「流石の大雅も、緊張してる?」
「おい、なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「あ、大丈夫そうだね」
 圭二の前では、どうしても強がった態度をとってしまうが、人生初の、総合格闘技の対人戦に挑む大雅は、朝からはやる気持ちを抑えるのに必死だった。
 星野公園の広場に設営された簡易テントの中で、大雅は相馬や圭二と共に試合前の準備をしていた。彼のために応援に駆けつけてくれたつぐみ道場の面々は、観客席で出番を待っているらしい。プロ選手の三人も足を運んでくれたというから、大雅は余計に気持ちが昂ってしまった。
 残暑というには暑すぎる気温だった。灼熱の陽光が公園を照らし、立っているだけでも皮膚に汗が滲み出てくる。テントの中は、即席の空調が備えられていたが、大雅の体に熱波を吹きつけてくるだけで、涼をとるには全くの逆効果だった。
 野外に設置されたリングの両側に、それぞれ赤コーナーと青コーナーの選手が控えるテントがあり、大雅は対戦相手の鷹斗より年長であるからか、赤コーナーに振り分けられていた。
 オクタゴンケージと呼ばれる、総合格闘技では主流である八角形のリングで闘うのも、大雅は初めてだ。つぐみ道場は、相馬がキックボクシングも教えているから、スペースの都合上、通常の四角いリングしか設けられていなかったため、金網に囲まれた中で拳を振るうのだと思うと、奇妙な感覚だった。
「月並みな言葉だが、お前の培ってきたことを全力で出しきりなさい。私は、大雅の勝利を信じているよ」
 テントの外からは、選手が打ち合う打撃音や歓声、ときにはセコンドの怒鳴り声までがもろに聞こえてきた。そして、試合の合間に、テントに戻ってきた選手たちの様子も悲喜交々入り混じっていて、リングの上で繰り広げられた闘いの熾烈さを物語っているようであった。

「東堂選手、準備はいいですか?」
 テントの入口から顔を覗かせた係員が、ついに大雅の名を呼んだ。大雅は相馬と圭二の顔を交互に見たあと、「ッス」と、返事をした。
「頑張れ!」
 圭二の声を背に受けて、大雅はリングを目指す。皮膚を突き刺すような日差しの下で対峙した対戦相手は、やはりあの有馬鷹斗だった。
 当時の面影はそのままに、鷹斗の体つきは格闘家らしく引き締まっていた。思慮深い印象を与える目つきに、ひと匙の猛々しさが垣間見える。
 鷹斗が大雅のことを覚えているのか、あるいはなにかを思っているのか、その表情からは伺い知れなかった。
「頭突き、股間への攻撃、ロープを故意に掴む行為、後頭部への攻撃、肘での攻撃をしないように。互いにクリーンファイトを心がけて!」
 大雅と鷹斗のあいだに立つ若いレフェリーは、相馬と同じくらいの年齢にみえた。坊主頭のその青年は、水色のポロシャツを着ていて、胸元に「野村」と苗字が刺繍されていた。いつだったか、大雅が一人で道場にいたときにかかってきた電話の相手と同じ名前だと気付いた。とはいえ、同一人物かどうかを確かめるすべはない。大雅は鷹斗に倣って、野村の言葉を聞きながら頷いた。
 野村の説明が終わると、二人はグローブを軽く突き合わせ、一礼をした。少し間をとって、ボックスの声がかかる。大雅の心臓は、どくんと大きく跳ね上がった。

(アイツがどんなファイトスタイルか様子をみるか)
 口に含んだマウスピースをぎゅっとひと噛みし、様子見のジャブを繰り出した。鷹斗は冷静にそれをかわし、カウンターを合わせてくる。小手先の攻撃くらいは冷静に対処できそうだ。
 適度な間をとりつつ、ステップを踏む。右のローキック。宙をきった。刹那、鷹斗の左ジャブが眼前にまで近づいてきて、大雅はバックステップでそれをかわした。
 リング上を縦横無尽に移動しながら、ワンツーからの右ロー。大雅のコンビネーションはなかなか有効打とはならず、鷹斗は冷静にカットしていく。まだ試合が始まって三十秒ほどしか経過していないというのに、練習のときとは違い、体力が削られていくのを感じた。これが対人で闘うということかと、大雅は身をもって感じていた。頭皮からじわじわと汗が滲み出てきて、ヘッドギアの中が蒸している。相馬や圭二の声援が聞こえるが、正直なにを言っているのかは理解できなかった。それと同様に、観客席を見る余裕もない。視界によぎる景色の中に、沢山の顔がぼやけて並んでいるような、その程度の感覚だった。これも場数を踏めば、せめてセコンドの声がまともに判別できるようになるのだろうか。
 まみえる鷹斗の表情は、真剣そのものだった。大雅の一挙一動も見逃さないとでも言いたげな気迫を感じる。口を真一文字に結び、眉を引き締めて大雅の隙をうかがっている。
(オレの動きをじっと見ているってことは……)
 大雅は、時間が経つにつれて頭の中がすうっとクリアになっていくような感覚をおぼえていた。色々なものがこんがらがっていた思考が、実は一本の糸で繋がっていたかのようにシンプルになっていく。
(フェイントにも引っかかりやすそうだ!)
 大雅は攻め込んだ。ダンッとリングを踏みしめ、右のミドルを放つ……ように見せかける。鷹斗は撃たれまいと防御を左半身に集中させたため、右の脇腹に隙が生じた。狙い通り。大雅は右足を引っ込め、鷹斗が自分の狙いに気付き、表情を歪ませたのを確認した瞬間、左フックを彼のがら空きの右脇腹に打ち込んだ。
 鷹斗の顔が、苦悶の表情に変わる。
「大雅! いいぞっ! いけっ!」
 まるで小学生のような語彙の圭二の声援が、大雅の耳に届いた。観客がどよめく様子も分かった。そこで初めて、大雅は自分が試合を有利に進められていることに気付いた。
 鷹斗がバランスを崩し、よろけた。大雅はそれを見逃さず、タックルをして鷹斗に突撃をする。
 鷹斗の背中がリングの金網に激突し、そのままずり落ちるようにして尻餅をついた。
「ぐっ……」
 鷹斗が短く息を吐いた。その吐息が、大雅の肩甲骨のあたりに吹きかかったのがわかった。鷹斗の胴に腕を回す。組み伏せようと、さらに爪先で床を蹴って、自分の体を押しつける。
 鷹斗が足をばたつかせて、拘束から逃れようとする。彼の踵が、大雅の腰に打ちつけられる。鈍痛を耐える。急所には入らない攻撃とはいえ、大雅の集中力を削ぐきっかけにもなっている。もっと自分に技術があれば、鷹斗の四肢を拘束して、自分にダメージが降りかからないように出来るはずだと、大雅は歯噛みした。
 鷹斗側のセコンドが、鷹斗に「諦めるな! 相手の上をとれ!」と叫んでいる。大雅が、ちらりとリングの外を見ると、鷹斗を組み伏せた場所は、相手陣営に近い場所だったようだ。
(このまま……締められるか!?)
 そう思ったとき、大雅の拘束が意図せず緩んだ。鷹斗の右腕がするりと縛りを抜け、拳が大雅の胸の斜め下に打ちつけられた。
「があっ!」
 肋骨に、まともに痛みが響いた。口腔内に唾がどばどばと出てきて、マウスピースが湿った。広がるレジンの味は慣れておらず、少しえづきそうになって、さらに拘束が緩まってしまう。
(ここで無駄な足掻きはしないでおかねえと……)
 大雅は自分から飛び退いた。鷹斗にマウントをとられてしまえば、勝機は一気に遠のいてしまう。突如身体が自由になったことに驚いたのか、鷹斗は目を見開いて一瞬固まった。その隙に、大雅は鷹斗の大腿部にローキックを三発撃ち込む。鷹斗は攻撃を受けながらも、右の手のひらを地面について、自分の身体を上に押し上げるようにして立ち上がった。レフェリーはストップをかけない。鷹斗が拳を構えなおすその一瞬の隙に、大雅は右のミドルを打ち込んだ。鷹斗の脇腹にまともに炸裂して、肉を打つ打撃音が会場に響き渡る。
 鷹斗がぐらついた。大雅は間髪を入れず、懐に潜り込み、反対の脇腹にフックを炸裂させ、がら空きになった鳩尾にストレートを打ち込んだ。
「ストップ!!」
 野村の張り上げた声が耳元で響き、大雅はハッと我に返る。目の前には、背中を丸めて崩れ落ち、苦しみにのたうつ鷹斗の姿と、自分を制しているレフェリーの腕が映った。
 一ラウンド二分十六秒。大雅のTKO勝ちであった。

 闘いを終えて初めて、全身にどっと汗が噴き出してきた。身体を流れ落ちてリングに染みこんでいく汗がみえる。疲労が腹の底から押し寄せてきて、脳の中が白い閃光に覆われているような感覚に陥った。
(勝った……んだよ……な、オレ)
 観客席からは大雅と鷹斗を称える拍手が起こっている。
「勝者、赤コーナー、藤堂大雅!」
 リングの中央に促され、野村から勝利の宣言を受ける。観客席から歓声がひときわ大きく上がった。
身体の内側からこみ上げてくる、熱いなにかを形容する言葉が、大雅には見つからなかった。ぐちゃぐちゃの心の中を、必死で整理するかのように激しく呼吸をする。空気が気道につっかえて、咳き込みそうになるのを必死でこらえた。
 鷹斗はスタッフの介抱を受けて落ち着いたようで、大雅の背後でゆっくりと立ち上がった。ダメージはまだ身体に残っているらしく、脇を抱えられながらよたよたと歩く。
 大雅は、鷹斗の元に駆け寄って、礼を言おうとして、ぐるりと体の向きを変えた。
(……え?)
 ほんの一瞬、思考が止まる。観客席を走った自分の視界に、違和感がよぎった。それでも、鷹斗に挨拶をするほうが先だ。はやる気持ちを抑えて、鷹斗に近づく。
「あ、有馬くん、ありがとうございました」
 向き合う鷹斗が不思議そうに目を丸くした。大雅の風貌から、まさかそんな馬鹿丁寧な言葉が出てくるとは思わなかった、と言いたげな表情だった。
「こちらこそ、ありがとうございます。……あ、あの、人違いだったらすみません。昔、俺と会ったことありますよね」
「やっぱり? オレもそう思ってたんだ……。あ、あのさ」
 大雅は言葉を続けようとしたが、あとの試合が圧しているのか、それ以上の鷹斗への接触を遮られてしまった。
 ごくりと唾を飲み込む。鷹斗の引き締まった背中を見送ったあと、自陣に戻るために、もう一度体の向きを変える。その動作の一環の中で、大雅はもう一度観客席を見やった。
「あ……」
 ヒクッと喉が萎んだ。今度こそ本当に息の仕方を忘れたみたいに、大雅はその場に硬直した。瞬きをしてみても、汗を拭うふりをして目を擦ってみても、自分の視界に映っている光景が変わることはない。顎の先から、汗がぽたりと落ちて、胸元を滑っていった。全身の毛穴が開いたかのようにぞわりと悪寒が爪先から頭頂部までを駆け巡った。
「おい、藤堂くん、大丈夫か?」
 野村が大雅を覗き込むように屈んできた。大雅は、観客席の一点から目を離せず、しかし野村の問いには「はい」と、機械的に応えた。——大雅の視線の先、観客席の最後列にいたのは、一人の幼い少年をあいだに挟んで座っている、大雅の両親だった。