その瞬間が訪れたとき、大雅は関係者として一番近くにいた。あっという間の出来事だった。
 肉体を穿つ破裂音が炸裂したかと思った次の瞬間には、ロープ際に追い詰められた圭二の体がぐらりと傾いで、そのままキャンバスに叩きつけられるように崩れ落ちていった。
「圭二!」
 大雅は、思わず声を張り上げていた。圭二の反応はない。手足を投げ出すように横たわったまま、口の端から血を垂れ流して失神していた。
 リングの中央では、対戦相手のティアンチャイ・ジェラワットが雄叫びをあげている。浅黒い肉体の全身で喜びを表し、彼のセコンドと抱き合っている様子が、大雅の視界の端に映った。
 ティアンチャイは、ひとしきり喜びおえたあと、小走りでこちらにやってきた。動かない圭二のそばに膝をつき、土下座をするように頭を下げる。座礼という礼儀作法のひとつだと、相馬に習ったことがある。格闘技の中継を観ていたときに、大雅が「なぜ勝ったのに土下座なんてするんですか」と尋ねたのだ。
「これは土下座ではなく、座礼だ。良い闘いができたこと、試合で多くのことを学ぶことができたこと、正々堂々と命がけの闘いがお互いにできたこと、そしてあなたの日々の研鑽に感謝しますというような意味を込めて、相手を讃えるときに行うんだ」
 特にムエタイの試合ではよく目にする光景だなと、相馬は言っていた。
 顔を上げたティアンチャイと、目が合う。その時、大雅にはほんの一瞬、彼が嘲笑を浮かべたように感じられた。自分の目で見たものが間違いかと確かめる前に、ティアンチャイはくるりと踵を返し、自陣へと戻っていった。そこで大雅はハッと我に返り、圭二のそばに寄った。
「圭二、圭二!」
 圭二の裸の背中に触れる。汗ばんだ彼の皮膚は、まだ熱かった。大雅は、圭二に向かってひたすら呼びかけることしかできなかった。やがてリングに担架が運び込まれ、何人かのスタッフによって圭二は運び出されていった。
 大雅は相馬と共に、担架を追った。横たわる圭二の膝が、振動でぐらぐらと揺れている。弛緩した腕が担架からはみ出して伸びていた。
(怪我人なんだから、もっと丁寧に扱えよ……)
大雅はいたたまれなくなって、小走りで圭二の近くに駆け寄り、その腕をそっと、彼の胸の上に置いてやった。
圭二は控え室の寝台に体を移された。会場のスタッフは他の業務があるからだろうが、淡々とした態度で「では、お大事に」と言って立ち去っていった。
入れ替わりに、応援に駆けつけていたつぐみ道場の門下生たちがなだれ込んでくる。みんな圭二の勝利を信じていた。だから、真逆の結果になったことに誰もが動揺を隠せずにいた。

「う……」
 圭二の口から空気が漏れたような音が鳴り、うっすらと目が開いた。起き上がろうとする彼を、相馬が制する。「脳震盪を起こしている可能性がある。安静にしていなさい」
「ぼ、僕……あれ?」
 控え室の天井を見つめる圭二の瞳が不安げに揺れている。覚醒はしたようだが、完全に意識がこちらに戻ってきたわけではなさそうだ。
 相馬は持っていたリュックから、血圧計や氷嚢を取り出し、圭二の処置にあたりはじめた。
「おい、名前は言えるか?」
「塚内……圭二です」
「どこか痛んだり、痺れたりはしてないか?」
「だ、大丈夫です」
 言葉がどもっているのは、いつもの調子にみえる。「僕……」
 大雅は圭二が寝ているベッドのわきに立ち、そっと彼の顔を覗き込んだ。
「……た、大雅」
 それ以上の言葉は続かなかった。圭二の目から、涙が一筋落ちたのをみて、大雅はいたたまれない気持ちになった。
 相馬が床に置いたリュックから見えていたタオルを引っつかみ、圭二の皮膚を流れる汗を拭ってやった。
「僕は……負けたんだね……」
 大雅は、肯定も否定も出来なかった。すぐにばれる嘘をつきたくもなかったし、圭二に現実を認めさせたくもなかった。
 なんでだよ……。
 勝負事に勝ち負けがあるのはわかる。勝者が現れれば、その裏には敗者が存在する。勝利を渇望したところで、絶対に勝てる保証もない。
 それでも圭二が今日まで死に物狂いで頑張っていたのをみてきた。ときには体調を崩してしまうほどに、コイツは自分を追い込んで、栄光を掴み取るために努力をしていた。なのに……。
「大雅……、なんて顔してんだよ……」
 圭二に苦笑されて、大雅はそのときはじめて自分が心を痛めていて、心情が顔にあらわれていることに気付いた。
「負けたのは僕なのに……」
「負けたなんて言うんじゃねえよっ!」
 大雅は衝動的に圭二の言葉を遮った。寝台に投げ出されている圭二の拳を掴む。「……やめねえよな?」
 圭二が目を丸くした。
「その……これがきっかけでやめたりしねえよな」
 ぐふっと圭二が噴き出した。ティアンチャイに殴られた頬が腫れあがっている。表情筋を動かすと痛むようで、微笑みと泣き顔の中間のような表情を浮かべていた。
「大雅、なにを言ってるんだよ。ここまでやってきたんだ。やめるわけないだろ。……むしろ、目標ができたよ」
 口調は弱々しかったが、圭二の拳を握る力がぎゅっと強くなった。
 大雅は安堵した。すうっと、心につかえていたなにかが、消え去るような感覚。溜飲が下がるとはこのことかと、かつて授業で聞いたおぼえのある慣用句が頭をよぎる。
「圭二、念の為病院に行くからな。それとしばらく練習は禁止だ」
 大雅と圭二の会話に間が空いたことを見計らって、相馬が言った。圭二は幾分しょんぼりとした様子で、相馬の言葉を聞いていた。それでも自分は大丈夫だと過信して無理に体を動かせば、競技人生を絶たねばならないことにもつながりかねない可能性があると分かっていた。圭二が無茶をすることはないだろう。

 圭二とティアンチャイの試合から数日が経過した。あの後、相馬と共に病院に行った圭二は、体に異常はなく、安静にして経過観察をしてくださいといわれたらしい。
 大雅は変わらず道場に通い続けていた。
「大雅、練習が終わったあとに、話があるんだが、時間はあるか?」
「あ、はい」
 返事をしながら、ぞわりと心臓が跳ねたのがわかった。相馬の提案については、まだ結論を出していない。故に返事も保留にしている。次に道場に来たときに返事をしますと言っておきながら、相馬を待たせていることも自覚している。そろそろ結論を出せと促されるのかもしれないと思うと、それ以降、集中が出来なかった。

「師匠、お待たせしました!」
 一緒に練習をしていた生徒たちがみんな帰った頃を見計らって、大雅は相馬のもとに駆け寄った。時刻は夜の八時を過ぎていたが、今日はプロ練のない日だ。相馬は道場の片隅で、サンドバッグを打っていた。大雅が声をかけると、相馬は拳を解いて、「来なさい」と大雅を事務所に促した。
「座りなさい」
「あ、はい」
 ソファーに腰を下ろすと、向かいに相馬も座った。
「……大雅は、まだ自分のグローブを新調していなかったな」
「小遣いが足りなくて……」
 大雅は顔を真っ赤にして答えた。しょうりつ学園では、年齢に応じて児童に小遣いが支給されている。大雅は月に五千円を貰っているが、日々の雑費で結構な額がとんでいくので、なかなか貯金が増えていないのが現状だ。そのため、大雅は道場の備品を使っていた。
「よかった」と、相馬は言葉をこぼした。大雅は目を丸くした。すこし待っていなさいと言って、事務所を出ていった相馬は、ものの一分足らずで戻ってきたが、そのとき手には紙袋を提げていた。
「ようやく準備ができてな。お前にプレゼントだ」
 大雅はテーブルの上に置かれた紙袋の中を覗き込んだ。
「えっ!?」
 思わず驚きの声が漏れ、相馬の顔をまじまじと見つめた。ぞくりと鳥肌がたつ。手が震える。
「お前があのとき、私があげたグローブを無茶苦茶にされてしまったと、泣いてくれたことが、ずっと私の心に残っていてな。私にとっては何気なくあげた物だったんだが、お前がちゃんと大切にしてくれていたことが嬉しかったんだ。……だからと言うわけでないが、私がお前の思い出を上書きさせてくれないか」
 大雅は手の震えを抑えながら、紙袋の中身を取り出した。白いグローブと、それとは対照的な色の黒いファイトショーツ、それに、バンテージが入っていた。
「これ……こんなに……オレ……」
 人に優しくされることに慣れていない大雅は、ただ呆然とするばかりだった。「あの、ありがとうございます」
 大声で叫び出したいくらいに嬉しかった。息をすることも忘れて、こみ上げてくる感情を抑える。
「はめてみてもいいですか?」
「ああ、勿論だ」
 大雅はそっとグローブを手に取り、手を入れた。新品の革の匂いが鼻腔をくすぐった。甲の部分には、メーカーのロゴの下に、金色の文字で『TAIGA』と書かれている。自分の名前が刻まれているのは前と同じだが、少し控えめになっていた。
 たしか、プロ練のときに出会った梶田さんはTAKUMAと名乗っていたから、師匠は名前をローマ字で表記するのが好きなのだろうかと推察して、ちょっと可笑しくなった。
 胸の前で両の拳を突き合わせてみる。反動が心地よかった。
 そのとき、相馬に「大雅」と呼ばれた。声色からして、これからなにか真剣な話をされるのだと察した。グローブを嵌めたままの手を、膝の上に置いて、相馬に向き直る。
「大雅、周りの人々は、お前の人生を可哀想だという者のほうが多数かもしれない。だから、お前は人に哀れみを向けられると、途端に反発したくなる質だろう。それでいい。お前がこれまでどんな目に遭っても生きてこられたのは、お前が自分だけを信じていたからだ。忘れるな。私や、ほかの誰かのことを信じられなくとも、自分を信じてやることを忘れるな。そしてお前が正しいと思うことをやり遂げなさい。お前の未来は誰も掴んでくれない。お前自身が、そこにたどり着かねばならないのだ。いまは悔しくて苦しくて、それでもどうしたらいいか分からない現状に戸惑っているだろう。私はお前の少し先を歩く者として、ひとつだけ言えることがある。そのどうしようもない感情は、いつか昇華されて過去のものとなっていく。今が過去になったときに悔やまない生き方をしなさい。そうは言っても、人はどんな選択をしても、後悔したがるいきものだ。でもな、大雅、そのときに、周りのどんな言葉に惑わされても、自分を見失いそうになっても、辿った道のりを否定してはいけない。未来の自分が、否定するような道を歩もうとしてはいけない。……それが、自分を信じるということだよ」
「師匠……」
 ゆっくりと語った相馬の言葉を、反芻して自分のものにするにはまだ時間がかかるだろう。
 大雅は鼻の頭がツンと痛くなった。心に現れた感情を誤魔化すために、そっと相馬から目を逸らして、テーブルの上に畳まれているファイトショーツを見つめた。
「オ、オレ、師匠に出会えて本当に良かったです。人生が変わったような気がします。一生ついていきたいってくらい、尊敬しています。だから、師匠がオレに、一緒に住もうと言ってくれたとき、本当はすごく嬉しかったんです。だけどそれと同じくらい怖かった。オレが、なにか自分でやらかして、師匠に見放されたらどうしようとか、オレがいるだけで師匠に迷惑がかかったらどうしようとか、そういうことを考えると、師匠の誘いを受け入れていいのか、ずっと答えが出ませんでした。……でも、オレ、決めました。師匠と一緒に住まわせてください。お願いします!」
 頭を下げる。自分の気持ちに正直になることが、こんなにも怖いことだとはおもわなかった。大丈夫だ、師匠はオレの気持ちを受け入れてくれる。自分に言い聞かせる。顔を上げたときに、相馬が微笑んでいるのを見て、大雅は安堵した。
「大丈夫、あとは任せなさい。ようやくお前の気持ちが聞けて、良かったよ」

 道場の帰り道、大雅はひさしぶりに心が満たされていた。道中、もしもまた克弥たちに遭遇して、貰ったばかりのグローブを破壊されたらどうしようと懸念した大雅は、相馬に道場で保管させてくださいと頼んだ。相馬は事情を汲んで了承してくれたから、いまは安全な場所に保管されている。
 学園に帰って、気の済むまで眺めることが出来ないのは少し残念だったが、これから長い付き合いになるのだと思うと、それくらいは我慢しようと思った。
 大丈夫、あとは任せなさいと、相馬は言った。あれはどういう意味だったのだろう。少し考えて、きっと大人同士の話し合いがあるのだろうと思った。また迷惑をかけてしまうのだろうか。
 不安に思ったところで、自分ではどうにもならないという結論にたどりつく。ならば相馬の言うとおり、彼に任せるのが得策だ。
 通りがかったコンビニの明かりがまぶしい。道場の前にあるコンビニと同じ店だった。それだけのことなのに、大雅は相馬とのつながりを感じた。
 ——そういえば師匠は、フェザー級のチャンピオンだったよな……。
 大雅のいまの体重だと、階級はひとつ下のバンタム級になる。だが、もう少しガタイが良くなって体重も増えたとき、相馬と階級が同じになることもあるかもしれない。ならば、プロの格闘家になって、チャンピオンを目指すのなら、いずれは相馬と闘うときが来るかもしれないのだということに気付く。
 大雅の脳裏によぎった思いつきは、実現するかどうかはともかく、またも彼を悩ませるには、充分な材料であった。