塚内圭二が大雅を『藤堂大雅』だと認識して初めて出会ったのは、つぐみ道場に大雅が入門してきたときだった。髪を金色に染めた、いつも傷だらけの同級生。学区が違うから通う中学校は別だったため、染髪している同級生を目の当たりにするのは、圭二にとっては初めての経験だった。
(なんだかガラの悪い怖そうな人が来ちゃったなあ……)
圭二は小心者だった。故にいじめっ子と不良には苦手意識を持っていて、周りにいるそのような者たちに舐められないようにしようと思ってつぐみ道場に入門したが、長く抱いていた潜在意識をなかなか払拭することは困難だった。
当時の大雅は痩せぎすの小柄な少年だったが、圭二にとっては彼の体格の大きさなど関係ない。自分がいくら体格では勝っていても、大雅の存在は恐怖だった。
感情の導火線にいつも火が灯っていて、ちょっとしたことでそれが爆発する。腫れ物を触るかのような扱いをしなければ、自分にも危害が加わるような気がした。
「圭二」
大雅が入門した初日、相馬は一番に圭二を呼び寄せた。サンドバッグを打ちながら、おっかなびっくり彼らの様子をちらちらと見ていた圭二は、「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、足音を大袈裟に立てながら彼らに近づいていった。
「今月から道場に入る藤堂大雅だ。圭二とは同級生だぞ」
「はっ、はいっ……よろしくっ、お願いしますっ」
圭二は無意識のうちに、履いている短パンの裾をぎゅっと握りしめていた。おどおどと目を泳がせ、相馬にも大雅にも目を留められなかった。ほんの一瞬、大雅と視線がかち合ったときに、尖った目つきで睨みつけられているのを見て、口から内臓が飛び出そうなほどに驚いた。
(ど、どうして僕は睨まれてるんだろう……なんかしたかな……)
心臓の鼓動が早くなり、圭二はどっと冷や汗が噴き出してきた。
道場では傷が出来るような打撃練習を行っているおぼえはないのに、大雅の体は、いつもどこかが傷ついていた。痣や擦り傷が絶えることなく、見かねた相馬が手当てをしてやっている様子を何度も目撃した。
「どうしてこんなに怪我をしているんだ」と相馬が問うても、大雅はそっぽを向いて「しらねえ」とふてぶてしく答えるだけだった。
圭二は、そんな大雅の様子をみて、次第に憤りを感じている自分がいることに気付いた。
(相馬師匠がこんなにも気にかけてくださっているのに、この不良は、つっぱってふくれているのがカッコイイとでも思っているのか!)
普段は穏やかな圭二だが、元々曲がったことは嫌いな性分のため、自分でも気付かぬうちに大雅への不満や怒りが蓄積していった。その感情が決壊したのは、大雅が道場に入門して半年ほどが経ったときのことだった。
「おいっ!」
大雅が相馬に詰問され、それに答えないのはいつものことだが、近くにいた圭二が声を荒げたため、流石の相馬も驚いた様子で彼を見留めた。
「い、いい加減にしろよ! 師匠が心配して、どうして怪我をしたのか聞いてんだろ! 素直に答えたらどうなんだ!」
一気にまくし立てて、しまったと我に返ったときには既に遅かった。鋭利な刃物のように鋭い大雅の視線をまともに浴びたからだ。
体じゅうのどこも痛くないのに、痛覚が脳を刺激していた。ごくりと唾を飲み込む。
「あ? なんだてめえ。喧嘩売ってんのか?」
「……いっ、いや、そんなんじゃ……ないよ」
目が合った。ひゅっと喉が鳴る。怖くて、いますぐにでもここから立ち去りたくなった。だが、大雅の視線に射止められたかのように、圭二は動けなかった。
次の瞬間、相馬の反応が遅れるほどの俊敏さで、大雅は圭二に飛びかかってきた。
「あっ!」
圭二も反応が遅れた。
「ふざけんじゃねえぞ! てめえになんの関係があるんだ、なんも知らねえくせに、首を突っ込んでくるんじゃねえよ!」
それは圭二が初めて聞いた、大雅の怒鳴り声だった。いままでぼそぼそと言葉をこぼすことしかしなかった彼が、感情を剥き出しにして喚いた——虎嘯のような猛りだった。
防御もかなわず、圭二は大雅の拳で顔面を滅多打ちにされた。視界が潤み、涙が零れているのに気付く。
「大雅! やめなさい!」
相馬に羽交い締めにされ、抑え込まれれば、大雅は身動きがとれずにばたばたと床に這いつくばって足掻くしかなかった。
何発も殴られて腫れ上がった顔よりも、心が痛いと思った。圭二はしばらく床にへたり込んだまま、呆然としていた。
僕は地雷を踏んでしまったのか。
自分の言動で他人を逆上させたのも、他人の言動で自分が激昂したのも、圭二にとっては初めてのことだった。鼻の下をぐしぐしとこすると、手の甲にべったりと血がついた。鼻血が出ていると気付いた。
相馬に抑え込まれたままの大雅は、まだ興奮が冷めやらないようで、フーフーと息を荒げていた。
「落ち着け、大雅! 突然相手に殴りかかったら、もっと深刻なことになるぞ!」
圭二から見た大雅は、相馬の言うことはいくらか素直に聞くときが多かった。興奮していた大雅は、次第に落ち着きを取り戻していき、相馬が抑えつけておかなくともおとなしくなった。
「圭二、大丈夫か?」
「は、はいっ!」
まだ心臓が早鐘を打っていたが、圭二はむくりと起き上がった。自分のことよりも、大雅が心配だった。
「鼻血が出ているな。止血しなければ」
「だ、大丈夫です!」
殴られた箇所がじんじんと痛む。口の中も切れているような感じがする。圭二は相馬にそれを勘づかれないように努めた。拘束を解かれた大雅をちらりと見る。目が合って、反射的にサッと視線を逸らしてしまった。
「おぼえてろよ、てめえ」と吐き捨てられたのは、きっと空耳ではなかったはずだ。
程なくして、圭二の通う中学に、ある噂が流布されるようになった。それは、隣の学区の中学で、非行少年たちのグループが、色々と『幅をきかせている』という内容で、人伝に話が渡るにつれて内容に尾鰭がつき、半グレ集団の根城に出入りしているだの、なにかヤバいことにも首を突っ込んでいるだの、到底中学生の少年たちが背負うには荷が重そうな眉唾ものの話ばかりが耳に入ってくるが、真実は分からなかった。
クラスメイトたちが面白半分に話すその内容を耳にして、圭二はそのたびに大雅の顔が頭に浮かんだ。
(藤堂くんは……大丈夫なのかな)
大雅の見てくれは、安直に彼が不良だと判断するには充分なものだった。金髪の頭に、どこか粗暴そうな雰囲気。棘のある言葉遣い。いつも傷だらけなのは、喧嘩に明け暮れているからじゃないかと、圭二は考えていた。
大雅は道場には定期的に顔を出して、黙々と練習に参加しているが、道場の外でなにをしているのかは圭二の知ったところではない。
大雅は挨拶はしてくるものの、それ以外は極端なほど口数が少なかったし、圭二もよほどのことがない限りは、彼に関わろうとはしなかった。挨拶をするのも、おそらくは相馬がきつく咎めてくるからであって、それがなければ、一言も言葉を交わすことなどなかっただろう。
それは、圭二が大雅に話しかける勇気がなかったのが一番の原因だろうが、そのくせ彼の存在や言動は、とても気になっていた。品行方正とは一概にはいえないかもしれないが、比較的真面目で精悍な印象を持つ青年たちが集まるつぐみ道場の門下生の中で、大雅の存在が異質だったからかもしれない。相馬は明らかに大雅に手を焼いていたが、彼の仕出かす愚行に関して、なぜ彼を破門にせず、ときには厳しい兄のように叱責していたのか。圭二は大いに首を傾げるしかなかった。
ある日、道場に顔を出した大雅が、入口の扉を開けた途端、そのままその場にへたり込んでしまった。どさりと派手な音がしたので、道場の中にいた全員が一様に顔を向けた。
「大雅!?」
相馬が大雅の元に駆け寄った。圭二はそのとき、着替えを終えて更衣室から出てきた瞬間だったので、事態をのみ込むのに時間がかかった。
「と、藤堂くん!」
圭二は手に持っていた用具をすべて放り出して、大雅に走り寄った。みるからに具合が悪そうだ。顔が紅潮していて、息遣いも荒い。気になったのは、大雅が着ている学生服がびしょ濡れになっていたことだった。
「圭二、タオルを!」
そばに圭二が寄ってきた気配がした相馬は、振り返らずに声を張った。圭二は「は、はいっ!」と慌てて返事をして、つんのめるようにして更衣室に戻り、棚に置いてあったタオルを何枚かひっつかみ、元の場所に戻った。成長期に差し掛かったばかりの当時の大雅は、まだ背も低く、体格も出来上がっていなかったため、相馬が抱きかかえれば移動は容易だった。普段はベンチプレスのトレーニングに使っている細長いベンチに、仰向けに寝かせる。大雅はぼんやりとしたまま、潤んだ目を閉じないようにこらえている様子だった。
大雅の全身からは、ツンと臭気が漂っていた。ヘドロの匂いだ。圭二は思わず顔をしかめた。
大雅の異様な姿に、門下生たちは練習をやめて、わらわらと集まってきた。「どうしたんだ?」「おい、大丈夫か?」「溝に落ちたのか?」などと、みんな口々に思いついたことを口走っている。
「みんな、心配なのは分かるが、あまり騒ぐと大雅もびっくりするからな。各自、練習を続けておいてくれ」
相馬の言うことはもっともで、皆、彼の言葉に従ったが、では練習に集中できるのかはまた別で、誰もがトレーニングをしながらも、意識は大雅に注がれていた。
相馬は、大雅の体にこびりついた泥などの汚れを拭き取り、自分の体も汚れるのも厭わず、額に手を当てて熱感を確かめた。
(……熱がある?)
体調不良を疑った相馬は、圭二に命じて体温計を持ってこさせた。そのあいだも、大雅は口を半開きにして、ハアハアと胸を上下させていた。まずは服を脱がせて、これ以上体を冷やさないようにするべきなのかと考えたが、相馬にとって、こんなことは初めての経験であったから、自分が平静を装うので頭はいっぱいだった。
「学園に電話を……」
ぽつりと呟いて立ち上がったとき、服の裾を掴まれた。見ると、大雅が腕を伸ばして、相馬を見ていた。ひくつく唇をなんとか動かして、声をあげた。
「やめ……ろ……」
声はかすれていたが、大雅の意思ははっきりと届いた。
「しかし大雅、いまのお前は明らかに普通の状態じゃないだろう」
「ぜ……ぜっ……たい……言うな……もし、電話なんかしてみろ……ここで……舌を嚙んで死んでやる……」
荒唐無稽な発言だ。ぐいっと相馬のシャツの生地が引き伸ばされる。丸首が歪んで、鎖骨が剥き出しになった。大雅は至って真面目だった。必死に、自分の思いの丈を伝えようとしている。
相馬は躊躇した。リングの上で、強敵を相手にしたときとはベクトルの違う焦燥が、心の中で激しく蠢いた。シャツの生地の繊維がピリピリと音を立てる。相馬はしゃがみ込んで、大雅の顔を正面から見据えた。
「では、せめてお前の身になにがあったのか、私に話しなさい」
相馬が言い終えたとき、大雅の腋に挟んだ体温計が鳴った。抜き取って確認すると、微熱があるようだった。
長い沈黙。大雅はうっすらと目を開けたまま、ただ天井を見つめている。ときどき唇を噛みしめたり、ぎゅっと歯を食いしばったりする様子がみられた。言葉を探しているのだろうか。相馬とは必死で目を合わさないようにしているようだった。
「藤堂くん、ちゃんと話したほうがいいよ、ほら、師匠も心配してくださってるんだよ。なにがあったのか話してくれないと、僕も困るよ……」
圭二も必死だった。普通じゃないよ、こんなのと言葉を続ける。大雅は静かに目を開いて、「てめえに心配される筋合いなんかねえよ」と、消え入るような声で言った。
「そんな寂しいこと言わないでよ。藤堂くんはどう思ってるかわからないけどさ、僕たちは同じ道場の仲間なんだから」
「……仲間」
雰囲気にのまれて衝動的に言ってしまったから、大雅には鼻で笑われるか、また怒られると身構えたが、圭二の予想に反して、大雅は消え入るような声で呟いた。
「そうだよ!」
果たして本当にそう思っているのだろうかと自問する。道場の中でも異端な存在である大雅の存在を、疎ましく思っていたのではないか。師匠の前だから、自分がいい顔をしようと思って口から出任せに体のいい言葉を言っているだけなのではないか。
大雅と目が合う。自分に少しでも疚しい思いがあるせいか、圭二は大雅に心の内を見透かされているのではないかという感覚に陥った。
大雅は責めてはこなかった。ただ、圭二の言った「仲間」という言葉を、その意味を考えるようにぼうっと一点を見つめていた。
「……オレは」
大雅は上体を起こした。「……トモダチ、を助けたかった……だけだ」
そこで初めて、自分の体から放たれている臭いに気付いたかのように、大雅は鼻に皺をよせた。
追求しても、それ以上は頑なに口を割ろうとしなかったので、相馬はついに根負けをして、大雅を着替えさせた。着ていた制服を脱ぐと、大雅の体は見えなかった部分も傷だらけになっていた。
「おい、じろじろ見てんじゃねえよ、ヘンタイ」
大雅に睨まれて、圭二はサッと目を逸らすしかなかった。こんなやつ、放っておいて、さっさと練習に戻ってやろうかと、ムッとする。でも、感情のままに行動すれば、きっとあとで余計に大雅のことが気になってしまうに違いないと思い直した。いけすかないやつだけど、ほんの一瞬感じる彼の一面に、放っておいたらこのまま大雅のなにもかもが崩れていってしまいそうな、そんな気配を感じるのだ。
「ぼ、僕、師匠に言われて着替えを持ってきただけだから」
圭二はそう言って、そそくさと更衣室をあとにした。しばらくして大雅が道場内に戻ってきた。そのままベンチに座り、他の門下生たちの練習の光景を眺めている。
「藤堂、おまえ一体どうしちゃったんだ?」
更衣室の一番近くの場所でダンベルを持ってシャドーをしていた門下生のひとり、鳥川隆之介が、ワンツーを繰り返し放ちながら大雅に話しかけた。隆之介は、当時、国立大学の文学部に通う一年生で、キックボクシングを学びたいと入門してきたばかりの青年だった。人見知りをしない性格で、大雅にも圭二にも、そして相馬にもガツガツと話しかけていくタイプであった。
大雅がうんともすんとも言わなくとも、隆之介は気にする素振りもみせずに彼に絡んでいくのだった。
「ドブくせえ格好でここにくるなんて、普通じゃないだろ。なあ大雅、聞いてんのか?」
「うるせえよ」
「あっ! またおまえはそうやって無礼な口を利く! おれじゃなかったら、ぶっとばされるぞ」
「……」
大雅はそっぽを向いた。隆之介はダンベルを床に置いて、スタスタと大雅のほうへ歩いていって、横に腰掛けた。
「かわいいなあもう、大雅は」
そう言って隆之介は、大雅をぎゅっと抱きしめて、つんつんと彼の頬を指でつついた。
「……てめっ、やめろ!」
大雅は驚愕し、手足をじたばたさせて離れようともがいたが、隆之介に軽く笑われてあしらわれるだけだった。
「なあ、大雅。おまえが他人を誰も信じられないのは仕方ないのかもしれないけどさ、少なくともここでは相馬さんは、お前のことをなんとかしてやりたいって思ってくださっているんだ。大雅が心の中でなにを抱えているのかは分からねえけど、相馬さんにはちゃんと、話しておいたほうがいいんじゃねえか」
隆之介が優しく諭しても、そのときは、大雅の心の牙城が簡単に崩れることはなかった。
——藤堂くんは普段、なにをしているんだろう。
圭二はその真相を知りたい一心で、数日後に大雅が通う中学校の校区に足を運んだ。自分がどこの学校の生徒かはわからないように、一度家に帰って私服に着替えてから出てくるという徹底っぷりだった。
自転車を漕いで学校の周辺に辿り着く。電柱のかげに隠れて、校門から大雅が出てくるのを待つ。なんだか、探偵になったような気分だった。
大雅が他の生徒たちの群れに紛れてひとりで出てきたのは、終礼のチャイムが鳴ってから二十分ほどが経ったあとだった。
まさか圭二に自分の行動が見張られているとは、つゆほども思っていないであろう大雅は、足早に学校を離れていった。圭二はそっと自転車を漕ぎながら、一定の距離を保って大雅のあとをついていく。途中で大雅が後ろを振り返って、こちらに気付いたらどうしようと思ったが、なにか目指す場所があるのか、大雅は歩くペースを緩めることなく進んでいった。
やがて大雅は、一軒の廃ビルの中に入っていった。そこが誰かが所有する私有地であって、自分が入ったら不法侵入にあたるなどと微塵も思っていないような、いや、もしかしたら思っているのかもしれないが、自分の行動にすっかり慣れきってしまっているのか躊躇いなんてものはなさそうだった。
自転車を停めて、圭二もビルの入口の前に立った。扉の鍵は壊されていて、先ほどの大雅のように誰でも中に入ることができた。圭二は腋の下に汗をかいていた。大雅を心配する気持ちと恐怖、それに少しばかりの興奮が心を支配していた。周りを見渡して、誰もいないことを確認してから、圭二は音を立てないように扉を開き、ビルの中に足を踏み入れた。
埃っぽい空気を思いっきり鼻から吸い込んで、咳き込みそうになったがこらえた。ビルの中は、奥に続く一本の通路があり、その突き当たりには、入口に向かい合うかたちでエレベーターが設置されていたが、無論稼働はしていなかった。右手の壁をくり抜くようなかたちで、階段が階上に伸びている。
エレベーターの隣には扉があり、その向こうで物音とくぐもった話し声がする。どうやら、大雅はそこにいるようだった。
圭二は忍び足で部屋に近づいていった。扉は歪んでいるのか完全には閉まっておらず、隙間から覗けば中の様子が見える。
大雅は、何人かの少年たちと向かい合って、部屋の真ん中辺りに立っていた。
「おまえもこんなヤツのために、ご苦労だな」
床を踏み鳴らしながら、大雅の二倍はありそうな図体の少年が彼に近づいてくる。部屋の中にいる誰よりも大柄のそいつが、いわゆるボスなんだろうなと、圭二は考えた。
「オオクマ……」
大雅が何者かの名前を呟いた。それが、いま彼の目の前にいる大柄な少年の名であることが圭二にもわかった。
暗がりの中で目が慣れてきて、なんとなく部屋の中の様子が見えてきた。部屋の中には、なんだか圭二も普段からよく見かけるようなものがいくつか置かれていた。
サンドバッグにベンチプレスやダンベル。ただ、つぐみ道場にある同じものと比べると、薄汚れていて適度な手入れもされていないようにみえた。
「おまえの大切なオトモダチは、ちゃーんと生きてはいるからなあ」
大熊が周りにいる手下たちに合図をすると、手足を括りつけられた少年が、どさりと大熊と大雅のあいだに投げ捨てられた。ガムテープで口を塞がれているのがみえた。大熊の足がその少年の脇腹に沈み込むと、彼はくぐもった叫び声を、本来の声量の何分の一かの大きさで、テープの隙間から漏らした。
「やめろ!」
大雅は叫んだ。「笠原には手を出すな!」
圭二は目を見張った。自分の耳を疑う。大雅に友達らしき人物がいて、さらにはそいつを庇おうと必死になっている大雅の様子が、目の前で繰り広げられているというのに、それがにわかに信じられなかったのだ。
「藤堂、まさかお前、こいつがマジでお前のことを友達だと思っているって信じてんのかよ」
大熊の問いかけに、大雅は答えなかった。
「お前のお気楽な脳味噌がこいつを友達だと思ってんなら、こいつと同じ『制裁』を喰らわねえとな。連帯責任としてな」
ギャハハと大熊は笑った。この際大雅が笠原に対してどんな感情を抱いていようと関係ない。自分より弱い者を痛めつけ、嬲り、屈服させる。その対象が増えるだけだ。
「……じゃあ、てめえの好きなタイマンで、オレが勝ったら、二度とオレたちには手を出さねえと言えよ」
圧倒的な体格差。パンチ一発で、部屋の真ん中から壁まで吹っ飛んでいきそうな大雅に負けるわけがないと、大熊は考えていた。嘲笑を浮かべ、「ほざくな、雑魚が。お前も、笠原共々ぶっ殺してやるよ」と凄んでみせた。
圭二は固唾を呑んで、大雅たちを見ていた。不良同士の小競り合いを生で見るのは初めてだったから、小便をちびってしまいそうなくらい怖くて、体が震えていたが、その場から離れることもできなかった。
大雅がつぐみ道場に入門してきたとき、圭二は「この子はすぐに辞めるだろうな」とうっすら感じていた。しかし、圭二の予想に反して、態度はどうあれ、継続的に道場に顔を出し、練習は黙々と真面目にこなしていた。
大雅のモチベーションを焚きつける要因がなんだったのか、圭二はいま分かったような気がした。
数ヶ月、初歩的に格闘技をかじっただけの大雅だったが、それでも素人よりは技術も動作もこなれていた。大熊のような体格差の大きい相手を目の前にしても怯まず、むしろ圧倒していた。
大熊は出会った当時から、中学三年の割に体が大きく、力も強かったが、卒業してからも、さらにガタイがよくなったようだった。だが、その攻撃が当たらなければどうということはなかった。道場では圭二以外の相手はみんな、大雅よりも年上の男たちばかりだったから、大熊などは怖くもなかった。
それに大雅には、『持ち前の打たれ強さ』があった。両親の元で暮らし、幼い頃から暴力の嵐をかいくぐってきた過去もまた、彼の強さの要素のひとつとして、形成されていた。
気がつけば大雅は、大熊に一撃も浴びることなく相手を倒していた。顎に綺麗な右のアッパーが決まり、大熊の巨体が地面に崩れ落ちたとき、部屋の中がざわついた。
(藤堂くん! すごいや!)
圭二も心の中で湧いていた。思わず飛び出していってしまいそうになったが、ぐっとこらえる。
「てめえらもこいよ」
ここに集まっている大熊の手下は全員で四人。自分たちのボスが、年下の細っこいガキに倒されてしまった現実を目の当たりにして、足がすくんでしまったようだ。ただ、状況をどうにかしようとは思ったようだ。四人で一斉にかかれば勝てると思ったのか、大雅を取り囲んで袋だたきにしようとしたが、腰が引けている奴の攻撃など、勢いにのった大雅に効くはずもなく、数分後には大熊と同じように地面にうずくまっていた。
さすがに五人をひとりで相手にした大雅は体力を削がれたようで、ハアハアと呼吸を荒くしていたが、すぐに笠原のもとに駆け寄って、その拘束を解いてやっていた。
「藤堂、おまえ、こんなに強かったんだな……」
四肢が自由になっても、笠原はぐったりとしたまま地面に寝転んだままだった。「でも、なんで此処がわかったんだ?」
「……笠原が大熊に目を付けられていることには気付いていたから。それで、今日学校に来なかっただろ。コイツらのアジトが此処だっていうのは、オマエから聞いてたし」
「大熊の仲間がみんなタイマンに負けたってのも、藤堂がやったのか?」
「大ボスのコイツより、手強いやつもいたな。池にぶん投げられたときは、さすがに焦った」
二人の会話から察するに、大雅はこの笠原という少年を助けるために、大熊とその仲間たちを相手にして、ひとりで喧嘩に明け暮れていたのだろう。
全身ずぶ濡れになって道場にやって来たあの日も、大雅は大熊の仲間とやり合っていた。相馬にそれを話さなかったのは、おそらくつぐみ道場で習った格闘術を喧嘩に使っていると露見した暁には、相馬に怒られるかもしれないと思った末の決断だったのだ。
「笠原」
少しの沈黙のあと、大雅の声が部屋に響いた。
「オマエがオレのことを、『トモダチ』って言葉でいいようにこき使ってたのは、分かってた。……でも、オレは嬉しかったんだ。知らねえ中学に入学して、オレのことをそう言ってかまってくれたのは、オマエたちだけだったからな」
「藤堂?」
「でも、オレたちの関係はこれっきりにしよう。……大熊が報復にくるかもしれねし、オレにビビってこねえかもしれねえ。わかんねえけど、それはオレが全部引き受けるからさ。オマエはこんなヤツらと縁を切って、まともに生きろよ」
「なっ、なんで……」
「教室の亀に、毎日餌やってるの、オマエだって、オレは知ってる。他のヤツらは誰も見向きもしねえけどな。……そんなんでオマエの価値なんて決まらねえけどさ、そうやって小さなことに気付ける感性があるなら、もうオレみたいなクズみたいになんなよ」
笠原の返事も聞かずに、大雅は「じゃあな」と言ってその場から離れた。圭二は、大雅がこちらに近づいてくるのが分かったのに、動けなかった。やがて部屋を出てきた大雅と鉢合わせする。
「なっ……!?」
圭二がここにいることに、大雅はひどく驚いた様子だったが、気まずそうに目を逸らしたあと、それにはなにも触れずにビルを出ていった。
圭二はしばらくして、ハッと我に返って大雅のあとを追おうとしたが、すでに彼は何処かに消えたあとだった。
(なんだかガラの悪い怖そうな人が来ちゃったなあ……)
圭二は小心者だった。故にいじめっ子と不良には苦手意識を持っていて、周りにいるそのような者たちに舐められないようにしようと思ってつぐみ道場に入門したが、長く抱いていた潜在意識をなかなか払拭することは困難だった。
当時の大雅は痩せぎすの小柄な少年だったが、圭二にとっては彼の体格の大きさなど関係ない。自分がいくら体格では勝っていても、大雅の存在は恐怖だった。
感情の導火線にいつも火が灯っていて、ちょっとしたことでそれが爆発する。腫れ物を触るかのような扱いをしなければ、自分にも危害が加わるような気がした。
「圭二」
大雅が入門した初日、相馬は一番に圭二を呼び寄せた。サンドバッグを打ちながら、おっかなびっくり彼らの様子をちらちらと見ていた圭二は、「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、足音を大袈裟に立てながら彼らに近づいていった。
「今月から道場に入る藤堂大雅だ。圭二とは同級生だぞ」
「はっ、はいっ……よろしくっ、お願いしますっ」
圭二は無意識のうちに、履いている短パンの裾をぎゅっと握りしめていた。おどおどと目を泳がせ、相馬にも大雅にも目を留められなかった。ほんの一瞬、大雅と視線がかち合ったときに、尖った目つきで睨みつけられているのを見て、口から内臓が飛び出そうなほどに驚いた。
(ど、どうして僕は睨まれてるんだろう……なんかしたかな……)
心臓の鼓動が早くなり、圭二はどっと冷や汗が噴き出してきた。
道場では傷が出来るような打撃練習を行っているおぼえはないのに、大雅の体は、いつもどこかが傷ついていた。痣や擦り傷が絶えることなく、見かねた相馬が手当てをしてやっている様子を何度も目撃した。
「どうしてこんなに怪我をしているんだ」と相馬が問うても、大雅はそっぽを向いて「しらねえ」とふてぶてしく答えるだけだった。
圭二は、そんな大雅の様子をみて、次第に憤りを感じている自分がいることに気付いた。
(相馬師匠がこんなにも気にかけてくださっているのに、この不良は、つっぱってふくれているのがカッコイイとでも思っているのか!)
普段は穏やかな圭二だが、元々曲がったことは嫌いな性分のため、自分でも気付かぬうちに大雅への不満や怒りが蓄積していった。その感情が決壊したのは、大雅が道場に入門して半年ほどが経ったときのことだった。
「おいっ!」
大雅が相馬に詰問され、それに答えないのはいつものことだが、近くにいた圭二が声を荒げたため、流石の相馬も驚いた様子で彼を見留めた。
「い、いい加減にしろよ! 師匠が心配して、どうして怪我をしたのか聞いてんだろ! 素直に答えたらどうなんだ!」
一気にまくし立てて、しまったと我に返ったときには既に遅かった。鋭利な刃物のように鋭い大雅の視線をまともに浴びたからだ。
体じゅうのどこも痛くないのに、痛覚が脳を刺激していた。ごくりと唾を飲み込む。
「あ? なんだてめえ。喧嘩売ってんのか?」
「……いっ、いや、そんなんじゃ……ないよ」
目が合った。ひゅっと喉が鳴る。怖くて、いますぐにでもここから立ち去りたくなった。だが、大雅の視線に射止められたかのように、圭二は動けなかった。
次の瞬間、相馬の反応が遅れるほどの俊敏さで、大雅は圭二に飛びかかってきた。
「あっ!」
圭二も反応が遅れた。
「ふざけんじゃねえぞ! てめえになんの関係があるんだ、なんも知らねえくせに、首を突っ込んでくるんじゃねえよ!」
それは圭二が初めて聞いた、大雅の怒鳴り声だった。いままでぼそぼそと言葉をこぼすことしかしなかった彼が、感情を剥き出しにして喚いた——虎嘯のような猛りだった。
防御もかなわず、圭二は大雅の拳で顔面を滅多打ちにされた。視界が潤み、涙が零れているのに気付く。
「大雅! やめなさい!」
相馬に羽交い締めにされ、抑え込まれれば、大雅は身動きがとれずにばたばたと床に這いつくばって足掻くしかなかった。
何発も殴られて腫れ上がった顔よりも、心が痛いと思った。圭二はしばらく床にへたり込んだまま、呆然としていた。
僕は地雷を踏んでしまったのか。
自分の言動で他人を逆上させたのも、他人の言動で自分が激昂したのも、圭二にとっては初めてのことだった。鼻の下をぐしぐしとこすると、手の甲にべったりと血がついた。鼻血が出ていると気付いた。
相馬に抑え込まれたままの大雅は、まだ興奮が冷めやらないようで、フーフーと息を荒げていた。
「落ち着け、大雅! 突然相手に殴りかかったら、もっと深刻なことになるぞ!」
圭二から見た大雅は、相馬の言うことはいくらか素直に聞くときが多かった。興奮していた大雅は、次第に落ち着きを取り戻していき、相馬が抑えつけておかなくともおとなしくなった。
「圭二、大丈夫か?」
「は、はいっ!」
まだ心臓が早鐘を打っていたが、圭二はむくりと起き上がった。自分のことよりも、大雅が心配だった。
「鼻血が出ているな。止血しなければ」
「だ、大丈夫です!」
殴られた箇所がじんじんと痛む。口の中も切れているような感じがする。圭二は相馬にそれを勘づかれないように努めた。拘束を解かれた大雅をちらりと見る。目が合って、反射的にサッと視線を逸らしてしまった。
「おぼえてろよ、てめえ」と吐き捨てられたのは、きっと空耳ではなかったはずだ。
程なくして、圭二の通う中学に、ある噂が流布されるようになった。それは、隣の学区の中学で、非行少年たちのグループが、色々と『幅をきかせている』という内容で、人伝に話が渡るにつれて内容に尾鰭がつき、半グレ集団の根城に出入りしているだの、なにかヤバいことにも首を突っ込んでいるだの、到底中学生の少年たちが背負うには荷が重そうな眉唾ものの話ばかりが耳に入ってくるが、真実は分からなかった。
クラスメイトたちが面白半分に話すその内容を耳にして、圭二はそのたびに大雅の顔が頭に浮かんだ。
(藤堂くんは……大丈夫なのかな)
大雅の見てくれは、安直に彼が不良だと判断するには充分なものだった。金髪の頭に、どこか粗暴そうな雰囲気。棘のある言葉遣い。いつも傷だらけなのは、喧嘩に明け暮れているからじゃないかと、圭二は考えていた。
大雅は道場には定期的に顔を出して、黙々と練習に参加しているが、道場の外でなにをしているのかは圭二の知ったところではない。
大雅は挨拶はしてくるものの、それ以外は極端なほど口数が少なかったし、圭二もよほどのことがない限りは、彼に関わろうとはしなかった。挨拶をするのも、おそらくは相馬がきつく咎めてくるからであって、それがなければ、一言も言葉を交わすことなどなかっただろう。
それは、圭二が大雅に話しかける勇気がなかったのが一番の原因だろうが、そのくせ彼の存在や言動は、とても気になっていた。品行方正とは一概にはいえないかもしれないが、比較的真面目で精悍な印象を持つ青年たちが集まるつぐみ道場の門下生の中で、大雅の存在が異質だったからかもしれない。相馬は明らかに大雅に手を焼いていたが、彼の仕出かす愚行に関して、なぜ彼を破門にせず、ときには厳しい兄のように叱責していたのか。圭二は大いに首を傾げるしかなかった。
ある日、道場に顔を出した大雅が、入口の扉を開けた途端、そのままその場にへたり込んでしまった。どさりと派手な音がしたので、道場の中にいた全員が一様に顔を向けた。
「大雅!?」
相馬が大雅の元に駆け寄った。圭二はそのとき、着替えを終えて更衣室から出てきた瞬間だったので、事態をのみ込むのに時間がかかった。
「と、藤堂くん!」
圭二は手に持っていた用具をすべて放り出して、大雅に走り寄った。みるからに具合が悪そうだ。顔が紅潮していて、息遣いも荒い。気になったのは、大雅が着ている学生服がびしょ濡れになっていたことだった。
「圭二、タオルを!」
そばに圭二が寄ってきた気配がした相馬は、振り返らずに声を張った。圭二は「は、はいっ!」と慌てて返事をして、つんのめるようにして更衣室に戻り、棚に置いてあったタオルを何枚かひっつかみ、元の場所に戻った。成長期に差し掛かったばかりの当時の大雅は、まだ背も低く、体格も出来上がっていなかったため、相馬が抱きかかえれば移動は容易だった。普段はベンチプレスのトレーニングに使っている細長いベンチに、仰向けに寝かせる。大雅はぼんやりとしたまま、潤んだ目を閉じないようにこらえている様子だった。
大雅の全身からは、ツンと臭気が漂っていた。ヘドロの匂いだ。圭二は思わず顔をしかめた。
大雅の異様な姿に、門下生たちは練習をやめて、わらわらと集まってきた。「どうしたんだ?」「おい、大丈夫か?」「溝に落ちたのか?」などと、みんな口々に思いついたことを口走っている。
「みんな、心配なのは分かるが、あまり騒ぐと大雅もびっくりするからな。各自、練習を続けておいてくれ」
相馬の言うことはもっともで、皆、彼の言葉に従ったが、では練習に集中できるのかはまた別で、誰もがトレーニングをしながらも、意識は大雅に注がれていた。
相馬は、大雅の体にこびりついた泥などの汚れを拭き取り、自分の体も汚れるのも厭わず、額に手を当てて熱感を確かめた。
(……熱がある?)
体調不良を疑った相馬は、圭二に命じて体温計を持ってこさせた。そのあいだも、大雅は口を半開きにして、ハアハアと胸を上下させていた。まずは服を脱がせて、これ以上体を冷やさないようにするべきなのかと考えたが、相馬にとって、こんなことは初めての経験であったから、自分が平静を装うので頭はいっぱいだった。
「学園に電話を……」
ぽつりと呟いて立ち上がったとき、服の裾を掴まれた。見ると、大雅が腕を伸ばして、相馬を見ていた。ひくつく唇をなんとか動かして、声をあげた。
「やめ……ろ……」
声はかすれていたが、大雅の意思ははっきりと届いた。
「しかし大雅、いまのお前は明らかに普通の状態じゃないだろう」
「ぜ……ぜっ……たい……言うな……もし、電話なんかしてみろ……ここで……舌を嚙んで死んでやる……」
荒唐無稽な発言だ。ぐいっと相馬のシャツの生地が引き伸ばされる。丸首が歪んで、鎖骨が剥き出しになった。大雅は至って真面目だった。必死に、自分の思いの丈を伝えようとしている。
相馬は躊躇した。リングの上で、強敵を相手にしたときとはベクトルの違う焦燥が、心の中で激しく蠢いた。シャツの生地の繊維がピリピリと音を立てる。相馬はしゃがみ込んで、大雅の顔を正面から見据えた。
「では、せめてお前の身になにがあったのか、私に話しなさい」
相馬が言い終えたとき、大雅の腋に挟んだ体温計が鳴った。抜き取って確認すると、微熱があるようだった。
長い沈黙。大雅はうっすらと目を開けたまま、ただ天井を見つめている。ときどき唇を噛みしめたり、ぎゅっと歯を食いしばったりする様子がみられた。言葉を探しているのだろうか。相馬とは必死で目を合わさないようにしているようだった。
「藤堂くん、ちゃんと話したほうがいいよ、ほら、師匠も心配してくださってるんだよ。なにがあったのか話してくれないと、僕も困るよ……」
圭二も必死だった。普通じゃないよ、こんなのと言葉を続ける。大雅は静かに目を開いて、「てめえに心配される筋合いなんかねえよ」と、消え入るような声で言った。
「そんな寂しいこと言わないでよ。藤堂くんはどう思ってるかわからないけどさ、僕たちは同じ道場の仲間なんだから」
「……仲間」
雰囲気にのまれて衝動的に言ってしまったから、大雅には鼻で笑われるか、また怒られると身構えたが、圭二の予想に反して、大雅は消え入るような声で呟いた。
「そうだよ!」
果たして本当にそう思っているのだろうかと自問する。道場の中でも異端な存在である大雅の存在を、疎ましく思っていたのではないか。師匠の前だから、自分がいい顔をしようと思って口から出任せに体のいい言葉を言っているだけなのではないか。
大雅と目が合う。自分に少しでも疚しい思いがあるせいか、圭二は大雅に心の内を見透かされているのではないかという感覚に陥った。
大雅は責めてはこなかった。ただ、圭二の言った「仲間」という言葉を、その意味を考えるようにぼうっと一点を見つめていた。
「……オレは」
大雅は上体を起こした。「……トモダチ、を助けたかった……だけだ」
そこで初めて、自分の体から放たれている臭いに気付いたかのように、大雅は鼻に皺をよせた。
追求しても、それ以上は頑なに口を割ろうとしなかったので、相馬はついに根負けをして、大雅を着替えさせた。着ていた制服を脱ぐと、大雅の体は見えなかった部分も傷だらけになっていた。
「おい、じろじろ見てんじゃねえよ、ヘンタイ」
大雅に睨まれて、圭二はサッと目を逸らすしかなかった。こんなやつ、放っておいて、さっさと練習に戻ってやろうかと、ムッとする。でも、感情のままに行動すれば、きっとあとで余計に大雅のことが気になってしまうに違いないと思い直した。いけすかないやつだけど、ほんの一瞬感じる彼の一面に、放っておいたらこのまま大雅のなにもかもが崩れていってしまいそうな、そんな気配を感じるのだ。
「ぼ、僕、師匠に言われて着替えを持ってきただけだから」
圭二はそう言って、そそくさと更衣室をあとにした。しばらくして大雅が道場内に戻ってきた。そのままベンチに座り、他の門下生たちの練習の光景を眺めている。
「藤堂、おまえ一体どうしちゃったんだ?」
更衣室の一番近くの場所でダンベルを持ってシャドーをしていた門下生のひとり、鳥川隆之介が、ワンツーを繰り返し放ちながら大雅に話しかけた。隆之介は、当時、国立大学の文学部に通う一年生で、キックボクシングを学びたいと入門してきたばかりの青年だった。人見知りをしない性格で、大雅にも圭二にも、そして相馬にもガツガツと話しかけていくタイプであった。
大雅がうんともすんとも言わなくとも、隆之介は気にする素振りもみせずに彼に絡んでいくのだった。
「ドブくせえ格好でここにくるなんて、普通じゃないだろ。なあ大雅、聞いてんのか?」
「うるせえよ」
「あっ! またおまえはそうやって無礼な口を利く! おれじゃなかったら、ぶっとばされるぞ」
「……」
大雅はそっぽを向いた。隆之介はダンベルを床に置いて、スタスタと大雅のほうへ歩いていって、横に腰掛けた。
「かわいいなあもう、大雅は」
そう言って隆之介は、大雅をぎゅっと抱きしめて、つんつんと彼の頬を指でつついた。
「……てめっ、やめろ!」
大雅は驚愕し、手足をじたばたさせて離れようともがいたが、隆之介に軽く笑われてあしらわれるだけだった。
「なあ、大雅。おまえが他人を誰も信じられないのは仕方ないのかもしれないけどさ、少なくともここでは相馬さんは、お前のことをなんとかしてやりたいって思ってくださっているんだ。大雅が心の中でなにを抱えているのかは分からねえけど、相馬さんにはちゃんと、話しておいたほうがいいんじゃねえか」
隆之介が優しく諭しても、そのときは、大雅の心の牙城が簡単に崩れることはなかった。
——藤堂くんは普段、なにをしているんだろう。
圭二はその真相を知りたい一心で、数日後に大雅が通う中学校の校区に足を運んだ。自分がどこの学校の生徒かはわからないように、一度家に帰って私服に着替えてから出てくるという徹底っぷりだった。
自転車を漕いで学校の周辺に辿り着く。電柱のかげに隠れて、校門から大雅が出てくるのを待つ。なんだか、探偵になったような気分だった。
大雅が他の生徒たちの群れに紛れてひとりで出てきたのは、終礼のチャイムが鳴ってから二十分ほどが経ったあとだった。
まさか圭二に自分の行動が見張られているとは、つゆほども思っていないであろう大雅は、足早に学校を離れていった。圭二はそっと自転車を漕ぎながら、一定の距離を保って大雅のあとをついていく。途中で大雅が後ろを振り返って、こちらに気付いたらどうしようと思ったが、なにか目指す場所があるのか、大雅は歩くペースを緩めることなく進んでいった。
やがて大雅は、一軒の廃ビルの中に入っていった。そこが誰かが所有する私有地であって、自分が入ったら不法侵入にあたるなどと微塵も思っていないような、いや、もしかしたら思っているのかもしれないが、自分の行動にすっかり慣れきってしまっているのか躊躇いなんてものはなさそうだった。
自転車を停めて、圭二もビルの入口の前に立った。扉の鍵は壊されていて、先ほどの大雅のように誰でも中に入ることができた。圭二は腋の下に汗をかいていた。大雅を心配する気持ちと恐怖、それに少しばかりの興奮が心を支配していた。周りを見渡して、誰もいないことを確認してから、圭二は音を立てないように扉を開き、ビルの中に足を踏み入れた。
埃っぽい空気を思いっきり鼻から吸い込んで、咳き込みそうになったがこらえた。ビルの中は、奥に続く一本の通路があり、その突き当たりには、入口に向かい合うかたちでエレベーターが設置されていたが、無論稼働はしていなかった。右手の壁をくり抜くようなかたちで、階段が階上に伸びている。
エレベーターの隣には扉があり、その向こうで物音とくぐもった話し声がする。どうやら、大雅はそこにいるようだった。
圭二は忍び足で部屋に近づいていった。扉は歪んでいるのか完全には閉まっておらず、隙間から覗けば中の様子が見える。
大雅は、何人かの少年たちと向かい合って、部屋の真ん中辺りに立っていた。
「おまえもこんなヤツのために、ご苦労だな」
床を踏み鳴らしながら、大雅の二倍はありそうな図体の少年が彼に近づいてくる。部屋の中にいる誰よりも大柄のそいつが、いわゆるボスなんだろうなと、圭二は考えた。
「オオクマ……」
大雅が何者かの名前を呟いた。それが、いま彼の目の前にいる大柄な少年の名であることが圭二にもわかった。
暗がりの中で目が慣れてきて、なんとなく部屋の中の様子が見えてきた。部屋の中には、なんだか圭二も普段からよく見かけるようなものがいくつか置かれていた。
サンドバッグにベンチプレスやダンベル。ただ、つぐみ道場にある同じものと比べると、薄汚れていて適度な手入れもされていないようにみえた。
「おまえの大切なオトモダチは、ちゃーんと生きてはいるからなあ」
大熊が周りにいる手下たちに合図をすると、手足を括りつけられた少年が、どさりと大熊と大雅のあいだに投げ捨てられた。ガムテープで口を塞がれているのがみえた。大熊の足がその少年の脇腹に沈み込むと、彼はくぐもった叫び声を、本来の声量の何分の一かの大きさで、テープの隙間から漏らした。
「やめろ!」
大雅は叫んだ。「笠原には手を出すな!」
圭二は目を見張った。自分の耳を疑う。大雅に友達らしき人物がいて、さらにはそいつを庇おうと必死になっている大雅の様子が、目の前で繰り広げられているというのに、それがにわかに信じられなかったのだ。
「藤堂、まさかお前、こいつがマジでお前のことを友達だと思っているって信じてんのかよ」
大熊の問いかけに、大雅は答えなかった。
「お前のお気楽な脳味噌がこいつを友達だと思ってんなら、こいつと同じ『制裁』を喰らわねえとな。連帯責任としてな」
ギャハハと大熊は笑った。この際大雅が笠原に対してどんな感情を抱いていようと関係ない。自分より弱い者を痛めつけ、嬲り、屈服させる。その対象が増えるだけだ。
「……じゃあ、てめえの好きなタイマンで、オレが勝ったら、二度とオレたちには手を出さねえと言えよ」
圧倒的な体格差。パンチ一発で、部屋の真ん中から壁まで吹っ飛んでいきそうな大雅に負けるわけがないと、大熊は考えていた。嘲笑を浮かべ、「ほざくな、雑魚が。お前も、笠原共々ぶっ殺してやるよ」と凄んでみせた。
圭二は固唾を呑んで、大雅たちを見ていた。不良同士の小競り合いを生で見るのは初めてだったから、小便をちびってしまいそうなくらい怖くて、体が震えていたが、その場から離れることもできなかった。
大雅がつぐみ道場に入門してきたとき、圭二は「この子はすぐに辞めるだろうな」とうっすら感じていた。しかし、圭二の予想に反して、態度はどうあれ、継続的に道場に顔を出し、練習は黙々と真面目にこなしていた。
大雅のモチベーションを焚きつける要因がなんだったのか、圭二はいま分かったような気がした。
数ヶ月、初歩的に格闘技をかじっただけの大雅だったが、それでも素人よりは技術も動作もこなれていた。大熊のような体格差の大きい相手を目の前にしても怯まず、むしろ圧倒していた。
大熊は出会った当時から、中学三年の割に体が大きく、力も強かったが、卒業してからも、さらにガタイがよくなったようだった。だが、その攻撃が当たらなければどうということはなかった。道場では圭二以外の相手はみんな、大雅よりも年上の男たちばかりだったから、大熊などは怖くもなかった。
それに大雅には、『持ち前の打たれ強さ』があった。両親の元で暮らし、幼い頃から暴力の嵐をかいくぐってきた過去もまた、彼の強さの要素のひとつとして、形成されていた。
気がつけば大雅は、大熊に一撃も浴びることなく相手を倒していた。顎に綺麗な右のアッパーが決まり、大熊の巨体が地面に崩れ落ちたとき、部屋の中がざわついた。
(藤堂くん! すごいや!)
圭二も心の中で湧いていた。思わず飛び出していってしまいそうになったが、ぐっとこらえる。
「てめえらもこいよ」
ここに集まっている大熊の手下は全員で四人。自分たちのボスが、年下の細っこいガキに倒されてしまった現実を目の当たりにして、足がすくんでしまったようだ。ただ、状況をどうにかしようとは思ったようだ。四人で一斉にかかれば勝てると思ったのか、大雅を取り囲んで袋だたきにしようとしたが、腰が引けている奴の攻撃など、勢いにのった大雅に効くはずもなく、数分後には大熊と同じように地面にうずくまっていた。
さすがに五人をひとりで相手にした大雅は体力を削がれたようで、ハアハアと呼吸を荒くしていたが、すぐに笠原のもとに駆け寄って、その拘束を解いてやっていた。
「藤堂、おまえ、こんなに強かったんだな……」
四肢が自由になっても、笠原はぐったりとしたまま地面に寝転んだままだった。「でも、なんで此処がわかったんだ?」
「……笠原が大熊に目を付けられていることには気付いていたから。それで、今日学校に来なかっただろ。コイツらのアジトが此処だっていうのは、オマエから聞いてたし」
「大熊の仲間がみんなタイマンに負けたってのも、藤堂がやったのか?」
「大ボスのコイツより、手強いやつもいたな。池にぶん投げられたときは、さすがに焦った」
二人の会話から察するに、大雅はこの笠原という少年を助けるために、大熊とその仲間たちを相手にして、ひとりで喧嘩に明け暮れていたのだろう。
全身ずぶ濡れになって道場にやって来たあの日も、大雅は大熊の仲間とやり合っていた。相馬にそれを話さなかったのは、おそらくつぐみ道場で習った格闘術を喧嘩に使っていると露見した暁には、相馬に怒られるかもしれないと思った末の決断だったのだ。
「笠原」
少しの沈黙のあと、大雅の声が部屋に響いた。
「オマエがオレのことを、『トモダチ』って言葉でいいようにこき使ってたのは、分かってた。……でも、オレは嬉しかったんだ。知らねえ中学に入学して、オレのことをそう言ってかまってくれたのは、オマエたちだけだったからな」
「藤堂?」
「でも、オレたちの関係はこれっきりにしよう。……大熊が報復にくるかもしれねし、オレにビビってこねえかもしれねえ。わかんねえけど、それはオレが全部引き受けるからさ。オマエはこんなヤツらと縁を切って、まともに生きろよ」
「なっ、なんで……」
「教室の亀に、毎日餌やってるの、オマエだって、オレは知ってる。他のヤツらは誰も見向きもしねえけどな。……そんなんでオマエの価値なんて決まらねえけどさ、そうやって小さなことに気付ける感性があるなら、もうオレみたいなクズみたいになんなよ」
笠原の返事も聞かずに、大雅は「じゃあな」と言ってその場から離れた。圭二は、大雅がこちらに近づいてくるのが分かったのに、動けなかった。やがて部屋を出てきた大雅と鉢合わせする。
「なっ……!?」
圭二がここにいることに、大雅はひどく驚いた様子だったが、気まずそうに目を逸らしたあと、それにはなにも触れずにビルを出ていった。
圭二はしばらくして、ハッと我に返って大雅のあとを追おうとしたが、すでに彼は何処かに消えたあとだった。



