「大雅は昔から、自分のことを犠牲にしがちだよね」
「はあ?」
 圭二の横顔を見る。
「中学の頃のこともそうだし、退学になった事件も、みんな、君は悪くないって言ってるよ」
「てめえしつけえんだよ。またその話かよ」
 過去の出来事など、既に起こってしまったことはもう取り返しようがないのだ。大雅は、圭二がなぜそんなに他人である自分の昔の出来事に固執しているのか、理解に苦しんだ。
 笠原とのことは、もう大雅の中で終わったことだったし、克弥のことも同様だった。大雅本人がもういいと言っているのだから、放っておいてほしかった。事あるごとに話を蒸し返してくる圭二には苛立ってしまうが、それでも無下にできないのは、圭二が心の底から大雅を案じているのだろうというのが伝わってくるからだった。

 あのとき——笠原に決別を伝えたとき、どういうわけかビルの中にいた圭二と鉢合わせした瞬間、大雅は大熊たちを倒したときの何倍も恐怖を感じた。いるはずのないと思っていた人物が、自分の一部始終を見ていたという事実をしらしめた、当時の身の毛がよだつ思いは、今でも覚えている。
 
 笠原は、大雅を丸め込んで自分に従わせるつもりで仲間に引き入れたのだが、大雅にとっては、それでも充分だった。突然両親の元から引き離され、気持ちが落ち着かないまま児童相談所やしょうりつ学園を転々とさせられ、目まぐるしく自分の生きる環境が変わっていった。まったく馴染みのない中学校に転校して、何もかもが一からのスタートとなった。体や思考はそのままで、大人たちの手によって人生をリセットされたような感覚だった。右も左も分からぬまま、教室に放り込まれた大雅に話しかけてきてくれたのは、笠原だけだった。
 笠原が口にした『トモダチ』という言葉の表面が、大雅にとっては暖かく感じたのだ。
 度重なる両親の罵倒によって、大雅の自己肯定感は地の底についていた。大人たちは、大雅の『処理』をすればそれっきりで、当の本人がなにも分かっていなくとも、見向きもしてくれないようにみえた。関わりを求めるだけ無駄だと思った。深く彼らを追い求めた分だけ、裏切られると感じていた。
 その点、同年代のクラスメイトは良かった。小学生のときもそうだったが、大雅の家庭的な境遇がどんなものであっても、人間関係にはさほど響いてはこなかった。知られて困るようなことは話さなければいい。うまく誤魔化せばいい。笠原たちと一緒にいれば、大雅は余計なことを考えなくて済んだ。
 笠原たちを恐れ、あるいは疎ましく思っているやつらに、自分のことをいろいろ詮索されずに済むから、大雅にとってもいい隠れ蓑だった。
 上級生の大熊たちにへこへこしながらも、背伸びをして、悪ぶって精一杯に自分の立場を守ろうとする笠原は、大雅にとっては児童相談所で出会った非行少年たちと同じようにみえた。笠原は、彼らとおなじようなタイプのヤツだと思えば関わりやすかった。
 反面、圭二のようなヤツと関わるのは慣れていなかった。世の中の常識が正義だと信じて疑わず、間違ったことが嫌いな性格の圭二の言動は、大雅をよく苛立たせた。大人たちと同じことをいう。おどおどしているくせに、ときには必死になって自分の正義を押し付けてくる一面もある。
 大方あのときの圭二は、大雅が普段なにをしているのか確かめようと後をつけてきたのだろう。大熊の取り巻きを一人ずつ潰し、笠原を大熊から解放する目前に、圭二はのこのこと自分に着いてきた。自分が後をつけられていると気付かなかったのも腹立たしかったが、道場以外で自分に関わろうとしてくる圭二にも苛立っていた。廃ビルでのやりとりの一部始終を見られた。自分がやっていることを、つぐみ道場の関係者や、しょうりつ学園の誰かに見つかるわけにはいかないと思って行動していたから、最後の最後で圭二にばれたのは、あまりにも迂闊だった。笠原を正しい道に導くなんて大仰な真似をしたつもりではないが、彼がこのまま大熊に支配され続けるのは、なにか違うような気がしたのだ。
 
 結果的には、圭二はその後も、大雅の行動の真相を誰にも言わなかった。あるときに、なぜ言いふらさなかったのかを聞いたら、「藤堂くんが師匠に問い詰められても、頑なに言わなかったってことは、あれは誰にも知られたくないことだったんでしょう」と、真面目ぶった顔で答えられた。
「でも、藤堂くんがほんとうは、友達を助けようとしてたって知ったら、みんなの見る目も変わると思うんだけどなあ」
「ちやほやされたくてやったわけじゃねえよ」
 大熊たちの一派は、教師たちも対応に苦慮し、手をこまねくほどだったから、そいつらを一人でやりこめた大雅は、より一層周囲から恐れられるようになった。大雅がしょうりつ学園という養護施設に住んでいるという事実も、誰がいつ流布したのかは分からないが、学校中に広まっていた。
 大雅は学園と道場と学校を行き来する生活を続けていたから、それ以外の、たとえば法に触れるような行為はしていないのだが、彼に対する悪印象だけが独り歩きした。——他校の生徒とつるんで、万引きや恐喝、煙草、喧嘩などに手を染める日々を送っている。
 ありふれた悪行の噂だった。当の大雅は何もしていないのだから、具体性もなにもない。ただ、彼の普段の言動や態度から、周りが勝手に判断して作り上げた作話である。
 大雅自身、自分がそんなふうに言われていることには気付いていた。分かっていて、特に自分からは訂正もしなかった。他人の考えを変える人望も手立ても知らない。どのみち、独りで後ろ指を指されながら生きていくのは慣れている。毎日親の顔色をうかがいながら、生死の境を行き来していたあの頃よりも、今のほうがずっとましだと思っていた。

「オレはもう、大丈夫だから」
 大雅はそう言って圭二から視線をそらし、道場の見学者の対応をしている相馬の背中を見つめた。
 落ちるところまで落ちたら、あとは這い上がっていくしかない。どんなに深い谷底でも、降り立つ場所はある。
 大雅は、本人には言っていないが、圭二の言った『仲間』という言葉をいまも大切にしていた。他人を信用するのは怖かったが、その反面、手を差し伸べてくれる誰かを求めていたのかもしれない。独りでは挫けそうになることも、誰かと一緒ならば乗り越えられることもある。それが、仲間というものだと思っている。
 初めの頃は、圭二には嫌われていたような気がする。自分もいけ好かないと思っていたから、そういうものはきっと、相手にも伝わるのだろう。あれから数年経って、自分も圭二も少し大きくなった。ただ歳を重ねただけだといえば元も子もないが、互いのことをわかり合えるくらいには、少しは成長したと思いたい。

「あの見学者の前で、オレたちがスパーリングをやったら、ビビって帰っちまうかな。やってみるか?」
 大雅はそう言っていたずらっぽく笑った。それはかつて圭二が小学生だったときに見た、教室の中心で笑っていた、あの少年の笑顔によく似ていた。