道場に顔を出すと、佐門と羽生が相馬の見守りを受けながら、マススパーリングを行っていた。佐門はいつもなら柔和な表情をキッと引き締めて、羽生の動きを凝視している。
「佐門さんの思うように動いてください。もっと脱力して!」
「羽生さん! そこはカットしないと被弾しますよ!」
相馬の声が響く。経験値の低い佐門は、必要以上に緊張していて、まるで全身が強ばっているようだった。
大雅が着替えを終えて更衣室から出てくると、ちょうどインターバルの時間だった。相馬に挨拶をして、ウォーミングアップをする。
「今日は圭二が来ないから、あとで佐門さんのミットを持ってもらえるか。どうやらあの人は、お前のミット受けをやけに気に入っているらしい」
「はい!」
先日試合を終えたばかりの大雅は、相馬の指示もあって、軽めのトレーニングに落ち着けていた。本来ならば、数日休息をとることが理想なのだが、大雅が道場に来たがったものだから、彼の気持ちを汲んで、ときに相馬の補助を担うように指示をした。
「佐門さん、よろしくっす」
羽生とのマスを終えて、休憩をしていた佐門に近づいて、大雅はぺこりと頭を下げた。
「大雅くん、久しぶりですね。先日の試合には応援に行けなくて、すみませんでした」
「あー、大丈夫っす。気にしないでください」
試合の結果は芳しいものだったが、その後のことを思い出すと気が重くなる。
タイマーのブザーが鳴って、ミット打ちの練習が始まった。門下生たちがペアを組んで、相馬の出した指示通りにパンチやキックを繰り出していく。佐門はフォームを意識しすぎているのか、なんだかぎこちない動きで、大雅が構えているミットをパスパスと鳴らしていた。
「大雅くんみたいに、簡単に相手を吹っ飛ばせそうなキックは、どうやったらかませるものなんですか?」
インターバル中に、佐門に問われた。
「うーん、オレもうまく説明出来ないっすけど、腰の回転とか、踏み込みとか、そういうのを意識するといいっすよ」
佐門が見せてくださいと所望してきたので、大雅は立ち上がり、ひとつひとつの動作を見せつけるように、佐門の目の前でミドルキックのみのシャドーをやってみせた。
「オレもまだまだ師匠や、三笠さんたちには追いつけないっすけど、まあ、こんな感じだと思います」
「大雅クンは相馬さん期待の弟子だからネ! ボクが大雅クンの蹴りをまともに喰らったら、きっと吐くだろうなあ」
近くにいた羽生が話に入ってくる。
「でも羽生さんもすごく動けてると思いますよ。僕からしたら、ここに来ている人はみんな凄いと思います」
「佐門クンはまだ始めたばかりだからネ。これからどんどんうまくなっていくと思うヨ。いつか、大雅クンや圭二クンみたいに、試合に出るといいヨ」
「そんなぁ、僕には荷が重いですよお!」
そういう人に限って、意外と話を持ちかけられれば、あれよあれよと選手になっていくのだろうなと、大雅は思った。
その日の練習終わりのことだった。道場の入口の前には、自転車やバイクが停められるスペースがあるが、大雅はそこに段ボールが置かれているのを発見した。
「うわっ!」
蓋が開いていたので、なんだろうと思って中を覗き込んだ大雅は、思わず叫んでいた。
「しっ、師匠!!」
すぐに道場の中に駆け込み、中の片付けをしていた相馬を呼ぶ。慌てた様子の大雅をみて、相馬はすぐにこちらにやってきた。
「大変っす! い、犬が! 捨てられています!」
流石の相馬も驚いたようで、履き物も履かずに前につんのめりながら、道場の外に駆け出した。
犬は、明らかにそこに捨てられた様子だった。相馬は道場の入口に設置してある防犯カメラを見上げ、かぶりを振った。段ボールが置かれているところは、ちょうど死角となっていて、これでは誰がそこに箱を置いたのか、確認のしようがなかったからだ。
柴犬の子犬だった。人の気配を察知したのか、犬はむくりと顔を上げた。相馬と目が合う。
「くっ……」
言葉にならない呻きを、相馬は漏らした。これを遺失物として届けることは容易い。しかし、自分がそうしたことによって訪れるこの犬の末路は、容易に想像ができた。だから相馬は、段ボールを抱え上げて、道場の中に運び込んだ。
「オ、オレ、水持ってきます!」
大雅はそう言って、相馬の返事も聞かずにシャワールームに歩いていった。犬のための水入れなど、そこにあるわけもなく、手近にあった洗面器を洗って、冷たい水を汲み、道場へ戻ってきた。
「大雅、それを段ボールの中に入れるには、ちょっと大きすぎるぞ」
「すみません……。これしか思いつかなかったので」
そこに、更衣室から佐門が出てきた。
「お疲れ様です。……あれ? どうしたんですか?」
しゃがみ込んでいる相馬の肩越しに覗き込んできた佐門は、その意味を分かっていない子供のような口調で「いぬ……?」と二文字の言葉を呟いた。
「わあ! 可愛い子犬ですね! 相馬さん、犬を飼うんですか?」
事態を呑み込めていない呑気な発言だった。言ってしまってから、しまったと思い直したのだろう。佐門は気まずそうに口をつぐんだ。
「道場の前に、段ボールに入れられて置かれていたんだ。放っておくこともできないだろう」
「そうですよね。でも飼うなら、なんか楽しみですね。お疲れ様でした!」
佐門はそう言って、急にあたふたと靴を履きながら帰っていった。
「でも本当にどうするんですか?」
相馬と二人きりになったとき、大雅も彼に尋ねた。
「状況から察するに、おそらくこの犬は捨てられてしまったのだろう。……そうだな。タイガと名付けて飼うか?」
相馬の冗談に、大雅は苦笑した。「名前はともかく、飼うのなら散歩とか手伝いますよ」
「大雅は犬が好きなのか?」
「だって可愛いじゃないですか。学園にも、オレが入所したばかりの頃は、ハリーって名前の柴犬がいましたよ」
「柴犬なのに、ハリーだなんて、随分不釣り合いな名前だな」
「日本人の子供にトムって名付けるみたいなもんっすかね」
大雅には、そのハリーとのあいだに、苦い思い出を抱えている。事が起こったのは、大雅がしょうりつ学園に入所して、まもなくのことだった。
ハリーは元々野良犬だったが、大雅が学園に来るずっと前の時期から、児童たちが普段の面倒をみるという条件のもと、学園で飼われるようになった。
ハリーの散歩は、学園の中高生で分担して日替わりで担うこととなっていた。大雅にもその番が回ってきた。
「藤堂、おまえがおれたちと絡むつもりはなくても、これは決まりなんだからな。別に
おれとは話さなくてもいいけど、ハリーの散歩は一緒に行くからな」
二人一組になってハリーと共に学園の周りの道を歩く。それが中高生の役割だった。大雅はその日、陽太とともに、初めてハリーを連れて学園を出発した。
口を利こうともしない大雅にも、陽太はあれこれと会話を繰り広げようとしたが、ハリーのリードを握って後ろをついてくるだけの相手に、次第に言葉数は少なくなっていった。
ハリーは人に慣れた犬で、大雅にもとくに警戒することなく、彼を導くようにいつもの散歩コースを歩いていた。仏頂面で自分のリードを持っている少年に、なにか思うところがあったのだろうか。ハリーは大雅のほうをちらちらと気にしながら、ときに歩調を合わせているようにもみえた。
「藤堂、おれ、ちょいションベン」
公衆トイレのある公園の前に辿り着いたとき、陽太は突然そう言って公園の中に駆け込んでいってしまった。取り残された大雅は、ハリーと共に公園の入口で陽太が戻るのを待つ羽目になった。
(チッ、アイツ、オレの返事も聞かずに勝手に行動しやがって)
大雅は自分の足元でくんくんと周りの地面の匂いを嗅いでいるハリーを見下ろした。
すっかり成犬となったこの犬は、学園にいるだけで餌をもらい、毎日散歩にも連れていってもらって、何不自由ない生活をしている。飲みたいときに水を飲み、寝たいときに眠る。その日常を脅かされることはない。——そう思ったとき、大雅の心に、激しい憎悪がこみ上げてきた。
オレは今まで、飯もろくに与えられず、暴行を受け、毎日生きるのに必死だった。なのにコイツは……この犬は……、なんの苦労もしないで、人間に守られている!
それは衝動的な行動だった。体が火照るほどの激しい感情のままに、大雅は足を振り上げ、靴底をハリーの頭に叩きつけた。
(どうだ、クソ犬! 犬の分際で、オレよりいい暮らしを送ってんじゃねえよ)
ハリーは前足を広げた格好で、地面に下顎を叩きつけられていた。理不尽な暴力をふるわれた犬はしかし、吠えることもなく、大雅の靴の下でただぎゅっと目を閉じていた。
大雅が足を離すと、ハリーはゆっくりと起き上がった。そのときも決して暴れたり、大雅に飛びかかってきたりはせず、ただ四つの足で立ったまま、あさっての方向を向いておとなしくしているだけだった。
「あ……」
大雅の口から、息が詰まったような声が漏れた。しゃがみ込み、ハリーの顔を見る。ハリーは目に涙を浮かべていた。中を切ったのか、口の端からほんの少し、血が垂れている。
目が合う。それでもハリーはただ、目の前に現れた大雅の顔をじっと見ているだけだった。
「ごめん……ごめんなっ!」
ハッと我にかえったとき、大雅の心は悔恨にぎゅっと押し潰されていた。オレはなにをした? こんなの、アイツらと同じじゃねえか!
自分の感情に任せて、罪なき者に危害を加える。自分がしでかしたことは、紛れもなく自分が両親にされたこととおなじだった。
ハリーはオレに踏みつけられて口の中を切る怪我をしたが、大事には至らなかった。
オレは男に殴られて鼻血が出たが、大事には至らなかった。
だから大したことない。ちょっと魔が差しただけだ。
それでいいのか? それで済むのなら、なんでオレはこんなに自分のしたことを悔やんでいる。アイツらは、オレをいたぶるときに、いつもこんな感情と戦っていたのか? ちがう。もしかしたら最初のうちはそうだったかもしれないけれど、アイツらはいつからか、こみ上げてくる悔恨を見ないようになっていったんだ。
「ごめんな、ハリー! オレ、もうしねえから……ごめんな、ごめんな!」
怖かった。自分は理不尽な目に遭う側の気持ちを知っていたのに、知っていながら逆の立場に立ってしまった。咄嗟のときに、両親とおなじような行動をしてしまう自分がひどく情けなくて、それでも、感情をどうにかする別の方法を思いつかなかった自分に嫌気がさした。
ハリーは、顔をくしゃくしゃにゆがめている大雅の近くに鼻先を近づけて、そして大雅の頬をぺろりと舐めた。
それだけ。たったそれだけで、大雅がハリーにふるってしまった暴力は、明るみにでることなく片付けられたのだった。
結局、つぐみ道場に捨てられていた犬は、相馬が引き取ることになった。あとで聞いたところによると、雄也が張り切って、ペット用品をすぐに買いそろえてきたそうだ。
相馬によって、『はんぺん』と名付けられたその犬は、今日も道場の軒先で門下生たちを出迎えている。
学園に戻った大雅が、「師匠がはんぺんという名前の犬を飼うことにしたみたいだ」と話題にすると、陽太がかなり長いあいだ笑い転げていたが、じつは大雅も彼とおなじ気持ちであったことは、相馬にはずっと言えないままだった。
「佐門さんの思うように動いてください。もっと脱力して!」
「羽生さん! そこはカットしないと被弾しますよ!」
相馬の声が響く。経験値の低い佐門は、必要以上に緊張していて、まるで全身が強ばっているようだった。
大雅が着替えを終えて更衣室から出てくると、ちょうどインターバルの時間だった。相馬に挨拶をして、ウォーミングアップをする。
「今日は圭二が来ないから、あとで佐門さんのミットを持ってもらえるか。どうやらあの人は、お前のミット受けをやけに気に入っているらしい」
「はい!」
先日試合を終えたばかりの大雅は、相馬の指示もあって、軽めのトレーニングに落ち着けていた。本来ならば、数日休息をとることが理想なのだが、大雅が道場に来たがったものだから、彼の気持ちを汲んで、ときに相馬の補助を担うように指示をした。
「佐門さん、よろしくっす」
羽生とのマスを終えて、休憩をしていた佐門に近づいて、大雅はぺこりと頭を下げた。
「大雅くん、久しぶりですね。先日の試合には応援に行けなくて、すみませんでした」
「あー、大丈夫っす。気にしないでください」
試合の結果は芳しいものだったが、その後のことを思い出すと気が重くなる。
タイマーのブザーが鳴って、ミット打ちの練習が始まった。門下生たちがペアを組んで、相馬の出した指示通りにパンチやキックを繰り出していく。佐門はフォームを意識しすぎているのか、なんだかぎこちない動きで、大雅が構えているミットをパスパスと鳴らしていた。
「大雅くんみたいに、簡単に相手を吹っ飛ばせそうなキックは、どうやったらかませるものなんですか?」
インターバル中に、佐門に問われた。
「うーん、オレもうまく説明出来ないっすけど、腰の回転とか、踏み込みとか、そういうのを意識するといいっすよ」
佐門が見せてくださいと所望してきたので、大雅は立ち上がり、ひとつひとつの動作を見せつけるように、佐門の目の前でミドルキックのみのシャドーをやってみせた。
「オレもまだまだ師匠や、三笠さんたちには追いつけないっすけど、まあ、こんな感じだと思います」
「大雅クンは相馬さん期待の弟子だからネ! ボクが大雅クンの蹴りをまともに喰らったら、きっと吐くだろうなあ」
近くにいた羽生が話に入ってくる。
「でも羽生さんもすごく動けてると思いますよ。僕からしたら、ここに来ている人はみんな凄いと思います」
「佐門クンはまだ始めたばかりだからネ。これからどんどんうまくなっていくと思うヨ。いつか、大雅クンや圭二クンみたいに、試合に出るといいヨ」
「そんなぁ、僕には荷が重いですよお!」
そういう人に限って、意外と話を持ちかけられれば、あれよあれよと選手になっていくのだろうなと、大雅は思った。
その日の練習終わりのことだった。道場の入口の前には、自転車やバイクが停められるスペースがあるが、大雅はそこに段ボールが置かれているのを発見した。
「うわっ!」
蓋が開いていたので、なんだろうと思って中を覗き込んだ大雅は、思わず叫んでいた。
「しっ、師匠!!」
すぐに道場の中に駆け込み、中の片付けをしていた相馬を呼ぶ。慌てた様子の大雅をみて、相馬はすぐにこちらにやってきた。
「大変っす! い、犬が! 捨てられています!」
流石の相馬も驚いたようで、履き物も履かずに前につんのめりながら、道場の外に駆け出した。
犬は、明らかにそこに捨てられた様子だった。相馬は道場の入口に設置してある防犯カメラを見上げ、かぶりを振った。段ボールが置かれているところは、ちょうど死角となっていて、これでは誰がそこに箱を置いたのか、確認のしようがなかったからだ。
柴犬の子犬だった。人の気配を察知したのか、犬はむくりと顔を上げた。相馬と目が合う。
「くっ……」
言葉にならない呻きを、相馬は漏らした。これを遺失物として届けることは容易い。しかし、自分がそうしたことによって訪れるこの犬の末路は、容易に想像ができた。だから相馬は、段ボールを抱え上げて、道場の中に運び込んだ。
「オ、オレ、水持ってきます!」
大雅はそう言って、相馬の返事も聞かずにシャワールームに歩いていった。犬のための水入れなど、そこにあるわけもなく、手近にあった洗面器を洗って、冷たい水を汲み、道場へ戻ってきた。
「大雅、それを段ボールの中に入れるには、ちょっと大きすぎるぞ」
「すみません……。これしか思いつかなかったので」
そこに、更衣室から佐門が出てきた。
「お疲れ様です。……あれ? どうしたんですか?」
しゃがみ込んでいる相馬の肩越しに覗き込んできた佐門は、その意味を分かっていない子供のような口調で「いぬ……?」と二文字の言葉を呟いた。
「わあ! 可愛い子犬ですね! 相馬さん、犬を飼うんですか?」
事態を呑み込めていない呑気な発言だった。言ってしまってから、しまったと思い直したのだろう。佐門は気まずそうに口をつぐんだ。
「道場の前に、段ボールに入れられて置かれていたんだ。放っておくこともできないだろう」
「そうですよね。でも飼うなら、なんか楽しみですね。お疲れ様でした!」
佐門はそう言って、急にあたふたと靴を履きながら帰っていった。
「でも本当にどうするんですか?」
相馬と二人きりになったとき、大雅も彼に尋ねた。
「状況から察するに、おそらくこの犬は捨てられてしまったのだろう。……そうだな。タイガと名付けて飼うか?」
相馬の冗談に、大雅は苦笑した。「名前はともかく、飼うのなら散歩とか手伝いますよ」
「大雅は犬が好きなのか?」
「だって可愛いじゃないですか。学園にも、オレが入所したばかりの頃は、ハリーって名前の柴犬がいましたよ」
「柴犬なのに、ハリーだなんて、随分不釣り合いな名前だな」
「日本人の子供にトムって名付けるみたいなもんっすかね」
大雅には、そのハリーとのあいだに、苦い思い出を抱えている。事が起こったのは、大雅がしょうりつ学園に入所して、まもなくのことだった。
ハリーは元々野良犬だったが、大雅が学園に来るずっと前の時期から、児童たちが普段の面倒をみるという条件のもと、学園で飼われるようになった。
ハリーの散歩は、学園の中高生で分担して日替わりで担うこととなっていた。大雅にもその番が回ってきた。
「藤堂、おまえがおれたちと絡むつもりはなくても、これは決まりなんだからな。別に
おれとは話さなくてもいいけど、ハリーの散歩は一緒に行くからな」
二人一組になってハリーと共に学園の周りの道を歩く。それが中高生の役割だった。大雅はその日、陽太とともに、初めてハリーを連れて学園を出発した。
口を利こうともしない大雅にも、陽太はあれこれと会話を繰り広げようとしたが、ハリーのリードを握って後ろをついてくるだけの相手に、次第に言葉数は少なくなっていった。
ハリーは人に慣れた犬で、大雅にもとくに警戒することなく、彼を導くようにいつもの散歩コースを歩いていた。仏頂面で自分のリードを持っている少年に、なにか思うところがあったのだろうか。ハリーは大雅のほうをちらちらと気にしながら、ときに歩調を合わせているようにもみえた。
「藤堂、おれ、ちょいションベン」
公衆トイレのある公園の前に辿り着いたとき、陽太は突然そう言って公園の中に駆け込んでいってしまった。取り残された大雅は、ハリーと共に公園の入口で陽太が戻るのを待つ羽目になった。
(チッ、アイツ、オレの返事も聞かずに勝手に行動しやがって)
大雅は自分の足元でくんくんと周りの地面の匂いを嗅いでいるハリーを見下ろした。
すっかり成犬となったこの犬は、学園にいるだけで餌をもらい、毎日散歩にも連れていってもらって、何不自由ない生活をしている。飲みたいときに水を飲み、寝たいときに眠る。その日常を脅かされることはない。——そう思ったとき、大雅の心に、激しい憎悪がこみ上げてきた。
オレは今まで、飯もろくに与えられず、暴行を受け、毎日生きるのに必死だった。なのにコイツは……この犬は……、なんの苦労もしないで、人間に守られている!
それは衝動的な行動だった。体が火照るほどの激しい感情のままに、大雅は足を振り上げ、靴底をハリーの頭に叩きつけた。
(どうだ、クソ犬! 犬の分際で、オレよりいい暮らしを送ってんじゃねえよ)
ハリーは前足を広げた格好で、地面に下顎を叩きつけられていた。理不尽な暴力をふるわれた犬はしかし、吠えることもなく、大雅の靴の下でただぎゅっと目を閉じていた。
大雅が足を離すと、ハリーはゆっくりと起き上がった。そのときも決して暴れたり、大雅に飛びかかってきたりはせず、ただ四つの足で立ったまま、あさっての方向を向いておとなしくしているだけだった。
「あ……」
大雅の口から、息が詰まったような声が漏れた。しゃがみ込み、ハリーの顔を見る。ハリーは目に涙を浮かべていた。中を切ったのか、口の端からほんの少し、血が垂れている。
目が合う。それでもハリーはただ、目の前に現れた大雅の顔をじっと見ているだけだった。
「ごめん……ごめんなっ!」
ハッと我にかえったとき、大雅の心は悔恨にぎゅっと押し潰されていた。オレはなにをした? こんなの、アイツらと同じじゃねえか!
自分の感情に任せて、罪なき者に危害を加える。自分がしでかしたことは、紛れもなく自分が両親にされたこととおなじだった。
ハリーはオレに踏みつけられて口の中を切る怪我をしたが、大事には至らなかった。
オレは男に殴られて鼻血が出たが、大事には至らなかった。
だから大したことない。ちょっと魔が差しただけだ。
それでいいのか? それで済むのなら、なんでオレはこんなに自分のしたことを悔やんでいる。アイツらは、オレをいたぶるときに、いつもこんな感情と戦っていたのか? ちがう。もしかしたら最初のうちはそうだったかもしれないけれど、アイツらはいつからか、こみ上げてくる悔恨を見ないようになっていったんだ。
「ごめんな、ハリー! オレ、もうしねえから……ごめんな、ごめんな!」
怖かった。自分は理不尽な目に遭う側の気持ちを知っていたのに、知っていながら逆の立場に立ってしまった。咄嗟のときに、両親とおなじような行動をしてしまう自分がひどく情けなくて、それでも、感情をどうにかする別の方法を思いつかなかった自分に嫌気がさした。
ハリーは、顔をくしゃくしゃにゆがめている大雅の近くに鼻先を近づけて、そして大雅の頬をぺろりと舐めた。
それだけ。たったそれだけで、大雅がハリーにふるってしまった暴力は、明るみにでることなく片付けられたのだった。
結局、つぐみ道場に捨てられていた犬は、相馬が引き取ることになった。あとで聞いたところによると、雄也が張り切って、ペット用品をすぐに買いそろえてきたそうだ。
相馬によって、『はんぺん』と名付けられたその犬は、今日も道場の軒先で門下生たちを出迎えている。
学園に戻った大雅が、「師匠がはんぺんという名前の犬を飼うことにしたみたいだ」と話題にすると、陽太がかなり長いあいだ笑い転げていたが、じつは大雅も彼とおなじ気持ちであったことは、相馬にはずっと言えないままだった。



