少し気の早い台風が、夏休みを攫っていった。小中高と、一斉に二学期がはじまったその日は、雨上がりのあとの晴れということもあって、気温は高かったが、空気はカラッとしていた。
「陽太、弁当と、おにぎり」
「おう、いつもありがとうな」
男子児童の中でも、朝一番に学園を出発する陽太は、誰が見ても野球をやっていると分かる出で立ちをしている。最近は練習量も増えて、弁当だけじゃ足りないとぼやいていたので、大雅が余分にソフトボールほどの大きさのおにぎりを二個握ってやっていた。
「最近エプロン姿がさまになってきたんじゃねえか?」
「……そうか?」
「ギャップ萌えってやつだよ」
ニヤニヤしながら陽太は自転車にまたがって学園を出ていった。
児童たちをあらかた見送ったあと、大雅は学園の正面玄関の掃除をした。この季節は、普段ならカラカラに乾いている花壇の土が、今日は充分に雨水を吸っている。
台風のせいなのか、ガラス扉の汚れが酷かったので、入念に雑巾で拭き取った。門に続くアスファルトの通路の所々には水たまりが残っており、陽光をキラキラと反射させていた。
アスファルトの水たまりをみると、思い出すことがある。今と同じくらいの時期の、大雅が小学校高学年の頃のことだった。
週末を乗り越えた月曜日の朝、大雅は学校に向かっていた。朝からしおりにねちねちと怒られたせいで、集団登校の出発時間には間に合わず、ひとりで通学路を歩いていた。勿論、週末に彼は食事を摂っていない。この場合、『勿論』という表現は相応しくないのかもしれないが、大雅にとって週末に飲食を碌にさせてもらえないほうが日常だった。
なにも食べられないのはまだ我慢出来るが、喉の渇きは精神を蝕むのに充分な材料だった。
太陽は、大雅の事情などつゆ知らず、ジリジリと彼の肌を灼いている。残り少ない体内の水分が根こそぎ奪われそうだった。
大雅は、住宅街の中にあるアパートの敷地内に入った。最近出来たばかりだというそこは、駐車場がアスファルトで舗装されたばかりだったが、前日の雨が残っていて、水たまりがあちらこちらに現れていた。
大雅はそのうちのひとつに忍び寄った。目で見る限りは透明で綺麗な水たまりだ。背負っているランドセルを地面に降ろし、周りをぐるりと見回す。
(誰も見ていないな)
急いで地面に四つん這いになる。必死だった。水たまりに顔を近づけ、水面に唇が触れた瞬間、彼は夢中でその水を啜った。
ぬるい水だったが、喉を潤すのには充分だった。そのときの大雅にとっては、水道から注がれる水と大差なく感じられた。
夢中で水を啜り、水たまりの底に溜まっていた細かな砂が口腔内に流れ込んできたとき、大雅はフッと我に返って咳き込んだ。口元を慌てて拭い、立ち上がる。そのまま誰にも見られていないことを願って、足早にその場を立ち去った。
(オレが悪い子供だから、まともにご飯も食べられないし、飲み物も貰えないんだ)
自分が両親に酷い目に遭わされることは仕方ない。どんなに辛くても、もうどうしようもない。生きているだけで迷惑な存在だから、罰を受けるのは当たり前なんだ。
水を飲んで、急に脳が活性化したように、思考が鮮明になって、スタスタと歩けるようになった。大雅は惨めな自分を思い、泣きそうになるのをぐっとこらえて、通学路を駆け抜けていった。
大雅の記憶の中には、あれから何度も水たまりの水を飲んでいた自分の姿が、いまも残っている。口の中に流れ込んできた砂利の感触すらも、鮮明に思い出せる。
誰にも見られていない、自分だけの、あの頃を生き抜いた証だ。
日課の奉仕作業を終えたあと、大雅は報告をしに支援員室に寄った。
「正憲先生、今日の分は全部終わりました」
「そうか。ご苦労。……今日もあの道場に行くのか」
「あっ……うん」
未だに藤本と世間話をするのが苦手だ。自分のことを嫌っているはずの者を相手に、何を話せばいいのかも分からない。一方的に聞かれたことに答えるだけだ。
「気をつけて行ってきなさい」
大雅は目を丸くして、藤本を見た。彼は支援員室の一番奥に座って事務作業をしているため、表情はうかがい知れない。こちらにちらりと視線を這わせただけで、すぐに仕事に戻った。
(最近、マサノリの態度が柔らかくなっている気がする)
道場に向かう道すがら、大雅は藤本のことを考えていた。自分の過去の行いは、決して褒められたものではない。親元にいたときの境遇を鑑みても、それとこれとは別で、対応に追われた大人たちが辟易するのも仕方のないことだった。
だとすれば、真面目に生きようと改心した自分をみて、感情を逆撫でされることもなくなって、他の児童と同じように接しようと思ったのかもしれないと、大雅は思った。
暑い。大雅は最近、学園から道場までの道中をジョギングしながら通うようにしている。日差しのない夜ならともかく、日中は肌が灼かれ、道場に着く頃には、すでにシャワーを浴びたかのように汗だくになっている。タオルで全身を拭ったあとに、練習に参加するのが恒例となっていた。
平日の日中は、平日休みの会社員や、主婦の門下生が多く集まる。総合格闘技ではなく、キックボクシングのクラスが実施されている。
相馬がインストラクターを担い、初心者から中級者までの生徒たちが楽しく汗を流せるようにプログラムが組まれている。大雅は最近、そのクラスに参加して技術を磨いているが、途中で相馬の補助を任されることも出てきた。
クラスには、実戦に近いミット打ちが中心のコースと、運動量の多いダイエット向きのコースがある。曜日や時間でやる内容も決まっており、大体が実戦コースのあとにダイエットコースが行われる流れになっているから、どちらにも参加する者たちもいた。
基本的には門下生同士でペアになってミットの打ち合いをするが、初心者でまだミットを持つことに慣れていない人がいたら、相馬がその人の分の打撃受けを担当するが、大雅がいるときは彼に任せている。
大雅はまだ人に面と向かって技術を教えることに慣れていないため、その役割は相馬が門下生の近くに立って担っているのだった。
「お兄さんは下手くそなぼくのパンチやキックをちゃんと受けてくれるから、やりやすいですね」
レッスンの終了後にそう言ってきたのは、最近道場に入会したという二十代後半の青年だった。大雅は直接彼に名前を聞いたことはないが、受付の記入簿に『佐門』という苗字が書かれていたのを見た。
「誰でも最初は初心者ですから。下手とかそんなの、関係ねえっすよ」
「お兄さんは見た目が怖いですけど、話すとそんなことないですね」
大雅は佐門がニコニコと微笑んでいるのを見て面食らった。「お名前を教えてもらっても?」
「藤堂です。……藤堂大雅」
「ぼくは佐門といいます。あ、知ってますよね」
物腰の柔らかな人だなと、大雅は思った。自分より身長が高いが、それによる威圧感はない。ワンツーの連打をするときに、猫パンチのようなフォームになってしまうのが初々しかった。
「藤堂さんは、おいくつですか?」
「十七っす」
「えっ!」
佐門は驚いたように声を張った。どうやら、もう成人していると思われていたようだ。
「ぼくは二十五ですから、八歳も差があるんですね」
「師匠のほうが、佐門さんと歳が近いみたいっすね」
大雅はどう言葉を返せばいいのか分からなくて、とりあえず頭に浮かんだ当たり障りのない返事をしておいた。
佐門は大雅が年下だと分かっても、丁寧な物言いは崩さなかった。実際の年齢に関係なく、格闘技の選手としては、大雅のほうが先輩だと思っているのだ。
「佐門さんは次の時間のレッスンにも参加しますか?」
「ええ、ぼく、はやく上手くなりたいんです。本当はもっと若い頃に始めたかったんですけどね、昔はちょっと勇気がなくって。格闘技ってやっぱ、痛いとか怖いとか危ないとか、そういう先入観がさきにくるじゃないですか。でも、いざ始めてみてわかるのは、相馬さんが、ぼくのような初心者でも長く続けられるようにカリキュラムを組んでくださっているから、怖くないし、痛くないし、楽しいですよ」
いずれは試合に出られたらいいですと、佐門はぎゅっと拳を握りしめた。
「ぼく、なんでも形から入っちゃうタイプなので、キックボクシングの用品を一式買い集めちゃって。バンテージの巻き方もなかなか覚えられないし、ファイトショーツを履くのも照れくさいし。せめてそういうのをなにも思わずに身につけられるようになりたいです」
佐門はスポーツブランドのハーフパンツとシャツを身につけ、拳には軍手をはめている。相馬はまず、道場の門を叩く入門者には、軍手と動きやすい服を持参するように言っているから、それを参考にしたのだろう。
「オレもまだまだ未熟者っすから、一緒に頑張りましょう」
大雅はそう言って、もごもごとぎこちなくはにかんでみせる。佐門は目をきらきらと輝かせて、「はいっ!」と嬉しそうに返事をした。
「圭二!」
夕方、二つのレッスンを終えて道場の掃除を手伝っていたとき、見知った顔が戸口に現れて、大雅は思わず彼の名前を呼んでいた。
「大雅、ひさしぶりだね」
「もう出てきても平気なのか」
平気だからここに来たんだろうがと、大雅は自答した。
「いろいろありがとう。僕はもう大丈夫だから、今日からまた練習に参加できるよ」
「フン、てめえが半月以上もだらだらしているあいだに、オレは試合に出ることにしたぜ」
「えっ! すごいじゃないか!」
圭二が目を丸くした。「夢への第一歩だね」
「クサイ台詞吐いてんじゃねえよ」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」
圭二はおどおどしながら肩にかけていた鞄を下ろし、準備をし始めた。コイツは師匠に安静にしていろと言われていた期間も、こっそり軽い筋トレなんかをしていたんだろうなと、大雅はなんとなく思ったが、口には出さなかった。
「圭二、回復したようだな」
気配もなく、相馬が背後に立っていたので、大雅はとびあがって驚いた。
「はい、ご心配をおかけしました」
「結果がどうであれ、試合を終えたあとは、安静にしておくことが重要だ。互いに本気でぶつかり合う競技だから、どうしても肉体に大きな負担がかかる。そのときには気付かないダメージが、体に蓄積されているかもしれない。選手のなかには試合のあと、一週間も歩けなくなる者もいると聞くし、私も試合のあとはしばらく休息をとらせてもらうことにしている。……休む、ということを、日本人は悪く捉えがちだが、時にはゆっくりと疲れをとることが、夢への近道となる場合もある」
「急がば回れというやつですね」
圭二が言った。大雅は二人の会話を聞きながら、自分は果たしてどうだろうかと考えてみる。
たとえばこの先、誰かと試合で闘ったあと、相馬の言いつけ通りににちゃんと休めるのか。
自分はまだ何者でもないから、抱いた夢をその手に掴むために、がむしゃらに生きていくだろう。
何者にもなれないあいだは、きっと焦ってしまう。コースやゴールに場所が決まっているレースとは違って、辿り着く先は見えない。全力疾走で駆け抜けたとしても、途中で力尽きてしまう可能性だってある。
一歩、一歩確実に。それは分かっている。分かっていても、求めるものが大きいほど、焦燥感は強くなる。自分の意思とは違うことをしなければならなくなったとき、それを耐え忍ぶ心を培わねばならない。
「大雅、圭二、よく聞きなさい」
道場の中には、大雅と圭二と、そして相馬の三人しかいない。夜の部の練習が始まると、他の門下生たちがやってくるが、ちょうど学校が終わり、社会人はまだ仕事をしているこの時間帯は、三人のみが一緒になることが多かった。
「はい」
二人は同時に返事をして、相馬に向き直る。おもむろに床に正座をする。
「私はこれまで格闘家として、数多の相手を倒し、今の座についている。そして幸運なことに、お前たちのように、私を慕ってくれる弟子が出来た。無論、他の道場生も同じように大切な仲間ではあるが、皆、一様に同じ志をもっているわけではない。私の生徒たちの中でも、より大きく飛躍しようとしているお前たちは、私のすべてをかけて育て上げたいと思っている。お前たちも、私についてきてくれるものと信じているが、私の思いに間違いはないか?」
大雅も圭二も、真剣な面持ちで力強く頷いた。
「ありがとう。……ではもうひとつ聞かせてくれ。大雅、圭二、お前たちは、どんな格闘家になりたいと思っている?」
二人は顔を見合わせた。大雅のなかで、答えはもう決まっている。圭二がごくりと唾を飲み込んで躊躇っているので、先に口を開いた。
「誰よりも強い選手になりたいです」
「では大雅、『強さ』とは、なんだ」
相馬に聞き返されて、大雅はぐっと言葉に詰まった。
「だ、誰にも負けないこと……じゃ、ないですか」
代わりに圭二が言葉のひとつひとつを吟味するかのようにゆっくりと答える。
「誰にも負けないためにはどうすればいい」
「たくさん練習して、たとえば師匠を相手にしても、怖がらずに立ち向かう……とか」
「では、お前たちが目標としているのは、私を倒すことか?」
「あっ、いえっ、それはたとえです! どんな強敵が目の前に立ちはだかっても、物怖じしないように、頑張る……みたいな……」
「相手を強敵だと定義するのは、誰だ? 世間の評判か? 私のアドバイスか? それとも、相手が『俺は強敵だ』などと、わざわざ言ってくるのか?」
今度は圭二が黙り込んだ。しばらくの沈黙。これまでの相馬の問いかけに共通する答えを、大雅はそのあいだに手のひらに掴んだような気がした。
「オレ……あ、いや、自分自身……じゃないでしょうか」
「大雅、どうしてそう思った」
相馬の目が大雅を射貫いてくる。目を逸らすことはしない。自分の所作すらも、相馬の問いに対する答えだと感じる。
「あの、オレ、うまく言えないですけど、オレはさっき、『誰よりも強い選手になりたい』と言いました。それから圭二は、『誰にも負けないこと』が強さなのではないかと言いました。その『誰か』の中には、オレたち自身も含まれていると思うんです」
「自分の強さを決めるのは、自分自身だと、僕も思います。……僕は普段からビビりで、普段はつい相手に圧されちゃうけど、闘いの中でオドオドしていたら、相手にも失礼だと思って、練習や試合のときはせめてちゃんと男らしくしようって、自分に言い聞かせています」
「二人とも、もしかすると私には勿体ないくらいの可能性を秘めているのかもしれないな」
相馬はそう言って静かに微笑んだ。きょとんとする大雅と圭二に、なおも言葉を投げかける。
「これは格闘技だけのことではない。人生において、人間の最大の敵は自分自身であり、そして最大の味方もまた、自分自身であると私は思っている。厳しい局面に立たされたとき、それを乗り越えるも逃げるも、決めるのは自分だ。なにが正しいことで、なにが道理に反しているかを判断するのも自分だ。目標を成し遂げたときに、自身を賞賛してやれるのも、自分だ。私が格闘術を教えても、それを吸収して自分のものにする力をたぐり寄せるのも、自分だ。私は教えるだけで、それ以外はなにもしてやれないからな。たとえばひとりの格闘家が試合に負け続けて自信を喪失してしまたとき、強く在りたいと思っているはずの自分から、逃げ出したくなることがあるだろう。圭二、仮にそいつがそこから逃げ出してしまったとしたら、どう思う?」
「あっ……、僕は……その人がそこまでの人だったって思います。強くは、なれていないですよね」
「ふむ。試合に負け続けるということは、そいつが才能に恵まれていない選手なのかもしれない。だが、自信を喪失するまでは、自分を奮い立たせてリングに立ったはずだ。そんな彼は、本当に弱かったのか?」
「いえっ……試合に出続けるのには、すごく勇気がいると思います」
「そうだな。その格闘家が、その後も闘い続けるか、選手生命を終えるかは自分自身が決めることだ。どっちが正しいか、間違いかなんて話でもない。夢を諦めるのも、それ相応の勇気がいるだろう。私が言いたいのは、結果に向かうまでの過程をみるのではなく、どちらの道を選んだとしても、もしもそれが間違いかもしれないと気付いたときに、自分を引き戻せる覚悟を持つことこそ、強さだと思っているよ」
沈黙。大雅と圭二は、相馬の言ったことを、各々で解釈しようと思案しているようだった。
「大雅、お前は学校を退学になり、私にひどく怒られ、そこでようやく改心して、頭を丸めて反省の意を示してきたな」
「うぅ……はい……」
過去のことをほじくり返されるのは辛かった。相馬の腕が伸びて、大雅の頭にのせられた。ぎゅっと目を瞑った大雅に相馬の言葉が降りかかる。
「強くなったな、大雅」
穏やかで、優しい口調だった。目を開ける。圭二が、相馬と同じように優しい眼差しで自分を見ているのが横目に見えた。
「圭二、お前もだ。つらい期間をよくぞ乗り越えて戻ってきてくれたな。先日の試合が、お前の強さの糧となるように、これからも私についてきてくれるか」
相馬の分厚い手のひらに頭を撫でられた二人の弟子は、潤ませた眼を相馬に向けて、「はいっ!」と腹の底から返事をしてみせた。
「陽太、弁当と、おにぎり」
「おう、いつもありがとうな」
男子児童の中でも、朝一番に学園を出発する陽太は、誰が見ても野球をやっていると分かる出で立ちをしている。最近は練習量も増えて、弁当だけじゃ足りないとぼやいていたので、大雅が余分にソフトボールほどの大きさのおにぎりを二個握ってやっていた。
「最近エプロン姿がさまになってきたんじゃねえか?」
「……そうか?」
「ギャップ萌えってやつだよ」
ニヤニヤしながら陽太は自転車にまたがって学園を出ていった。
児童たちをあらかた見送ったあと、大雅は学園の正面玄関の掃除をした。この季節は、普段ならカラカラに乾いている花壇の土が、今日は充分に雨水を吸っている。
台風のせいなのか、ガラス扉の汚れが酷かったので、入念に雑巾で拭き取った。門に続くアスファルトの通路の所々には水たまりが残っており、陽光をキラキラと反射させていた。
アスファルトの水たまりをみると、思い出すことがある。今と同じくらいの時期の、大雅が小学校高学年の頃のことだった。
週末を乗り越えた月曜日の朝、大雅は学校に向かっていた。朝からしおりにねちねちと怒られたせいで、集団登校の出発時間には間に合わず、ひとりで通学路を歩いていた。勿論、週末に彼は食事を摂っていない。この場合、『勿論』という表現は相応しくないのかもしれないが、大雅にとって週末に飲食を碌にさせてもらえないほうが日常だった。
なにも食べられないのはまだ我慢出来るが、喉の渇きは精神を蝕むのに充分な材料だった。
太陽は、大雅の事情などつゆ知らず、ジリジリと彼の肌を灼いている。残り少ない体内の水分が根こそぎ奪われそうだった。
大雅は、住宅街の中にあるアパートの敷地内に入った。最近出来たばかりだというそこは、駐車場がアスファルトで舗装されたばかりだったが、前日の雨が残っていて、水たまりがあちらこちらに現れていた。
大雅はそのうちのひとつに忍び寄った。目で見る限りは透明で綺麗な水たまりだ。背負っているランドセルを地面に降ろし、周りをぐるりと見回す。
(誰も見ていないな)
急いで地面に四つん這いになる。必死だった。水たまりに顔を近づけ、水面に唇が触れた瞬間、彼は夢中でその水を啜った。
ぬるい水だったが、喉を潤すのには充分だった。そのときの大雅にとっては、水道から注がれる水と大差なく感じられた。
夢中で水を啜り、水たまりの底に溜まっていた細かな砂が口腔内に流れ込んできたとき、大雅はフッと我に返って咳き込んだ。口元を慌てて拭い、立ち上がる。そのまま誰にも見られていないことを願って、足早にその場を立ち去った。
(オレが悪い子供だから、まともにご飯も食べられないし、飲み物も貰えないんだ)
自分が両親に酷い目に遭わされることは仕方ない。どんなに辛くても、もうどうしようもない。生きているだけで迷惑な存在だから、罰を受けるのは当たり前なんだ。
水を飲んで、急に脳が活性化したように、思考が鮮明になって、スタスタと歩けるようになった。大雅は惨めな自分を思い、泣きそうになるのをぐっとこらえて、通学路を駆け抜けていった。
大雅の記憶の中には、あれから何度も水たまりの水を飲んでいた自分の姿が、いまも残っている。口の中に流れ込んできた砂利の感触すらも、鮮明に思い出せる。
誰にも見られていない、自分だけの、あの頃を生き抜いた証だ。
日課の奉仕作業を終えたあと、大雅は報告をしに支援員室に寄った。
「正憲先生、今日の分は全部終わりました」
「そうか。ご苦労。……今日もあの道場に行くのか」
「あっ……うん」
未だに藤本と世間話をするのが苦手だ。自分のことを嫌っているはずの者を相手に、何を話せばいいのかも分からない。一方的に聞かれたことに答えるだけだ。
「気をつけて行ってきなさい」
大雅は目を丸くして、藤本を見た。彼は支援員室の一番奥に座って事務作業をしているため、表情はうかがい知れない。こちらにちらりと視線を這わせただけで、すぐに仕事に戻った。
(最近、マサノリの態度が柔らかくなっている気がする)
道場に向かう道すがら、大雅は藤本のことを考えていた。自分の過去の行いは、決して褒められたものではない。親元にいたときの境遇を鑑みても、それとこれとは別で、対応に追われた大人たちが辟易するのも仕方のないことだった。
だとすれば、真面目に生きようと改心した自分をみて、感情を逆撫でされることもなくなって、他の児童と同じように接しようと思ったのかもしれないと、大雅は思った。
暑い。大雅は最近、学園から道場までの道中をジョギングしながら通うようにしている。日差しのない夜ならともかく、日中は肌が灼かれ、道場に着く頃には、すでにシャワーを浴びたかのように汗だくになっている。タオルで全身を拭ったあとに、練習に参加するのが恒例となっていた。
平日の日中は、平日休みの会社員や、主婦の門下生が多く集まる。総合格闘技ではなく、キックボクシングのクラスが実施されている。
相馬がインストラクターを担い、初心者から中級者までの生徒たちが楽しく汗を流せるようにプログラムが組まれている。大雅は最近、そのクラスに参加して技術を磨いているが、途中で相馬の補助を任されることも出てきた。
クラスには、実戦に近いミット打ちが中心のコースと、運動量の多いダイエット向きのコースがある。曜日や時間でやる内容も決まっており、大体が実戦コースのあとにダイエットコースが行われる流れになっているから、どちらにも参加する者たちもいた。
基本的には門下生同士でペアになってミットの打ち合いをするが、初心者でまだミットを持つことに慣れていない人がいたら、相馬がその人の分の打撃受けを担当するが、大雅がいるときは彼に任せている。
大雅はまだ人に面と向かって技術を教えることに慣れていないため、その役割は相馬が門下生の近くに立って担っているのだった。
「お兄さんは下手くそなぼくのパンチやキックをちゃんと受けてくれるから、やりやすいですね」
レッスンの終了後にそう言ってきたのは、最近道場に入会したという二十代後半の青年だった。大雅は直接彼に名前を聞いたことはないが、受付の記入簿に『佐門』という苗字が書かれていたのを見た。
「誰でも最初は初心者ですから。下手とかそんなの、関係ねえっすよ」
「お兄さんは見た目が怖いですけど、話すとそんなことないですね」
大雅は佐門がニコニコと微笑んでいるのを見て面食らった。「お名前を教えてもらっても?」
「藤堂です。……藤堂大雅」
「ぼくは佐門といいます。あ、知ってますよね」
物腰の柔らかな人だなと、大雅は思った。自分より身長が高いが、それによる威圧感はない。ワンツーの連打をするときに、猫パンチのようなフォームになってしまうのが初々しかった。
「藤堂さんは、おいくつですか?」
「十七っす」
「えっ!」
佐門は驚いたように声を張った。どうやら、もう成人していると思われていたようだ。
「ぼくは二十五ですから、八歳も差があるんですね」
「師匠のほうが、佐門さんと歳が近いみたいっすね」
大雅はどう言葉を返せばいいのか分からなくて、とりあえず頭に浮かんだ当たり障りのない返事をしておいた。
佐門は大雅が年下だと分かっても、丁寧な物言いは崩さなかった。実際の年齢に関係なく、格闘技の選手としては、大雅のほうが先輩だと思っているのだ。
「佐門さんは次の時間のレッスンにも参加しますか?」
「ええ、ぼく、はやく上手くなりたいんです。本当はもっと若い頃に始めたかったんですけどね、昔はちょっと勇気がなくって。格闘技ってやっぱ、痛いとか怖いとか危ないとか、そういう先入観がさきにくるじゃないですか。でも、いざ始めてみてわかるのは、相馬さんが、ぼくのような初心者でも長く続けられるようにカリキュラムを組んでくださっているから、怖くないし、痛くないし、楽しいですよ」
いずれは試合に出られたらいいですと、佐門はぎゅっと拳を握りしめた。
「ぼく、なんでも形から入っちゃうタイプなので、キックボクシングの用品を一式買い集めちゃって。バンテージの巻き方もなかなか覚えられないし、ファイトショーツを履くのも照れくさいし。せめてそういうのをなにも思わずに身につけられるようになりたいです」
佐門はスポーツブランドのハーフパンツとシャツを身につけ、拳には軍手をはめている。相馬はまず、道場の門を叩く入門者には、軍手と動きやすい服を持参するように言っているから、それを参考にしたのだろう。
「オレもまだまだ未熟者っすから、一緒に頑張りましょう」
大雅はそう言って、もごもごとぎこちなくはにかんでみせる。佐門は目をきらきらと輝かせて、「はいっ!」と嬉しそうに返事をした。
「圭二!」
夕方、二つのレッスンを終えて道場の掃除を手伝っていたとき、見知った顔が戸口に現れて、大雅は思わず彼の名前を呼んでいた。
「大雅、ひさしぶりだね」
「もう出てきても平気なのか」
平気だからここに来たんだろうがと、大雅は自答した。
「いろいろありがとう。僕はもう大丈夫だから、今日からまた練習に参加できるよ」
「フン、てめえが半月以上もだらだらしているあいだに、オレは試合に出ることにしたぜ」
「えっ! すごいじゃないか!」
圭二が目を丸くした。「夢への第一歩だね」
「クサイ台詞吐いてんじゃねえよ」
「ご、ごめん、そんなつもりじゃ……」
圭二はおどおどしながら肩にかけていた鞄を下ろし、準備をし始めた。コイツは師匠に安静にしていろと言われていた期間も、こっそり軽い筋トレなんかをしていたんだろうなと、大雅はなんとなく思ったが、口には出さなかった。
「圭二、回復したようだな」
気配もなく、相馬が背後に立っていたので、大雅はとびあがって驚いた。
「はい、ご心配をおかけしました」
「結果がどうであれ、試合を終えたあとは、安静にしておくことが重要だ。互いに本気でぶつかり合う競技だから、どうしても肉体に大きな負担がかかる。そのときには気付かないダメージが、体に蓄積されているかもしれない。選手のなかには試合のあと、一週間も歩けなくなる者もいると聞くし、私も試合のあとはしばらく休息をとらせてもらうことにしている。……休む、ということを、日本人は悪く捉えがちだが、時にはゆっくりと疲れをとることが、夢への近道となる場合もある」
「急がば回れというやつですね」
圭二が言った。大雅は二人の会話を聞きながら、自分は果たしてどうだろうかと考えてみる。
たとえばこの先、誰かと試合で闘ったあと、相馬の言いつけ通りににちゃんと休めるのか。
自分はまだ何者でもないから、抱いた夢をその手に掴むために、がむしゃらに生きていくだろう。
何者にもなれないあいだは、きっと焦ってしまう。コースやゴールに場所が決まっているレースとは違って、辿り着く先は見えない。全力疾走で駆け抜けたとしても、途中で力尽きてしまう可能性だってある。
一歩、一歩確実に。それは分かっている。分かっていても、求めるものが大きいほど、焦燥感は強くなる。自分の意思とは違うことをしなければならなくなったとき、それを耐え忍ぶ心を培わねばならない。
「大雅、圭二、よく聞きなさい」
道場の中には、大雅と圭二と、そして相馬の三人しかいない。夜の部の練習が始まると、他の門下生たちがやってくるが、ちょうど学校が終わり、社会人はまだ仕事をしているこの時間帯は、三人のみが一緒になることが多かった。
「はい」
二人は同時に返事をして、相馬に向き直る。おもむろに床に正座をする。
「私はこれまで格闘家として、数多の相手を倒し、今の座についている。そして幸運なことに、お前たちのように、私を慕ってくれる弟子が出来た。無論、他の道場生も同じように大切な仲間ではあるが、皆、一様に同じ志をもっているわけではない。私の生徒たちの中でも、より大きく飛躍しようとしているお前たちは、私のすべてをかけて育て上げたいと思っている。お前たちも、私についてきてくれるものと信じているが、私の思いに間違いはないか?」
大雅も圭二も、真剣な面持ちで力強く頷いた。
「ありがとう。……ではもうひとつ聞かせてくれ。大雅、圭二、お前たちは、どんな格闘家になりたいと思っている?」
二人は顔を見合わせた。大雅のなかで、答えはもう決まっている。圭二がごくりと唾を飲み込んで躊躇っているので、先に口を開いた。
「誰よりも強い選手になりたいです」
「では大雅、『強さ』とは、なんだ」
相馬に聞き返されて、大雅はぐっと言葉に詰まった。
「だ、誰にも負けないこと……じゃ、ないですか」
代わりに圭二が言葉のひとつひとつを吟味するかのようにゆっくりと答える。
「誰にも負けないためにはどうすればいい」
「たくさん練習して、たとえば師匠を相手にしても、怖がらずに立ち向かう……とか」
「では、お前たちが目標としているのは、私を倒すことか?」
「あっ、いえっ、それはたとえです! どんな強敵が目の前に立ちはだかっても、物怖じしないように、頑張る……みたいな……」
「相手を強敵だと定義するのは、誰だ? 世間の評判か? 私のアドバイスか? それとも、相手が『俺は強敵だ』などと、わざわざ言ってくるのか?」
今度は圭二が黙り込んだ。しばらくの沈黙。これまでの相馬の問いかけに共通する答えを、大雅はそのあいだに手のひらに掴んだような気がした。
「オレ……あ、いや、自分自身……じゃないでしょうか」
「大雅、どうしてそう思った」
相馬の目が大雅を射貫いてくる。目を逸らすことはしない。自分の所作すらも、相馬の問いに対する答えだと感じる。
「あの、オレ、うまく言えないですけど、オレはさっき、『誰よりも強い選手になりたい』と言いました。それから圭二は、『誰にも負けないこと』が強さなのではないかと言いました。その『誰か』の中には、オレたち自身も含まれていると思うんです」
「自分の強さを決めるのは、自分自身だと、僕も思います。……僕は普段からビビりで、普段はつい相手に圧されちゃうけど、闘いの中でオドオドしていたら、相手にも失礼だと思って、練習や試合のときはせめてちゃんと男らしくしようって、自分に言い聞かせています」
「二人とも、もしかすると私には勿体ないくらいの可能性を秘めているのかもしれないな」
相馬はそう言って静かに微笑んだ。きょとんとする大雅と圭二に、なおも言葉を投げかける。
「これは格闘技だけのことではない。人生において、人間の最大の敵は自分自身であり、そして最大の味方もまた、自分自身であると私は思っている。厳しい局面に立たされたとき、それを乗り越えるも逃げるも、決めるのは自分だ。なにが正しいことで、なにが道理に反しているかを判断するのも自分だ。目標を成し遂げたときに、自身を賞賛してやれるのも、自分だ。私が格闘術を教えても、それを吸収して自分のものにする力をたぐり寄せるのも、自分だ。私は教えるだけで、それ以外はなにもしてやれないからな。たとえばひとりの格闘家が試合に負け続けて自信を喪失してしまたとき、強く在りたいと思っているはずの自分から、逃げ出したくなることがあるだろう。圭二、仮にそいつがそこから逃げ出してしまったとしたら、どう思う?」
「あっ……、僕は……その人がそこまでの人だったって思います。強くは、なれていないですよね」
「ふむ。試合に負け続けるということは、そいつが才能に恵まれていない選手なのかもしれない。だが、自信を喪失するまでは、自分を奮い立たせてリングに立ったはずだ。そんな彼は、本当に弱かったのか?」
「いえっ……試合に出続けるのには、すごく勇気がいると思います」
「そうだな。その格闘家が、その後も闘い続けるか、選手生命を終えるかは自分自身が決めることだ。どっちが正しいか、間違いかなんて話でもない。夢を諦めるのも、それ相応の勇気がいるだろう。私が言いたいのは、結果に向かうまでの過程をみるのではなく、どちらの道を選んだとしても、もしもそれが間違いかもしれないと気付いたときに、自分を引き戻せる覚悟を持つことこそ、強さだと思っているよ」
沈黙。大雅と圭二は、相馬の言ったことを、各々で解釈しようと思案しているようだった。
「大雅、お前は学校を退学になり、私にひどく怒られ、そこでようやく改心して、頭を丸めて反省の意を示してきたな」
「うぅ……はい……」
過去のことをほじくり返されるのは辛かった。相馬の腕が伸びて、大雅の頭にのせられた。ぎゅっと目を瞑った大雅に相馬の言葉が降りかかる。
「強くなったな、大雅」
穏やかで、優しい口調だった。目を開ける。圭二が、相馬と同じように優しい眼差しで自分を見ているのが横目に見えた。
「圭二、お前もだ。つらい期間をよくぞ乗り越えて戻ってきてくれたな。先日の試合が、お前の強さの糧となるように、これからも私についてきてくれるか」
相馬の分厚い手のひらに頭を撫でられた二人の弟子は、潤ませた眼を相馬に向けて、「はいっ!」と腹の底から返事をしてみせた。



