけど、でも悪い大人じゃないって気付いた。……だからあの試合のとき、オレ、親を見てめちゃくちゃになっちまったけど、マサノリ先生なら、なんとかしてくれるかなって急に思って、あのときは頼ったんだ」
 藤本は、いまだかつてこんなにも大雅が饒舌に喋るのを見たことがなかった。話の焦点がころころと移動するから、きっと彼は必死で自分の想いを伝えようと言葉を探しているのだろうと感じた。
「いくらマサノリ先生たちが、来年の三月まではここにいてもいいって言ってくれても、オレはちょっと困るかな……。後ろめたい気持ちを持ちながら生活し続けるのは嫌だし。それに、オレがいるせいで、その分施設の定員が増えるんだろ。だったら、オレが出ていって、そのぶん、オレよりもやばい誰かを受け入れてほしいって思う。……ちょっと不安だけど、師匠もいるし、オレは……大丈夫だから、さ」
 藤本はそのとき、正直に言って、大雅にどんな言葉をかけてやればいいのか分からなかった。彼がまだ見ぬ誰かのことを慮って、無理に自分を納得させようとしているとも、自分なりに必死で自立をしようとしているともとれる。どちらであったとしても、大雅の気持ちは尊重したい。児童が心の内に抱えている本音を引き出して、子供たちにとっていちばん良い未来に近づけるよう支援するのが、藤本たちの仕事だ。
 しばらくの沈黙のあと、口を開きかけた藤本を制するように、大雅は再び言葉を紡いだ。
「でも、きっと先生たちも師匠も、結論を急ぐなって言うだろうからさ。もうちょっと、ちゃんと考えてみるよ」

 藤本は、コップを洗って立ち去っていく大雅の背中を見送った。彼がしょうりつ学園に入所して五年が過ぎた。大人ならばあっという間に過ぎ去るように感じるその光陰のなかで、大雅はたしかに成長した。その道程は決して褒められたような内容ではなかったが、紆余曲折のなかに、彼は自分の未来への活路を見いだしたのだ。傷つきながらも懸命に生きようとするさまは、もう過去の『可哀想な少年』ではない。少年から青年に変わる過渡期に、大雅はようやく自分のために笑うことをおぼえた。
夜明けは近い。長い夜は終わりを迎えようとしている。大雅の人生に、朝陽の片鱗が顔を覗かせはじめたことは、きっと本人も気付いているだろう。