おそらくそこにいた観客の多くが、藤堂大雅は試合を終えたのち、急に気が抜けて、その場にへたり込んだものと思ったにちがいない。前のめりに倒れそうになり、両手をついて四つん這いの姿勢になった大雅は、ガタガタと体を震わせた。
「大雅!」
異変に気付いた相馬が、ケージをくぐって大雅に近づく。「おい! どうした、大雅!」
相馬の気配に気付いた大雅は、張り詰めていた緊張を解きほぐしたかのように、ぐらりと体を傾がせた。
「おっと……、おい、大雅、どうした!?」
突然の大雅のコンディションの変化に、相馬も戸惑っているようだった。観客席も俄にどよめいている。
大雅は相馬の腕に抱きとめられながら、視線は虚ろなまま、観客席に釘付けとなっていた。リング上は、公園の地面より高い場所に設置されていて、それほど多くない客席は、横たわりそうになっている今の姿勢でもかろうじて見ることができた。その中から、スッと立ち上がり、会場を去っていく人影がみえた。
男と、しおりと、しおりに手を引かれてたどたどしい足取りで懸命に歩く、小さな男の子。次第に遠ざかっていく三人の背中が、まるでこちらに近づいてくるかのような錯覚をおぼえる。
大雅は両腕で、汗まみれの自分の体を抱くような体勢となって、ヒイヒイと過呼吸のように喘いだ。目は見開かれ、血走り、こんなに気温は暑いというのに、相馬が触れている大雅の皮膚が、みるみるうちに冷えていった。
「担架!! 担架を頼む!!!」
相馬が叫んだ。大会のスタッフがざわめく。
「し、師匠、オレ、恥ずかしいですっ、大丈夫っす」
担架という言葉に羞恥心が先走ったのか、大雅は涙目になりながらも相馬によりかかって、ゆっくりと立ち上がった。
「歩けるのか?」
「はい。……すみません、お騒がせしました」
相馬が肩を貸してくれる。大雅は対応に苦慮しているであろう野村に会釈をすると、それに捕まりながら、しかし、しっかりとした足取りでリングを後にした。
歩みを進めるにつれて、大雅は我に返っていった。それでもまだ胸の動悸はおさまらず、自分は試合の勝者だという栄光も、すっかり頭から抜け落ちていた。
リングを下りると、大雅の応援に駆けつけたつぐみ道場と、しょうりつ学園の面々がそこに集まっていた。急変した大雅の様子に一同が動揺して、席を立って移動してきたのだ。
「あ……、マ……マサノリ先生!」
大雅は、集団から人ひとり分ほど離れた場所でこちらを見ていた藤本の姿を見留めると、相馬の支えを振りほどいて彼の元へ走り寄った。無我夢中だった。普段の藤本との確執など、頭になかった。しょうりつ学園からは、他に平山と森本、それに陽太が会場を訪れていたが、大雅は彼ら以外の誰よりも、藤本にすがりついた。これには、藤本が一番驚いていた。
「ど、どうしたんだ、そんなに取り乱して」
「あ……、どうしよう……、あ、アイツが……アイツらが……先生っ……子供……ああっ……ダメだ……うあああっ!!」
「おい、大雅!」
大雅の呼吸が、また危険な音になる。しゃくりあげるように息を吸い、そのまま息を止める。大雅とは無関係の、近くに観客たちの中には、何事かとちらちらと見てくる者もいた。
相馬が近づいてきて、藤本にすがりついていた大雅の腕を、ぎゅっと握りしめた。
「大雅、落ち着きなさい! お前がそんな様子だと、周りの者は戸惑うばかりだろう。いつも言っているように、格闘家は常に、平常心を保っていなければならない。お前は闘いの最中、そうやって取り乱して、勝機をみすみす逃すのか!」
明らかにいつもとは様子が違う大雅には、少し手厳しい言葉だったかもしれないが、相馬の声を叱咤を聞いて、大雅は少し落ち着いたようだ。揺れ動いていた目の焦点が定まって、彼は大きく息を吐いた。
汗なのか、涙なのか、もはや区別がつかない体液を拭うように、グローブの甲で顔をこすった。
「す、すみません、師匠……」
いくらか平静を取り戻した大雅だったが、体はまだ小刻みに震えていた。落ち着いた隙に、相馬は圭二が持っていたタオルを大雅の肩にかけた。大雅は、まるで寒さに身を寄せるかのように、ぎゅっとそのタオルを体に引き寄せた。
大雅が落ち着いたのは、それから十分ほどしたあとのことだった。相馬と藤本以外は一旦彼の元から離れてもらい、会場のはずれにあったベンチに座り、試合の格好のまま、気を鎮めることに徹した。
梶谷が気を利かせて持ってきてくれたスポーツドリンクを相馬から受け取ると、半分ほど一気に飲み干した。
「すみませんでした……」
試合が終わってからの自分を省みたのか、大雅は消え入るような声でそう言った。
「相手から攻撃を受けて、そのダメージで調子が悪くなったわけではないんだな」
相馬が尋ねると、大雅はこくりと頷いた。鷹斗から貰った有効打は、相馬が把握している限りでは、KOの直前に貰った肋骨への攻撃だけだった。あの程度では、大雅なら大丈夫だろう。
「マサノリ先生、オレ……」
大雅はそう言って、大雅の前に立っている藤本を見上げた。今度はすうっと息を吸って、心を落ち着かせる。
「オレ、アイツらが観客席にいたのを見たんです。……アイツら、なんで……。オレを観に来たのか? たまたまいたのか……わかんねえけど、見間違いじゃ、なかった」
大雅が、敢えて固有名詞を使わずに、特定の誰かを指し、自分に訴えてくる相手として心当たりがあるのは、藤本にとっては二人しか心当たりがなかった。そしておそらく、それは合致していることに勘づいた。
「相馬さん、このイベントは、どれくらいの規模で告知を?」
なんでそんなことを聞くのだと言いたげに、相馬は眉をひそめた。
「街の複数の箇所にポスターを。あとは市の広報や、我々の団体のホームページにも告知を載せています」
「そこに大雅の名前は載っていますか?」
「ええ。出場選手として。そんなにでかでかと載せてはいませんが」
相馬はそこでようやく気付いたようだ。ポスターにしろ、広報やホームページにしろ、不特定多数の誰かが目に入れる代物だ。つまり大雅にとって、見られたくない相手であっても、平等にイベントの告知を目にする機会が与えられる……ということに。
しかし相馬は、その相手が大雅の両親であるとすぐには結びつかなかった。まずは、自分も存在だけは知っている克弥たちを思い浮かべたが、それにしては大雅の取り乱しようが激しいことが引っかかった。そしてようやく、相馬の頭に、大雅の親が姿を見せたのではないかという結論が湧いて出てきたのだ。
「すまない、大雅。私の配慮が足りなかった」
相馬はそのとき、目の前の、体ばかりは一人前に成長したものの、まだまだ人としては脆いところをたくさん持ち合わせている幼気な少年を、ぎゅっと抱きしめてやりたくなった。ボディーランゲージという言葉が存在しているように、言葉では伝わりにくいものも、この世界にはたくさんある。口先だけはいくら大丈夫だと言ったとしても、それでは大雅は安心しないだろう。人の温もりを肌で感じてこそ、ようやく満たされる気持ちがあって、大雅はおそらくそれを知らない。大雅にこの世で最もそれを教えてやるべき役割を持つ者たちが、あろうことか正反対の仕打ちを彼に与えたのだ。許されていいのか、そんなことが。そして、成長した大雅を目にする権利が、そんな奴等に与えられて然るべきなのか。
有り得ない。相馬の中で、ふつふつと静かな嚇怒がこみ上げてきた。幸せの端くれを、それを知らなかった少年が、指先に掴もうとした矢先の出来事だ。
ようやくここまで来たのだ。随分と遠回りをした。ゆっくりと築き上げてきた大雅の矜恃を、人間として当たり前の尊厳を、何人にも奪わせるわけにはいかない。
「マサノリ先生! オレ……、見ちゃったんです。アイツら、子供産んでた。もう……か……か……母さん、に手を繋いでもらって歩いてた。てことは、あの子はオレの弟……なんだよな……。ダメだ! マサノリ先生、あの子を助けてやってください! オレみたいな目に遭っちゃダメだ! あんなヤツら、まともに子供なんか育てられねえよ!」
悲痛な大雅の叫びに、相馬は目頭が熱くなった。自分もさぞ辛いだろうに、不意に知ることとなった義兄弟の存在を受け入れ、その者の安否をも気遣える大雅が、もうどうしようもなく眩しく見えて、直視できずに、静かに鼻を啜った。
「お前の気持ちは分かるが、私にはどうすることもできない」
藤本が言った。それはきっと、いや、絶対に大雅の望んだ答えではなかった。藤本も、自分の本心の言葉ではなく、彼の立場上致し方なく事実を述べたまでだろう。
大雅はみるからに落胆した。
「大雅、ほんとうに情けないが」
藤本はそう言って大雅の隣に腰を下ろした。「もしも、大雅の見た小さな男の子と、私たちが関わるとしたら、それはもう事が起こってしまったあとだ。私たちは、未然に動いて、みだりに大雅の両親と、その男の子を引き離すことは出来ない。あるいはすでに児童相談所の方々が動いている可能性もあるが、私の個人的な見解ではその可能性は薄いと考える。児童福祉の人間が動けるのは、明らかに親子関係にひずみが生じたと判断されたときだけなんだ」
「くそっ……そんなの、あんまりじゃねえかっ……」
大雅は悔しそうにそう言って、拳をぎゅっと握りしめた。それは、藤本に改めて諭されなくとも、大雅自身が身をもって経験した現実である。この世界には、どうしようもないことを、どうしようもないと結論づけねばならない時が多々ある。ほんとうに正義という名の大義をかざして動くなら、最悪の事態が起こる前に対処しなければならないはずなのに。
常識の中で生きてきた者たちには、酷な現実だ。藤本とて、なにも子供を見殺しにしたいわけではない。叶うならば、大雅の申しつけた通りに藤堂家の新たな親子のえにしを断ち切り、起こりうるかもしれない虐待の連鎖を阻止したかったのだ。
あるいは。
大雅の両親が、彼の件をきっかけに改心した可能性に賭けてみる。しかしそれは、天文学的な確率だと、藤本のこれまでの経験が物語っている。
児童相談所は、藤堂家に新たな子供がいることを把握しているのか。把握しているならば、適切に動いているのか。把握していないのなら、それを報告するのは、藤本の役目だ。
「大雅、よく聞いてくれ」
藤本は正面から、眼鏡越しに大雅を見据えた。
「大雅の弟を直接的に助け出すことは出来ないが、私にも少なからず方法は考えられる。あらゆる可能性を視野に入れ、きっと最悪の事態が起こらないように努めよう。だから安心しなさい。これ以上、藤堂家に悲劇を生んではならないと思っているのは、私も大雅とおなじだ。」
「それ……本当なんだな……」
大雅の表情は陰っていたが、藤本の目を見て、彼は静かにそう言った。
「本当だ」
声が震えていないか気になった。一人の少年の気持ちを鎮めるために、口から出任せを言っているとも捉えてしまいそうだ。人の命がかかっている。それほどに重大な案件だ。
「分かった。マサノリ先生、ありがとう」
大雅は俯いて、ため息のような長い息を吐いた。
託された。もしもなにもかもが上手くいかず、最悪の事態を招いてしまったとしたら、こんどこそ本当に、大雅は自分に心を閉ざしてしまうのだろうなと、藤本はひそかに戦慄した。
「大雅!」
異変に気付いた相馬が、ケージをくぐって大雅に近づく。「おい! どうした、大雅!」
相馬の気配に気付いた大雅は、張り詰めていた緊張を解きほぐしたかのように、ぐらりと体を傾がせた。
「おっと……、おい、大雅、どうした!?」
突然の大雅のコンディションの変化に、相馬も戸惑っているようだった。観客席も俄にどよめいている。
大雅は相馬の腕に抱きとめられながら、視線は虚ろなまま、観客席に釘付けとなっていた。リング上は、公園の地面より高い場所に設置されていて、それほど多くない客席は、横たわりそうになっている今の姿勢でもかろうじて見ることができた。その中から、スッと立ち上がり、会場を去っていく人影がみえた。
男と、しおりと、しおりに手を引かれてたどたどしい足取りで懸命に歩く、小さな男の子。次第に遠ざかっていく三人の背中が、まるでこちらに近づいてくるかのような錯覚をおぼえる。
大雅は両腕で、汗まみれの自分の体を抱くような体勢となって、ヒイヒイと過呼吸のように喘いだ。目は見開かれ、血走り、こんなに気温は暑いというのに、相馬が触れている大雅の皮膚が、みるみるうちに冷えていった。
「担架!! 担架を頼む!!!」
相馬が叫んだ。大会のスタッフがざわめく。
「し、師匠、オレ、恥ずかしいですっ、大丈夫っす」
担架という言葉に羞恥心が先走ったのか、大雅は涙目になりながらも相馬によりかかって、ゆっくりと立ち上がった。
「歩けるのか?」
「はい。……すみません、お騒がせしました」
相馬が肩を貸してくれる。大雅は対応に苦慮しているであろう野村に会釈をすると、それに捕まりながら、しかし、しっかりとした足取りでリングを後にした。
歩みを進めるにつれて、大雅は我に返っていった。それでもまだ胸の動悸はおさまらず、自分は試合の勝者だという栄光も、すっかり頭から抜け落ちていた。
リングを下りると、大雅の応援に駆けつけたつぐみ道場と、しょうりつ学園の面々がそこに集まっていた。急変した大雅の様子に一同が動揺して、席を立って移動してきたのだ。
「あ……、マ……マサノリ先生!」
大雅は、集団から人ひとり分ほど離れた場所でこちらを見ていた藤本の姿を見留めると、相馬の支えを振りほどいて彼の元へ走り寄った。無我夢中だった。普段の藤本との確執など、頭になかった。しょうりつ学園からは、他に平山と森本、それに陽太が会場を訪れていたが、大雅は彼ら以外の誰よりも、藤本にすがりついた。これには、藤本が一番驚いていた。
「ど、どうしたんだ、そんなに取り乱して」
「あ……、どうしよう……、あ、アイツが……アイツらが……先生っ……子供……ああっ……ダメだ……うあああっ!!」
「おい、大雅!」
大雅の呼吸が、また危険な音になる。しゃくりあげるように息を吸い、そのまま息を止める。大雅とは無関係の、近くに観客たちの中には、何事かとちらちらと見てくる者もいた。
相馬が近づいてきて、藤本にすがりついていた大雅の腕を、ぎゅっと握りしめた。
「大雅、落ち着きなさい! お前がそんな様子だと、周りの者は戸惑うばかりだろう。いつも言っているように、格闘家は常に、平常心を保っていなければならない。お前は闘いの最中、そうやって取り乱して、勝機をみすみす逃すのか!」
明らかにいつもとは様子が違う大雅には、少し手厳しい言葉だったかもしれないが、相馬の声を叱咤を聞いて、大雅は少し落ち着いたようだ。揺れ動いていた目の焦点が定まって、彼は大きく息を吐いた。
汗なのか、涙なのか、もはや区別がつかない体液を拭うように、グローブの甲で顔をこすった。
「す、すみません、師匠……」
いくらか平静を取り戻した大雅だったが、体はまだ小刻みに震えていた。落ち着いた隙に、相馬は圭二が持っていたタオルを大雅の肩にかけた。大雅は、まるで寒さに身を寄せるかのように、ぎゅっとそのタオルを体に引き寄せた。
大雅が落ち着いたのは、それから十分ほどしたあとのことだった。相馬と藤本以外は一旦彼の元から離れてもらい、会場のはずれにあったベンチに座り、試合の格好のまま、気を鎮めることに徹した。
梶谷が気を利かせて持ってきてくれたスポーツドリンクを相馬から受け取ると、半分ほど一気に飲み干した。
「すみませんでした……」
試合が終わってからの自分を省みたのか、大雅は消え入るような声でそう言った。
「相手から攻撃を受けて、そのダメージで調子が悪くなったわけではないんだな」
相馬が尋ねると、大雅はこくりと頷いた。鷹斗から貰った有効打は、相馬が把握している限りでは、KOの直前に貰った肋骨への攻撃だけだった。あの程度では、大雅なら大丈夫だろう。
「マサノリ先生、オレ……」
大雅はそう言って、大雅の前に立っている藤本を見上げた。今度はすうっと息を吸って、心を落ち着かせる。
「オレ、アイツらが観客席にいたのを見たんです。……アイツら、なんで……。オレを観に来たのか? たまたまいたのか……わかんねえけど、見間違いじゃ、なかった」
大雅が、敢えて固有名詞を使わずに、特定の誰かを指し、自分に訴えてくる相手として心当たりがあるのは、藤本にとっては二人しか心当たりがなかった。そしておそらく、それは合致していることに勘づいた。
「相馬さん、このイベントは、どれくらいの規模で告知を?」
なんでそんなことを聞くのだと言いたげに、相馬は眉をひそめた。
「街の複数の箇所にポスターを。あとは市の広報や、我々の団体のホームページにも告知を載せています」
「そこに大雅の名前は載っていますか?」
「ええ。出場選手として。そんなにでかでかと載せてはいませんが」
相馬はそこでようやく気付いたようだ。ポスターにしろ、広報やホームページにしろ、不特定多数の誰かが目に入れる代物だ。つまり大雅にとって、見られたくない相手であっても、平等にイベントの告知を目にする機会が与えられる……ということに。
しかし相馬は、その相手が大雅の両親であるとすぐには結びつかなかった。まずは、自分も存在だけは知っている克弥たちを思い浮かべたが、それにしては大雅の取り乱しようが激しいことが引っかかった。そしてようやく、相馬の頭に、大雅の親が姿を見せたのではないかという結論が湧いて出てきたのだ。
「すまない、大雅。私の配慮が足りなかった」
相馬はそのとき、目の前の、体ばかりは一人前に成長したものの、まだまだ人としては脆いところをたくさん持ち合わせている幼気な少年を、ぎゅっと抱きしめてやりたくなった。ボディーランゲージという言葉が存在しているように、言葉では伝わりにくいものも、この世界にはたくさんある。口先だけはいくら大丈夫だと言ったとしても、それでは大雅は安心しないだろう。人の温もりを肌で感じてこそ、ようやく満たされる気持ちがあって、大雅はおそらくそれを知らない。大雅にこの世で最もそれを教えてやるべき役割を持つ者たちが、あろうことか正反対の仕打ちを彼に与えたのだ。許されていいのか、そんなことが。そして、成長した大雅を目にする権利が、そんな奴等に与えられて然るべきなのか。
有り得ない。相馬の中で、ふつふつと静かな嚇怒がこみ上げてきた。幸せの端くれを、それを知らなかった少年が、指先に掴もうとした矢先の出来事だ。
ようやくここまで来たのだ。随分と遠回りをした。ゆっくりと築き上げてきた大雅の矜恃を、人間として当たり前の尊厳を、何人にも奪わせるわけにはいかない。
「マサノリ先生! オレ……、見ちゃったんです。アイツら、子供産んでた。もう……か……か……母さん、に手を繋いでもらって歩いてた。てことは、あの子はオレの弟……なんだよな……。ダメだ! マサノリ先生、あの子を助けてやってください! オレみたいな目に遭っちゃダメだ! あんなヤツら、まともに子供なんか育てられねえよ!」
悲痛な大雅の叫びに、相馬は目頭が熱くなった。自分もさぞ辛いだろうに、不意に知ることとなった義兄弟の存在を受け入れ、その者の安否をも気遣える大雅が、もうどうしようもなく眩しく見えて、直視できずに、静かに鼻を啜った。
「お前の気持ちは分かるが、私にはどうすることもできない」
藤本が言った。それはきっと、いや、絶対に大雅の望んだ答えではなかった。藤本も、自分の本心の言葉ではなく、彼の立場上致し方なく事実を述べたまでだろう。
大雅はみるからに落胆した。
「大雅、ほんとうに情けないが」
藤本はそう言って大雅の隣に腰を下ろした。「もしも、大雅の見た小さな男の子と、私たちが関わるとしたら、それはもう事が起こってしまったあとだ。私たちは、未然に動いて、みだりに大雅の両親と、その男の子を引き離すことは出来ない。あるいはすでに児童相談所の方々が動いている可能性もあるが、私の個人的な見解ではその可能性は薄いと考える。児童福祉の人間が動けるのは、明らかに親子関係にひずみが生じたと判断されたときだけなんだ」
「くそっ……そんなの、あんまりじゃねえかっ……」
大雅は悔しそうにそう言って、拳をぎゅっと握りしめた。それは、藤本に改めて諭されなくとも、大雅自身が身をもって経験した現実である。この世界には、どうしようもないことを、どうしようもないと結論づけねばならない時が多々ある。ほんとうに正義という名の大義をかざして動くなら、最悪の事態が起こる前に対処しなければならないはずなのに。
常識の中で生きてきた者たちには、酷な現実だ。藤本とて、なにも子供を見殺しにしたいわけではない。叶うならば、大雅の申しつけた通りに藤堂家の新たな親子のえにしを断ち切り、起こりうるかもしれない虐待の連鎖を阻止したかったのだ。
あるいは。
大雅の両親が、彼の件をきっかけに改心した可能性に賭けてみる。しかしそれは、天文学的な確率だと、藤本のこれまでの経験が物語っている。
児童相談所は、藤堂家に新たな子供がいることを把握しているのか。把握しているならば、適切に動いているのか。把握していないのなら、それを報告するのは、藤本の役目だ。
「大雅、よく聞いてくれ」
藤本は正面から、眼鏡越しに大雅を見据えた。
「大雅の弟を直接的に助け出すことは出来ないが、私にも少なからず方法は考えられる。あらゆる可能性を視野に入れ、きっと最悪の事態が起こらないように努めよう。だから安心しなさい。これ以上、藤堂家に悲劇を生んではならないと思っているのは、私も大雅とおなじだ。」
「それ……本当なんだな……」
大雅の表情は陰っていたが、藤本の目を見て、彼は静かにそう言った。
「本当だ」
声が震えていないか気になった。一人の少年の気持ちを鎮めるために、口から出任せを言っているとも捉えてしまいそうだ。人の命がかかっている。それほどに重大な案件だ。
「分かった。マサノリ先生、ありがとう」
大雅は俯いて、ため息のような長い息を吐いた。
託された。もしもなにもかもが上手くいかず、最悪の事態を招いてしまったとしたら、こんどこそ本当に、大雅は自分に心を閉ざしてしまうのだろうなと、藤本はひそかに戦慄した。



