季節が巡って、鷹斗との試合から、はや半年の月日が経過した。
大雅は圭二と共に、ロードワークをこなしていた。
「もうすぐかなあ」
 小刻みに呼吸をしながら、圭二が誰にともなく呟いた。流れる景色の中、彼の視線は街路樹に向けられている。
「なにジジイみてえなこと言ってんだよ」
「なんかさ、桜って、毎年咲くの、楽しみにならない? あ、大雅はそんな風流な感性は持ち合わせていないか」
 軽口をたたく圭二をキッと一瞥する。コイツ、ちょっと前まではおどおどびくびくしていたくせに、急にずけずけをものを言うようになったじゃねえか。
「じょ、冗談だよ。そんな怖い顔で睨まないでくれよ」
 月の半ばくらいまでは上着がないと肌寒い日が続いていたが、このところは暖かい日が多くなってきた。
 二人が走るコースにしている舗装路には、等間隔で桜の木が植えられており、木の枝をよく見ると、蕾がもうすぐ花を開こうとしていた。木も、花も、生きものも、すべてが次第に芽吹いていく季節。学生としての大雅は、もう去年に終わってしまったけれど、大雅は十八歳の誕生日が近づいており、圭二はこの春から、高校三年生になった。
 
大雅の生活は大きく変わることなく続いていた。学園で奉仕活動をしたあとに、つぐみ道場に向かう。そこで門下生に混じって練習をこなし、学園に戻る。変哲のない毎日だったが、学校に通っていたときとは違って、なんのしがらみもなく日常を送れるのは心地よかった。
「大雅、最近楽しそうだな。ほとんど毎日、ジムに行ってんだろ? 強くなったか?」
 陽太に強くなったのかと聞かれて、そうだと頷けるほどの実感はなかった。たしかなのは、プロ練の内容でもへばることなく他の選手たちについていけるようになったということだけだ。
 あと一年も経たないうちに、自分たちはしょうりつ学園を出ていかなければならないのだという実感も、このところは大きくなっている。当初ほどの不安はない。それはきっと、大雅を道場に引き取ろうと提案してくれている相馬のおかげだ。

「大雅、道場に帰ったら、スパーやろうね」
「やだよ、オマエ汗くせーんだから」
「えっ……」
 大雅の冗談を真に受けて、圭二は本気で焦っている。走るのをやめて、自分が着ているシャツを鼻に近づけていた。
 時折吹きつけてくる風はひんやりしているが、陽光には夏の気配があった。
「おい、いつまでショック受けてんだよ。オマエにはジョークも通じねえんだな。頭の固いぼんくらかよ」
「冗談にしては、デリカシーがなさすぎるよ」
「うっせえよ。大体男なんか、汗かいたら誰でもくせえだろ。いちいちそんなこと気にしてんじゃねえよ」
 大雅は吐き捨てるように言って、走るスピードを上げた。コースの途中にある急勾配の上り坂は、思いっきり走って心肺機能を鍛えるのに最適の場所だった。
「待ってよ、大雅!」
 息を切らしながら、圭二が追ってくる。持久力では、大雅のほうが頭ひとつ抜けている。身長や体格では見劣りするのだ。ひとつやふたつくらい、圭二より勝っている要素があっても、バチは当たらないだろう。
 道場に戻ると、はんぺんの小屋のそばに置いてある水入れが空だったので、水を足してやった。
「大雅は面倒見がいいね」と、圭二が感心したように言う。「小学校のとき、飼育係してたっていうイメージ」
——圭二、やっぱりオレのこと気付いてねえのかとは、聞けなかった。イメージではなく、当時の大雅は実際に一時期、飼育係をしていた。動物が好きだからではなく、別の理由があったのだが、校庭の小屋にいたウサギやニワトリの世話は嫌いではなかった。
 給食室から出てくる野菜くずや、パンの余りをもらって、動物たちに餌として与えるのが飼育係の役割の一環なのだが、腹を空かせていた大雅は、その一部をこっそりくすねて自分のものにしていた。野菜くずは可食部があったし、余りのパンは充分な主食となった。ニワトリたちにちぎって与えるフリをして、ランドセルの中に入れて持ち帰り、帰り道でこそこそと口に押し込んで食べていた。
 ガキのくせに、生きるのに必死だったなあと思う。誰かとの会話のなかで、ふとしたことがきっかけで呼び起こされる記憶の中の自分は、いつでもみじめだった。

「師匠、はんぺんに水をやっておきました」
「おっ、ありがとう!」
 道場の中に入り、相馬に報告をする。まるで料理の手順を説明しているような言葉だが、ここでは犬に水をやっているという意味なのだ。相馬がなぜ犬にそんな名前を付けたのか理由はさっぱり分からない。
 圭二はすっかり大雅の言ったことを本気にして、まだ練習が終わっていないというのに、シャワーを浴びにいってしまった。大雅は軽く汗を拭いて、サンドバッグの前に立った。
 フッと息を吐き、拳を構える。ワンツー、フック。ワンツーアッパー、右ミドル。コンビネーションを打ち込んでいく。走ったあとで、筋肉もよくほぐれたのか、動作は軽やかだった。
 圭二がシャワールームから出てきたので、彼の望み通り、リングに上がってスパーリングをやった。
「手加減すんじゃねえぞ」
 体格差のある二人だから、ヘッドギアなどの防具をきちんと着用して、立ち技中心でやるように相馬からは言われている。
「いつも手加減してんのはどっちさ」
 口角を上げながら圭二に挑発されて、大雅はカッと頭に血が昇った。
「てめえっ!」
 バンッと足裏を踏みしめて、フックを振り抜いたが、圭二は後ろ手に飛び退いてうまくかわした。直後、前蹴りを繰り出してくる。
「ぐっ……」
 大雅は跳ねとばされ、背中にロープが食い込んだ。その反動のまま体を動かして、リングの中央に戻る。腰を低く落として、圭二にタックルをかましたが、思い通りには倒れてはくれなかった。
「駄目だよ、大雅。そこで躊躇したら。ほら、こんなふうにやられるよ」
 顎の先に風が吹いた。大雅は反射的に左足でマットを蹴って、圭二のそばから離れる。つ、と、背中に汗が流れた。もうちょっとで顎を撃ち抜かれるところだった。いや、これが試合なら、今頃自分は天井を仰いでいたかもしれない。
「なかなかやるじゃねえか」
 大雅はそう言って、手の甲で鼻の下をサッと拭った。やせ我慢だ。自分の身に迫った危機を出来るだけ排除しようと、気持ちを誤魔化した。
 オレはいくらやっても、コイツには敵わねえのか……。悔しさが込み上げてきて、拳でマットを殴った。

 圭二とのスパーリングを終えて、大雅が休憩をしていたときだった。道場の戸口がガラガラと開いて、羽生が顔を覗かせた。
「こんにちは、大雅クン! 外でキミの友達が待っているみたいダヨ!」
「は? 友達?」
 大雅の表情が強張った。わざわざ道場を訪ねてくるような『友達』に心当たりなどなかったからだ。脳裏によぎったのは、克弥たちの存在。友達と偽証して、ついに道場にまでやってきたのかと考えた。
 大雅は、道場のカウンターにいた相馬と顔を見合わせた。羽生の声は大きかったから、相馬にも届いたのだろう。ごくりと唾を飲み込む。
大丈夫だ、ここには師匠もいる。なにかあったら、助けてくれるはずだ。
そう思って、大雅は戸口に赴いた。
「あれ!?」
 思わず目を見張る。そこにいたのは有馬鷹斗だった。彼ははんぺんのそばにしゃがみ込んでいた。
「あ、こんにちは」
 鷹斗は、大雅の姿をみて、ばっと勢いよく立ち上がった。「すみません、いきなり押しかけて」
「有馬……」
 あの試合以来の再会だった。見た目はそんなに変わっていないが、中学生から高校生になったはずだ。鷹斗はぱたぱたと靴音を鳴らして、大雅の前に駆け寄ってきた。
「どうしたんだ?」
「藤堂さんがここの道場に所属していると知って、足を運んだんです」
 どこでそんな情報が……と思ったが、半年前の試合のときの書類に、所属ジムが書いてあったことを思いだした。
「立ち話もなんだから、入れよ」
 大雅が促すと、鷹斗はぺこりと会釈をして、あとについてきた。
 道場の中に入ると、相馬をはじめ、全員の視線が鷹斗に突き刺さった。
「師匠、オレのちゃんとした知り合いでした」
 相馬はもしかすると、試合のときは鷹斗のことを単なる対戦相手だと考えて、その人となりまでは記憶していないのではないかと推察したが、「君は大雅と闘った有馬君だね」と、しっかり覚えていたようだった。
「すみません、いきなり押しかけて」と、鷹斗は先ほどの言葉を繰り返した。
「大雅に用があったのか?」
 相馬の問いかけに、鷹斗はこくりと頷いた。
「大雅、奥の部屋を使いなさい」
「あ、ありがとうございます!」
 なんで鷹斗がここに来たのだろうという疑問を拭えないまま、大雅は相馬が開けてくれた部屋の中に入った。
「まあ、座れよ」
 お互いにそれほど親しくない間柄だったから、所作のぎこちないままに椅子に座って向かい合った。鷹斗は床に背負っていたリュックを置いた。
「俺、いま里親のところで暮らしているんです」
 唐突に身の上話をはじめた鷹斗をみて、元々は児相で知り合った関係だったなと思い出す。
「小学校を卒業するまでは施設にいて、中学になるのと同時に、いまの里親に引き取られました」
 鷹斗いわく、当時、一時保護所で一緒にいた北斗陸斗も、同じ施設にいたらしい。彼はいまもそのままそこで暮らしているが、鷹斗は施設の環境が合わず、里親のもとに引き取られたのだという。
「ちゃんと暮らせているのか?」
「はい。里親の父さんと母さんはとってもいい人です。おかげで、高校にも行かせてもらえていますし、MMAも習わせてもらっているので、俺は幸せです」
 里親という制度については大雅もよく知らないが、普通の家庭とおなじような環境で暮らせる仕組みなのだというイメージがある。一時保護所にいたときも、他の児童たちとの関わりには消極的だった鷹斗には、きっと居心地がいいのだろう。
「で、そんな幸せなお前が、なんでオレのところに来たんだ。自慢か?」
「そっ、そんなことないです!」
 どうやら鷹斗は冗談を本気にしてしまうタイプらしい。真面目なヤツはこれだからと、大雅は心の中でため息をついた。
「あの、俺がこのつぐみ道場に通いたいって言ったら、こちらの方は受け入れてくれますかね」
「それはオレじゃなくて、師匠……あー、相馬さんに聞けばいいんじゃねえかな。でも、どうしたんだよ」
「藤堂さんも気付いているかと思いますが、俺、人付き合いがあまり得意じゃなくて。いま通っているジムであんまり馴染めてなくて……俺が普通の家庭で暮らしていないことをあまりよく思っていない人たちに嫌がらせを受けているというか……」
 言葉が出る毎に、もごもごと口ごもる鷹斗は、立ち上がって、シャツとズボンの裾を捲り上げた。大雅が目を向けると、ちょうど布に覆われて露出していない部分に、いくつもの痣が出来ているのがみえた。
「オマエ……それ……」
「俺が勝手に被害妄想を抱いているだけかもしれないですけど、藤堂さんとの試合に負けたあとから、ジムの皆さんの俺への当たりがきつくなって。あからさまになにかされるってわけじゃないんですけど、スパーとかで、こうやって痣になるくらい攻撃を受けたりします」
 俺がやり返せばいいだけかもしれないですけど、と、鷹斗はフッと自虐的に微笑んだ。
「いじめじゃねえか!」
 大雅はゴンッと拳でテーブルを叩いた。「そんなことされて、半年間、ずっと我慢してたのか?」
「MMA自体は好きなので……」
 鷹斗は肯定も否定もしなかったが、そっと椅子に座り直してそう言った。
「オレが相馬さんに口を利いてやろうか?」
 口を利くなんて大それた表現だと思ったが、こみ上げてくる感情を抑えきれなかった。人間は怒りを抱いたら、言葉の表現が強くなってしまうというが、これもその一例ではないかと考えた。
「相馬さんって、さっきの人ですよね」
「ああ」
「俺が直接聞きます」
 鷹斗の目は不安げに揺れていたが、つぐみ道場まで足を運んだということは、自分でもおおよそ覚悟を決めてきたのだろう。
 大雅は相馬を部屋に呼び寄せた。何事かと不思議そうな顔をして入ってきた相馬に、鷹斗はさっき大雅に話したことを伝えて聞かせた。
 相馬はさすがに態度には出さなかったものの、心の中で鷹斗が受けた仕打ちに怒っているのだろうなと思った。
「有馬君、所属しているジムを変更するのは、何ら悪いことではないと私は思うよ。君がどんな境遇で生きていようと、それを蔑ろにするような輩が集まる場所からは、出来るだけ早く逃げたほうがいい。君は年下ながら、果敢に大雅と闘っただろう。そのポテンシャルを潰される前に、自分を大切に育ててくれる新天地に行きなさい。そして、君が私の道場にその可能性を感じてくれているのなら、入門するのは大歓迎だ」
 鷹斗は俯いて相馬の話を聞いていたが、やがて鼻をごしごしとこすって、むくりと顔を上げた。
「俺がジムを代わったことによって、道場破りとか、報復とか、起こらないですよね……」
「そんな馬鹿げたことはさすがにしてこないだろうが、仮にそんなことがあっても、私がいるから安心しなさい」
 心強い言葉だった。どうだ、鷹斗。ここには、こんなに頼もしい師匠がいるんだぞ。すごいだろうと、大雅は心の中で得意げになる。
 それから少し話を掘り下げると、鷹斗はここ一ヶ月のあいだに、何度かつぐみ道場の前まで来たのだという。でも、中に入る勇気がなかったから、毎回尻込みしてそのまま帰っていたそうだ。今回、羽生が鷹斗を見留めて声をかけなければ、また踵を返していたかもしれない。
「師匠はオレの人生を正してくれた恩師なんだ。きっとオマエも今日、決意して良かったと思えるぞ」
 相馬がその場を少し離れた隙に、大雅はもの凄い小声で鷹斗にそう言った。
いつか二人で、つぐみ道場に入門して良かったと笑い合える日が来るだろう。一時保護所を出て、一度は切れた鷹斗との縁が再び結びついた。それはとても奇妙な現実だと、大雅は思った。
 鷹斗の帰り際、彼がはんぺんのことを気にしていたので、「鷹斗は犬が好きなのか? こいつははんぺんっていう名前なんだぜ。あ、名付け親は相馬さんだからな」と言ってやると、彼もまた、どんな反応をしたらいいのか困っていた。