しょうりつ学園の支援員室では、支援員たちが大雅の試合を観に行くか否かで盛り上がっていた。
「応援したい気持ちはありますけど、僕たちが押しかけたら、大雅はびっくりして本来の実力を発揮できないんじゃないっすか?」
「なに言ってんのよ平山くん! 大雅くんが今後活躍していくんだったら、アタシたちが観に来たくらいでおろおろしてたらやっていけないわよ!」
「本人に聞いてみたらいいんじゃないですか?」
 氏原が、マグカップを机にコトリと置いて結論を言った。
「そりゃあそうねえ。あっ、応援に行くとなったら、正憲先生も来られますよね?」
「いや、私は……」
 藤本は、自分も会話の輪の中に入れられていたのかと驚いた。「私が行けば、それこそ大雅はいい顔をしないでしょう」
「でも大雅くん、学校を辞めさせられちゃってから、随分と丸くなったと思わない? 学園内の奉仕作業も、ちゃんと真面目にやってるんでしょ?」
「夏休みは、小学生たちの面倒もちゃんと見てくれていましたからね。正直助かりましたよ」
 平山の隣で、顔の彫りの深い男性職員が相槌を打った。スポーツ刈りの頭をぽりぽりと掻いたあと、シャツの袖を捲る。吉田という名の彼は、平山と五つ年上の中堅職員だった。
「アタシたちは特になにもしていないのにねえ。相馬さんって言いましたっけ? やっぱりあの人の指導がきちんとしていらっしゃるのかしら」
「僕はただ単に、退学になったのが相当堪えただけだと思いますけど」
 平山が言った。結局、試合の応援には、折をみて本人に聞いてみようという結論に至った。
 藤本は、支援員たちの会話を聞きながら、パソコンに届いていたメールを開封した。
 相馬からのメールだった。

『しょうりつ学園 藤本正憲先生
いつも大雅のことではご尽力いただきありがとうございます。
先日お話しをさせていただいた、大雅を私の道場に就業するという体で住まわせるという件ですが、大雅が承諾してくれたら、是非にと考えております。もし、何か手続き等が必要でしたら、お知らせいただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。  相馬 爽平』

 藤本の脳裏に、相馬の姿がよぎる。
 相馬は、藤本が格闘家に対して、もとより抱いていた印象は違うタイプの青年だった。格闘家として生計を立てている者の多くは、自分の強さを誇示し、粗暴で礼儀の欠片もない野蛮な輩だと思っていた。無論、それは藤本の偏向的な考えなのだが、相馬と初めて会ったときに、彼の清廉されたような立ち振る舞いに、圧倒されたのだ。
 好青年とは、相馬のような人間を表す言葉なのだなと思った。それでいて、なにやら格闘技の団体のチャンピオンだというのだから驚いたものだ。

 相馬からのメールを受信した二日後、藤本はつぐみ道場に赴いていた。月曜日の午前はレッスンがないから、その時間に来てほしいと、相馬から要望があったのだ。
 藤本は、例によって事務所に通された。いつもここに入るたびに思うが、事務所とは名ばかりで、相馬が普段、ここで事務作業を行うことはなさそうにみえた。
「先生のところのように、立派な応接室なんてものがあれば、少しは格好がつくんでしょうが」
 相馬は苦笑しながら、緑茶を入れて藤本の前に置いた。この真面目な青年は、冗談を言うのも上手くはなさそうだと感じた。
「……やはり、大雅が十八になるまでは、いまの状態を維持しなければならないということでしょうか」
 相馬は椅子を引いて、藤本の前に腰を下ろしたかと思うと、唐突に話を切り出してきた。「私たちは……あ、私には弟がいまして、弟も含め、大雅をこちらに住まわせる準備はすでに整えております」
「可能か、不可能かでいえば、可能ではあります。ただし、大雅の親権は未だ両親にある。学園を出た時点で、大雅の保護者は両親に戻ることになります」
「それはつまり……」
「大雅の両親の一存で、家に戻される可能性もあるということです」
「そんな……。だって大雅は、両親の虐待のせいで、普通の子供たちとは違う生活を送っているんでしょう!」
 相馬は眉をひそめて、神妙にそう言った。子供が、実の親に愛情を注がれず、むしろ憎悪の感情ばかりをその心に受けるなどと、相馬には想像し難い事実であった。幼い頃に両親を失ったが、彼らが生きているあいだは、相馬も、雄也も、寵愛を受けて育ってきたはずだ。
「それでも、親は親なのです。私も、個人的には、虐待を受けた子供たちを、親と関わらせるのはよくないと思っていますが、法律を振りかざされれば、なにも言えません」
「大雅の両親がここに押しかけてきたら、力尽くでも彼を守りきるつもりでいます」
「相馬さん、それは流石に、貴方の心の中だけで留めておいてくださいね」
 藤本は苦笑した。現役の格闘家が、一般人に手を出したとなると、大問題になるだろう。
「十八歳になれば、親の同意を得ることなく様々なことが出来るようになります。親権から外れ、就職や住む場所の選定も、自分で出来るようになる。その分大雅自身にも責任が生じますが、両親の元で暮らすよりは断然良いでしょう」
「学園を出れば、大雅に両親が接触してくる可能性は?」
「大いに有り得るかと。いまは両親も、大雅に接触することは許されていません。しかし、親権を外れることがイコール、両親と決別できるわけではありませんからね」
 両親との確執は、これからもずっと続くのだ。大雅もそれは薄々感じているだろう。
「相馬さん、これは私からの提案なのですが。社会生活に慣れさせるという名目で、大雅を一時的に、そして断続的に貴方のご自宅に外泊させていただく機会を設ける……というのはどうでしょうか」
「いいですね!」
 相馬の表情が明るくなった。「それが出来るのでしたら、私も精一杯協力させていただきます」
「これがもし明るみに出れば、児童の安全面だのなんだのと、私たちが各方面から突かれることになるでしょうが、なにも起こらぬことを願うほかありません」
「しかしそんなことを言っていては、子供たちの誰もが友達の家に泊まったりなど、出来ませんよ」
「ごもっともです。しかし相馬さん、我々のように、税金を頂いて運営している事業者は、なにかと風当たりが強いご時世ですからね。あっ、これはオフレコでお願いします」
 藤本はそう言って、テーブルの上の湯呑みに手を伸ばした。相馬が来客用に出している茶は、そういうものには疎い相馬の代わりに、雄也が茶の専門店に足を伸ばして購入してきたものだ。いわゆる『粗茶』だろうと思っていた藤本は、口に含んだときに旨みが広がったのに目を見張って驚いたが、相馬には気付かれなかった。
「しかし藤本先生は、素晴らしい施設長さんですね。大雅をあそこまで更生させるのは大変だったでしょう」
「いいえ、大雅のいまの姿を見られるのは、彼自身の成長もあるでしょうが、きちんと道を示してくれた貴方のおかげですよ、相馬さん。ほんとうにありがとうございます」
 藤本に頭を下げられて、相馬は顔を真っ赤にして謙遜した。
「それに私は、大雅にとっては疎ましい存在に映っていたはずです」
「えっ!? 先生、何故です?」
「施設の職員に対して、大雅が心を開く方法を模索したうえでの弊害です。彼は入所当時から、特に大人に対してはとてつもない警戒心を抱いていましたから……これまでにもそういう児童は何人かいましたが、大雅は歴代でも一、二を争うほどに心を閉ざした児童でした。あまりそういうことを比較しては、怒られるかもしれませんがね。……そこで私は愚かにも、私自身に大雅のヘイトを集めれば、せめて他の支援員たちには心を開くようになるのではと考え、それを実行に移してしまったのです。一度始めてしまえば、後戻りはできません。いまでも私は、大雅の中では憎むべき大人のひとりでしょうね」
「そんなっ、大雅のために一番動いているのは、藤本先生じゃないですか!」
 そのとき、相馬ははじめて歳相応の驚き方をした。藤本は、彼はまだ二十代半ばの青年であるのだと改めて思い知る。自分の息子だといっても差し支えない年齢だ。
「私は、相馬さんが思っておられるような人間ではありません。ひとつやり方を間違えば、後々に自分が苦労するのだということを、この歳になって思い知らされましたよ。ですから、大雅にとっては、私はなにもしていない。むしろ邪魔な存在であるでしょうし、今更彼に言い訳をするわけにもいきません」
「そういうのは、しんどくないですか? こうして私の元に来ていただいて、大雅のことを思って行動されているというのに」
「結果的に児童が幸せになって巣立っていってくれるなら、私がどう思われてもかまいません。大雅の件は、元々は自分が蒔いた種ですから。相馬さん、貴方のような方に、そう思って頂けるだけで私は嬉しいですよ」

 立ち去っていく藤本の背中を見送りながら、相馬は考えていた。なにも表舞台に立って、注目を浴びることだけが栄光なのではない。むしろ、この世界には影役者のほうがたくさんいて、そういう人たちが支えてくれるからこそ、主役が輝いてみえるのだと。
 自分は、格闘家となって、様々な人に支えられ、いまの立場に立っている。
 自分と同じ夢を抱いた少年が、いま、まさにその夢を叶えようと奮起している。大雅のために、自分が出来ることを成し遂げられるなら、それもきっと、自分の夢を叶えるのと同じくらい嬉しいことなのではないか。

 道場に戻り、自分以外は誰もいない練習所を見渡す。もう数時間もすれば、門下生たちが顔を覗かせるだろう。
 相馬は事務所から掃除機を持ち出し、隅からゆっくりとかけていった。