「やっぱオマエ、圭二がいないとなんかしょんぼりしてねえか?」
水を飲んでいると、三笠が横に立った。
「えっ、そうですか?」
「まあ、オマエは元々寡黙なヤツだからな」
ガハハと豪快に三笠が笑う。喉を鳴らして一気にコップの水を飲み干すと、大雅のそばに腰を下ろした。
「あまりごちゃごちゃ考えんなよ。圭二を心配するのも分かるが、アイツはただ、大事をとって体を休めているだけさ。相馬さんも、ちゃんと毎日連絡を取っているみたいだからな」
圭二とティアンチャイの試合から、半月が経とうとしている。相馬の指示もあって、あの日以来圭二は道場には来ていない。体のダメージが抜けきるまで療養しているらしい。
一度足を踏み入れてから、大雅は積極的にプロ練に参加するようになった。やはり、いままでよりもずっと学ぶことが多い。三笠も梶田も松橋も、親切に関わってくれる。おかげで、他人を拒みがちだった大雅は、丸い心で練習のひとときを過ごせている。
「ライバルが休んでいるあいだに、オマエが実力を付けられるチャンスだぞ」
そっと耳打ちをしてくる三笠の顔をみると、彼はニッといたずらっぽく笑っていた。
「圭二がライバル……」
「えっ? オマエはそう思ってねえのかよ」
リング上では梶田と松橋が、軽いスパーリングを行っている。マットを足裏が擦る音と、皮膚と皮膚がぶつかり合う破裂音が大雅の耳に飛び込んでくる。『軽い』とはいえ、互いにプロ選手同士のぶつかり合いは、アマチュアのそれよりも激しい動きだった。
大雅はリングを見上げながら、ごくりと唾を飲み込んだ。羨望の眼差しを向けていることに、自分で気付く。互いに拳をぶつけ合う二人の姿は、いずれは自分も辿り着きたい境地であり、あるいは通過点でもあった。
「圭二はオマエをライバルだって、はっきり言ってたぞ」
「え……まじっすか」
「マジだよ。オマエら普段はそんな話しねえのか?」
知らないところで、誰かが自分のことを話題に出しているのは、たぶんよくあることだろうが、それを事実として伝えられると、どうにもむず痒い感覚がする。——圭二は三笠さんたちに、オレのことをどんなヤツだと言っているのだろう。いちいち気にするのも、それを聞き出したいと思うのも、女々しいヤツだと一笑されそうな気がしたから、ぐっとこらえた。
「オレは……そうっすね。アイツとはずっと一緒にやってきたから、意識はします。でも、アイツのほうがオレよりもずっと先を走っているような、そんな感覚だったので、オレはともかくアイツがそんなことを思ってたって聞いて、ちょっとビビりました」
「追われるより、追いかけるほうがおれは好きだけどな」
「なんすか、ソレ」
三笠の顔を見ると、彼はフッとバツが悪そうに頬を緩めた。
「おれってさ、こう見えて小心者なんだ。だから相馬さんとか琢磨みたいに、チャンピオンにはなりたいって思うけど、そうなるってことはおれが手にしたベルトを狙って、色んなヤツがおれを倒しにくるってことだろ。考えてみるとこえーよな。ベルトを守るために、ソイツらに勝ち続けなきゃならねえんだぜ」
「三笠さん、なんか、似合わないっすね」
率直な感想だった。体が大きければ、威圧感があるように、どうしても見えてしまう。三笠は襲いかかってくる、あらゆるものをはね除けるような、屈強な男だと思っていたが、案外心は繊細なようだ。圭二といい、三笠といい、つぐみ道場にいる大柄な男は、見た目に似つかわしくない言動をとるのだなと思うと可笑しくなった。
「似合わないか? ハハッ、よく言われるよ。まあ、でも、やっぱ夢をもって、高みを目指すのは面白いぜ。……こんなこと言ってるから、チャンピオンになれねえのかもだけどな!」
ゲラゲラと笑う三笠の横で、そのとき大雅は思った。夢を叶えてしまったあとは、どうしたらいいんだろう、と。
いま、自分が持っている夢は、「プロの格闘家になる」というものだ。努力をしてそれを叶えたとする。夢が叶った瞬間、自分はどんな気持ちになるのだろうか。
(なにを考えているんだ、オレは。まだなにも成し遂げていないくせに)
辿り着きたい場所が出来るのも、未来に思いを馳せるのも、初めてのことだった。毎日を生きるのに必死だった自分が、よもや何者になりたいかという望みをもつようになろうとは。
その日の練習終わりに、相馬から「大雅、試合に出てみないか」と提案された。
「オレ、誰かと闘う資格があるってことですか?」
あまりにも無垢な質問に、相馬は笑ってしまった。
「プロになりたいなら、遅かれ早かれ、誰かと拳をまみえるようになる。お前にその気があってもなくてもな。勿論、嫌なら踏みとどまることも出来るが」
「やっ、やります! やらせてください!」
気付けば食い気味に答えていた。
「学園の友達が持っている漫画で、主人公が総合を始めて半年で、もう試合に出てたっす。オレも師匠に習い始めて、もうすぐ四年になります。圭二も試合に出たし、焦ってるわけじゃないっすけど、オレも自分の力を試してみたいです」
「そうか。では、手続きは私が進めておこう。これからは、試合に向けてのメニューを練習に組み込んでいかないとな」
学園に帰って、大雅は支援員室に立ち寄った。
「あら、どうしたの大雅くん」
自分のデスクに座って、煎餅を囓りかけていた森本が、戸口に現れた大雅に一番に気付いた。
「マサノリ……先生に言いたいことがあって……」
森本は「マサノリせんせー! 大雅くんですよ!!」と、部屋の奥に向かって声を張り上げた。そんなに大きな声を上げなくとも、そしてわざわざ呼び立てなくとも、大雅が現れた時点で藤本は彼に気付いていた。
「どうした。お前から話しかけてくるなんて、珍しいこともあるものだな」
藤本のデスクに置いてあるパソコンのディスプレイの向こうから、ぎらりと銀縁の眼鏡が光った。
「……今日、道場で、ししょ……相馬さんから格闘技の試合に出ないかと誘われて、出ますと言った……」
ぼそぼそと言う大雅の言葉を聞いて、森本がきゃっと短く悲鳴を上げた。支援員室には森本や藤本の他にも何人か支援員がいたが、誰もが大雅の発言を耳にして驚いたように目を見張った。
「そうか。分かった。頑張れよ」
藤本は淡々とそう言った。今度は大雅が驚く番だった。他の支援員たちがいる前だからだろうか。自分に対して、『頑張れよ』などという激励の言葉をかけてくれるのは、予想外過ぎたからだ。
「あっ、うん……」
そのため、大雅は返事に困ってしまった。拍子抜けをしたまま立ち尽くしていると、森本をはじめとする他の支援員たちが、大雅を取り囲んで、試合の日や対戦相手は決まったのか、だの、いつの間にそんなに強くなったのか、だの、そういえば体格もかなり良くなったわねなどと口々に囃し立てた。
「試合に勝ったら、祝勝会をしないとね!」
「森本さん、言い方が古いっすよ」
すかさずツッコミを入れる平山。「なによ、どういう意味?」と森本は食ってかかったが、平山はヘラヘラとそれをかわした。若い平山は、自分が産まれる前の年号に生を受けた森本を時折茶化すのが定例となっていた。
大人たちが盛り上がる中、大雅はぽつねんとその光景を見つめていた。少し前の自分なら、「なんだコイツら、人のことで勝手に盛り上がりやがって」と、怒りが先に湧いてきただろう。だが今は違う。
大雅が、既に試合を終えて結果を出したわけではない。だのに、起こりえないかもしれない未来を期待して、すでに盛り上がっている。大雅は自分の挙動が他人の感情に影響を与える事実を目の当たりにした。
嬉しかった。自分がちゃんとここに存在しているのだと実感できた。
先のような感情を完全に払拭できたわけではない。だけど、負の感情だけを抱くだけだった頃と比べて、そこに別の思いが加わるのでは、心に色を与えるパレットが少し大きくなったような、そんな気がしたのだった。
スマートフォンを持っていない大雅は、友人に気軽に連絡を取ることもできない。そもそも友人などいないから、そんな心配をする必要はないと思っていたのだが、彼は生まれて初めて、それが欲しいと思った。
圭二の様子が知りたい。相馬はなにも言わないし、だからこそ大事には至っていないのだとは分かるが、本人の口から「元気だよ」と聞きたかった。
学園、あるいは道場の電話を借りて連絡を取るという方法はあるが、肝心の連絡先を知らない。相馬に聞けば一気に解決しそうな悩みだが、いざ口にしようとするのは、照れくさかった。
「大雅くん、今日はあんたがいてくれて助かったわあ!」
割烹着姿の織田が、三角巾をパタパタと振りながら、大きなため息をついた。
「え? そうっすか」
「だってサンドイッチなんてめんど……大変じゃない!」
「オレ、こういうの結構好きだけど……」
今日は多枝が体調不良で休みらしい。最近は大雅が厨房の業務に手慣れてきたこともあって、急な欠員が出てもなんとか乗り切れるほどになってきた。
月に何度かあるイベント食の日で、事前に児童が食べたいものを投書して献立を決められることになっていた。今日はサンドイッチとフライドチキンとコンソメスープというメニューだった。フライドチキンはチェーン店のものを支援員が購入して持ってきたから、先ほどから厨房内にその香りが充満している。
業務用の食パンを何枚もカットして、織田が作った具を挟んでいく。卵に野菜にツナマヨ。フライドチキンの香りのせいで余計に腹が減った大雅が余った具をつまみ食いしていたら、しっかり織田に見られていた。真っ赤になって顔を伏せた大雅だったが、「見なかったことにしてあげる」と言われて安堵した。
食事の時間が近づいてくると、児童たちが食堂に集まってくる。もうすぐ夏休みが終わり、新学期が始まるこの時期に、だらけきっている児童たちの士気を養うためにも、今日の特別メニューはうってつけの材料であった。
大量に買ったチキンを大皿に並べ、各テーブルに配膳していく。小学生たちは大はしゃぎで、我先に自分の分を確保しようとするものだから、食堂は騒然とした。
「おら! オマエら! ちょっとは落ち着け!!」
大雅は騒ぐ児童たちをかき分け、何度か声を張り上げる羽目になった。滅多に食べられないジャンクフードを目の前にして、まるで飢えた獣のように欲望を丸出しにしてしまう気持ちはよく分かる。大雅も楽しみにしていた。
中高生は流石に小学生たちのようにはしゃぐ素振りは見せないが、嬉々として食事が始まるのを待っている様子だった。
「平山先生」
配膳を終えたあと、児童たちの様子を見ていた平山に声を掛ける。
「どうした?」
「陽太は今日も部活で、これ食えないんで、取り分けておいて、帰ってきたらあげてもいいかな」
「もちろん。でも、他のやつらにとられないように気をつけろよ」
児童たちに配る前に、大雅は既に自分と陽太の分を取り分けている。大雅は口角を少し上げて、頷いた。
児童たちはチキンだけでなく、サンドイッチが振る舞われたことも大いに喜んだ。
「これ、大雅さんが作ったのか?」と小学生たちに問われ、そうだなと答える。美味い美味いと手放しではしゃいでくれる彼らを見て、大雅は嬉しくなった。
「おれ、サンドイッチなら毎日でも食える」
「流石に毎日だと飽きるんじゃねえのか」
小学生たちの会話を聞いていると面白い。サンドイッチについて語り合っていたのに、話題がどんどん飛躍していく。夕食の献立は何だという話題からアニメやゲームの話になり、最終的には午後は園庭でドッジボールをしようという約束をこぎつけていた。
「……藤堂くん」
大雅が余った野菜サンドを囓っていると、背後から控えめに声をかけられた。
「んあ?」
「空いているお皿、片付けちゃっていいかな」
「ん。ごめん、ありがとう」
石野花蓮という名の少女だった。大雅が振り返ると、彼女と目が合った。さっとそらされてしまう。たしかコイツは……と、知りうる限りの相手の情報を頭に思い浮かべてみた。
陽太と同じ高校に通う、ひとつ年下の目立たない女だ。黒縁の四角い眼鏡をかけているイメージしかない。色白で華奢な見て呉れで、部屋の隅で小説を読んでいそうなガリ勉タイプの地味なヤツ……。
手に持っていたサンドイッチの残りを口に押し込み、テーブルの中央に置いていた大皿を花蓮に手渡した。
「オレも食ったら洗いもの手伝うから」
大雅はもごもごと言った。
「藤堂くんはゆっくりしてていいよ」
「いや、オレ、そういう立場じゃねえからさ」
ヘヘヘッと苦笑する。花蓮がなんとも言えない表情になったので、コイツもオレの事情を聞いているんだなと思った。
『そういう立場ではない』という言葉がするりと出てきたのは、大雅が普段から、学園にいることに引け目を感じているあらわれであった。自分がここにいてはいけないのだとしたら、個人的な事情など考慮されずにとっくに追い出されているのだとは思う。
食事時の賑やかさの去った食堂では、中高生たちが後片付けに勤しんでいる。大雅も彼らに混じってテーブルを拭き、厨房に入って洗い物を片付けた。
「藤堂くんは普段帰ってくるのが遅いけど、なにをしているの?」
「えっ、知らねえのか!?」
シンクに落ちる水音にかき消されそうなほどのか細い声。その割に花蓮は、案外話し好きなのかもしれない。今までまともに関わったことがなかったから、交流をもつと、抱いていた印象とは少し違って見えてきた。
「知らない。だって私たち、まともに話したことなかったじゃない」
そうだなと、大雅は頷いた。しょうりつ学園において、小学生はともかく、中高生の男女の関わり合いといえば、せいぜい食堂や共用部で顔を合わせたときに話をするくらいだ。
大雅が花蓮のことをあまり知らないのと同じように、自分のことが知られていないのは驚くような事態ではないかと思い直す。
「……さすがにオレが高校を退学になったことは知ってるよな」
「うん。女子棟でもちょっと噂になったから。どうして藤堂くんは抗議しなかったのかなって、ケイが言ってたよ。あ、ケイってのは、藤堂くんと同じ高校に行ってる子ね」
たしか、花蓮と同じようなタイプの女だったなと大雅は頭の中で『ケイ』の姿を思い浮かべる。高山恵。学園から一緒に登校することはなかったが、時折視界の端に彼女の姿があったような気もする。
「オレはまあ、仕方ねえよ。自業自得だって言われちまったら、なにも言い返せねえし」
大雅はちらりと花蓮を見やって、言葉を続けた。
「周りの人たちにもいっぱい迷惑かけたと思うし、追い詰められて目が覚めたみたいな……。真面目に生きていこうって思い直したよ」
「そうなんだ」
「……で、オレは格闘技の道場に通ってる。将来は、それで食っていきたいって思ってるんだ」
あまり大仰な言い方にならないように心がけたつもりだ。自分が抱いた夢をするりと言えた。洗剤の泡まみれになった自分の手を流水で洗って、タオルで水を拭う。
「えっ、すごいじゃん、藤堂くん。私、応援してもいい?」
目が合う。大雅は顔を真っ赤にして、「おう」と答えた。くすくすと控えめに笑う花蓮の向こう側にかかっている時計を見る。針は一時過ぎを指していた。
「やべっ、じゃあ、オレ、そういうわけで道場に行ってくる」
「あっ、うん、頑張ってね」
背中に花蓮の声を受けて、厨房をあとにする。荷物を取りに部屋に戻る途中、階段を駆け上がりながら、大雅は自分に驚いていた。なんの隔たりもなく、殆ど話したことのない誰かを相手にして、するすると言葉が紡ぎ出せた、自分に。
水を飲んでいると、三笠が横に立った。
「えっ、そうですか?」
「まあ、オマエは元々寡黙なヤツだからな」
ガハハと豪快に三笠が笑う。喉を鳴らして一気にコップの水を飲み干すと、大雅のそばに腰を下ろした。
「あまりごちゃごちゃ考えんなよ。圭二を心配するのも分かるが、アイツはただ、大事をとって体を休めているだけさ。相馬さんも、ちゃんと毎日連絡を取っているみたいだからな」
圭二とティアンチャイの試合から、半月が経とうとしている。相馬の指示もあって、あの日以来圭二は道場には来ていない。体のダメージが抜けきるまで療養しているらしい。
一度足を踏み入れてから、大雅は積極的にプロ練に参加するようになった。やはり、いままでよりもずっと学ぶことが多い。三笠も梶田も松橋も、親切に関わってくれる。おかげで、他人を拒みがちだった大雅は、丸い心で練習のひとときを過ごせている。
「ライバルが休んでいるあいだに、オマエが実力を付けられるチャンスだぞ」
そっと耳打ちをしてくる三笠の顔をみると、彼はニッといたずらっぽく笑っていた。
「圭二がライバル……」
「えっ? オマエはそう思ってねえのかよ」
リング上では梶田と松橋が、軽いスパーリングを行っている。マットを足裏が擦る音と、皮膚と皮膚がぶつかり合う破裂音が大雅の耳に飛び込んでくる。『軽い』とはいえ、互いにプロ選手同士のぶつかり合いは、アマチュアのそれよりも激しい動きだった。
大雅はリングを見上げながら、ごくりと唾を飲み込んだ。羨望の眼差しを向けていることに、自分で気付く。互いに拳をぶつけ合う二人の姿は、いずれは自分も辿り着きたい境地であり、あるいは通過点でもあった。
「圭二はオマエをライバルだって、はっきり言ってたぞ」
「え……まじっすか」
「マジだよ。オマエら普段はそんな話しねえのか?」
知らないところで、誰かが自分のことを話題に出しているのは、たぶんよくあることだろうが、それを事実として伝えられると、どうにもむず痒い感覚がする。——圭二は三笠さんたちに、オレのことをどんなヤツだと言っているのだろう。いちいち気にするのも、それを聞き出したいと思うのも、女々しいヤツだと一笑されそうな気がしたから、ぐっとこらえた。
「オレは……そうっすね。アイツとはずっと一緒にやってきたから、意識はします。でも、アイツのほうがオレよりもずっと先を走っているような、そんな感覚だったので、オレはともかくアイツがそんなことを思ってたって聞いて、ちょっとビビりました」
「追われるより、追いかけるほうがおれは好きだけどな」
「なんすか、ソレ」
三笠の顔を見ると、彼はフッとバツが悪そうに頬を緩めた。
「おれってさ、こう見えて小心者なんだ。だから相馬さんとか琢磨みたいに、チャンピオンにはなりたいって思うけど、そうなるってことはおれが手にしたベルトを狙って、色んなヤツがおれを倒しにくるってことだろ。考えてみるとこえーよな。ベルトを守るために、ソイツらに勝ち続けなきゃならねえんだぜ」
「三笠さん、なんか、似合わないっすね」
率直な感想だった。体が大きければ、威圧感があるように、どうしても見えてしまう。三笠は襲いかかってくる、あらゆるものをはね除けるような、屈強な男だと思っていたが、案外心は繊細なようだ。圭二といい、三笠といい、つぐみ道場にいる大柄な男は、見た目に似つかわしくない言動をとるのだなと思うと可笑しくなった。
「似合わないか? ハハッ、よく言われるよ。まあ、でも、やっぱ夢をもって、高みを目指すのは面白いぜ。……こんなこと言ってるから、チャンピオンになれねえのかもだけどな!」
ゲラゲラと笑う三笠の横で、そのとき大雅は思った。夢を叶えてしまったあとは、どうしたらいいんだろう、と。
いま、自分が持っている夢は、「プロの格闘家になる」というものだ。努力をしてそれを叶えたとする。夢が叶った瞬間、自分はどんな気持ちになるのだろうか。
(なにを考えているんだ、オレは。まだなにも成し遂げていないくせに)
辿り着きたい場所が出来るのも、未来に思いを馳せるのも、初めてのことだった。毎日を生きるのに必死だった自分が、よもや何者になりたいかという望みをもつようになろうとは。
その日の練習終わりに、相馬から「大雅、試合に出てみないか」と提案された。
「オレ、誰かと闘う資格があるってことですか?」
あまりにも無垢な質問に、相馬は笑ってしまった。
「プロになりたいなら、遅かれ早かれ、誰かと拳をまみえるようになる。お前にその気があってもなくてもな。勿論、嫌なら踏みとどまることも出来るが」
「やっ、やります! やらせてください!」
気付けば食い気味に答えていた。
「学園の友達が持っている漫画で、主人公が総合を始めて半年で、もう試合に出てたっす。オレも師匠に習い始めて、もうすぐ四年になります。圭二も試合に出たし、焦ってるわけじゃないっすけど、オレも自分の力を試してみたいです」
「そうか。では、手続きは私が進めておこう。これからは、試合に向けてのメニューを練習に組み込んでいかないとな」
学園に帰って、大雅は支援員室に立ち寄った。
「あら、どうしたの大雅くん」
自分のデスクに座って、煎餅を囓りかけていた森本が、戸口に現れた大雅に一番に気付いた。
「マサノリ……先生に言いたいことがあって……」
森本は「マサノリせんせー! 大雅くんですよ!!」と、部屋の奥に向かって声を張り上げた。そんなに大きな声を上げなくとも、そしてわざわざ呼び立てなくとも、大雅が現れた時点で藤本は彼に気付いていた。
「どうした。お前から話しかけてくるなんて、珍しいこともあるものだな」
藤本のデスクに置いてあるパソコンのディスプレイの向こうから、ぎらりと銀縁の眼鏡が光った。
「……今日、道場で、ししょ……相馬さんから格闘技の試合に出ないかと誘われて、出ますと言った……」
ぼそぼそと言う大雅の言葉を聞いて、森本がきゃっと短く悲鳴を上げた。支援員室には森本や藤本の他にも何人か支援員がいたが、誰もが大雅の発言を耳にして驚いたように目を見張った。
「そうか。分かった。頑張れよ」
藤本は淡々とそう言った。今度は大雅が驚く番だった。他の支援員たちがいる前だからだろうか。自分に対して、『頑張れよ』などという激励の言葉をかけてくれるのは、予想外過ぎたからだ。
「あっ、うん……」
そのため、大雅は返事に困ってしまった。拍子抜けをしたまま立ち尽くしていると、森本をはじめとする他の支援員たちが、大雅を取り囲んで、試合の日や対戦相手は決まったのか、だの、いつの間にそんなに強くなったのか、だの、そういえば体格もかなり良くなったわねなどと口々に囃し立てた。
「試合に勝ったら、祝勝会をしないとね!」
「森本さん、言い方が古いっすよ」
すかさずツッコミを入れる平山。「なによ、どういう意味?」と森本は食ってかかったが、平山はヘラヘラとそれをかわした。若い平山は、自分が産まれる前の年号に生を受けた森本を時折茶化すのが定例となっていた。
大人たちが盛り上がる中、大雅はぽつねんとその光景を見つめていた。少し前の自分なら、「なんだコイツら、人のことで勝手に盛り上がりやがって」と、怒りが先に湧いてきただろう。だが今は違う。
大雅が、既に試合を終えて結果を出したわけではない。だのに、起こりえないかもしれない未来を期待して、すでに盛り上がっている。大雅は自分の挙動が他人の感情に影響を与える事実を目の当たりにした。
嬉しかった。自分がちゃんとここに存在しているのだと実感できた。
先のような感情を完全に払拭できたわけではない。だけど、負の感情だけを抱くだけだった頃と比べて、そこに別の思いが加わるのでは、心に色を与えるパレットが少し大きくなったような、そんな気がしたのだった。
スマートフォンを持っていない大雅は、友人に気軽に連絡を取ることもできない。そもそも友人などいないから、そんな心配をする必要はないと思っていたのだが、彼は生まれて初めて、それが欲しいと思った。
圭二の様子が知りたい。相馬はなにも言わないし、だからこそ大事には至っていないのだとは分かるが、本人の口から「元気だよ」と聞きたかった。
学園、あるいは道場の電話を借りて連絡を取るという方法はあるが、肝心の連絡先を知らない。相馬に聞けば一気に解決しそうな悩みだが、いざ口にしようとするのは、照れくさかった。
「大雅くん、今日はあんたがいてくれて助かったわあ!」
割烹着姿の織田が、三角巾をパタパタと振りながら、大きなため息をついた。
「え? そうっすか」
「だってサンドイッチなんてめんど……大変じゃない!」
「オレ、こういうの結構好きだけど……」
今日は多枝が体調不良で休みらしい。最近は大雅が厨房の業務に手慣れてきたこともあって、急な欠員が出てもなんとか乗り切れるほどになってきた。
月に何度かあるイベント食の日で、事前に児童が食べたいものを投書して献立を決められることになっていた。今日はサンドイッチとフライドチキンとコンソメスープというメニューだった。フライドチキンはチェーン店のものを支援員が購入して持ってきたから、先ほどから厨房内にその香りが充満している。
業務用の食パンを何枚もカットして、織田が作った具を挟んでいく。卵に野菜にツナマヨ。フライドチキンの香りのせいで余計に腹が減った大雅が余った具をつまみ食いしていたら、しっかり織田に見られていた。真っ赤になって顔を伏せた大雅だったが、「見なかったことにしてあげる」と言われて安堵した。
食事の時間が近づいてくると、児童たちが食堂に集まってくる。もうすぐ夏休みが終わり、新学期が始まるこの時期に、だらけきっている児童たちの士気を養うためにも、今日の特別メニューはうってつけの材料であった。
大量に買ったチキンを大皿に並べ、各テーブルに配膳していく。小学生たちは大はしゃぎで、我先に自分の分を確保しようとするものだから、食堂は騒然とした。
「おら! オマエら! ちょっとは落ち着け!!」
大雅は騒ぐ児童たちをかき分け、何度か声を張り上げる羽目になった。滅多に食べられないジャンクフードを目の前にして、まるで飢えた獣のように欲望を丸出しにしてしまう気持ちはよく分かる。大雅も楽しみにしていた。
中高生は流石に小学生たちのようにはしゃぐ素振りは見せないが、嬉々として食事が始まるのを待っている様子だった。
「平山先生」
配膳を終えたあと、児童たちの様子を見ていた平山に声を掛ける。
「どうした?」
「陽太は今日も部活で、これ食えないんで、取り分けておいて、帰ってきたらあげてもいいかな」
「もちろん。でも、他のやつらにとられないように気をつけろよ」
児童たちに配る前に、大雅は既に自分と陽太の分を取り分けている。大雅は口角を少し上げて、頷いた。
児童たちはチキンだけでなく、サンドイッチが振る舞われたことも大いに喜んだ。
「これ、大雅さんが作ったのか?」と小学生たちに問われ、そうだなと答える。美味い美味いと手放しではしゃいでくれる彼らを見て、大雅は嬉しくなった。
「おれ、サンドイッチなら毎日でも食える」
「流石に毎日だと飽きるんじゃねえのか」
小学生たちの会話を聞いていると面白い。サンドイッチについて語り合っていたのに、話題がどんどん飛躍していく。夕食の献立は何だという話題からアニメやゲームの話になり、最終的には午後は園庭でドッジボールをしようという約束をこぎつけていた。
「……藤堂くん」
大雅が余った野菜サンドを囓っていると、背後から控えめに声をかけられた。
「んあ?」
「空いているお皿、片付けちゃっていいかな」
「ん。ごめん、ありがとう」
石野花蓮という名の少女だった。大雅が振り返ると、彼女と目が合った。さっとそらされてしまう。たしかコイツは……と、知りうる限りの相手の情報を頭に思い浮かべてみた。
陽太と同じ高校に通う、ひとつ年下の目立たない女だ。黒縁の四角い眼鏡をかけているイメージしかない。色白で華奢な見て呉れで、部屋の隅で小説を読んでいそうなガリ勉タイプの地味なヤツ……。
手に持っていたサンドイッチの残りを口に押し込み、テーブルの中央に置いていた大皿を花蓮に手渡した。
「オレも食ったら洗いもの手伝うから」
大雅はもごもごと言った。
「藤堂くんはゆっくりしてていいよ」
「いや、オレ、そういう立場じゃねえからさ」
ヘヘヘッと苦笑する。花蓮がなんとも言えない表情になったので、コイツもオレの事情を聞いているんだなと思った。
『そういう立場ではない』という言葉がするりと出てきたのは、大雅が普段から、学園にいることに引け目を感じているあらわれであった。自分がここにいてはいけないのだとしたら、個人的な事情など考慮されずにとっくに追い出されているのだとは思う。
食事時の賑やかさの去った食堂では、中高生たちが後片付けに勤しんでいる。大雅も彼らに混じってテーブルを拭き、厨房に入って洗い物を片付けた。
「藤堂くんは普段帰ってくるのが遅いけど、なにをしているの?」
「えっ、知らねえのか!?」
シンクに落ちる水音にかき消されそうなほどのか細い声。その割に花蓮は、案外話し好きなのかもしれない。今までまともに関わったことがなかったから、交流をもつと、抱いていた印象とは少し違って見えてきた。
「知らない。だって私たち、まともに話したことなかったじゃない」
そうだなと、大雅は頷いた。しょうりつ学園において、小学生はともかく、中高生の男女の関わり合いといえば、せいぜい食堂や共用部で顔を合わせたときに話をするくらいだ。
大雅が花蓮のことをあまり知らないのと同じように、自分のことが知られていないのは驚くような事態ではないかと思い直す。
「……さすがにオレが高校を退学になったことは知ってるよな」
「うん。女子棟でもちょっと噂になったから。どうして藤堂くんは抗議しなかったのかなって、ケイが言ってたよ。あ、ケイってのは、藤堂くんと同じ高校に行ってる子ね」
たしか、花蓮と同じようなタイプの女だったなと大雅は頭の中で『ケイ』の姿を思い浮かべる。高山恵。学園から一緒に登校することはなかったが、時折視界の端に彼女の姿があったような気もする。
「オレはまあ、仕方ねえよ。自業自得だって言われちまったら、なにも言い返せねえし」
大雅はちらりと花蓮を見やって、言葉を続けた。
「周りの人たちにもいっぱい迷惑かけたと思うし、追い詰められて目が覚めたみたいな……。真面目に生きていこうって思い直したよ」
「そうなんだ」
「……で、オレは格闘技の道場に通ってる。将来は、それで食っていきたいって思ってるんだ」
あまり大仰な言い方にならないように心がけたつもりだ。自分が抱いた夢をするりと言えた。洗剤の泡まみれになった自分の手を流水で洗って、タオルで水を拭う。
「えっ、すごいじゃん、藤堂くん。私、応援してもいい?」
目が合う。大雅は顔を真っ赤にして、「おう」と答えた。くすくすと控えめに笑う花蓮の向こう側にかかっている時計を見る。針は一時過ぎを指していた。
「やべっ、じゃあ、オレ、そういうわけで道場に行ってくる」
「あっ、うん、頑張ってね」
背中に花蓮の声を受けて、厨房をあとにする。荷物を取りに部屋に戻る途中、階段を駆け上がりながら、大雅は自分に驚いていた。なんの隔たりもなく、殆ど話したことのない誰かを相手にして、するすると言葉が紡ぎ出せた、自分に。



