「まじか、それは大変だったな」
 しょうりつ学園に帰園して、自分の部屋に戻った大雅は、先に帰っていた陽太に、「おまえ、大丈夫だったのか!?」と開口一番に問われた。
 大雅はベッドにどさりと体を横たえたあとしばらくして、言葉を選びながら、試合会場に両親がいて、二人が子供を連れていた様子を見て、激しく動揺してしまったと口にした。自分の話に思考をうまく張り巡らせないと、また気がおかしくなってしまいそうだった。
「ごめんな、情けねえとこ、見せちまって」
「ぜんぜん情けなくなんかねえよ。大雅、めちゃめちゃカッコよかったぜ! おまえ、強いのな! まじでプロ目指せんじゃねえのか?」
 人生で初めての試合を白星で終えられたことは、大雅にとっても大いなる前進だった。今後の活躍にも影響するだろう。
「対戦相手は、オレの知り合いだったから、なんか複雑な気分だ」
「えっ!? そうなのか?」
「有馬鷹斗っていう名前で、児相にいたときに、一緒の時期にいたヤツでさ。あのときはオレが中学生で、鷹斗が小学生だったけど、絡みがあったから。物静かなヤツだったっていうのは覚えてる。まさかオレと同じ総合をやってるとは思わなかった」
「まじか、すげえ偶然じゃん。へー! そんなことってあるんだな!」
「野球で例えるなら、元々一緒のチームでやってたヤツが、違う学校に行って、それで試合で当たるみたいな感じじゃねえのか」
「なるほど。そう言われてみれば、そんな珍しいことでもないのか」
 今日は良いことも悪いことも、最大級のものが同時に押し寄せてきたような一日だった。布団の心地よさに身を委ねていると、体が溶けていきそうな微睡みに襲われる。陽太と会話をしている途中、日も沈まないうちから、大雅は眠りについてしまった。

「おい、大雅! おい!!」
 眠りはじめたときはあんなに心地よかった睡魔が、陽太に体を揺らされて無理やり起こされたときには、体がひどく疲れていた。
「あ……、オレ、また……」
 目を開けて、陽太の顔が視界いっぱいに映ったとき、大雅は自分がまたしてもうなされていたのだと悟った。布団がぐちゃぐちゃになっていて、着衣も乱れていた。
「やっと起きたか。何度か起こしたんだぜ。よっぽど疲れてたんかな」
 陽太は会話をしていたが、大雅が次第に返事をしなくなって、やがて寝息をたてはじめたのには気付いていた。それからはベッドの上段で漫画本を読んでいたが、やがて大雅がごそごそと動き始めたので、様子をうかがうと、もがきながらうんうんと唸っていたのだ。悪夢をみてうなされているのだと、容易に想像がついた。よくあることだと、陽太は心がけていたが、今回はいつにも増して覚醒までの手間を要した。名を呼び、体を揺すってもなかなか目を覚まさず、陽太は何度か声を張り上げることとなったのだ。
「メシ。行くぞ」
 陽太にぶっきらぼうに言われて、大雅はぼんやりとしたまま半身を起こした。東向きの部屋は薄暗くなっていて、控えめな音量でついていたテレビの明かりが部屋全体に反射していた。大雅は、夢の内容までは覚えていなかったが、気分はひどく落ち込んでいた。
 陽太に続いて食堂に入る。児童たちのほとんどがすでに席についていて、食事がはじまっているテーブルもあった。大雅たちはカウンターから自分の食事をとって、中学生の柔道部トリオが待っているテーブルにそそくさと座った。
「アレ? 大雅さん、厨房の手伝いしなくていいんすか」
「馬鹿野郎! 大雅は今日試合だっただろう!」
「あっ、すんません」
 陽太が声を張ったので、京輔が慌てて頭を下げてきた。京輔たちも応援に来てくれようとしたが、部活を休めなかったのだ。
「大雅さん勝ったんすか?」
「それは張本人に聞けよ」
 陽太はそう言って、テーブルの中央にあるおひつから白飯を茶碗によそい、大雅の前に置いた。なんだかいつもより山盛りだ。
 どうなんすか大雅さんと淳基に問われて、大雅は「なんとか、勝った」とぼそぼそと言った。
「なに言ってんだよ大雅、試合、めちゃめちゃ相手を圧倒してたじゃねえか。あれは圧勝だよ。KO勝ちだって言ってたしな」
 陽太は自分の茶碗にも白飯をよそう。いつもはいっぱい食べるのに、明らかに大雅の茶碗のほうが山盛りだった。彼なりの祝いのつもりだろうか。
「え? まじっすか! すげえ! やっぱ無理してでも観に行けばよかった。なあ、充!」
「う、うん。でも僕、実際に試合観るのは怖いかも……」
「はあ!? なに言ってんだよ柔道部のくせに。お前だって人を投げ飛ばしまくってるだろうが」
「それはそうなんだけど、やっぱ知ってる人が殴られたり蹴られたりするのは、心臓に悪いよ」
「あほか、大雅さんはそう簡単に殴られないぞ」
 食事がはじまった。豚の生姜焼きとほうれん草の味噌汁、それに冷や奴ときんぴらごぼうというメニューだった。
 大雅はおかずを咀嚼しながら、オレはむかしから結構、殴られてるけどな……と、心の中で呟いた。まだ両親のもとで暮らしていた頃は、平穏無事に一日を終えられた記憶のほうが少ない。大雅は、文字通り、あの男のサンドバッグといっても差し支えなかった。

 両親が時折、大雅を家において出かけることがあった。その場合、大雅は決まってトイレに閉じ込められた。逃げられないようにドアノブの外と中を逆にして、中からは扉が開けられないように仕掛けられていた。
 大雅は、それでも良かった。狭いところに閉じ込めれば、大雅は心細くなるだろうと、男は思っているらしかったが、むしろ閉じ込められているあいだは、嫌な目にあうことはないから、束の間の安息のひとときだった。床に座れるし、用も足せるし、なにより水が飲める。手洗いの水だろうがなんだろうが、外の水たまりの水すらも飲む大雅にとっては、飲み水に等しいものであった。
 空腹と喉の渇きを癒やして、大雅は体を丸めて目を閉じる。完全に眠ってしまって、それを男に見つかって酷い目にあわされないように、それだけは細心の注意をはらった。
 両親が帰宅すると、大雅は立ち上がる。座って休んでいたとばれたら、厄介なことになりそうだからだ。やがて足音が近づいてきて、カチャリと解錠の音がこだますると、大雅は男に首根っこを掴まれてトイレからつまみ出される。ほとんど投げ出されるように床に叩きつけられた大雅は、痛みを堪えながら、逃げるように男から距離をとって玄関に歩いていく。
「誰の許可を得て、勝手な行動してんだよ」
 男の虫の居所が悪いときは、彼はそう言って大雅を追いかけてきた。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ……うぎゃっ!!」
 大雅は家の中という逃げられない空間の中で、男の気が済むまでひたすら暴力に耐えるしかなかった。まだ小学生の少年が、大人の男の暴力に必死で声を殺しながら耐え忍んでいる光景は、きっとこの世の不条理をそこに詰め込んで煮詰めたような、凄惨な現場であっただろう。しかし、大雅にとってそれは日常だった。同年代の子供たちがおやつを食べ、あるいは外で友人たちと遊びに興じているような休日の昼下がりに、彼は男からの暴力に涙を流している。それが、大雅の生きてきた、当たり前の日々だった。

 大雅は、男からの暴力は、次第に仕方のないことだと諦めがつくようになっていたが、何故だか、しおりから受ける仕打ちに関しては、果てしない痛哭の念を味わっていた。
 ときにしおりは、大雅とふたりで家にいると、感情のままに大雅をいたぶることがあった。
 びくびくしながらもおとなしく過ごしていた大雅の髪の毛を掴んで立たせ、引き摺るように風呂場に連れていき、水を張った湯舟のなかに大雅の頭を入れて抑えつける。やめてくれと懇願し、泣き喚く気力もなかった。そんなことをしても無駄だと分かっているし、なにより実の母親にまでそんなことをされるのは、やはり自分は生きていてはいけない人間だったんだと痛感してしまうからだった。それでもやはり水の中で息ができずにいるのは苦しい。手足をばたつかせ、がぼがぼと水をしこたま飲んで苦しむ大雅だったが、しおりの抑えつける力が緩むことはない。しばらくして、すうっと意識が遠のいてきたときに、再び髪の毛を引っ張られて、頭が水中から引き上げられる。
「ぐえっ! ううっ……はあっ……はあっ……」
 大雅は酸素を求めて、風呂場の床にうずくまりながらひたすらに咳き込んだ。
「ねえ、いつ死ぬの? そんなに辛いなら、さっさと死ねばいいじゃない」
 しおりは追い打ちをかけるように、シャワーを掴んで、鞭のようにシャワーヘッドを振り回して、大雅の体に叩きつけた。
「ごめんなさいっ! 許してください! 生きててごめんなさいっ!!」
 大雅は泣き叫んだ。自分の声が風呂場の壁に反響して、余計にうるさく聞こえた。
「うるさいっ! このクソガキ!! そうやってバカみたいに叫んで、近所に助けを求めようとしても無駄なんだよっ!」
 しおりは水を出して、シャワーヘッドを大雅の口に突っ込んだ。
「あががっ! ぐおっ……」
 怒濤の如く口の中に流れ込んでくる水が、気道を突き抜け、鼻にも逆流してくる。涙も鼻水も、そしてシャワーの水も、大雅の顔や体をどばどばと流れ落ちていった。
「ごべっ……おかあさ……ごめっ……」
 必死で謝ろうとしているのに、水の逆流のせいで言葉が堰き止められる。生きていてごめんなさい。迷惑をかけてごめんなさい。こんな『クソガキ』でごめんなさい。
 どれだけ謝っても、大雅の気持ちはしおりには届かない。なにも悪いことをしているつもりはないのに、どうして自分が悪い子供なのか分からなかった。そして、しおりに虐げられると、男におなじことをされるより何倍も、大雅の心を深く抉るのはどうしてなのかも、分からなかった。

大雅は、学校帰りにまっすぐ家に帰らないことがたびたびあったが、それは言わずもがな、家に帰れば、次に学校に行くまでは外に出られなくなる可能性が高かったからだ。
まだ小学生だった大雅でも、自分が家に帰らなかったらあとでどうなるかくらい、分かっていた。しかし、何度おなじ目に遭っても彼はおなじことを繰り返した。
外にいれば、オレは自由だ。どこにだっていける。友達と遊ぶこともできるし、ひとりで気ままに色々なところを歩いたりもできる。
自分にそう言い聞かせて、目先の安全を求めた。時間が経つにつれて、これから自分はどうしようという心細さが、心の中で膨らんでいくのも、毎回のことだった。
大雅が住んでいるアパートの近くには、十四階建ての県営住宅が建っていた。彼とおなじ小学校に通う児童たちもたくさん住んでいるところで、同級生同士で集まって、敷地内にある広場や、ときには誰かの家に集まって遊んだりもした。日が暮れて、みんながそれぞれの家に帰っていくと、大雅はその県営住宅の地下に行った。真上がエントランスだからなのか、そこにはだだっ広い空間があるのだ。打ちっぱなしのコンクリートの地面と壁しかない場所で、普段なにかに使われている様子はなかった。
家に帰れない大雅は、そこに身を潜めていた。独りになると、心細さも一際大きくなって押し寄せてくる。このままずっと家に帰らなかったらどうなるんだろう。たとえばここで一夜を過ごして、あした何食わぬ顔で学校に行ったら、何事もなく振る舞うことは出来るのだろうか。でも、今日家に帰らなかったら、ずっと野宿みたいな生活をしなきゃいけない。風呂にも入れないし、まともに食事にもありつけない。雨が降ったらどうしよう。それに、今日の時間割に入っていなかった分の教科書は、全部家にあるから、取りにいかないと忘れ物をしたことになってしまう。
考えれば考えるほど、不安や心配事ばかりが頭の中に溢れだしてきて、こんなこと、しなければよかったと思ってしまう。でも、最初からちゃんと家に帰っていたら、今頃は殴られているかもしれない。
——謝れば許してくれるだろうか。
 大雅はフッと我に返ったかのように勢いよく立ち上がった。県営住宅を出て、自分の家に向かって歩き出す。いま何時になっているのかも分からない。アパートの敷地に差し掛かったとき、大雅の足は、鉛のように重くなり、心臓はたちまち鼓動を早めた。
 ダメだ。いま家に帰っても、半殺しにされる。
 駐車場を見る。自分の家の部屋番号が書いてある場所に、いつもこの時間はあるはずの男の車がない。
(まだ、帰ってきていないのか?)
 大雅はごくりと唾を飲み込んだ。植え込みに隠しておいたランドセルを回収して、階段を上がる。部屋の前に立ち、音を立てないようにそっと玄関のドアノブに触れる。——鍵が開いている!
 大雅は目を見開いた。てっきり施錠されていて、そうだとしたら玄関の前に立っていれば、やがて男が帰ってきたときに中に入れると思っていたから、この展開は予想外だったのだ。
(でも、家にいるのがお母さんだけなら、殴られないかもしれない)
 大雅はもう一度唾を飲み込んで、意を決して家の中に入った。
 廊下は暗く、居間の明かりが床に反射してみえていた。大雅は靴を脱ぎ、その廊下を歩き、居間に向かった。まるで断頭台に向かう囚人のような心地に囚われる。
 居間に入ると、しおりはテレビを観ていた。大雅がそこに現れても、見向きもしない。
「あ……お母さん……」
 大雅はそう言って、自分の存在をしおりに知らせた。そのつもりだったが、しおりはまるで聞こえなかったかのように無反応だった。テレビの音だけがやけに大きく居間に響いている。
「お母さん!」
 大雅は、さっきよりも大きな声でしおりを呼んだ。もしかしたら自分の声が小さすぎて聞こえなかったのかもしれない。さすがにこれだけ大きな声を出せば、聞こえるだろう。しかし、しおりは変わらず無反応だった。

「あんただれ」
 ふいにしおりが言葉だけを投げてきたのは、それから三十分ほどが経ったときのことだった。大雅はそのあいだずっと、ランドセルを背負ったまま居間の敷居の上に立っていた。どうしたらいいのか、分からなかったのだ。
「こんな夜遅くに勝手に家に入ってきて、あんただれって言ってんのよ!!!」
 しおりに金切り声で怒鳴られて、大雅の目からはぶわっと涙が溢れ出てきた。
「ごっ、ごめんなさい」
「悪いと思っていないくせに謝るな!」
 しおりは、両の手のひらでバン! と居間の座卓を叩いた。大雅は驚いて、びくんと飛び跳ねる。
「あんたは昔からそう。お父さんがいないからって、あたしを馬鹿にして、困らせてやろうって思っているんだろ! いい加減にしろよクソガキ! いますぐ死ねよ。死ね!!!」
 しおりが立ち上がって、大雅に近づいてくる。ほんの二、三歩ほどの距離。大雅はぎゅっと目をつぶって身構える。
 右腕を掴んでひねり上げられた。大雅はぎゃあっと叫んで、痛みにもだえ苦しんだ。そのまま壁にしこたま叩きつけられる。ランドセルがクッションとなったので、体への衝撃は少なかったが、代わりにしおりの手が、大雅の首に巻き付いて、絞めてきた。
「あ……」
 息ができなくなって、大雅はもがいた。手足をばたつかせ、苦しみから逃れようと暴れる。しおりの手は緩まない。目から涙が溢れ出てきて、頭がぼうっとなる。何秒か経って、かあっと脳が熱くなって、あろうことか睡魔が襲ってきて、もうどうにでもなれと思ったとき、急にしおりは大雅を突き放した。
 大雅はヒイヒイと喘ぎながら、激しく咳き込んだ。
「なに? まだ生きてんの? あたし、さっさと死ねって言ったよね。目障りなの。死ねないなら、玄関で立ってれば」
 これ以上しおりを怒らせるわけにはいけないと、大雅はそのままの格好で、逃げるように玄関に走っていった。

(やっぱりオレは死んだほうがいいんだろうか)
 泣きべそをかきながら、大雅はそんなことをずっと考えていた。——生きているだけで、お父さんやお母さんに迷惑がかかるなら、オレはこの家にいる必要なんてない。出ていくか、死ぬかしたら、きっと二人も安心するだろう。
 このまま外に飛び出して、アパートの通路の柵をよじ登って下に落ちれば、死ねるだろうか。
 大雅は頭の中で、自分が飛び降り自殺をする妄想を繰り広げる。余計に惨めな気持ちになって、また涙が出てきた。
「うるさい! クソガキ!」
 居間からしおりの怒号がとんできて、大雅は縮み上がって押し黙った。あとからあとから、悲しい気持ちは留まることを知らずに溢れ出てくる。何故だか知らないけれど、男が家にいないからボコボコにされずに済んだという安堵感と、またしおりを怒らせてしまったという焦燥にも似た悲しみを抱いたまま、大雅は玄関で一晩を過ごしたのだった。

 夕食を終えると、支援員室の前の広間で、児童たちが男女とも集まって、一緒にテレビを観ていた。むかし、大雅がテレビの画面を割った場所だ。
 そこを通りがかると、ソファーに座っていた花蓮と目が合った。テレビでは衛星放送のアニメチャンネルが放映されている。最近中学生たちが夢中になっているのは、一人の野球選手の子供時代から大人になってメジャーリーグで活躍するまでの軌跡を丁寧に描いた名作のスポーツアニメだ。テレビ画面には、漢字は違うが自分と同じ名前の茶髪のキャラクターが、主人公に生意気な口を利いているシーンが映っていた。大雅はあまりそのアニメを知らないが、テレビの前の、とくに小学生の児童たちは食い入るように視聴していた。
 花蓮と目が合った大雅は、ぎこちなく片手をあげてみせた。彼女は手に持っていた文庫本をとじて、ソファーから立ち上がって大雅のもとに近づいてきた。
「藤堂くん」
 花蓮のとなりには、高山がいて、彼女が普通に大雅に話しかけた様子を見て、少し驚いた様子だった。
「なんか久しぶりだな」
「そうだね」
 学園内で姿を見かけることはあっても、互いに顔を合わせて言葉を交わすのは、サンドイッチをきっかけに初めて話した、あの日以来だった。
「オレ、今日試合だったんだ」
「え? 格闘技の?」
「ああ」
 大雅が頷くと、花蓮は目を大きくして、「すごい! 私も観に行きたかったな」と言った。
「やめてくれよ、なんか恥ずかしいから。あ、でも、陽太は応援に来てくれた。アイツは同じ部屋だし、友達だしな」
 もしも花蓮が応援に来てくれていたとしても、試合終了後のあの醜態をみられていたとしたら、恥ずかしいなんてもんじゃなかっただろうなと、大雅は密かに思った。
「勝ったんだよね、ほら、痣とか出来てないし、元気そうだもの」
「ああ、勝ったよ」
 試合には、な。
 花蓮は息をのんで、「すっごい!」と、興奮気味に言った。大雅は気を良くして、「一応、テクニカルノックアウトっていう判定で勝った」と言葉を続けた。
「なにそれ、なんかカッコイイね!」
「ノックアウトっていうのは、テンカウントで立てなかったときの判定なんだけど、オレがやったやつは、片方の選手が一方的に攻撃を受けたりして、試合を続けられないってレフェリーが判断したときに、勝負が決まるってやつだよ。オレは夢中で相手を攻めたら、いつのまにか試合が終わってて、ビビったな」
「じゃあ、藤堂くんのほうが、相手のひとより強かったんだね」
 花蓮にそう言われて、大雅は頬を赤らめてはにかんだ。
「ねえ、藤堂くんの次の試合、ケイと一緒に観にいってもいい?」
「オ、オレの?」
 大雅は狼狽えて、視線を彷徨わせた。さっきからずっとこちらを見ている高山とも視線がぶつかる。「……な、なに見てんだよ!」
「別に。学園イチの乱暴ものが、花蓮に余計なことしないかって、見張ってるだけよ」
「なっ……」
 高山は、大雅のことをあまりよく思っていないのか、警戒心たっぷりの口調で憎まれ口を叩いてきた。大雅は絶句して、花蓮と高山を見比べた。
「ねえ花蓮、そろそろ戻ろうよ。もうすぐ男子たちが風呂に降りてくるでしょ」
「あっ、うん……」
 高山が立ち上がって、花蓮の横に歩いてくる。まだ話し足りなさそうな花蓮だったが、大雅のわきを通り抜けてすたすたと歩いていく高山を追うように、そそくさと引き上げてしまった。
(なんだあの女。オレのことを貶しやがって……)
 花蓮は、大雅が退学処分になったことを高山が憂いていたような発言をしていたが、それは彼女の思い違いだったのではないかと感じるほどに、印象は最悪だった。
 小学生たちがアニメのオープニングを大声で合唱している。どうやら同じものが何話か続けて放送されているようだ。
 
支援員室の隣には、大浴場がある。夕食を終えると、小学生たちが支援員の見守りを受けながら入浴をする。小学生の女子から男子、そのあとは中高生の女子、男子の順番に入ることになっている。無論、大雅たちに見守りはない。
「おーい、おまえら! テレビはそこまでにして、ちゃちゃっと風呂に入れ!」
 支援員室から平山が出てきて、テレビを観ている小学生の男子たちに声をかけた。
「えー、おれたちまだ観てんだけどぉ」
「問答無用! 時間を守れ!」
 平山がリモコンでテレビを消すと、児童たちからブーイングが起こった。ブーブーとしばらくのあいだ、喧騒が起こっていたものの、平山が取り合わないので、小学生たちは渋々浴場に流れ込んでいった。
 ただ、一人だけ、ソファーに座ったままの男子児童がいた。平山はもう浴場の中に入っていったので、ひとりだけ取りこぼされたような感じになる。樋口嘉明という名の、最近入所した児童だったかなと、大雅は彼に近づいた。
「おう、どうしたんだ」
 大雅が横に座ったので、嘉明は顔を上げて目を見張った。
「小学生たちは、みんな風呂に入ったぞ。オマエもいかねえと」
「……うん」
 か細い声で、嘉明は頷いた。「でも、僕」
 口ごもる。なにか言いたげにしているが、それを言っていいのかどうか迷っているようだ。
「なにかあったのか?」
「……恥ずかしいから」
「……そっか。そうだよな。大勢で風呂に入るってのは、ここではなんか当たり前のようになってるけど。嘉明は最近ここに来たばっかだもんな」
「だから時間稼ぎしてるの。遅く入れば、あんまり他の人と関わらないですむでしょ」
「中高生のお兄さんたちは、みんな一人で入るんでしょ」
「一人じゃねえけどな。まあ、先生たちの見張りはねえよ」
「僕だって、あとちょっとで中学生なのに、なんで大人の見張りなんか受けて入らなくちゃいけないんだろうって思って。風呂くらい、ひとりで入れるのに」
 大雅は思案する。嘉明は小学六年生だから、思春期の入口に立っている。繊細な感情を知りはじめるときだ。
「なあ、こうしねえか? 今日はこっそり、オレたちと一緒に風呂に入ろうぜ。平山先生だから、きっと気付かれねえよ」
「……いいの?」
「ナイショだぞ。先生たちに見つからねえようにな」
 大雅はニッと笑って、嘉明を立たせた。
「あとでこっそり風呂に来いよ」
 嘉明は鬱々としていた表情をぱあっと明るくさせ、男子棟に戻っていった。

「なんでガキがいるんだよ」
 陽太が浴場に入ってきて、開口一番にそう言った。大雅が嘉明の背中を洗ってあげていたからだ。
「小学生の時間に入りそびれたみたいで、いま入るように言われたらしいぞ」
「ふーん、ならいいけど」
 陽太はそう言って、シャワーのお湯を豪快に頭からかぶった。大雅のとなりに座って、ごしごしと洗身をすすめていく。
「大雅さん、なんかスポーツやってるんですか?」
 嘉明がふいに尋ねてきた。鏡越しに、大雅と陽太の体を見比べている。
「おっ、そういや、おまえは最近入ってきたから知らねえんだな! 大雅は格闘家なんだぜ! カッコイイだろ。エムエムエーとかいうのをやってるんだぜ!」
「えっ! ほんとですか!? すごいですね!」
「大雅はめっちゃつええからな。このあいだの試合も勝ってたし、おまえ、あんまり大雅を怒らせんじゃねえぞ」
 大雅のことを聞かれたのに、陽太が出しゃばって答えてきた。
「陽太さんは野球部でしたよね。僕、中学に入ったら、運動部に入ろうと思ってるんです」
「嘉明はなんか好きなスポーツがあんのか?」
 陽太はシャンプーをいっぱい頭につけてごしごしとこすっている。その泡が大雅の肩にまでとんでくる始末だ。
「僕、いままであんまりスポーツやったことなくて……。家ではそういうの……出来なかったので」
 聞けば、嘉明の来年小学生になる弟もしょうりつ学園に入所したという。
「ネグレクト……って、周りの大人たちは言っていました。母は僕たちを置いて、何日も帰ってこなかったり、男の人を家に連れ込んで、僕たちのことなんかまるで見ていないような感じで。母がたまにくれるお小遣いで、やりくりをしていました。幼稚園に弟を迎えに行くのも、自分たちのご飯を作るのも、大体は僕の役目で、それがおかしいってなって、僕たちはここに来たみたいです」
 年齢の割に、大人びた話し方をするヤツだなと、大雅は思った。体を洗い終えて、大雅と嘉明は湯舟に入る。
「僕がやっていたことがおかしいって、大人の人たちは言ってたけど、それがなんでおかしいのかまでは教えてくれませんでした。まるでなにか基準があって、そこから少しでもはみ出たら、おかしいって思われるみたいで。……僕たちはただ、生活を送るために、出来ることをしていただけなのに、それを全部否定されたような気がして、ちょっと納得がいかなくて……」
 嘉明は大雅の顔をちらりと見て、慌てたように「すみません! つまらない話をして」と付け加えた。
「いや、大丈夫だ。オマエも、大人たちには言えない、いろんなもんを抱えてんだろ。そういうのは、出来るときに吐き出すのがいいんだぜ」
「おっ、大雅、おまえ、児相のケースワーカーにでもなるつもりか?」
 にやにやと陽太が笑う。
「あんなヤツらと一緒にすんじゃねえ!」
 ムキになって、大雅が言い返す。陽太はシャワーで全身の泡を洗い流すと、激しい水しぶきを上げながら湯舟に入ってきた。
「嘉明、おれは大雅とおなじくらいのタイミングで、中一のときにここに入った。野球を始めたのも学園に入って、中学に通うようになってからだ。だから、おまえも、いまからやりたいことをやればいいんだ」
「僕の、やりたいこと……」
 嘉明は、宙を見つめながら考えているようだ。
「まあ、まだ時間はあるんだ。ゆっくり考えろよ」
 陽太はそう言って立ち上がった。
「もう上がるのか?」
「観たいテレビがあんだよ。先に部屋に帰ってるからな」
「……ああいうの、烏の行水っていうんですよね」
 浴場を出ていく陽太の背中を見ながら、嘉明が呟いた。「僕もあがります。そろそろ小学生は消灯ですから。わがまま聞いてもらってありがとうございます、大雅さん」
「ああ。じゃあ、またな」
 なんとなく今日はゆっくりと湯に浸かっていたい気分だった。一人になったので、広い湯舟を独占できる。思いっきり手足を伸ばしてみる。自分の気が済むまで、風呂でくつろげるなんて、自分が嘉明とおなじくらいの頃には考えられなかったことだなあと思った。
 嘉明も、環境の変化に戸惑っていて、だからまだみんなに馴染めないのかもしれない。
 大人を信じられないのは、誰もかれも自分のことなんて分かってくれないような気がしたから。大雅もそうだった
 道を示してくれる者もいない。愛を注いでくれる親もいない。自分の身は、自分で守らないといけない。たとえそれが間違った方法であったとしても、それをただしてくれる者がいないから、自分が間違った境遇のなかにいることにも気付かない。
 大雅は、自分が相馬と出会っていなかったら……と想像してみることがよくあるが、いつも考えれば考えるほど怖くなる。相馬と出会えた自分は、おなじような立場にいるヤツらの中でも恵まれているのだと感じる。——児相に保護されて、とりあえず施設にぶちこまれて、時が来たら社会に放り出されるしかねえもんな、オレたちは。
 いつか子供も大人になっていく。その適正があろうとなかろうと、時間の波に流されて、中身が伴っていなくとも、体ばかりは大きくなっていく。
 相馬は、今まで出会ってきた大人たちの中で、最も感謝している人だ。親も、教師も、児相のケースワーカーも、しょうりつ学園の支援員も、誰も見てくれなかった自分の道を正してくれた。どれだけ迷惑をかけただろう。感謝しても、しきれない。
 ずっと一緒にいたいと思っている。目標とし、ずっと見習っていたい存在だ。
(これが、人を信じる……ってことなんじゃねえのかな)
 大雅はまだ分からなかった。誰も教えてくれないことは、自分で見つけるしかない。他の大人たちを相手にしていては抱けなかった感情を、相馬に対して感じている。それを定義づけるのはやはり、大雅のなかでは『信頼』という言葉だった。