相馬爽平の運営する道場は「つぐみ道場」という。自身の実家の倉庫を改造して相馬が一から立ち上げた、市内では唯一、総合格闘技を習うことのできる道場だ。
相馬は二十七歳となる今も、現役の格闘家として、プロのリングに立つことがある。
空手をバックホーンとした巧みな戦術を駆使し、総合格闘技の団体のひとつである「OPKD」の初代フェザー級チャンピオンとして、いまもなお君臨し続けている選手だ。
これまでの戦績は二十五試合中二十四勝一敗。そのうち、二十の試合でKO勝ちをおさめている。
大雅と相馬が出会ったのは、大雅が中学一年の頃だった。そのとき、すでに生活が荒れ果てていた大雅は、道端ですれ違った相馬に因縁をつけて喧嘩を吹っかけた。互いに目が合ったのを皮切りに、「てめえ、いまオレのことを睨んだだろう」とありがちな挑発を放ったのだ。
すでに相馬はプロの選手として活躍していたから、一般人である大雅に手を出すわけにはいかなかった。だから相馬は、攻撃をすべてかわし、未熟な少年を疲弊させることに注力した。ついこのあいだまで小学生だった大雅は、攻撃の挙動も、身のこなしも、素人同然の動きであった。だが、彼は根性が据わっていた。相馬が攻撃をかわしたために無様に地面にすっ転んでも、大雅はすぐに立ち上がり、雄叫びをあげながら攻撃の手を止めなかった。半ば自棄になって拳を振り回す大雅は、結局一度も攻撃を当てることができず、やがて前につんのめり、相馬に抱き止められるかたちとなって力尽きた。
「無駄だ。君が何度拳を振るってきても、私には勝てない。今日のところは見逃してあげるから、さっさと家に帰りなさい」
疲弊を隠せずに激しく呼吸をする大雅は、相馬を睨みつけ、悔しそうに歯を食いしばるほかなかった。
最近ペンキを全面に塗り、老朽化を誤魔化したのがあからさまな見た目となってしまった門扉を押し、大雅は靴底で砂利を鳴らした。
『しょうりつ学園』
門扉にぶら下がっている手作りの看板が、カンカンと音を立てる。雨風にさらされて、木の表面が色褪せ、文字の塗装もはげかかっているが、ここがどういった場所なのかはその看板をみれば、誰しもが分かることだろう。
児童養護施設 しょうりつ学園。そこが、大雅の『家』だった。
門扉をくぐると、通路は上り坂になっている。両脇には花壇が備え付けられており、季節の花が色とりどりに咲いている。植物の種類にはあかるくない大雅だが、施設の職員が児童とともに定期的に植え替えをしている光景を目にしたことがある。
坂を登りきった正面にあらわれるのが、四階建ての白い建物だった。施設の歴史は古く、大雅が産まれる前から建っているので、壁のいたるところが黒ずんでいる。かつてはひらがなで「しょうりつがくえん」と書かれていた設置物は文字が剥がれ落ち、「し うりつかくえん」という表記になってしまっている。
施設は三十名の児童が暮らしている。一階と二階が男子、三階と四階に女子が振り分けられていて、それぞれ階数の大きい方に中高生、小さい方に小学生と幼児の部屋がある。建物の裏には、日当たりのよいグラウンドがあり、自由時間には児童たちが遊びに興じている光景を見ることができる。
虐待、親の精神疾患、貧困など、ここに入所している子供たちはそれぞれに様々な事情を抱えている。親からの慈しみを満足に受けられず、心に傷を負った者たちは、それでも、必死に生きていこうと支え合っているのだ。
「……おかえり」
正面玄関に入った瞬間、大雅は施設長の藤本と出くわした。四十代後半の彼は、細い銀縁の眼鏡をかけ、神経質そうに眉をひそめている。おおよそ子供が好きそうに見えない冷たい印象を受けるが、それは大雅の前でだけだった。
大雅は、無言のまま会釈を返す。自分が藤本に嫌われていることは、彼の態度から充分に察することができた。他の児童たちとは愛想を振りまいているが、大雅と一対一になったときは、嫌悪を隠そうともしないからだ。先ほどのおかえりも、形式的に言葉を放っただけで、何の感情も籠もっていない。
「どこに行っていた? 学校も退学になり、ようやくおとなしくしていると思っていたが」
「……道場に」
藤本は、フンと鼻で笑った。
「お前のような落ちこぼれをここで養ってやっているだけ有り難いと思え。……まったく、お前がそんなんだから、親御さんもお前を殴りたくなったんじゃないのか?」
大雅は靴を下駄箱にしまい、なにも言い返すことはなく、藤本の傍をすり抜け、廊下を歩いていった。
「くそったれ!!」
部屋に戻った大雅は、後ろ手に扉を閉めた瞬間、我慢していた感情を一気に放出させるかのように叫んだ。壁や扉などに拳を打ちつけたい衝動に駆られたが、施設の設備を破壊すれば、また騒ぎになるだろうから思いとどまった。
「大雅、また荒れてんのか?」
頭上から、呆れたように言う少年の声がした。
「うっせえ!」
二段ベッドの上段に寝転び、漫画を読んでいた少年が柵に半身を乗り出して大雅を見ていた。
しょうりつ学園では、小学生は五人に一室、中高生は二人に一室ずつ部屋があてがわれている。大雅のルームメイトは、同じ年齢の北村陽太という名の少年だった。名は体をあらわすとはよく言ったもので、陽太は根っからの陽気者で、底抜けに明るい性格の持ち主だった。大雅とは違う高校に通っており、野球に青春を捧げている。
「またマサノリにイヤミでも言われたんだろっ!? 大雅が退学になって、あいつからは格好の餌食になっちまったもんな!」
目を細め、人懐っこそうな笑顔で陽太は言った。よく日に焼けた顔には、そばかすがすこし散っている。坊主頭をわしゃわしゃと掻いたあと、陽太は「よっ!」と声をあげ、ベッドを降りてきた。
陽太が『マサノリ』と呼んだのは、藤本のことだった。藤本正憲。しょうりつ学園は元々、藤本の父親である邦憲が設立した施設だ。邦憲が数年前までは施設長だったため、親子の区別をつけるように「マサノリ先生」という呼び名が定着しているのだ。
「アイツ、ホントうぜえ」
「なんで大雅にだけ当たりがきついんだろうな、あの人」
それは、自分の素行の問題だと、大雅はわかっていた。——俺は、他人と関わり合うときに、どうしてもまず壁を作ってしまう。
その壁を自分から壊すことはできない。優しい言葉をかけられても、それが上辺だけ取り繕ったその場しのぎの社交辞令にしか聞こえない。
向こうからぐいぐいと接してくるような、大雅が勝手に作り出した壁をぶち壊して絡んでくるやつが相手なら、いくらか心を開くことはできた。陽太のような存在は稀だ。ただでさえ人を寄せ付け難いオーラを醸し出している大雅に対して、そんなものを気にする素振りもなくパーソナルスペースに踏み込んでくる彼の存在は貴重であった。
相馬は二十七歳となる今も、現役の格闘家として、プロのリングに立つことがある。
空手をバックホーンとした巧みな戦術を駆使し、総合格闘技の団体のひとつである「OPKD」の初代フェザー級チャンピオンとして、いまもなお君臨し続けている選手だ。
これまでの戦績は二十五試合中二十四勝一敗。そのうち、二十の試合でKO勝ちをおさめている。
大雅と相馬が出会ったのは、大雅が中学一年の頃だった。そのとき、すでに生活が荒れ果てていた大雅は、道端ですれ違った相馬に因縁をつけて喧嘩を吹っかけた。互いに目が合ったのを皮切りに、「てめえ、いまオレのことを睨んだだろう」とありがちな挑発を放ったのだ。
すでに相馬はプロの選手として活躍していたから、一般人である大雅に手を出すわけにはいかなかった。だから相馬は、攻撃をすべてかわし、未熟な少年を疲弊させることに注力した。ついこのあいだまで小学生だった大雅は、攻撃の挙動も、身のこなしも、素人同然の動きであった。だが、彼は根性が据わっていた。相馬が攻撃をかわしたために無様に地面にすっ転んでも、大雅はすぐに立ち上がり、雄叫びをあげながら攻撃の手を止めなかった。半ば自棄になって拳を振り回す大雅は、結局一度も攻撃を当てることができず、やがて前につんのめり、相馬に抱き止められるかたちとなって力尽きた。
「無駄だ。君が何度拳を振るってきても、私には勝てない。今日のところは見逃してあげるから、さっさと家に帰りなさい」
疲弊を隠せずに激しく呼吸をする大雅は、相馬を睨みつけ、悔しそうに歯を食いしばるほかなかった。
最近ペンキを全面に塗り、老朽化を誤魔化したのがあからさまな見た目となってしまった門扉を押し、大雅は靴底で砂利を鳴らした。
『しょうりつ学園』
門扉にぶら下がっている手作りの看板が、カンカンと音を立てる。雨風にさらされて、木の表面が色褪せ、文字の塗装もはげかかっているが、ここがどういった場所なのかはその看板をみれば、誰しもが分かることだろう。
児童養護施設 しょうりつ学園。そこが、大雅の『家』だった。
門扉をくぐると、通路は上り坂になっている。両脇には花壇が備え付けられており、季節の花が色とりどりに咲いている。植物の種類にはあかるくない大雅だが、施設の職員が児童とともに定期的に植え替えをしている光景を目にしたことがある。
坂を登りきった正面にあらわれるのが、四階建ての白い建物だった。施設の歴史は古く、大雅が産まれる前から建っているので、壁のいたるところが黒ずんでいる。かつてはひらがなで「しょうりつがくえん」と書かれていた設置物は文字が剥がれ落ち、「し うりつかくえん」という表記になってしまっている。
施設は三十名の児童が暮らしている。一階と二階が男子、三階と四階に女子が振り分けられていて、それぞれ階数の大きい方に中高生、小さい方に小学生と幼児の部屋がある。建物の裏には、日当たりのよいグラウンドがあり、自由時間には児童たちが遊びに興じている光景を見ることができる。
虐待、親の精神疾患、貧困など、ここに入所している子供たちはそれぞれに様々な事情を抱えている。親からの慈しみを満足に受けられず、心に傷を負った者たちは、それでも、必死に生きていこうと支え合っているのだ。
「……おかえり」
正面玄関に入った瞬間、大雅は施設長の藤本と出くわした。四十代後半の彼は、細い銀縁の眼鏡をかけ、神経質そうに眉をひそめている。おおよそ子供が好きそうに見えない冷たい印象を受けるが、それは大雅の前でだけだった。
大雅は、無言のまま会釈を返す。自分が藤本に嫌われていることは、彼の態度から充分に察することができた。他の児童たちとは愛想を振りまいているが、大雅と一対一になったときは、嫌悪を隠そうともしないからだ。先ほどのおかえりも、形式的に言葉を放っただけで、何の感情も籠もっていない。
「どこに行っていた? 学校も退学になり、ようやくおとなしくしていると思っていたが」
「……道場に」
藤本は、フンと鼻で笑った。
「お前のような落ちこぼれをここで養ってやっているだけ有り難いと思え。……まったく、お前がそんなんだから、親御さんもお前を殴りたくなったんじゃないのか?」
大雅は靴を下駄箱にしまい、なにも言い返すことはなく、藤本の傍をすり抜け、廊下を歩いていった。
「くそったれ!!」
部屋に戻った大雅は、後ろ手に扉を閉めた瞬間、我慢していた感情を一気に放出させるかのように叫んだ。壁や扉などに拳を打ちつけたい衝動に駆られたが、施設の設備を破壊すれば、また騒ぎになるだろうから思いとどまった。
「大雅、また荒れてんのか?」
頭上から、呆れたように言う少年の声がした。
「うっせえ!」
二段ベッドの上段に寝転び、漫画を読んでいた少年が柵に半身を乗り出して大雅を見ていた。
しょうりつ学園では、小学生は五人に一室、中高生は二人に一室ずつ部屋があてがわれている。大雅のルームメイトは、同じ年齢の北村陽太という名の少年だった。名は体をあらわすとはよく言ったもので、陽太は根っからの陽気者で、底抜けに明るい性格の持ち主だった。大雅とは違う高校に通っており、野球に青春を捧げている。
「またマサノリにイヤミでも言われたんだろっ!? 大雅が退学になって、あいつからは格好の餌食になっちまったもんな!」
目を細め、人懐っこそうな笑顔で陽太は言った。よく日に焼けた顔には、そばかすがすこし散っている。坊主頭をわしゃわしゃと掻いたあと、陽太は「よっ!」と声をあげ、ベッドを降りてきた。
陽太が『マサノリ』と呼んだのは、藤本のことだった。藤本正憲。しょうりつ学園は元々、藤本の父親である邦憲が設立した施設だ。邦憲が数年前までは施設長だったため、親子の区別をつけるように「マサノリ先生」という呼び名が定着しているのだ。
「アイツ、ホントうぜえ」
「なんで大雅にだけ当たりがきついんだろうな、あの人」
それは、自分の素行の問題だと、大雅はわかっていた。——俺は、他人と関わり合うときに、どうしてもまず壁を作ってしまう。
その壁を自分から壊すことはできない。優しい言葉をかけられても、それが上辺だけ取り繕ったその場しのぎの社交辞令にしか聞こえない。
向こうからぐいぐいと接してくるような、大雅が勝手に作り出した壁をぶち壊して絡んでくるやつが相手なら、いくらか心を開くことはできた。陽太のような存在は稀だ。ただでさえ人を寄せ付け難いオーラを醸し出している大雅に対して、そんなものを気にする素振りもなくパーソナルスペースに踏み込んでくる彼の存在は貴重であった。



