大雅の試合がひと月後に決まった。対戦相手は、こちらも新人の、年下の少年だという。
「有馬鷹斗という名の中学三年の選手だ」
「……有馬」
 相馬から対戦相手の名前を聞いたとき、大雅は自分の記憶の片隅に、その名前が残っていることに気付いた。
「どうした?」
「い、いえ……」
 首を振る。記憶の糸をひとつひとつたぐり寄せてようやく、海馬の中で少年の名前と顔が一致した。
 ありふれた名前だったとしたら、あるいは同姓同名の別人であることも考えられるが、自分の記憶の中の人物と、年齢も名前も合致する別人などいないはずだと、大雅は感じた。
「大雅に出場してもらうのは、OPKDが主催する、試合経験の少ない選手に対して行われる大会だ。星野公園に特設のリングを設置して、ワンマッチの試合を行う。基本的には、OPKDの試合ルールに準じて行われるが、大雅の相手は中学生だから、グラウンドでの顔面への攻撃は禁止となる。三分間二ラウンド、インターバルは一分。セコンドには私がつくからな」
 星野公園とは、隣町にある巨大な森林公園のことだ。プールや陸上競技場などのスポーツ施設や、イベント会場、図書館などが敷地内にあり、休日にもなると訪れる人々で賑わっている。大雅も、しょうりつ学園で行われる行事で、何度か行ったことがある。
「外で試合をやるんですか!?」
「ああそうだ」
 相馬が頷く。大雅のイメージしていた試合会場は、いずれも屋内で行われるものばかりだった。先日圭二が出場した試合は屋内だったが、アマチュアの小さな試合だと、場所を確保するのも難しいのだろうかと、大雅は勘ぐった。
「試合時はオープンフィンガーグローブ、フェイスガード、膝当て、レガースを着用する。上半身は裸で、下半身はトランクスかスパッツを履く。肘打ちとスラムは禁止だ。あとはそうだな……言うまでもないことだが、対戦相手のみならず関係者には、礼節を尽くすようにすること」
 相馬はそう言って、読み上げていた紙を大雅に渡した。受け取って見てみると、日時や開催場所、大会のルールについて、つらつらと書かれていた。
 大雅はそれを読みながら、あと一月後に控えた自分の試合を思い浮かべる。脳裏に浮かぶ対戦相手はやはり、児童相談所の一時保護所で出会った、有馬鷹斗の姿だった。——アイツが、格闘技を……?
 あのとき、一緒に過ごしていた仲間たちの中では、一番おとなしいヤツだと思っていた。格闘技どころか、運動があまり得意ではなさそうで、保護所でのスポーツの時間は、あまり目立って活躍しているようにはみえなかった。——まあ、ふだんオドオドしているくせに格闘技をやっているヤツは、他にもいるもんな。
「押忍! わかりました。オレ、絶対勝ちますから!」
 大雅は相馬に向かって、ご指導よろしくお願いいたしますと、深々と座礼をした。
「今日の練習では、哉汰がお前と手合わせをしてやろうと言っていたが、やってみるか?」
「はい!」
 即答。大雅の中で、闘争心がめらめらと燃えていた。プロの選手が相手をしてくれるというのだ。乗らない手はなかった。松橋はフェザー級だから、大雅よりも体重が軽いが、体重差はハンデということだろう。
「実際に試合をやるものと思って哉汰に立ち向かいなさい。相手はプロ選手だからな。逆に遠慮をしていると失礼に当たるぞ」
 にんまりと笑った相馬の顔をみて、大雅は無言のまま頷いた。

 陽が落ちて、アマチュアの選手たちのクラスが終わったあと、松橋たちが道場にやってきた。
 圭二とともに壁の鏡を拭いていた大雅は、松橋の姿を見つけるなり、すぐに彼の元に駆け寄っていった。
「松橋さん、今日はよろしくお願いします!」
「よろしくっす。ちゃんと体はあったまっているっすか?」
「はいっ!」
 直前まで、圭二に手伝ってもらってミットを打ったり、自重トレーニングをこなして、筋肉もよくほぐれていた。いつだって始められる。気持ちは高ぶっていた。
 プロ練に参加するようになって、最初の頃はぜえぜえ言っていた大雅だったが、ウォーミングアップは難なくこなせるようになっていた。肉体をいじめ抜けば、それによってどんどん体力も向上してくる。
「哉汰も大雅も、準備はバッチリのようだな」
 レガースと膝当てを装着し、シャツを脱ぎ、ヘッドギアを被る。圭二にバンテージを巻いて貰っていると、相馬が話しかけてきた。どくどくと心臓が波打っている。
「大雅、頑張ってね」
 圭二の激励を背に、大雅はリングに上がる。相馬と松橋があとからついてきて、リングの中央で三人は向かい合った。
「三分一ラウンド。グラウンドでの顔面攻撃は禁止だ。ただし、どんな状況でも、私が危険だと判断すれば、そこで終了とする」
 大雅と松橋が頷く。互いのグローブを重ね合わせ、開始の挨拶をしたとき、道場内にブザーが響き渡った。
 大雅はごくりと唾を飲み込んだ。緊張のせいか、すでに背中に汗をかいている。握りしめる拳は、いつもより高い位置で構えている。
 相手の様子を探るために、空中にジャブを放つ。松橋はそれにはつられず、軽快なステップで大雅に距離を詰めてきた。
 大雅はそれを読み切っていた。左の足底で思いっきり床を押し、膝を前に突き出す。それで素人ならあるいは、腹に大雅の膝を沈み込ませて悶絶したかもしれないが、相手は大雅の何倍も経験のあるプロだ。大雅の攻撃の威力を殺し、さっと後ろに飛び退いて距離をとった。
(ここでっ……)
 大雅は前に足を踏み込んだ。右のローキック。パアンッ! と音がして、松橋の脛に大雅のキックが炸裂した。だが、音だけは派手にきまったが、松橋の戦意を削ぐ打撃には至らない。何百、何千とサンドバッグに打ち込んできた強靱な脚は、大雅の一蹴りごときで崩れるはずがなかった。
 大雅はぎゅっとマウスピースを噛みしめて、松橋の出方を伺った。どんな些細な動作も見逃すわけにはいかない。視界の端に、松橋が床を蹴ったのがみえた。
(来るっ……!)
 正面か? それとも……。
 すっ、と、松橋の体が、大雅の右にスライドした。一瞬反応が遅れる。自分の右拳は、松橋のボディーを撃ち抜ける位置にある。だが、その状況を大雅の脳が把握したとき、すでに松橋の左フックが、大雅の脇腹に沈み込んでいた。
「ぐっ!」
 思わず声が漏れた。大雅の目が見開かれて、二、三歩後ずさりする。鈍痛が半身を駆け巡り、そのまま全身の動きを鈍らせた。
 だが、大雅は倒れなかった。今のでどっと全身から汗が噴き出てきたが、無様にダウンはしなかったのは、大いなる進歩だと自分に言い聞かせる。オレは、プロの相手の攻撃を受けても、一発でくたばったりはしねえ……。
 日々の鍛錬の賜物だった。少しずつではあるが、確実に強くなっている自分を実感する。
(だが、油断してんじゃねえ!)
 受けたダメージを堪え、ガードの下がった大雅に、松橋は正面から組み付いてきた。胴にぐるりと腕を回される。
(なっ……)
 そのまま大雅は、自分の体が宙に浮くのを感じた。反り投げだ。そのまま背中から叩きつけられ、松橋にマウントポジションをとられそうになる。
 いまだ寝技を苦手とする大雅にとって、このまま組み付かれるわけにはいかなかった。なんとしてでも不利な体勢から逃れなければ勝機はない。
 松橋の顎の下に腕を入れるように体を丸める。松橋はその防御を崩そうと、右拳を振りかぶった。狙い通りだ。大雅は腕の隙間からしっかりと松橋の姿を見据え、そして、左足を振り上げて、松橋の右を制御した。
 松橋の眉がぴくりと動いたのが分かった。拘束が少し緩んだ直後、大雅は右足で松橋の腹を蹴る。
「くっ……」
 松橋が体勢を崩し、大雅から突き放された。足底をすべらせて、中腰のままなんとか立位を保とうとする。大雅はすぐに体を起こし、もう一度組み込まれないように、腕を伸ばして牽制した。しかし松橋は、その牽制をかいくぐり、体を密着させてきた。
 大雅の背中にロープが当たる。崩れかけた足に力を込め、胴に密着している松橋の腕の下に自分の腕を絡ませて、そのまま持ち上げるように松橋の体勢を崩した。
 拘束が緩み、動きがとれるようになった大雅は、松橋に密着したままぐるりとロープから離れ、そして距離をとった。
 松橋の表情はまだ崩れていない。むしろ大雅のほうが必死だった。仮に大雅のほうが松橋よりフィジカル的に強かったとしても、プロの選手を相手にしているというプレッシャーに押し潰されないように精神を保つのに意識を使われる。だが、それも相馬のねらいだった。今後、大雅の相手に、どんな箔がついていようとも、それの大きさに惑わされないように自分の力を出し切れるような精神力を身につけてほしいと思ったのだ。——そう、それがたとえ、大雅に、相馬爽平という名の選手と闘う未来が待っていたとしても。
 大雅がフェイントを入れたところで、松橋は前に出てくる。ジャブ、ジャブ。ならば次はストレートが来るか……? 松橋の攻撃を予測して、右膝を繰り出す。
「がっ……!?」
 虚を突かれた! まさかのジャブ三連発だった。大雅の胸に、松橋の左が撃ち込まれていた。バランスが崩れる。松橋のタックル。尻餅をつくように大雅は背中をマットに叩きつけられた。
 松橋が右腕を振り上げるのがみえて、大雅は咄嗟にガードを固めた。橈骨と尺骨のあいだに、打撃のダメージをもろに喰らう。じんと腕が痺れる。鉄球が降ってくるようなパンチの嵐に巻き込まれる。
(ぐっ……負けっ……)
 い、嫌だ。たとえこれが、練習の一環だとしても、自分の経歴には何も残らない一戦だったとしても、このまま無様に殴り続けられて師匠に試合を止められるのは嫌だ!
(動かねえとっ……!)
 腹に力を込める。松橋のパンチが途切れた瞬間に、足をぐわりと振り上げた。そのまま松橋の首に巻き付け……ようとしたところで、彼が胸を張り、拘束を逃れた。
「甘いっすよ、大雅くん」
 ぽつりと松橋が言葉をこぼす。直後、大雅は足を押さえ込まれた。
「そこまで!」
 相馬の声と、ラウンドの終了をしらせるブザーが鳴り響いたのは同時で、大雅はすぐに拘束を解かれた。
 大雅は、ばたりと手足を投げ出して、リングに横たわったままぜえぜえと息を吐いていた。
「大雅!」
 ロープをくぐって、圭二が駆け寄ってくる。
「大雅くん、おつかれっす」
 困憊している大雅とは裏腹に、松橋はスパーリング中には見せてこなかった笑顔を浮かべて、大雅を引き起こした。
「あっ、あざっす……」
 大雅は悔しそうに顔を歪めた。ダメだ、オレは。ぶんぶんと頭を振ると、毛先から汗が飛び散った。
 松橋の実力を侮っていたわけではない。圭二ならともかく、まともに試合に出たことも無い自分が、彼に難なく勝てるとも思っていなかった。だが、手も足も出なかったわけではない。だからこそ、もうちょっとやれたのではないかという思いは拭えず、悔恨の情にかられるには充分な材料だった。
「すごいよ、大雅! 松橋さんと初めてやり合って、一ラウンド乗り切れるなんてすごいじゃないか!」
 圭二が手に持っていたタオルで、大雅の背中をごしごしと拭いた。「僕なんか、こんなデカい図体してるのに、すぐに組み伏せられてボコボコにされたんだから!」
「ヘッ、それはてめえが単に雑魚だっただけじゃねえか」
 自分の心に湧いた感情をごまかすために、圭二に悪態をつく。圭二はあの困ったような笑みを顔に浮かべ、大雅の頭にタオルを被せてきた。

「哉汰とまみえてみて、気付いたことはあるか」
 リングを下りて、そのまま相馬の前に座る。隣に松橋も腰を下ろしてきた。
「はい、あと一ラウンドあれば、少しはやり返せたと思います」
 ひと月後にある試合では、二ラウンド制だというから、その日大雅はあともう一ラウンド闘うことになる。一ラウンド目で決着をつけるか、もしくはつけられたらそこで試合は終わってしまうが、そうではなかったとき、もう一度チャンスが与えられると、大雅は考えたのだ。
「ならば大雅、いまのスパーリングが、試合の最終ラウンドだったらどうする」
「えっ!?」
 落ち着いた相馬の声とは裏腹に、大雅は大きく上ずった反応をしてしまった。それほどあからさまに感情が声に乗ったのだ。
「勝つためには、相手を倒すことが一番の近道だ。それ以外にも有効打を決めたとかでポイントを稼ぐ方法もあるが、大抵の格闘家が、KO勝ちを自分に手繰り寄せようと躍起になる。しかし大雅、先ほどのお前は哉汰を相手に圧され、有効打すらも当てられていなかったのではないか」
 返す言葉もなかった。項垂れる。
「今度の試合は、二ラウンド制だ。仮に一ラウンド目に思ったように動けなかったとしても、一度リセットして二ラウンド目に仕切り直すという考えもあるだろう。だが、先ほどのような展開を、二ラウンド目に繰り広げたとしたら、お前は結果に納得できるか?」
「きっと、悔やむだろうと思います」
 思慮深く考える間もなかった。一ラウンド目にも思うように動けない展開があったとしたら尚更だ。
「そうだな。私が今回、大雅と哉汰のスパーリングを一ラウンドだけに限定したのは、プロとアマチュアの差を鑑みてのことだけではない。お前に、いつでも全力で動ける気概を持ち合わせて欲しかったからだ。……哉汰」
「はい」
 松橋は相馬に突然名を呼ばれて、姿勢を正した。
「お前は相手が大雅だからといって、情けをかけたりはしていなかっただろうな」
「勿論っす。大雅くんは強い選手ですから、自分も全力で挑みましたよ」
 大雅は目を丸くして、松橋のほうを見た。
「格闘技は、互いに、相手を倒そうとぶつかり合う競技だ。とくに総合格闘技においては、打撃、組み、寝技と、様々な技術を駆使して勝敗を競う。故に一瞬の隙を相手に捕らえられれば、戦況は一気に動くし、また逆も然りだ。哉汰の返事を聞いて、大雅が何故驚いているのかは、私には分かりかねるが、いつ何時、どんな選手を相手にしたとしても、自分の全力を出し尽くす。相手の全力を引き出す。そうしてぶつかり合って、最高の勝負を繰り広げるつもりで相手に挑むことを心がけなさい。そしてそれは、『次があるから大丈夫』などと思わず、常に胸に秘めておくことだ」
「大雅くんはこれから、いろんな選手と闘うことになるだろうけど、中にはイキリ倒して、君を挑発してくるやつもいるでしょう。相馬さんはそういう選手があまり好きではないから、この道場にはいないっすけど、ガラの悪いジムなんかでは、暴力に飢えた猿みたいなやつがうじゃうじゃいますからね」
 大雅は思わず苦笑した。
「でもそいつらにも、そいつらなりに自分を鍛えてきたプライドっつうもんがありますから、強い言葉で相手を煽るんです。それで相手が萎縮したら万々歳。そうでなくとも、相手の感情を逆撫でして怒らせれば、プレッシャーをかけることができますからね。まあ、イマドキそんなのにやられるのはよほどの小心者か初心者でしょうけど。……相馬さんが言いたいのは、一見めちゃくちゃ強そうにみえる選手が相手になったとしても、怖じ気づかずに全力で闘えってことっすよ」
「たとえばお前がデビュー戦でいきなりチャンピオンと闘うことになったとしても、諦めなければ勝てるかもしれないからな。人はそれを番狂わせというが、色々なスポーツでそういうことが起こることがあるだろう」
 なにも格闘技だけではない。マラソン、野球、サッカー、水泳……。挙げればきりがないが、特にアマチュア同士の勝負において、負けると思われていた方が勝ったりする。大雅も何度か、そういう展開を観たことがある。
「誰にでも可能性があるということですね」
 そしてその可能性を掴むか、あるいは摘み取ってしまうかを決めるのは、自分自身なのだ。
「そうだな」
 相馬が頷いた。「さて、ではいつもの練習を始めようか。二人も水分補給をして休んだら、混ざりなさい」
「はいっ!」
 大雅は返事をして、相馬と松橋の背中を見つめていた。憧れた師と兄弟子の背中は、今は届かぬ巌壁のように大雅の目に映った。彼らを追いかけるにはまだ力量が足りないかもしれない。それでも、険しい岩肌に、指先だけでもしがみついていれば、少なくとも落ちることはない。ペットボトルの水を一気飲みして、大雅は二人の背中を追った。