大雅は相馬の道場に通っていることもあって、正座をする機会の多い少年であった。両親の元にいるときから、ずっと正座を強いられていたというのもある。
「お前みたいなゴミは、生きている価値がねえから、えらそうな座り方をするんじゃねえ」と、事あるごとに男から言われていた。だから未だに胡座をかいている人を見ると心がざわつくし、自分も抵抗がある。
いつだったか、例に漏れず正座をしていると、「なんだおまえ、女みてえな座り方をするんだな」と言われたときには、恥ずかしいやら悔しいやらで散々な気持ちになったが、それでも足を崩すまでには至らなかった。
それだけならまだ良かったのだが、正座をするたびに大雅の心を浸食してくるトラウマが存在する。それは、男ではなく、実の母親である、しおりが大雅に対して行った行為が原因だった。
小学校が休みの日、大雅は一日中家に閉じ込められていることが殆どだった。少しでも大雅に隙を与えると、家から逃げ出してしまうと、両親が危惧したからである。
大雅が家の外に出て友人たちと遊べるのは、しおりの機嫌が良いときのみに限られる。ただ、大抵彼女はいつも怒っている。大雅には、母親が何故怒っているのか、その理由は分からないままであった。
平日に学校から帰ってくると、まずは宿題を終わらせるように決められている。宿題が終わると、給食袋の中に入っている使用済みの箸を洗って、男に命じられている筋力トレーニングをする。腕立て伏せと上体起こしとスクワットをそれぞれ五十回ずつ。いつだったか、大雅が近所の極真空手の道場に通いたいと言ってしまったことがある。
「いまのお前にはそんなもん、習う価値もねえからな。俺の言ったとおりのトレーニングが完璧にできるようになったら、通わせてやるよ」
大雅が格闘技を習ったりすれば、いつか自分と立場が逆転してしまうのではないかと危惧した男は、端から大雅に習い事をさせる気はなかったが、そのときに思いついた気まぐれの提案を、大雅は律儀に守り続けていたのだ。
最初は三十回ずつからはじまった。元々体は丈夫だった大雅は、小学生ながら難なくこなすことができた。出来るようになったことを男に報告すると、回数が増やされ、さらにはフォームがなっていないだのと難癖をつけられ、大雅の願いが叶う日が遠ざかった。では正しいフォームとはなんだと問うと、答えをはぐらかされた。
宿題と洗い物とトレーニングが終わってやっと、しおりの機嫌が良ければ外に遊びにいける。下校時に近所の仲間たちに遊びに誘われたときは、「親と出かけるかもしれねえから、行けたら行くよ」と答えるのが常だった。
しおりの機嫌が悪い日は、遊びに出ようとすると、舌打ちが聞こえてくる。その音が聞こえると、大雅は泣きたくなる。全身が強ばって、その場から動けなくなる。足に根が生えたように、夜まで何時間も気をつけの姿勢を保って立っていなければならない。
それでもまだ、立っているだけのほうがましだった。
しおりは時折大雅に向かってヒステリックに罵詈雑言を並べ立て、暴力をふるってくることがある。さすがに男ほどの力はないけれど、男の暴力を重い痛みだと例えるなら、しおりの暴力は鋭く突き刺すような痛みだった。
しおりの怒りが最高潮に達すると、湯舟に水を張って大雅の頭を掴み沈めてきたり、指を大雅の瞼に突き立てて眼球を圧迫してきたり、首を絞めてきたりと、おおよそ腹を痛めて産んだ自分の子供にすることを憚られるような暴力行為を平気でしてくる。
大雅は、自分が殺されることがあるとしたら、それは男ではなく、しおりによって執行されるのではないかと、心底感じていた。
「正座をして、反省しろ」
しおりの低い声で命令されると、大雅は心を震わせながら従うしかなかった。床に座るのではない。大雅が普段過ごしている部屋に置いてある金属製のゴミ箱の上で正座をしなければならないのだ。
最初は、ずっと立っているより、座れるならばこっちのほうがマシだと思っていた。だが、その考えは甘かったと、座りはじめて少し経った頃に痛感する。ゴミ箱の淵が足にくい込んで、痛みが出てくるからだ。
痛みを軽減しようと思って腰を浮かせると、バランスを崩してゴミ箱から落ちそうになる。細長い筒状のそれは、そもそも人が上に乗ることを想定していないため、少し動いただけでもぐらぐらと揺れるのだ。
(足がちぎれちゃったらどうしよう……)
大雅自身の体重に負けて、皮膚が抉れる想像をしてしまう。ぎゅっと歯を食いしばり、頭の中に浮かんできた光景を振りはらう。痛みも屈辱も、なにも感じたくなかった。
日が暮れて男が仕事から帰ってくると、大雅はゴミ箱の正座から解放される。そのときばかりは、男の帰宅を待ち望んでいた。
男は帰宅するなり、ゴミ箱を蹴り飛ばす。大雅は吹っ飛び、床に叩きつけられる。脛に線が入ったようにゴミ箱の跡が残って、痺れた足ではまともに立つことはままならず、這いつくばったままの大雅は、余計に暴行を受ける。それでも、いつ終わるとも分からない苦痛を耐え忍ぶよりは良かった。
成長するにつれて、大雅はどんどん親の前では喋らない子供になっていった。それが彼の両親たちにとっても気に食わなかったようだ。子供らしからぬ表情を携え、言葉も発さぬ自分の息子。その原因を作ったのは他ならぬ己らだというのに、まるで大雅が悪いかの如く彼を扱った。
「トイレに行ってきます」「宿題をやります」「宿題が終わりました」「いまから寝ます」などと、事あるごとに大雅を喋らせようとした。その影響もあってか、大雅はやがて両親と話すときのみ、吃音のような症状が現れるようになった。
両親に敬語で話すことを強いられ、行動の自由も制限された大雅には、学校に行っているあいだしか、逃げ場はなかったのだ。
大雅はやがて、学校帰りに家に帰らなくなった。帰り道の途中までは仲間たちと一緒に帰路につくふりをして、一人になったあと、ランドセルを家の近くの植え込みや側溝に隠して、公園や誰かの家に遊びに行ったりした。
「あれ、大雅、今日はいつもより早いな」と言われて心臓がドキリと音を立てたが、「親が出かけてたんだ」と誤魔化して笑ったりしていた。
家に帰らずに遊んでいるという罪悪感で胸が押し潰されそうになりそうだったが、大雅はそれを無視して、目先の楽しみだけを求めた。刻一刻と迫る夕暮れまでの時間が止まればいいのにと思いながら、仲間たちには心の内を悟られないように振る舞うのが大変だった。
毎日まっすぐに家に帰らなかったわけではなかったから、最初のうちは「居残りをしていました」とか「学校の図書室に行っていました」としおりに告げると、うまく誤魔化せた。だが、大雅が調子に乗って家に帰らない頻度を増やしてしまったがために、彼の企みが露見してしまった。嘘がばれ、深夜に罰として全裸でベランダに放り出された。
大雅がそのように生まれたままの姿でベランダに出されることは、季節を問わずにこれまで幾度もあった。夏も冬も、それぞれで苦痛だった。夏は、暑さだけなら我慢出来るが、餌を求めて飛んでくる蚊には辟易した。朝になって自分の体を見ると、何十箇所も虫さされの跡があって、ぞっとすることが多かった。
冬は、肌を突き刺すような寒気が否応なしに大雅を襲った。エアコンの室外機からは冷たい風が吹き出ているから、なるべくそこには近づかないようにして、体を丸めるようにして座り込んで寒さを凌いだ。体を密着させていると、冷たい空気が撫でるのは、背中と首筋だけであったから、歯を食いしばって寒さに耐えることが出来た。
ベランダからは、近くの交差点が見える。交通量の少ない場所だったが、信号機が設置されていて、交差点沿いには個人経営の商店が営業していた。商店の看板の明かりが消えるのは、夜の十時過ぎで、こちらを向いている信号機が黄色点滅に変わるのが日付の変わる零時だということを知っていたから、大雅はおおよその時間をそれで察した。信号機が通常稼働しているときは、こちらを向いている信号機は十秒で青から黄色に変わるけれど、反対側は三十秒ほどかかっているのは何故だろうと思ってみたり、道路を走る車の数を数えたり、学校の図書室で読んだ物語の続きを考えてみたりしてやり過ごしていた。
なんでもないときに風邪を引いたことがある。そのときばかりは、両親も優しかった。あからさまに甘やかしてくるわけではなかったが、食事を与えられ、一日中布団で寝ることが出来た。じゃがいもの入ったお粥を食べながら、喉の痛みを耐えながらも、ずっとこの風邪が治らなかったら、殴られることもなく寝ていられるのだろうかと思ったものだ。
それでも、願ってもそんなに都合良く病気にはなれなかった。一晩中寒空の下で凍える思いをしても、翌朝は普通に学校に行く羽目になった。あるいはすでに病気になっていたのかもしれない。あの日常を、当たり前のように受け入れる心の病気に。
また昔の自分の夢をみていた。それほどに過去に囚われている自分が嫌いだ。もうあの頃には戻らなくてもいいのに、ずっと心が縛り付けられているみたいだ。
エアコンをつけ忘れていたせいもあってか、シャツを着ているのに、布団が濡れるほどの寝汗をかいていた。
シーツを剥がす。時計を見ると、午後の三時半を過ぎたところだった。開けたままだった窓の外から、園庭で遊んでいる小学生たちの歓声が聞こえる。
大雅は服を着替え、シーツと共に洗濯室に持っていった。
「えっ、大雅さん、漏らしたんすか?」
洗濯機の中に洗剤を投入していると、中学生の少年たちが三人、わらわらと部屋の中に入ってきた。そのうちの一人、乙原京輔が洗濯機に入っているシーツを見つけて尋ねてきた。
「ばっ……そんなわけねえだろ!」
狼狽える大雅を見て、京輔はケラケラと笑う。京輔たちも洗濯をしにきたようで、部活で使ったらしい洗濯物を三人分まとめて洗濯機にどかどかと入れ込んでいた。
京輔たちは、中学で柔道部に入っている。大雅が格闘技を習っていることに親近感をおぼえているのか、内山淳基と桶川充も、京輔と同じように大雅に隔てなく懐いている。
「キョウ、ちがうって。先輩はほら、アレだよアレ」
淳基は自分の股間を指差して、大雅をからかった。京輔がさらに囃し立てるが、充はどこか気まずそうだった。
「一日中発情してんのはオマエらのほうだろ」
大雅はそう言って苦笑した。充がムキになって「ぼ、僕はそんなことしていませんからね!」と顔を赤らめて反論してくる。なんの話をしているのか分かってるじゃねえかと突っ込みたくなったが、充の名誉を守るために、黙っておいた。
「てか、大雅さん、またガタイ良くなりました?」
「そうか? 自分ではよく分からねえな」
京輔に言われて、洗面台の鏡に写っている自分を見てみるが、いまいちピンとこなかった。たしかに、親に虐げられていたあの頃と比べると、身長も体重も激増した。体は引き締まり、同年代の同じくらいの身長のヤツらと比べれば、自分のほうが体格のいい自負はあった。とはいえ直近の変化は分からない。
「ぜったいそうっすよ! すげえっす」
京輔はそう言って、大雅の筋肉の付き方を確かめるように体に触れてくる。悪いような気はしなかった。
「大雅、なにぼーっとしてんだ?」
ふいに背後から声をかけられて、大雅はとびあがるように驚いた。振り向くと、平山が立っていた。京輔たちが部屋に戻っていったあと、大雅は談話室のソファーに座って、文字通りぼーっとしていた。思考の整理をしていたといえば聞こえはいいが、その実、自分の考えもまとまらずに思いあぐねいていただけだ。
「平山先生……」
「どうかしたか? ガラにもなく落ち込んでいるようだけど」
「ガラにもなくって……。オレだって、色々考えることはあるよ」
「ハハッ、そうだな!」
談話室の中に、平山が入ってきた。
大雅たちが暮らしている男子棟の二階は、東側に児童たちが暮らす居室があり、廊下を挟んだ西側にトイレと洗面所、洗濯室が並んでいて、棟の一番奥には談話室がある。
談話室にはテレビやゲーム、コミックなどが置かれており、男子中高生たちの憩いの場となっている。各居室にもテレビは置かれているが、ここでは仲の良い者同士で集まって、余暇時間を過ごせるのだ。
夕暮れどきが近づいてきている。談話室には大雅以外の児童はいない。みんな居室で過ごしているか、外出しているか、だからこそ大雅は談話室に足を踏み入れたのだ。
陽太は朝から部活に行っている。大雅は、彼が持っていた弁当を作ってやった。もちろん、多枝や織田に教わりながらだが、友人の弁当を用意してやることが、最近の大雅の楽しみのひとつでもあった。
「お前は昔からなんでも自分で抱え込んじまうタイプだからなあ。ちょっとくらい、大人を頼ってくれてもいいんだが……」
「そういうのがうざいんだよ……」
「……なに?」
「平山先生は、支援員の中では一番とっつきやすいけど、たまにそうやって他の大人と同じように、上辺だけの言い方をするよな」
大雅は言ってから、しまったと口をつぐんだ。おそるおそる平山の顔を見る。表情が少し強ばっているようにみえた。
「上辺だけだなんて、そんなつもりはなかったんだが」
「じゃあ、オレがいま抱えている悩みをぶちまけたら、解決してくれるのか?」
大雅が問うと、平山は困ったように眉をひそめた。
「解決するかはわからないけど、お前の心の負担を減らせる手助けができるかもしれない」
「誰かに話したところでいろいろと楽になるんだったら、世の中の誰もが悩みなんて抱えていねえと思うけど」
まるで八つ当たりをしているようだと、大雅は自分でも分かっていた。なにも平山を言い負かして困らせてやろうとは思っていない。ただ、試してみたくなったのだ。しょうりつ学園に入所している大体の児童たちから絶大な人気を得ているこの男が、他の支援員たちとは違うのかと。
「ああ、たとえ俺が大雅の悩みを聞いたとしても、現状はなにも変わらないだろうな」
平山は大雅のそばまで歩いてきて、どかりと床に座った。大雅はちらりと、平山の肩のあたりを見る。自分の視線の高さに下りてきたからだ。
「お前は賢いから、俺なんかに言われなくても分かっているだろうが、いくら誰かに悩みを打ち明けたところで、それを解決するのは結局自分自身だ。大人になっても一緒だ。人間は生きている限り、くだらんことから深刻なことまで、すぐに不安を抱いてしまうもんだからな。だったら、わざわざ人に自分の弱いところをみせなきゃいいじゃねえかって思わないか?」
平山に問われて、大雅はこくりと素直に頷いた。
「抱えた悩みを、自分でなんとか出来るのなら、心に秘めておくのもいいかもしれないけど、俺みたいな馬鹿な人間は、なーんも分からねえから、すぐに誰かに相談するんだ。仕事の場合は、他の先生に相談してみたりな。そうすると、自分では見つけられなかった答えやヒントを貰えることがある。それが解決の糸口となって、ある時すーっと、悩みが綺麗になくなるってこともあるんだぜ」
他人に自分をさらけ出すのは、自分の生き方の可能性を広げる一番の方法かもしれないなと、平山は続けた。
「大雅は、誰か頼りにしている大人はいるのか?」
「……いる……と思う」
自信がなかった。頭の中に浮かんできたのは、相馬の顔だった。
本当に彼を頼っていいのだろうか、オレが。
自分は師匠の身内でもなんでもない。そんなヤツが、しょうりつ学園の支援員ならともかく、勝手に赤の他人を頼りにしてもいいのだろうか。
「だったら、まずはその人を存分に頼れ。頼られて突き放そうとするような人間も、稀にはいるけれど、大雅はなかなか誰かを信用してくれないからな。そんなお前が、ようやく見つけられた『頼れる大人』は、きっとお前の力になってくれるよ」
平山はそう言って立ち上がった。「大雅、なんかあったら、俺にも相談してくれたら嬉しいぞ」
立ち去っていく平山の背中を見つめる。やっぱり、悪いことをしてしまったかなと思う。いくら中高生には自立した生活を推奨しているとはいえ、支援員たちは四六時中児童たちを放置するわけではない。時折見回りをして、なにか困っていたり、不審な動きをしている児童がいないか確かめるのだ。
きっといまの二人のやりとりは、支援員同士で共有されるだろう。それはそれで、大雅にとってはいい気はしないが、なにも平山がその場しのぎの対応をおこなったわけではなかったことは、大雅にも伝わった。
「お前みたいなゴミは、生きている価値がねえから、えらそうな座り方をするんじゃねえ」と、事あるごとに男から言われていた。だから未だに胡座をかいている人を見ると心がざわつくし、自分も抵抗がある。
いつだったか、例に漏れず正座をしていると、「なんだおまえ、女みてえな座り方をするんだな」と言われたときには、恥ずかしいやら悔しいやらで散々な気持ちになったが、それでも足を崩すまでには至らなかった。
それだけならまだ良かったのだが、正座をするたびに大雅の心を浸食してくるトラウマが存在する。それは、男ではなく、実の母親である、しおりが大雅に対して行った行為が原因だった。
小学校が休みの日、大雅は一日中家に閉じ込められていることが殆どだった。少しでも大雅に隙を与えると、家から逃げ出してしまうと、両親が危惧したからである。
大雅が家の外に出て友人たちと遊べるのは、しおりの機嫌が良いときのみに限られる。ただ、大抵彼女はいつも怒っている。大雅には、母親が何故怒っているのか、その理由は分からないままであった。
平日に学校から帰ってくると、まずは宿題を終わらせるように決められている。宿題が終わると、給食袋の中に入っている使用済みの箸を洗って、男に命じられている筋力トレーニングをする。腕立て伏せと上体起こしとスクワットをそれぞれ五十回ずつ。いつだったか、大雅が近所の極真空手の道場に通いたいと言ってしまったことがある。
「いまのお前にはそんなもん、習う価値もねえからな。俺の言ったとおりのトレーニングが完璧にできるようになったら、通わせてやるよ」
大雅が格闘技を習ったりすれば、いつか自分と立場が逆転してしまうのではないかと危惧した男は、端から大雅に習い事をさせる気はなかったが、そのときに思いついた気まぐれの提案を、大雅は律儀に守り続けていたのだ。
最初は三十回ずつからはじまった。元々体は丈夫だった大雅は、小学生ながら難なくこなすことができた。出来るようになったことを男に報告すると、回数が増やされ、さらにはフォームがなっていないだのと難癖をつけられ、大雅の願いが叶う日が遠ざかった。では正しいフォームとはなんだと問うと、答えをはぐらかされた。
宿題と洗い物とトレーニングが終わってやっと、しおりの機嫌が良ければ外に遊びにいける。下校時に近所の仲間たちに遊びに誘われたときは、「親と出かけるかもしれねえから、行けたら行くよ」と答えるのが常だった。
しおりの機嫌が悪い日は、遊びに出ようとすると、舌打ちが聞こえてくる。その音が聞こえると、大雅は泣きたくなる。全身が強ばって、その場から動けなくなる。足に根が生えたように、夜まで何時間も気をつけの姿勢を保って立っていなければならない。
それでもまだ、立っているだけのほうがましだった。
しおりは時折大雅に向かってヒステリックに罵詈雑言を並べ立て、暴力をふるってくることがある。さすがに男ほどの力はないけれど、男の暴力を重い痛みだと例えるなら、しおりの暴力は鋭く突き刺すような痛みだった。
しおりの怒りが最高潮に達すると、湯舟に水を張って大雅の頭を掴み沈めてきたり、指を大雅の瞼に突き立てて眼球を圧迫してきたり、首を絞めてきたりと、おおよそ腹を痛めて産んだ自分の子供にすることを憚られるような暴力行為を平気でしてくる。
大雅は、自分が殺されることがあるとしたら、それは男ではなく、しおりによって執行されるのではないかと、心底感じていた。
「正座をして、反省しろ」
しおりの低い声で命令されると、大雅は心を震わせながら従うしかなかった。床に座るのではない。大雅が普段過ごしている部屋に置いてある金属製のゴミ箱の上で正座をしなければならないのだ。
最初は、ずっと立っているより、座れるならばこっちのほうがマシだと思っていた。だが、その考えは甘かったと、座りはじめて少し経った頃に痛感する。ゴミ箱の淵が足にくい込んで、痛みが出てくるからだ。
痛みを軽減しようと思って腰を浮かせると、バランスを崩してゴミ箱から落ちそうになる。細長い筒状のそれは、そもそも人が上に乗ることを想定していないため、少し動いただけでもぐらぐらと揺れるのだ。
(足がちぎれちゃったらどうしよう……)
大雅自身の体重に負けて、皮膚が抉れる想像をしてしまう。ぎゅっと歯を食いしばり、頭の中に浮かんできた光景を振りはらう。痛みも屈辱も、なにも感じたくなかった。
日が暮れて男が仕事から帰ってくると、大雅はゴミ箱の正座から解放される。そのときばかりは、男の帰宅を待ち望んでいた。
男は帰宅するなり、ゴミ箱を蹴り飛ばす。大雅は吹っ飛び、床に叩きつけられる。脛に線が入ったようにゴミ箱の跡が残って、痺れた足ではまともに立つことはままならず、這いつくばったままの大雅は、余計に暴行を受ける。それでも、いつ終わるとも分からない苦痛を耐え忍ぶよりは良かった。
成長するにつれて、大雅はどんどん親の前では喋らない子供になっていった。それが彼の両親たちにとっても気に食わなかったようだ。子供らしからぬ表情を携え、言葉も発さぬ自分の息子。その原因を作ったのは他ならぬ己らだというのに、まるで大雅が悪いかの如く彼を扱った。
「トイレに行ってきます」「宿題をやります」「宿題が終わりました」「いまから寝ます」などと、事あるごとに大雅を喋らせようとした。その影響もあってか、大雅はやがて両親と話すときのみ、吃音のような症状が現れるようになった。
両親に敬語で話すことを強いられ、行動の自由も制限された大雅には、学校に行っているあいだしか、逃げ場はなかったのだ。
大雅はやがて、学校帰りに家に帰らなくなった。帰り道の途中までは仲間たちと一緒に帰路につくふりをして、一人になったあと、ランドセルを家の近くの植え込みや側溝に隠して、公園や誰かの家に遊びに行ったりした。
「あれ、大雅、今日はいつもより早いな」と言われて心臓がドキリと音を立てたが、「親が出かけてたんだ」と誤魔化して笑ったりしていた。
家に帰らずに遊んでいるという罪悪感で胸が押し潰されそうになりそうだったが、大雅はそれを無視して、目先の楽しみだけを求めた。刻一刻と迫る夕暮れまでの時間が止まればいいのにと思いながら、仲間たちには心の内を悟られないように振る舞うのが大変だった。
毎日まっすぐに家に帰らなかったわけではなかったから、最初のうちは「居残りをしていました」とか「学校の図書室に行っていました」としおりに告げると、うまく誤魔化せた。だが、大雅が調子に乗って家に帰らない頻度を増やしてしまったがために、彼の企みが露見してしまった。嘘がばれ、深夜に罰として全裸でベランダに放り出された。
大雅がそのように生まれたままの姿でベランダに出されることは、季節を問わずにこれまで幾度もあった。夏も冬も、それぞれで苦痛だった。夏は、暑さだけなら我慢出来るが、餌を求めて飛んでくる蚊には辟易した。朝になって自分の体を見ると、何十箇所も虫さされの跡があって、ぞっとすることが多かった。
冬は、肌を突き刺すような寒気が否応なしに大雅を襲った。エアコンの室外機からは冷たい風が吹き出ているから、なるべくそこには近づかないようにして、体を丸めるようにして座り込んで寒さを凌いだ。体を密着させていると、冷たい空気が撫でるのは、背中と首筋だけであったから、歯を食いしばって寒さに耐えることが出来た。
ベランダからは、近くの交差点が見える。交通量の少ない場所だったが、信号機が設置されていて、交差点沿いには個人経営の商店が営業していた。商店の看板の明かりが消えるのは、夜の十時過ぎで、こちらを向いている信号機が黄色点滅に変わるのが日付の変わる零時だということを知っていたから、大雅はおおよその時間をそれで察した。信号機が通常稼働しているときは、こちらを向いている信号機は十秒で青から黄色に変わるけれど、反対側は三十秒ほどかかっているのは何故だろうと思ってみたり、道路を走る車の数を数えたり、学校の図書室で読んだ物語の続きを考えてみたりしてやり過ごしていた。
なんでもないときに風邪を引いたことがある。そのときばかりは、両親も優しかった。あからさまに甘やかしてくるわけではなかったが、食事を与えられ、一日中布団で寝ることが出来た。じゃがいもの入ったお粥を食べながら、喉の痛みを耐えながらも、ずっとこの風邪が治らなかったら、殴られることもなく寝ていられるのだろうかと思ったものだ。
それでも、願ってもそんなに都合良く病気にはなれなかった。一晩中寒空の下で凍える思いをしても、翌朝は普通に学校に行く羽目になった。あるいはすでに病気になっていたのかもしれない。あの日常を、当たり前のように受け入れる心の病気に。
また昔の自分の夢をみていた。それほどに過去に囚われている自分が嫌いだ。もうあの頃には戻らなくてもいいのに、ずっと心が縛り付けられているみたいだ。
エアコンをつけ忘れていたせいもあってか、シャツを着ているのに、布団が濡れるほどの寝汗をかいていた。
シーツを剥がす。時計を見ると、午後の三時半を過ぎたところだった。開けたままだった窓の外から、園庭で遊んでいる小学生たちの歓声が聞こえる。
大雅は服を着替え、シーツと共に洗濯室に持っていった。
「えっ、大雅さん、漏らしたんすか?」
洗濯機の中に洗剤を投入していると、中学生の少年たちが三人、わらわらと部屋の中に入ってきた。そのうちの一人、乙原京輔が洗濯機に入っているシーツを見つけて尋ねてきた。
「ばっ……そんなわけねえだろ!」
狼狽える大雅を見て、京輔はケラケラと笑う。京輔たちも洗濯をしにきたようで、部活で使ったらしい洗濯物を三人分まとめて洗濯機にどかどかと入れ込んでいた。
京輔たちは、中学で柔道部に入っている。大雅が格闘技を習っていることに親近感をおぼえているのか、内山淳基と桶川充も、京輔と同じように大雅に隔てなく懐いている。
「キョウ、ちがうって。先輩はほら、アレだよアレ」
淳基は自分の股間を指差して、大雅をからかった。京輔がさらに囃し立てるが、充はどこか気まずそうだった。
「一日中発情してんのはオマエらのほうだろ」
大雅はそう言って苦笑した。充がムキになって「ぼ、僕はそんなことしていませんからね!」と顔を赤らめて反論してくる。なんの話をしているのか分かってるじゃねえかと突っ込みたくなったが、充の名誉を守るために、黙っておいた。
「てか、大雅さん、またガタイ良くなりました?」
「そうか? 自分ではよく分からねえな」
京輔に言われて、洗面台の鏡に写っている自分を見てみるが、いまいちピンとこなかった。たしかに、親に虐げられていたあの頃と比べると、身長も体重も激増した。体は引き締まり、同年代の同じくらいの身長のヤツらと比べれば、自分のほうが体格のいい自負はあった。とはいえ直近の変化は分からない。
「ぜったいそうっすよ! すげえっす」
京輔はそう言って、大雅の筋肉の付き方を確かめるように体に触れてくる。悪いような気はしなかった。
「大雅、なにぼーっとしてんだ?」
ふいに背後から声をかけられて、大雅はとびあがるように驚いた。振り向くと、平山が立っていた。京輔たちが部屋に戻っていったあと、大雅は談話室のソファーに座って、文字通りぼーっとしていた。思考の整理をしていたといえば聞こえはいいが、その実、自分の考えもまとまらずに思いあぐねいていただけだ。
「平山先生……」
「どうかしたか? ガラにもなく落ち込んでいるようだけど」
「ガラにもなくって……。オレだって、色々考えることはあるよ」
「ハハッ、そうだな!」
談話室の中に、平山が入ってきた。
大雅たちが暮らしている男子棟の二階は、東側に児童たちが暮らす居室があり、廊下を挟んだ西側にトイレと洗面所、洗濯室が並んでいて、棟の一番奥には談話室がある。
談話室にはテレビやゲーム、コミックなどが置かれており、男子中高生たちの憩いの場となっている。各居室にもテレビは置かれているが、ここでは仲の良い者同士で集まって、余暇時間を過ごせるのだ。
夕暮れどきが近づいてきている。談話室には大雅以外の児童はいない。みんな居室で過ごしているか、外出しているか、だからこそ大雅は談話室に足を踏み入れたのだ。
陽太は朝から部活に行っている。大雅は、彼が持っていた弁当を作ってやった。もちろん、多枝や織田に教わりながらだが、友人の弁当を用意してやることが、最近の大雅の楽しみのひとつでもあった。
「お前は昔からなんでも自分で抱え込んじまうタイプだからなあ。ちょっとくらい、大人を頼ってくれてもいいんだが……」
「そういうのがうざいんだよ……」
「……なに?」
「平山先生は、支援員の中では一番とっつきやすいけど、たまにそうやって他の大人と同じように、上辺だけの言い方をするよな」
大雅は言ってから、しまったと口をつぐんだ。おそるおそる平山の顔を見る。表情が少し強ばっているようにみえた。
「上辺だけだなんて、そんなつもりはなかったんだが」
「じゃあ、オレがいま抱えている悩みをぶちまけたら、解決してくれるのか?」
大雅が問うと、平山は困ったように眉をひそめた。
「解決するかはわからないけど、お前の心の負担を減らせる手助けができるかもしれない」
「誰かに話したところでいろいろと楽になるんだったら、世の中の誰もが悩みなんて抱えていねえと思うけど」
まるで八つ当たりをしているようだと、大雅は自分でも分かっていた。なにも平山を言い負かして困らせてやろうとは思っていない。ただ、試してみたくなったのだ。しょうりつ学園に入所している大体の児童たちから絶大な人気を得ているこの男が、他の支援員たちとは違うのかと。
「ああ、たとえ俺が大雅の悩みを聞いたとしても、現状はなにも変わらないだろうな」
平山は大雅のそばまで歩いてきて、どかりと床に座った。大雅はちらりと、平山の肩のあたりを見る。自分の視線の高さに下りてきたからだ。
「お前は賢いから、俺なんかに言われなくても分かっているだろうが、いくら誰かに悩みを打ち明けたところで、それを解決するのは結局自分自身だ。大人になっても一緒だ。人間は生きている限り、くだらんことから深刻なことまで、すぐに不安を抱いてしまうもんだからな。だったら、わざわざ人に自分の弱いところをみせなきゃいいじゃねえかって思わないか?」
平山に問われて、大雅はこくりと素直に頷いた。
「抱えた悩みを、自分でなんとか出来るのなら、心に秘めておくのもいいかもしれないけど、俺みたいな馬鹿な人間は、なーんも分からねえから、すぐに誰かに相談するんだ。仕事の場合は、他の先生に相談してみたりな。そうすると、自分では見つけられなかった答えやヒントを貰えることがある。それが解決の糸口となって、ある時すーっと、悩みが綺麗になくなるってこともあるんだぜ」
他人に自分をさらけ出すのは、自分の生き方の可能性を広げる一番の方法かもしれないなと、平山は続けた。
「大雅は、誰か頼りにしている大人はいるのか?」
「……いる……と思う」
自信がなかった。頭の中に浮かんできたのは、相馬の顔だった。
本当に彼を頼っていいのだろうか、オレが。
自分は師匠の身内でもなんでもない。そんなヤツが、しょうりつ学園の支援員ならともかく、勝手に赤の他人を頼りにしてもいいのだろうか。
「だったら、まずはその人を存分に頼れ。頼られて突き放そうとするような人間も、稀にはいるけれど、大雅はなかなか誰かを信用してくれないからな。そんなお前が、ようやく見つけられた『頼れる大人』は、きっとお前の力になってくれるよ」
平山はそう言って立ち上がった。「大雅、なんかあったら、俺にも相談してくれたら嬉しいぞ」
立ち去っていく平山の背中を見つめる。やっぱり、悪いことをしてしまったかなと思う。いくら中高生には自立した生活を推奨しているとはいえ、支援員たちは四六時中児童たちを放置するわけではない。時折見回りをして、なにか困っていたり、不審な動きをしている児童がいないか確かめるのだ。
きっといまの二人のやりとりは、支援員同士で共有されるだろう。それはそれで、大雅にとってはいい気はしないが、なにも平山がその場しのぎの対応をおこなったわけではなかったことは、大雅にも伝わった。



